第三章:北の聖君3
ホラスト国将軍バレルは、三日間の航海を終えて、遂にベリオンの地に入った。ここから南に位置するセリオルまでは二日の行軍で済む。そこで物資を補給し、ヨハンを迎え撃つ形となる予定だった。
「こう見ると、ベリオンも穏やかな国なのだがな」
側にいる部下にバレルは話しかける。部下の名はビビット、少将の位を持つ軍人だ。ビビットは荷を運ぶ兵達に指示を出しながら、大柄なバレルを見上げる形で応える。
「えぇ、元は穏やかな国ですからね。しかし、南部の方には既に戦禍により焦土と化した街もあると聞きます」
軍人としては体躯に恵まれた体つきとは言えないビビットだが、機転の利く器用さと水軍、陸軍どちらでも動ける才を持ったことで五年前に叙将になり、破格の速さで少将まで昇った。年齢は二十五ほど。
「そうだ。だから王は我々を向かわしたのだ。このまま放っておけば、戦火は必ず、ホラストまで飛び火するだろうからな。しかし…」
バレルが神妙な顔でうつむき、ビビットがそれを尋ねようとすると、慌てた様子で駆けてくる斥候が目にとまった。
「バレル将軍!凶報です!!」
斥候の喘ぎともつかぬ大声に、バレルとビビット以外の兵士達も斥候に目を向ける。それをバレルが黙って作業を続けるようにと手で仕草をすると、兵士達は好奇の視線をちらちらと向けながらも作業を続ける。
「どうした、上陸したてで、凶報と叫ぶな。出鼻を挫かれるのは兵達の士気に関わる」
斥候は汗をしたたらせながら、その場に跪き、バレルに凶報と呼ばれた知らせを伝える。
「昨夜、セリオル南のラケーテン地方の街にて、ヨハンの夜襲が在ったと。住民はそのまま北へ退路を開き、そのままセリオルへ向けて逃走、半数以上が逃げきれたとありましたが、ヨハンは一度ラケーテンの街に駐留するも、明け方過ぎにセリオルへ進軍を開始致しました」
バレルの目つきが一瞬険しくなる。ビビットもバレルの表情に釣られたように、険しい表情を見せた。バレルはビビットに耳打ちをすると、踵を返し繋がれた馬の方へと歩き出す。
「荷は地に下ろさず、そのまま馬に持たせろ!急げ半刻で終わらせろ!!」
ビビットが大声を上げると、兵達の作業の手が早くなる。まだこの程度のことは予想されていたこと、だが急ぐに越したことはない。
「ここから、急がせても二日近くか…。ヨハンも三日はかからない。どこまで準備を整えられるかだな」
ビビットも踵を返すと、そのまま作業の手伝いをしに行った。
「ここまで逃げれば、とりあえずはどうにかなるだろうな」
バンセツは、共に逃げた百余の男達に止まれと合図を出した。街で戦ったときの半数程度まで減っている。それでも生き残った方だとバンセツは口に出さないが、そう思っていた。
「思ったよりも長い時間の足止めに成功したな」
この大人の中では、幼さが目立つ少年、泰翼伯がバンセツの隣で呟く。この翼伯と言う少年は戦いの時も、バンセツの側で今は背中に背負った長刀で敵を切っていた。太刀筋も動きも、その若さでは到底ありえない程のものを見せて、敵兵三十人を切り伏せていた。当のバンセツも腰に下げている一本の剣で、五十人近くを切り伏せていたのだが。
「俺たちもこのまま、セリオルまで向かう。そこでセリオルの奴らと協力してヨハンを止めるしかないだろうな」
翼伯を除いた男達は、疲労から来る溜息を深くつく。それも当たり前のように思えるのは、バンセツと翼伯の持つ武器以外まともな物はなく、そして、呪いの掛かったヨハンの武具には、男達の持つ鋤や鍬ではあまりにも無力だったのだ。そして、セリオルに行けば勝てるという保障もなく、それは男達の心に暗い影を落としていた。
「坊主、俺たちはこのままセリオルに向かうが、お前はどうするんだ?」
バンセツが隣の翼伯を見下ろして尋ねる。翼伯は眉を顰めて首を傾げた。
「お前の剣客としての仕事は、あの街で主を守ることだったろうに。そして主は逃げた。もう坊主の仕事は終わってんだぜ?」
納得したように頷く翼伯は少し考えるように俯き、そして北に向かって歩き出した。
「俺は仕事を探しにセリオルまで行く。運が良かったらまた会えるだろうな」
バンセツは口の端を軽く上げて笑うと、目の前で座り込んでいる男達を眺める。疲弊しきった男達に今の会話を聞いているものは少ない。なので、まだ到底動き出す気は無いようだった。
「お前ら!ここでのんびりくつろいでても埒があかねぇ。だったら、寝床のある場所で休んでる方が良いだろう?出発だ」
バンセツが北へ歩き出すと、一人また一人と気怠そうに起き上がり歩き始める。
王宮の廊下では官僚達が忙しそうに動き回っている。その姿を横目に政務室に入り、机の上に置かれた一枚の手紙に目を通す。それの内容は読まずとも分かっているものだが、読まないわけにもいかない。軍事大国である牙の親書であるからだ。
「ベリオル、アルマカの両国を近日中に制圧、その後北上しホラストへ…か」
そこに書かれているのは、今行われている侵略を急かすものだった。読み終えた親書を机に置くと、抽斗を開け、そこからもう一枚の手紙を取り出す。これは以前、ホラスト国からの使者が届けにきた親書だった。使者から直接受け取り、その使者には近日中にこちらから使者を出し、必ず返事をするとして、国に帰したが、きっとその使者も生きてはいないだろう。
突然、政務室のドアを叩く音がした。入れと促すと、青白い顔の男が姿を現した。この国の武官省長官のマレスという。
「陛下、この軍事的な侵略行為には他国の多くが反発を示しています。兵達にもこの侵略の意を分からずまま戦うことに、士気を保てぬ者が増えてきています」
陛下と呼ばれた男は、背もたれに深く体を預けると、大きく溜息を吐いた。流れる沈黙にマレスはやや困惑気味に男を見る。
「わからぬ」
マレスは言葉の意味が分からなかったように、もう一度聞き返す。
「わからぬのだよ。なぜ各国に進軍しているのか、これは完全なる侵略行為だぞ。我らヨハンは軍事産業を中心に栄える国故、それは軍事行動を起こされてもおかしくないと他国は考えておる。だから、それらの侵略行為自体には深い追求をしてこぬ。やっとしてきたのは、名君フェルノアのホラストだけだ。そこで理由を尋ねられてもわからぬのだよ」
マレスは一瞬視線を泳がせて、躊躇いを見せるが、意を決したかのように一度大きく息を吐いた。
「陛下、僭越ながら言わせて頂きます。これは牙による圧力によるものではないのですか?我らは牙の駐留を国内に許可しております。それがいつの間にか、首都周辺のボルトが牙の占有地になっておいでです。これは国土の六割を占めております。それでは本当に牙が我らの喉笛に牙を突き立てているも同様。それがおわかりなのに、なぜそれを他国に伝えないのですか。ドルト陛下!」
ヨハン国王ドルトは、マレスの言葉に深く頷く、しかしその表情は硬く、マレスの言葉に賛同したことではないと見て取れるものだった。
「我らヨハンは、まだ二国に降りたってすらいない。各地を制圧しておるのは、ヨハンを騙った牙の軍勢なのだ」