第二章:北の聖君2
正面に見える山々が低くなる陽を隠し始める。陽が傾くのをじっと見続ける少年はまだ十五、六といったところだろう。その背には不釣り合いなまでに長いえびらを背負い、その場に立ちつくしている。
「坊主、こんな所でなにをしてるんだい?もう明門が閉まるぞ」
少年は声の主に振り返る。声の男の名はバンセツと言う。少年よりも二回りも大きいが、そこに無駄な肉もなく、細身に見える体躯にはしっかりとした筋肉がついている。少年は黙ってバンセツを見つめる。バンセツもバツが悪そうな顔をして、早いトコ戻れ、と言うと明門の中へと入っていった。
「山が震えてるな…」
少年はバンセツを見送るともう一度、山の方を見て呟く。先程から山が小刻みに震えている。このラケーテン地方の街にも災いが降りてくるのだろうか、少年は踵を返すと明門へと入っていった。
「陛下、国軍二連及び王軍一連の二編隊、編成が完了しました。出撃の命が下されるまでは待機させております」
バレルがフェルノア王が政務を行う、一室を訪れて立て膝をつき報告をする。報告を聞いた王は、バレルに自分の向かい側の椅子を勧める。バレルが恐れ入りますと席に付く
「さて、国軍一万五千、王軍一万の部隊でヨハンと牙の両国相手にどこまで闘えるか」
フェルノアはバレルを見る。その視線をかわすようにバレルは下を向くが、それに応えた。
「多分、苦戦を強いられることにはなると思いますが、我がホラストは叙将より上の者達の軍には天命を下されております。兵の質はこちらの方が遙かに上回っていることは確実でしょう。一つ問題なのが、ヨハンの呪いを施した武器と防具ですね」
叙将とは兵達の位を指す。農民から懲役されたものを夫兵、兵学を卒業したものを兵卒、武官学を出たものを伍長、そこから練士、豪士、迫士、地長、空長、叙将、光将、少将、中将、大将、将軍の位がある。そして、天命というのは老いを十分の一にまで遅らせることの出来る力。それは三神島ゴエルとの契約を結ぶことで、受けることができる。そして、傷を癒す速さと身体が丈夫になる庇護を得られるのだ。
国軍一連は七千五百で成る。それは夫兵二千、兵卒三千、伍長五百、そこに士官及び地空長いずれかを千余り、そして将官の軍が千入る。
王軍は国王直属の軍隊で豪士以上が編成された一万の軍、叙将以上は三千余りいる。
「ヨハンは軍事産業が秀でておるからな。あちらの武具は天命を受けた者ですら死に至る傷を与えられる」
突然、フェルノアとバレルの下に一人の官が駆け込んできた。国旋官の者だと名乗るとヨハンに使わした使者の首が送りつけられてきたと言う。どうやら道は決まった。
「バレル将軍、すぐにベリオンとアルマカに兵を送れ、既に両国にはカイエルが報告を済ませている。両国と共闘し、ヨハンと牙を押し返すのだ」
バレルは席を立ち一礼すると、部屋を出て行く。バレルもこれからベリオン側へ王軍の総大将として戦列へ加わるのだ。
「カイエル、おるか?」
是、と返事がある。
「ベリオンのバレルには傭兵を雇い入れて戦力を補強するように伝えろ。ヨハンは完全平和主義を唱える、あそこから先に落としにかかるだろうからな」
御意、と短い返事とともに影が揺れる。それを王が待て、と止めた。
「まだなにか?」
「傭兵を雇うなら迅の者をなるべく選ぶようにと」
カイエルは何も言わずに、王の影ごと消えた。
夜も深まり、街が眠り静かになった頃、少年は不穏な空気に目を覚ました。山から音が聞こえる。雪崩のような地を揺るがす轟音だ。しかし、それはまだ遠く、轟音と言うにはまだ弱弱しかった。しかし、今の季節に雪が降るはずもない。北の国ホラストでさえ、雪が降り始めるには早い季節なのだ。
「ヨハンか…?夜襲とは田舎の街にやることじゃないだろうに」
少年は寝床から飛び起きると、側に立てかけてあるえびらを取り、外へ駆け出す。早いところ街の者達に知らせないと大惨事になる。すでに先程よりも轟音は近く、そして地を大きく揺らしているのだ。バンセツが遅れて飛び出してきた。
「どうした!この音は何だ!!」
少年は鐘台によじ登り、山を見る。そこにはたいまつであろう灯りが所狭しと並んでいる。山の木々が燃えているような光景だった。
「ヨハンが来たんだ!」
少年が大きな声で叫ぶ、そうしなければバンセツに聞こえないほど、轟音は近くまで迫ってきていた。少年が力一杯鐘を打つ。轟音を聞き出てきた者、鐘を聞き出てきた者で、街は次第に人が増えてきた。
「女子供、じじいばばあ共は逃げるんだ!!北へ行け!北部のセリオルに行くんだ!ついでにそこの奴らにもヨハンの進軍を知らせろ!」
バンセツは腰に下げている剣の柄に手を掛ける。迎え撃つ気でいるのだ。
「おっさん、あの数は無理だ!一瞬で飲み込まれる」
少年が鐘台から飛び降りて、バンセツの側に駆け寄る。するといつの間にか、周りにはそれぞれ鍬や鋤などの武器を持った男達が身構えている。総勢二百といったところだろう。
「分かっている。女子供が街を離れるまで抑えるんだ。そしたら、俺たちもずらかればよかろう」
少年から見たヨハンの軍勢は、この二百程度の農夫達を遙かに超えている。そして、軍人の塊なのだ。押し合うことはまず不可能だというのは言われなくても分かる。
「坊主も先に北へ向かえ、ここはそんなに保たんぞ」
既に、視界がヨハンの軍勢を捉えている。誰もが震える手足で身構えている中、バンセツと少年だけが平然と軍勢に目を向けている。
「俺は行かない。ここで雇われてんだ。だったら先に逃げた主の命を身命に賭して戦う」
少年は、背中に背負ったえびらの上部を取る。そこに剣のような柄があらわれた。
「傭兵か…。まだ子供なのに大層なもん背負ってんな。坊主、名前は?」
「泰翼伯、剣客だ」
ヨハンが明門を突破した。もう一人一人の姿が分かる距離に迫ってきている。バンセツが鞘から剣を抜く、翼伯はその剣のまごうことなき輝きに一瞬見とれた。このような場でなければ、もう少し長い時間見とれていたのだが、何分今回はその様なことが出来るわけもない。
「いくぞ!時間を稼ぐだけで良いからな!!全員死ぬなよ!!」
バンセツが迫ったヨハンの兵を剣で薙ぐ、伸びてきた槍を軽くかわすと、槍を持つ手を切り払った。農夫達も一斉に兵士達へ攻撃を開始する。
「お前ら、人の命を何だと思っている!!」
翼伯が柄を握りしめる。目の前にはすでに剣を振りかぶる兵、翼伯は身をかがめる。兵士が振り下ろしたときには、残ったえびらだけが宙を舞っていた。