プロローグ
「ねぇ、なんで人を殺しちゃいけないの?」
「──────────え?」
幼い俺に、幼い妹が唐突に投げかけたそんな質問。
果たしてこの世で最も偉大な賢者や、哲学者や、政治家に、その答えが分かるのかというそんな難問を、唐突に、妹は俺に投げかけた。
俺はそれに何と答えたのかは今となっては定かではない、ただ、漠然とそれが「悪い事」だからと、感覚や感情論で答えたと思う。
そしてそれに対して妹が反論した事を俺ははっきりと覚えていた。
「なんで?、だって世の中には〝わるもの〟はいっぱいいるよね、犯罪者とか、詐欺師とか、ふぇみにすととか、そういう人達は生きているだけで人を傷つけて、不幸にするし、だったら殺した方がいいし、誰かが殺すべきだよね?、それなのになんで、漫画やアニメの世界にはヒーローがいるのに、現実では悪人を倒すヒーローがいないの?、ヒーローって正しいんだよね?、なのになんで現実では悪人が沢山いるのに、ヒーローは一人もいないの?」
それが何故か、世間を知り現実を知った今ならば俺ははっきりと答えられる。
それは現実には善人なんていない、だから誰も、悪人をシバきあげるヒーローを求めていないからだ。
人々は法や規則という規律の中で、そこから逸脱した人間だけを淘汰して、自分を安全圏に置いて生活する事に尽力している。
外国で餓死や戦争が起こったとしても他人事で関わろうとしないように、仮に、自国で差別や宗教による悲劇が起こっても、それに関わろうとする人間は稀だろう。
そういう自己利益の追求型の社会の枠組みで生きていれば時として、嘘や未必の故意みたいな、小さな悪は積み上がっていくものだろう。
人間が自分の能力に見合った仕事だけをすれば偽る必要なんて存在しないが、社会という現実は得てして、他人に必要以上の結果を要求し、そしてそのノルマをこなせないものをふるい落とす。
力の論理が、強者を基準にして社会の仕組みを組み立てている以上、貧弱な弱者はそれに対抗する嘘を身につける必要があるからだ。
だから人付き合いが嫌いでも陽キャを演じなくてはいけないし、勉強がつまらなくても学校に行かなくてはいけない。
そんな不文律で決められたルールで雁字搦めの社会なのだから、人を殺してはいけない理由なんて、それは法律で縛るまでもなく、それが人の作った人の道に外れるからいけない事だと理解出来るという話だ。
いや、そもそも、戦争になれば殺人は肯定されるし、金持ちの臓器移植の為に貧しい国の人間が殺されてるのもまた現実だった。
だから本質の上では殺人の禁止とは、あくまで自分が殺される確率を下げる為の保険に過ぎず、その行為自体を肯定も否定も出来ないものなのだろう。
だからきっと、誰もが一度は考える筈なのだ。
デスノートや独裁スイッチがあれば、この世はもっと良くなるのでは無いか、と──────────