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57.惑い

「命までは取らん。そのかわり腕を寄こせ」


凍り付いて微動だにしない私に、悪魔は再び話しかける。


「悪い話でないだろう? たかだか腕一本だ。それで呪いが解けるのだ。この先、お前らの子孫が生き血を吸う化け物になることはない」


いつの間にか目の前に来たかと思ったら、人差し指の長い爪で私の額を突いた。


「腕一本だ。それがどうした。俺から下半身を捥ぎ取った償いとして当然だろうが」


ギラギラした赤い目。歪に引きちぎられた体。

すぐ目の前にすると威圧感が凄まじく、小さい体なのにとてつもなく大きな存在に感じる。


ああ、彼はこの体でずっと生きていたんだ・・・。百年以上の時を。

私たち人間が想像するより遥かに長い時をこの無残な姿で過ごしてきたのだ。

どんなに辛かっただろう。どんなに苦しかっただろう。


額を突く爪が少し食い込んだ気がする。だが、痛みを感じない。


「どうだ、安い物だろう?」


腕一本・・・。私の腕一本で呪いを解いてもらえるのなら・・・。私の願いが叶うのなら・・・

何より、彼のこの痛々しい姿が元に戻るなら・・・。

元の姿に戻れるなら私の腕など安い物ではないだろうか? こんな腕一本なんて。

差し出してしまえばいい。差し出してしまえば・・・。


「おい! ローゼ! しっかりしろ!!」


胸元から大きな声が聞こえたと思ったら、アレクが私の腕から飛び出した。そして私の額に指を差している悪魔の手を勢いよく蹴り上げた。


「何をする! 邪魔するな!」


「うるせー! クソジジイ!」


アレクは私から悪魔を遠ざけると、私の顔の傍までやって来た。


「馬鹿ローゼ! 何、惑わされてんだよ!」


大声で怒鳴りながら、両手でペチペチと私の頬を叩いた。


「ローゼが犠牲になることないだろ?! 腕一本どころか指一本もやる必要ないぞ!」


「でも・・・」


私は怒っているアレクを見つめた。心配してくれるのは嬉しいが本当に私が犠牲にならなくてもいいのだろうか? 頼みごとをするのだから代償は付きものなのに。


「あーあー、もうっ、額から血出てるぞ。痛くないか?」


心配そうに私の顔を覗く。不思議と痛みは感じない。しかし、自分の額から鼻にかけてツーっと血が伝わっているのが分かった。

大丈夫と言おうとした時、目の前にいるアレクの後ろに悪魔が近寄ってきたのに気が付いた。悪魔はアレクに向かって指を差している。その指先が徐々に青白く光始めた。


「危ないっ!」


そう叫んだ瞬間、アレクは青い光に包まれた。アレクはビクビク痙攣したと思ったら、ボトリと床に落ちた。


「アレクっ!!」


私はすぐにアレクを抱き上げるためにしゃがもうとした。だが、体が動かない。


「な、なんで・・・?」


必死に足元に倒れたアレクに手を伸ばす。その手を見て気が付いた。自分の体が鈍い光に包まれている。


「邪魔しおって。クソガキが」


悪魔の蔑んだ低い声が聞こえた。私はその声の方に振り向き、奴を睨んでやりたかったが体が動かない。いいや、動いている!

私の意志では動かないが、体はズルズルと悪魔の方へ引き寄せられている!


「お前は俺と来い」


その言葉に全身がゾクゾクっと震えた。

嫌だ!と叫びたいのに恐怖で声が出ない。


その時、研究室の扉が開いた。


「ローゼ!!」


私の愛しい人が駆け込んできた。


「ローゼ!」


私に向かって手を伸ばす。私も手を伸ばしたかった。しかし私は動けない。


「ア、アーサー様・・・・!」


絞り出すように名前を呼んだ時、立っている私の足元の床が黒くなった。途端に床が消えた。


「!!」


私は黒い穴に吸い込まれるように落ちた。


落ちる、落ちる、落ちる―――。


暗闇な中をどんどん落ちていく。何の音も聞こえない。

目を開けているか閉じているかも分からないほど真っ暗闇だ。


落ちながら深い後悔と恐怖に襲われ涙が止まらない。叫びたくても声が出ない。

誰もいない天に向かって手を伸ばす。誰もその手を掴んではくれない。


誰か・・・、助けて・・・!


私は手を伸ばしたまま、ひたすら暗闇の中を落ちていった。


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