第八章:ヨハン国へ
ホラストから発った王軍が合流を果たし、バレル一行は南へと移動を開始した。半月の間、斥候を出し、牙の侵攻軍の警戒に当たったが、特にこれと言った軍事行動は起こらず、予定通りの日程を消化していた。
既に、海特有の潮の香りがする。ベリオル最南端の港街が目と鼻の先となったとことで、斥候が一人、バレルの下へ向かってきた。
「どうした?」
素早い行動の為、軽装で身を包んだ斥候部隊が、一足先にヨハンに入り、状況を見てきていたのだ。
「ご報告致します。ヨハンの北部リリン、ヤルトに、船を確認致しましたが、牙の姿は無いようでした。すでに、撤退もしくはボルトまで下がったかと思われます」
船から降りる前に、陸地から攻撃を受けるのを心配していたが、それはどうやら杞憂に終わりそうだった。ならば、北側へ船を着け、そこから一気に進軍を開始出来る。
「そうか、ごくろうであった」
斥候を下がらせる。隣で馬に跨る少年が少女と話しているのを横目に、別の斥候を呼び、港の船に乗船後速やかに出航出来るよう、伝えてくるよう言い渡す。
これで、滞りなくヨハンまで渡れるであろう。
「さて、牙の本隊はどう動くだろうか」
少女を前に跨らせ、抱え込むように手綱を握っている少年翼伯が、バレルの言葉に反応する。
「牙の本隊?それほどに悩む程の戦力なのか?」
バレルは顔を顰めて頷く。
「うむ、軍事大国と言われるのは、その本隊の力があってのものと言っても過言ではないだろう。我らイェノブ五国にはない戦力を持っている。戦いにくい相手ではあるな」
翼伯は首を傾げる。
「我らの乗る馬は、敵を蹴散らすことは出来ても、鎧を裂く鋭い牙も爪もないだろう。牙の騎獣はそこが違う。馬並の速さを持つ獣に乗る。我らが正面から牙の騎獣隊とぶつかったなら、それだけで戦力の大半を失うだろうな」
翼伯の顔つきが変わる。
「待て、それをこの王軍二連ばっかしで立ち向かおうっていうのか?」
「いや、ヨハンに牙の本隊はいない。ならば、本隊が到着する前に少数精鋭で迅速にヨハンを解放する策にでる」
「しかし、ベリオルへの侵攻軍は既に撤退したんだろう?それなら、牙本国にも知らせは入っている。ヨハンに駐屯している兵を抑えようとしている間に、押しつぶされたりはしないのか?」
「上陸を気取られてはならないのが第一だな。そこから一気に進軍し、首都ヨハネスまで強行突破、そうすれば後はドルト王の意志が勝敗を決める」
呆れたように翼伯が息を吐く。
「あんたって、見かけによらず無茶苦茶だな…」
感情が面に出ないバレルがその時、珍しく口の端を上げて小さく笑った。
「さて、まだ坊主とホラストの奴らは着いていないみたいだな」
彼方まで広がる海を眺めて、体躯の大きい男が呟く。側には男と同じくらいの体躯の男が、うんざりとした顔で溜息をついていた。
「どうした弁天?潮の匂いに酔ったか?」
弁天はさらに大きく溜息を吐く。
「主上、あなたという人は一向に、言葉を理解できないようですね。この世に生を受けて何年目だと言うのです」
「もう二百を数えた辺りで、めんどくさくなってやめた」
主上と言われた人物、晩雪は弁天の溜息を気にも留めずに答える。
「あなたと言う人は、官達の反対を無視して、勅命をお出しになったかと思えば、すぐに宮殿を飛び出してしまう。ロクに指示もお出しにならないままです。それが、何かと思えば他国間の戦争ではないですか」
晩雪は弁天の方をちらりと見ると、肩眉を上げてにやりと笑う。
「それがな、そうでもないみたいだぞ?あの翼伯とかいう坊主は迅国出身だというからな。俺はあいつを気に入っている。剣客にはもったいないと思わんか?」
一瞬、弁天の目が点となり、その後すぐに大きな溜息を吐く。この王の下に仕えて、三百年が経とうとしていたが、年中無休で溜息を吐いている。それだけ、この王は王宮の悩みの種なのだ。
官僚達も弁天に何度も、縋り付いてきた。その理由がどうしようもなくて、思い出しただけで溜息が出てしまう。
「王の御璽が必要なのに、政務室にいない」
「朝議で王の意見を聞きたいのに、出席しないため、議案が通らない」
「仕事場に王が尋ねてきた。それだけならまだしも、茶をこぼす、寝始める、散らかし放題で、仕事が進まない」
「謁見の約を取っていたのに、王宮に姿が見えない」
三百年の間には、この他にも数え切れない程の話がある。しかし、それでもこの王は、類い希なる才能で傭兵国家を築き上げ、国には安寧をもたらして来ている。王宮では戯れの王、雑意の王などと言われていても、迅の民には親王、即ち親しみの王と慕われている。そう、慕われているのだ。
まず、基本的に王は民の前に現れない。しかし、晩雪王は基本という枠組みに囚われることを良しとしなかった。普通、民は王の顔を知ることはない。それは迅国でも同じであるが、晩雪は度々、迅国内を放浪し、歩いた後には彼は王だったと噂が立つ。
時には、農業を手伝い、傭兵として雇われ行商に参加したり、宿屋で日雇いの仕事をしたりと、各地を働きながら練り歩くのだ。だからこそ、国が分かっている。民の住みよい国を造ることができるのだが、それを官僚や弁天が認めてしまうと、晩雪は王宮に帰ってこないことになる。だから、放浪癖を持つ王に困っているのだった。
「ん、あれか、見えてきたぞ」
晩雪が海の向こうに小さい船らしき影を見つける。弁天もそれを確認すると、晩雪を見る。晩雪は弁天の方を見ないまま頷いた。
ゆらりと、蜃気楼のように弁天が揺れて、その場から消える。影臣の使える術の一つ、天移である。
時間が経つにつれて、船の形がハッキリとしてくる。ベリオルの船であると視認出来るまでに来ていた。晩雪の側で、もう一度蜃気楼のような現象が起きると、弁天の姿が揺れるように、しだいにはっきりと現れる。
「間違いありません。バレル将軍と翼伯殿を確認しました」
晩雪は頷くと、踵を返した。
「どちらへ?」
「ここに船を着けても、降りられんだろう。岸の方へ降りる」
そこは一歩踏み間違えれば、海に落ちるであろう断崖だった。弁天も納得したように晩雪の後に続く、こんなトコに船を着けては、崖をよじ登ることになる。
ヨハン国王ドルトは悩んでいた。牙がベリオルを撤退、アルマカでも牙はホラスト、アルマカ連合に押されている。既に、牙の王から圧力を受け、ヨハンの軍隊も動かざるを得ない状況になっていた。
何故、このようなことになったのだろう。
それは、三年前に遡る。
次回は、三年前のヨハンと牙の話となります。
物語自体の進展はありませんが、この戦いの根源となります。
まだ、構想は終わっていませんが、多少長くなると思います。