悪夢の話
注:今回の話には残酷な描写が存在します
いよいよ明日は待ちに待ったハレの日。
サマンサとアリンが引退する日だ。
だからと言って店構えが変わるわけじゃない。
内装こそ煌びやかになって、明日を控えて店の娘たちもどこかソワソワしているが、娼館自体は通常営業である。
「本日もようこそおいでくださいやした」
開店時間となる夕方。客を出迎えて丁寧に頭を下げる俺。
分かっちゃいたけれど今日の客足は鈍い。
明日の振る舞い酒にありつきたいケチな連中は、わざわざ前日に散財したりしないからな。
本日の客の大半は、最後にゆっくりとアリンとサマンサの姿を目に焼き付けようとする古い馴染みばかりだ。
食堂で着飾ったサマンサとアリンに酌をしてもらい、ちょいと手を握るくらいなら、まあ許そう。
胸元や太腿へ伸びてくる手をぴしゃりと叩き「旦那、それ以上は駄目ですよ」とにっこり諭すサマンサたちの所作も堂に入っている。
叱られてバツの悪そうな顔をした客は、しぶしぶと別の娼婦を指名して二階へと上がっていくって寸法だ。
しかしサマンサとアリン、あいつらがいるのは明日までか。
そうと思うと、ちょっと感慨深いものがあるな……。
柄にもなくぼんやりとしていると、にわかに食堂の入口が騒がしくなった。
何ごとかと視線を巡らせれば、
「おじゅま~!!」
食堂に舌ったらずな声が響かせながら、一人の幼女がトテトテと全力疾走。
しかして彼女の正体は、はるばる魔族の住む北の大陸から亡命してきたサキュバス一族のイーヴ姫。
うちの店で匿い始めた頃は15歳くらいの美少女だったが、紆余曲折を経て現在は5歳児くらいの姿まで身も心も若返ってしまっている。
「おいおい……!」
俺が思わず天を仰いだのもむべなるかな。
なぜなら姫さまは完全無欠のすっぽんぽん。
「そんな格好で出てきちゃ駄目だろ! ああ、もう床までびしゃびしゃじゃねえか」
イーヴ姫は、濡れた髪を額に貼りつけ首をかしげている。
少し遅れて食堂へ駈け込んできた人影に、また食堂がざわつく。
「姫さま! ちゃんと髪を洗わないと駄目なのじゃ!」
こちらも裸に辛うじてタオルをひっかけた、姫さまの従者のタメラである。
「せっけんが目にしみるからやーなのー!」
両手をバタバタさせる姫さまに、
「とにかく、髪を拭いて乾かさないと風邪を引いてしまうのじゃ!」
タメラは、自分の身体に巻いていたタオルでグシグシと髪を拭き始める。
必然的に彼女も全裸になってしまうわけだが、まったくエロさは感じない。
なんでもタメラは小鬼族という種族で、本人曰く87歳で人間でいうところの十八女だということだが、見た目は7~8歳の幼女そのもの。胸も尻もまっ平な上に、毛すら生えていない。
人間との違いは、小鬼らしく額の生え際に小さな角があるくらいだ。
これで適齢ってんなら、小鬼族の雄ってのはみんなロリコンなのかねえ?
それはともかく。
「お騒がせしてすいやせん……!」
客たちへペコペコと頭を下げて回る。
素っ裸で飯を食べる場所へ来ることじたい行儀が悪いに決まっている。
そしてそれ以上に、娼館内を幼女がウロウロしていることが宜しくなかった。
なにせ男女のあれこれは、突き詰めれば子作りの作業の一環だからな。
そんな子供を目の当たりにしちゃ、これから一戦交えようとしている客も萎えるって話だろ?
二人が本当にウチの下働きだったらもれなく拳骨を落とすところ。
しかし一応は客人なわけで、せいぜい横目で睨みつければ、
「……ふぇええ」
それだけで泣き出すイーヴ姫は泣き出したのに、俺は閉口するしかない。
「ああ、もう、どうすりゃいいんだおい」
タメラと一緒になってあやしていると、またしても食堂の入り口の方が騒がしくなる。
今度はなんだと振り返ったとたん、光の反射で目がくらむ。
ガチャガチャと重い足音が響かせ食堂へと踏み込んできたのは、全身鎧に身を固めた一人の騎士だ。
正体不明の重騎士は、腰に佩いていた剣を鞘ごと抜き、身体の正面で床に突き立てる。
ガン! と鈍い音に緊張が走り、居合わせた誰もが騎士へと注目。
兜越しのくぐもった宣言が食堂中に響く。
「私は聖堂騎士パラノ・フランチカである!」
……聖堂騎士、だと?
ほとんどの騎士は国家、または領主へ所属するわけだが、聖堂騎士が所属するのは文字通りのアルメニア聖堂教会だ。
騎士にして司祭以上の資格を持つインテリにしてエリート。それが聖堂騎士だと聞く。
突然現れた騎士のいでだちを注視する。
立派な鎧に純銀の光沢を放つマントからして、カタリではなさそうだが。
「……これはこれは。聖堂騎士サマともあろう方が、こんな場末の娼館に何用でらっしゃいますかね?」
昔から教会は、娼館を不浄の温床だ悪所だと目の仇にしている。以前、正義感と道徳心に燃えた若い坊主が怒鳴り込んで来たこともあった。
だからといって、聖堂騎士が直接乗りこんでくるなんて話は聞いたことがない。
同時に、心当たりが全くないといえば嘘になる。
「この店は魔族を匿っているとの情報の提供を受けたのだが、それは真実か?」
くそ。ビンゴか。
「さあて、どこから訊き及んだ与太話でらっしゃいますかね? ウチで魔族なんて物騒な連中はとんと見かけたことはありやせんが……」
「本当か? 偽証、もしくは私を謀ろうとするのなら、為にならんぞ?」
「滅相もございやせん」
冷たく言ってくる騎士に、俺は努めて穏やかにトボケる。
我知らず、姫さまの抱える手に力が籠った。姫さまも俺に縋りついてくる。
「その娘は貴様の子か?」
兜の奥から騎士の鋭い眼差し。
「…ええ、そうですが、何か?」
平然と返せたと思う。
俺の影に隠れているタメラも、額の角さえ見つからなければ追及されることはないはず。
「騎士さま、一旦、そんな被り物を脱いで楽になってくださいな」
柔らかく明るい声が騎士へと向けられた。
とびっきりの営業スマイルを浮かべたサマンサが、艶然と酒瓶を掲げて、
「ここは娼館ですが、お酒も出します。どうですか、まずは一献……?」
騎士の肩にそっと手をかけようとしたとき。
「触るな下郎ッ!」
騎士の篭手が翻る。
鈍い音が響き、サマンサの身体が吹っ飛んだ。
「ッ!?」
悲鳴を上げる間もなく床に転がったサマンサの身体は痙攣している。
半ば姫さまを放り出して駆け寄ろうとする俺に、殴り飛ばした張本人が立ち塞がる。
「邪魔するんなッ! ってか、いきなり女をぶん殴るたあ、なに考えたんだてめえッ!?」
「貴様は嘘をついているだろう?」
「知るかボケッ! いいからさっさそこをどけッ!」
焦る俺の視界の端で、倒れたサマンサにいち早く駆け寄ったアリンが悲鳴を上げる。
「支配人さん! サマンサが息をしていないッ!」
瞬間、俺の堪忍袋の緒がブチ切れた。
客であれば誰であろうと持て成すのが店のポリシー。
だからといってうちの娘に危害を加える馬鹿野郎は、力づくでも落とし前を付けさせるのが俺の流儀だ。
聖堂騎士だろうか知ったことかよ!
目前の騎士に向かって腕を伸ばす。
俺の手は、触れたものの命を瞬時に奪う死神の手。こちらの世界に転移してきて俺が得た異能の力。
この力は、剣が通らない鎧だろうが関係ねえ。服や鎧越しに中のやつの命を奪うことが出来るのは実証済みだ。
そして俺の手が騎士の鎧に触れる寸前。
「無礼者がッ!」
騎士の雷喝のような声が響く。
「がッ!?」
衝撃。
半瞬遅れて来た激痛。
そして何かがべちゃっと床にたたきつけられる音。
いつのまにか剣を抜き放っている騎士に、俺は目を見開く。
「……ぁあああッ!?」
右手が、手首から先が無くなっていた。
膝が崩れ、痛みに全身に脂汗が噴き出す。
「おいおい騎士さまよ、いくらなんでもそいつは……」
「いくら騎士階級だからって、いきなり剣を抜くのはおかしいだろ?」
涙で滲む視界では、客たちが騎士へと喰ってかかっていた。
彼らもさすがに尋常な事態でないことを悟り、勇気を出して俺を庇ってくれているらしい。
だが、対する騎士の返答は最悪だった。
新たな血飛沫が上がる。
つっかかっていた冒険者の客が、ばっさりと袈裟懸けに斬り倒された。
逃げようと身を翻したもう一人の客も背中を斬りつけられ、テーブルにぶつかりながら盛大に転げまわる。
店の娘たちは抱き合って悲鳴を上げた。
俺は震える足で立ち上がって騎士へ向って叫ぶ。
「い、いくら聖堂騎士でも、こんな無体は通りませんぜ……!!」
白銀の鎧を返り血で赤く染め、騎士は俺を振り返る。
「さきに私を殺そうとしてきたのはそちらの方ではないか」
その物言いに、心がざわつく。
思わず騎士の兜をマジマジと見つめてしまう。
兜の留め金が外された。
放り出された兜は、床に落ちて重々しい音を立てる。
果たして兜の下から現れたのは、重苦しい鎧に反し線の細い男の顔だった。
鼻もアゴも鋭く尖り、精悍というよりは顔全体から刃物のような剣呑さを感じる。
落ちくぼんだ眼の奥の光が、やけギラギラと精力に溢れ、俺を見返していた。
パラノ・フランチカと名乗ったこの騎士と、誓って面識はない。会うのは今日が初めてのはずだ。
なのに俺は困惑していた。どこか既視感があるのだ。
「―――久しぶりだな、尾妻連太郎」
なんで俺の名を!? などとは問うまい。
兜越しではくぐもっていた声が、今ははっきりと聞こえている。
その声には確かに聞き覚えがあった。
「おまえは―――アシュレイ!?」
数年前の辺境都市カナルタインで俺が巻き込まれた事件。
俺を捕らえ、陥れようとしたのは、同じく日本から転移してきたクラウス・コーウェンを名乗る男。
西の大国ドライゼンは辺境伯コーウェンとして策を弄していたヤツに、側近として仕えていた騎士が一人。
その男の名はアシュレイ。
あの時、失態を犯したコーウェンはその場に居合わせたドライデン王国のアルディーン殿下の手で処断された。
逆上し、主人の仇を取ろうとしたアシュレイは俺に刃を向けてきたが、こちらもたちまち捕縛されている。
そのあとのやつがどうなったかなんて、俺には知る由もない。
てっきり殿下が適当に処罰したとばかり思っていたのだが。
「……随分とひでえ面構えになっているから、一瞬誰だか分からなかったぜ」
俺の皮肉に、アシュレイは冷笑で応じた。
「相変わらずの減らず口だな。だが、それでこそ甲斐があるというもの」
「いつの間に聖堂教会に取り入ったのかは知らねえが、いくら教会でもこの非道を許すわけねえだろうか!!」
「ふふふ、そのような些事はどうでも良い。それより貴様、私を謀ったな」
「……なんだと?」
「そこに魔族の姫君を匿っているではないか」
血の滴る剣先を突き付けられる。
その先では、震えながら抱き合うイーヴ姫とタメラの主従。
「そいつは盛大な勘違いだ。良く見ろ、おまえの言う姫さまってのは、あんなに幼いのか?」
精気を吸収しすぎて逆に若返ってしまったサキュバス。それが今のイーヴ姫。
そのことをアシュレイは知らないはず。
土壇場でのこのハッタリは通じるか?
「ふむ。だが、貴様が嘘をついていることに変りはない」
「どういうことだ?」
「あの娘は貴様の娘ではなかろう? どうみてもエルフの血が混じっているとは思えんからな!」
せせら笑い、アシュレイは剣を振るった。
「きゃあッ!!」
悲鳴と血飛沫が上がる。
たまさか俺たちの近くで腰を抜かしていた娘が上げたものだ。
「モーナ!」
その場にばたりと倒れこんだ黒髪の娼婦見習い娘は、動かなかった。
当たり前だ。肩から腰にかけて両断されて生きていられる人間なんていない。
ぎゅっと目を瞑る。
浮かぶのはモーナの幸薄そうな笑顔。
目を見開き狂騎士を怒鳴りつける。
「てめえ! 生きて返れると思うなよッッ!?」
俺の怒声に呼応するように、すぐ隣に黒い影が駆けつけてきた。
「旦那! ご無事で!?」
黒衣を翻すサイベージ。
俺の右手首を見て痛々し気な表情になったのも束の間、
「おせえよこの野郎」
「すみません、ちょいとコイツを探してまして」
手の中の戦棍を見せてくる。
確かにただの剣よりは全身鎧に効く得物だ。
「オズマ殿!」
次の声は上から降って来た。
見上げれば、銀髪を棚引かせて、吹抜けの二階から身を躍らせる影が。
影は、ふわりと俺の前へと着地する。
銀髪に褐色の肌を持つダークエルフで、名はロロスロウ。イーヴ姫のもう一人の従者にして、通称ロロ。
「遅れてすまない……!」
謝罪の言葉も一転、ロロも俺の切断された右手首を見て唖然とした様子。
「気休めにしかならなくて申し訳ないが」
そういってロロが何かしら呟くと、右手の切断面が何か暖かい膜のようなものに包まれた。
痛みが和らぎ、一応、血も止まったように思う。
これも精霊魔法か。
「助かるぜ」
礼を言いつつ、俺はサマンサとモーナの姿を視界へ映す。
無惨に横たわる彼女たちに、喉の奥から込み上げてくる苦み。
そしてそれ以上に腹が立って仕方がなかった。
俺は駆けつけてきた二人へと頭を下げる。
「頼む。俺の替わりにあの銀ピカ野郎を殺してくれ」
「もちろんです。サマンサさんとモーナちゃんの仇は討たせて頂きましょう」
サイベージが静かに請け負い、油断なく戦棍を構え直す。
ロロも腰の細剣を引き抜き、無言で頷いてくれた。
「ほう。一人に数人がかりで挑むつもりか。相変わらず卑怯なヤツだな」
―――抜かせ。無抵抗の娘たちを殺しておいて、卑怯だなんだとちゃんちゃらおかしいだろうがッ!
言い返してやりたいのを、俺はグッと堪える。
そっと視線を巡らせれば、アシュレイの背後へ、コック長であるゲンシュリオンが愛用のデカい牛刀を手にしてジリジリと近づこうとしていた。
いつの間にか地下から出てきた店の風呂釜管理人にしてドワーフのボクボロも、背丈より長い戦斧を引っ提げて斜め後方の位置から自称聖堂騎士へ睨みを効かせる。
給仕長であるハーフリングのメンメは、逃げそびれた娘たちを背中に護るようにしてダガーを引き抜く。
そして正面にはサイベージとロロだ。
こうして包囲してしまえば、さしものアシュレイと言えど―――。
「―――?」
不意にアシュレイの上半身が、丸い影のようなもので包まれた。
その影はツヤツヤと光沢を増しながら、まるで風船のように大きく膨れ上がっていく。
「なんだありゃ……」
「みんな伏せろッ!」
俺が上げた声にかぶせるようにロロが叫ぶ。
次の瞬間、風船のように膨らんだアシュレイの身体が爆発した。
同時に、無数の黒い小さなカケラのようなものが、まるで弾丸のように飛んでくる
「くッ!」
俺たちの直ぐ前で、激しい風が渦を巻く。
それが弾丸を巻き込み、反らしてくれる。
見れば傍らで剣を放り出し、両手を正面へかざすロロの姿が。
彼女が精霊魔法で防御をしてくれたのだ。
結果として、俺とサイベージに姫さまとタメラは無傷。
ロロは力尽きたように膝を付いて、防御魔法が解かれたあと。
俺の店の中に出現した光景は、文字通りの阿鼻叫喚の地獄絵図だった。
おそらくアシュレイを中心に全方位に放たれたであろう弾丸。
弾丸の正体は、大人の掌ほどの長さで、親指ほどの太さのある黒い針。
その針に貫かれ、店にいた連中のほとんどは即死していた。
死体から盛大に血が流れて、床板は真っ赤に染める。
辛うじて即死を免れた娘たちの口から苦鳴が上がる。
「い、痛い、痛いよう……!」
「誰か助けて……!
「支配人さん……!」
目を反らしたくなるような凄惨な光景。
それでも生き残った娘たちの中に、胸の中心に針を突き立てられひっくり返ったアリンを見つける。
「や、やだ、死にたくない……! あたし、死にたくないよ……」
とぎれとぎれの呼吸を漏らす彼女の唇の端を血が伝っている。
「動くな、じっとしてろ! みんな、大丈夫だ、いま助けてやるから!」
俺が叫びながら駆け寄ろうとしたその時。
黒い針が一瞬で燃え上がる。まるで間欠泉のように噴き出した炎は、たちまちアリンの全身を包み込んだ。
「いや……いやだあ……!! あたしは……あのひとのおよめ…に…………」
燃えていく。
煌びやかな衣装も、化粧の施された顔も、夢も希望も何もかも。
手を伸ばした格好で硬直する俺の目前で、他の連中に刺さった針も次々と発火していた。
生き残っていたものが上げる断末魔が連続する。
「助けて! 支配人さん助けて……!」
幼い声、恐怖に打ち震える声、哀願する声。
炎は無慈悲に全てを吞み込んでいく。
なお燃え盛る炎は、食堂の壁と天井まで燃やし焦がす。
そんな地獄の中心に、アシュレイは仁王立ちしていた。
銀色の鎧はそのままに、白銀のマントは完全に千切れ飛んでいる。
替わりに、その背中から伸びるそれに、俺は目を見張る。
アシュレイの背から、漆黒の翼が生えていた。
大人の背丈ほどはあろうかという、長大で禍々しい翼。
異形の翼を背負った狂騎士が俺を見た。
真っ赤に染まるほど充血した目を見開いて、
「は、ははは! 全て殺しましたぞ! 尾妻連太郎に関わる者どもを磨り潰してやりましたぞ! 伯爵さま、伯爵さま! 仇は討ちました、このアシュレイが討ちましたぞ! 伯爵さまいずこにおわず!? 伯爵さまはいずこ!? ゲハハハハハハーッ!」
哄笑を上げ続けるアシュレイに、俺の全身がぐらりと揺れる。
やつは、俺に復讐するためにここに来たのか。
ロロに横から支えられた。
彼女は囁くように言う。
「あれが【悪魔】だ」
「悪魔、だと?」
「あの者は、悪魔と取引をした。対価に悪魔はひとときだけ力を貸すが、代償として身も魂も悪魔のものとなる。
狡猾な悪魔の中には、己の身を晒すことなく、手先を操り目的を果たす者もいると聞く」
つまり、アシュレイの目的が俺への復讐で、悪魔の目的はイーヴ姫の殺害。
その場所が俺の店ということで、アシュレイと悪魔の互いの思惑は一致したのか。
「旦那、いますぐ逃げてください」
サイベージの低い声。
「旦那にはまだ守るべきものがあるでしょう!?」
ハッと背筋を伸ばす。
振り返れば、イーヴ姫とタメラ。それとロロ。
彼女たちも守る対象ではあったが、今の俺に残された最も守るべきものは―――。
「―――ミトランシェ」
「今は、逃げる」
いつの間に来たのか。
身重の女房殿が、俺の左手首を掴む。
彼女は、額に玉のような汗を浮かべ、苦しそうに呼吸を弾ませていた。
「以前、旦那がショーギとかいう遊戯で教えてくれたじゃないですか。いくらコマを取られても、最後の玉を取られない限り負けじゃないって。そして今の盤面の玉は旦那ですよ」
サイベージの言葉に同意するように、女房は俺の手を強引に引っ張っていく。
半ば引きずられる俺に付いてくるのはイーヴ姫とタメラ、そして殿はロロだ。
「サイベージ殿。申し訳ない」
「いえいえ、ロロさんは先ほどの精霊魔法で魔力もすっからかんでしょ? 次はあたしの番ってことです」
この期に及んでいつも通りに飄々と答えるサイベージに、俺の胸の奥から込み上げてくるものがある。
「サイベージ!!」
「はい」
「てめえ死ぬんじゃねえぞ! 絶対にあとで追いついてこいよ!?」
「……ええ。旦那の仰せなら喜んで」
俺たちは炎渦巻く食堂を飛び出した。
背後からたちまち剣戟のような音が響いてきたが、振り返るな。
サイベージの、野郎の心意気を無駄にしちゃならねえ……!
火は娼館の方々に回り、煙と炎が俺たちの行く手を遮る。
「おい、ゲホッ、ちょっとまて、そっちは……!」
俺の制止も聞かず、ミトランシェが通路を突っ切った。
出た先は店の玄関でも裏口でもない。中庭だ。
一旦煙から解放されたのはありがたいが、この場所は四方を建物に囲まれている。
このまま中庭に留まったとして、焼け死ぬ前に熱と煙でやられてしまう。
ミトランシェが中庭の池の前で足を止めた。
円形のその縁に立ち、何やら妖精語で詠唱を始めている。
いや、池にはたっぷりと水はあるが、まさかこの水を精霊魔法で使役して、火を消そうって魂胆か?
ここまで火が回っては、いくらなんでもそれは無理だろう?
女房の肩を掴かもうとして、彼女の鬼気迫る表情が俺の口を噤ませる。
ミトランシェは歯を食いしばり、凄まじい集中を見せていた。
翡翠の瞳はこれ以上ないくらい見開かれ、細い首に幾つもの血管が浮かぶ。
突然、蒼い光が池の上へと降り注ぐ。
思わず見上げた先。
炎と煙が立ち込める隙間から見えた夜空に、俺は絶句するしかない。
「……嘘だろ?」
夜空に二つある月。
それがいま、一つに重なり蒼い月となっている。
冗談じゃない、蒼月祭なんてまだ先だ。
本来、四年に一度だけ起きる自然現象のはず。
同時に、そんな天体の神秘を利用して、平時では使えない超常の魔法の使用が可能となる。
いま、ミトランシェが再現しようとしているのは移動魔法。
現在の場所と、遥か遠方の地との空間を繋ぐ伝説級の秘魔法。
「……よせ、やめろ!」
俺は悲鳴を上げていた。
かつてカナルタインの処刑場に、ミトランシェを始めとした妖精四支族が乗り込んできたとき。
今と同様に、蒼月祭の夜を無理やり再現して、移動魔法を起動させたらしい。
その前段階で天体を動かすだけでもとんでもない話で、何でも何十人ものエルフたちの魔力が必要だったと聞く。しかも儀式に参加した全員が、魔力を絞り切ってその反動で昏倒したとか。
それをたった一人で行うなんて正気の沙汰じゃない。ましてやミトランシェ、おまえは身重なんだぜ!?
俺の制止に反し、池の上に光の環が出現する。
その先に見える中庭とは全く異なる森の景色は、間違いなく移動魔法が発現したことを示していた。
「……早く、行って……!!」
未だ集中を切らさないミトランシェが震える声を出す。
その形相に、イーヴ姫たち一行は脇目もふらず光のゲートをくぐった。
「オズマ殿!」
移動した森の先でロロが俺を呼ぶ。
「早く……!」
女房も急かすが、俺はどうしてもこの場に心が残って仕方ない。
だから建物へと向かって振り返って腹の底から叫ぶ。
「おい、誰かいねえかッ! こっから逃げられるぞ! 生きているやつがいたら、早く中庭へ出てこい!」
まだ生き残っている連中がいるかも知れない……!
直後、煙を吸って盛大にむせかえっていれば世話がない。
しかし、涙で滲む視界に、炎の奥に人影がゆらめいているのが見えた。
その人影はこちらへと向かってくる。
すわ、生き残りがいたか! と垣間見えた希望は、即座に絶望へと変わった。
「ハクシャクサマ……ギギ……ハクシャクサマ……」
不気味な、昆虫めいたアシュレイの声が、俺の背筋を凍らせる。
いや、もうコイツはアシュレイであってアシュレイではなかった。
もともと痩せた顔付きから完全に肉が削ぎ落ち、はまるで髑髏のようだ。
赤い瞳を炯々と光らせ、唇の端から餓狼のように犬歯と涎をこぼす姿は、もはや完全に悪魔の傀儡。
いや、違う。
背中から漆黒の翼を伸ばすその様は、悪魔そのものだ。
俺はすぐに踵を返し、移動魔法で生成された門へと飛び込むべきだった。
しかし、悪魔と化したアシュレイの左手に無造作にぶら下げられた物体に、思考を一瞬漂白される。
頭を鷲掴みされたボロボロの塊。辛うじて人の上半身の原型をとどめたそれは、黒い布切れをまとっていた。
「……サイベージ?」
「急いでッ!」
ミトランシェの悲鳴にも似た声が自失の時を切り裂く。
立ち尽くしていた俺は、女房に抱きかかえられるように魔法で出来た門へと転がり込む。
「ぐッ!」
勢いで後頭部を地面にぶつける。
痛む頭を押さえながら身体を起こせば、魔法の門は閉ざされていた。
炎の燃えた残り香だけがかすかに漂い、森は静寂に包まれている。
「どうにか逃げきれたのか……」
ホッとしたのも束の間、自分より心配すべきは身重の女房の方だ。
「大丈夫か、ミトラン……!?」
シェ、と。
名を呼んだ瞬間、時が凍り付く。
隣に一緒に倒れている彼女の大きく膨らんだ腹部の中心。
そこに黒い針が一本が突き刺さっていた。
溢れ出た血が丸い腹を伝い、横たわるミトランシェの全身を染めていく。
「くそッ!」
脱いだ上着で女房の腹を押さえた。それにもたちまち血が染み込んで来て止まらない。
「おい、誰か! 誰か助けてくれ!」
すぐに駆けつけてきたロロだったが、彼女は神妙な顔のまま首を振った。
「……頼む! 回復魔法みたいなものをさっき俺にも使っただろ? なあ、頼むよ……!」
必死にロロに訴えかける俺の襯衣の裾が引かれる。
顔を青ざめさせた女房が俺を見上げていた。
もともとの白い顔は、そのまま透き通って行きそうなほど白くなっている。
そんな彼女の頬に、俺は残った左手で触れた。
「おい、しっかりしろよ。大丈夫だ、こんな傷、すぐに良くなる。だから、な? 元気な赤ん坊を産んでくれよ……!」
訴えかける俺に、ミトランシェの小さな唇が震えるように動く。
何かしら声を発したようなのだが、聞き取れない。
覆いかぶさるようにしいて耳を傾けると、今にも途切れそうなか細い声が聞こえた。
「泣かないで……愛しい人……」
「あ、ああ! 泣いてねえよ。ああ、泣いてないさ、泣くわけねえだろ!?」
ミトランシェが微笑む。
翡翠色の、急速に光が薄れていく瞳が俺を映す。
「……ウェーレイカ。冬の晩鐘を鳴らす鳥。されど魂は常春を巡り………」
震える小さな手がゆっくりと持ち上がり、俺の頬へと触れた。
その手に左手を重ね、俺は声にならない悲鳴を上げる。
やめろ。言うな。
頼む、その先の言葉は口にしないでくれ……!
「|翼となって風の元へ帰る《レセ・ウーヴ・ハルレセシオン・レグ》……」
それは、俺がミトランシェに初めて教えられた精霊語。今生の別れを告げる時の言葉。
俺の頬に当てられていた手が、頼りなく滑り落ちた。
受け止めて握り締め、俺は優しく語り掛ける。
「ははは、縁起でもないこと言うんじゃねえよ、なあ? 今から子供が生まれるんだぜ?
そういやまだ子供の名前は決めてなかったよな。男だったら……」
返事はなく、見開かれたままの翡翠の瞳の奥の光が消えていた。
「……おい!」
抱き起こし、その細い首が力なく後ろへ倒れたとき。
俺は、この世界で最も愛した女の命が失われたことを知った。
彼女の中にあった新しい命も含めて、俺は全てを永遠に失ったのだ。
「う、おおおお……おおおおおおおお……おおおおおおお……ッ」
小さな身体を抱きしめた。
いくら強く抱きしめても、もう二度と情熱的に抱き返されることはない。
それを承知で冷たくなった彼女の身体をさすり続ける。
どうしてこうなった?
俺は何を間違えた?
俺はどうすればよかったんだ……?
グルグルと疑問が頭を巡っている。
口の中は粘土を押し込められたように冷たく重苦しい。
視界に映る世界が急速に色あせ、まるで全身が地面に沈んでいくような感覚のなか、誰かが動く気配に顔を上げた。
ロロとタメラが立ち上がって対峙している。
互いに腰だめに短刀を構えて。
「ふッ!」
二つの呼吸音に合わせ、互いの身体がぶつかった。
ぞぶり、と何かが抉りこむような生々しい音のあと。
互いの胸へ短刀を突き刺して、まるで抱きしめあうようにその場に崩れ落ちるロロとタメラ。
彼女たちの足元には赤い池が広がっていく。
小鬼族の少女は完全に動かなくなっていたが、銀髪のダークエルフは身動ぎした
「……くっ……オズマどの、申し訳ない……」
「……今さら死ぬことはないだろう。償いのつもりか?」
他人事のように声をかける俺に、
「違う……。姫さまが魔王として……覚醒をなされようとしているのだ」
言われてのろのろと首を巡らせれば、小さな姫さまの全身が黒い霧のようなものに覆われていた。
黒い霧を身にまといながら、5歳児の幼体が急激に少女の肉体へと成長していく。
「姫さまが魔王となられれば、わたしたちは狂奔の力に抗えない……。そうなれば、オズマ殿を害してしまう前に……」
「……おまえたちは、俺を殺さないために自殺したのか」
応えはなかった。ロロは軽く俯いた格好で事切れていた。
イーヴ姫へと視線を移す。
15歳の肉体へと戻った姫さまを中心に、膨大な何かが流れ込んでいくのが分かる。
まるでそこに何か巨大な穴でも開いたかのような。
その穴に渦巻くように吸い込まれていくそれは、ロロが教えてくれた魔力というものなのだろうか。
……俺は、イーヴ姫を匿うことに同意したが、同時に、彼女が魔王として覚醒したときに殺す役目も請け負っていた。
魔王が解き放たれれば、世界は甚大な被害を負う。それを防ぐために、俺は自分が大切だと思うものを守るために、いざとなれば躊躇わない覚悟を持っていた。
だが、今さらそれがなんだというのだ。
悲しいのか辛いのさえ分からない。
もはや自分が生きていることさえ、どうでも良いのに。
イーヴ姫がゆっくりと俺の方を向いた。
それだけで大気が歪み、姫さまの姿が陽炎のようにゆらゆらと揺れる。
……これが、魔王か。
今直ぐこの場から逃げろ、逃げなければ死ぬぞと本能が告げていた。
まともな時に対峙すれば、恐怖で失禁していたかも知れない。
だが、今の俺は、繰り返すが何もかもがどうでも良くなっていた。
このさきを生きていくことも。
今、生きていることすらも。
こちらに向かって歩を進めてくるイーヴ姫こと当代の魔王。
禍々しいオーラに包まれたその脅威を無視するように、俺は冷たくなった女房へと静かに視線を落とし続ける。
『ごめんなさい、オズマさま―――』
声が響き、俺は訝し気に顔を上げた。
「姫さま……?」
目の前のイーヴ姫は、もはや辛うじて人型の影でしかない。
そんなシルエットに、巨大な翼が加わる。大きく広げられた翼の先端では、バチバチと黒い閃光が弾ける。
『オズマさまは、わたくしのせいで何もかも失われてしまったのですね―――』
「ああ、そうだな。全てなくしちまった……」
言い換えれば、こんかいの元凶はイーヴ姫とも言えるだろう。
しかし、彼女に対して、俺はもはや怒りを掻き立てられることはなかった。
悲しみを通り越して、いっそ何もかもが空しい。
魔法の存在するこの世界でも、死者は蘇らない。
失われた命は決して戻ることはない。
俺の愛した、愛する人たちの多くとは、生きて会うことは永遠に出来なくなってしまった。
空虚な世界は色彩を無くしていく。
『―――今からわたくしは夢をお見せします』
イーヴ姫の声をぼんやりと聞く。サキュバスの権能。それは対象に自由自在に夢を見せる力。
「……いいよ姫さん。今さら夢なんか見せてもらってもよ……」
夢はしょせん夢だ。楽しい夢に逃避したとて、辛い現実は変わらない。
『大丈夫です。オズマさまは、ただ悪夢を見ただけ……』
姫さまの影の手が伸びてくる。
俺の頬に触れて持ち上げるそれは、なぜか白く綺麗な手に見えた。
こちらも黒いシルエットなのに、くっきりと姫さまの白い顔が浮かんでいるように見える。
そんな彼女の頬を、赤い二条の筋が流れる。
姫さん、あんた泣いているのか……?
そう問い掛けようとして、イーヴ姫の手から伝ってくる何かが、俺の意識を暗転させる。
俺は漆黒の森にいた。
ねばつくような闇を掻き分け、走る人影がある。
闇に似た肌を持つ彼女の胸には、小さな白い赤子が抱かれていた。
二人はひた走る。
迫りくる何かから逃げるように。
場面は変わり、赤ん坊は幼女にまで成長していた。
夕暮れの迫る街角。
一人の子供が両親に手を繋がれて歩いている。
俺は幼女の目線でその光景を眺めている。
肩を叩かれた。
闇色の肌を持つ女性がこちらを見ている。
幼女は頷いて踵を返す。
一度だけ振り返ると、その家族の姿が妙に羨ましく思えた。
また場面が変わった。
幼女の低い視点がリズミカルに跳ねる。
どうやら彼女は走っているらしい。
その先にあるのは、何だか見覚えのあるドア。
ドアをくぐり、目の前に立つ人物に幼女は歓声を上げた。
その人物とは、なんと俺だった。
俺は幼女を抱き上げて、その頭を撫でまわし―――唐突に理解する。
これは夢だ。イーヴ姫の見ている夢。
だからくるくると視点と場面が入れ替わるのか。
「……わたしは父と母の顔を知りません。それどころか、家族というものがどういうものなのかすら知りませんでした」
不意に、俺の抱き上げている幼女が、大人びた声で囁いてきた。
「でも、ここに来て、その暖かさを知ることが出来ました」
―――そうか。姫さまが幸せを見つられたってことかい?
「ええ。とても幸せです。幸せでした。そんな幸せをくださったオズマさまたちに、わたくしは恩返しがしたい」
―――いいさ。こちとら別に恩を売ったつもりもねえよ。
「わたくしは、遍く世界に夢を見せましょう。そしてその夢を反転されば、全ては悪い夢へと……」
―――姫さま? 何を言っているんだ? 意味がわからねえぞ。
困惑する俺に、イーヴ姫は毅然と顔を上げて、
「そして最期に。オズマさま、わたくしを殺してください」
―――おいおい、これは夢なんだろ?
―――夢は覚めれば全部なくなるんもんだ。
―――なのに、夢でも殺すなんて。
―――そもそも夢で殺したとして……。
「お願いです! わたくしがまだ魔王として理性を保っていられるうちに……!」
幼い姿に、大人になった姫さまの顔が重なって見えた。
顔を苦しそうに歪め、血の涙を流している様子に息を飲む。
これは夢の続きか。
それとも現実なのか。
だが、夢であろうと何であろうと、目の前で苦しんでいる女の願いを無碍にしないのが俺の流儀だ。
―――分かった。
姫さまの頬の涙を指先で拭うようにして触れた。同時に力を発動させる。
夢の中でも俺の力は本当に効果を発揮するのか、それは分からないけれど。
すると、俺の腕をスルリと脱し、姫さまが地面へ降り立つ。
「ありがとうございます。お別れですオズマさま。お世話になったことは決して忘れません。そして―――」
ペコリと頭を下げてから、俺を見上げてしっかりと微笑んで。
その頬を、もう血の涙は流れていない。
替わりに浮かぶ透明な涙は、溢れる端から宙にホロホロと溶けていく。
イーヴ姫の姿も一緒に白い光の中へと消えて行き―――最後に、泣き笑いのような声が、俺の耳の中に恥ずかしそうに響いた。
「―――さようなら、お父さん。シチゴサンのお祝い、してもらいたかったな……」
目を覚ます。
身体を起こせば、そこは食堂ホールにあるソファーの上。
ホールの中心にあるオープンキッチンでは、六腕巨人族のコック長が仕込みに勤しみ。
給仕娘たちはテーブルを拭いたり椅子を並べたり、床のゴミを丹念に拾って掃除したり。
俺にとっては親の顔より見慣れ光景だ。
なのに、まるで水底を覗き込んでいるような感じでフィルターがかかって見えたことに、違和感を覚える。
「なんだぁ?」
思わず目を擦れば、どういうわけか頬がびっしょりと濡れていた。
おいおい、寝ながら号泣でもしていたのか俺は。
そう言えば、なんだが酷く悲しい夢を見ていたような気が………駄目だな、まるで思い出せない。
しかし、大の男が涙で頬を濡らしている姿は情けないものだ。
服の袖で顔を拭うと、ようやく目の前の光景も落ち着いてくる。
「我、夢で蝶になるか。蝶、夢で我になるか……」
「旦那、それってどういう意味なんです?」
俺の呟きを拾ったのは、すぐそばに立つ黒衣の男。
いつの間にか俺の娼館に居着いている痩身の調子の良い野郎で、自称・半チク冒険者のサイベージだ。
「……要は、俺が蝶になっている夢を見たとする。ならば、蝶が俺という人間になった夢を見ている可能性もあるかも知れないって話さ」
「つまり、今こうやって話している旦那とあたしも含めて、この世界はどこかの誰かさんが見ている夢かも知れない。それで合ってます?」
「まあ、そういうこったな」
「いやはや、なんとも深いお話ですねえ。
仮にこの世界が蝶々さんの夢だとすれば、蝶々さんが目を覚ませば、あたしも旦那も消えてなくなる。そういうことですよね」
「……まあ、そうなるわな」」
荘子の胡蝶の夢、だったか?
俺も多分、学生時代に学んだはず。
だからといって、こちらへ転移して来る前―――元いた世界の知識だなんて説明できるはずもねえわな。
サイベージのやつは一見して極楽とんぼの風采なのだが、色々と聡い。
これ以上追及されるのは面倒くさいな、と急いでソファーから立ち上がったとたん足元がふらついてサイベージに支えられる。
「大丈夫ですか、旦那?」
「おう、悪いな」
「ここしばらく、少し働き過ぎですよ」
サイベージが心配そうに口にするが、そんなことを言われるまでもない。
最近の俺は文字通り寝る間を惜しんで駈けずり回っていて、食堂で寝落ちしてしまったのはその疲労のせいだ。
「―――全く、いっそこっちの方が夢だったら、この疲れも何もかも吹き飛ぶのによ……」
つい弱音を吐いてしまい、俺は慌てて頭を振る。
忙しいのは、何も下手を売ってその始末に奔走しているわけじゃない。
むしろ慶事が重なって、その準備やアレコレにてんてこ舞いなのだ。
そいつを夢だなんてことはあってたまるかよ。
まず、何が一番の慶事かというと、ウチの娼婦の身請け話がまとまった。それが一気に二人も。
娼婦は15歳で初めて店に出て、25歳までの10年間の年季勤めが一般的となる。
それが年季を明けを待つことなく、身請けしてくれた旦那の元へと嫁げるのだ。
苦界で生きる女たちにとって、最上級の祝着としか言いようがない。
続いてもう一つの慶事は、今ゆっくりと食堂への階段を降りてくるところ。
鮮やかな翡翠色の髪に同色の瞳。
小さな顔に白皙の美貌。
ピンと伸びた特徴的な長い耳も麗しい彼女は、俺の女房であるエルフのミトランシェだ。
そんな彼女の腹部が大きく膨らんでいる。もとの体型が華奢なため、なおさら大きく見える腹は、そろそろ臨月も近い。
腹の中にいるのは四十を越えて出来た俺の子で、文字通りのおめでたというヤツだ。
そして最後にもう一つめでたいことが………って、あれ?
あと何かもう一つめでたいことがあったはずなんだが。
周囲を見回す。
店の中には何も変化はない。
それなのに、妙に寂しいというか、胸の中がぽっかりと欠けているような、何かを忘れてしまっているような……。
バリバリと頭を掻いていると、怪訝そうなサイベージと目が合う。
「旦那、どうかしましたか?」
「いや、何でもねえ。きっと気のせいだな」
俺はパンパンと手を打ち鳴らし、周囲に気合を飛ばす。
「さあ、開店の時間だ!」




