1話 腐りかけの平穏にサヨナラを
夕暮れの迫る帰り道、中学校の制服を着た俺は一人で帰り道を歩いている。
うだるような暑さ、セミの輪唱に、吹き出る汗。
……これは今でもはっきりと覚えている、在りし日の追憶。
「ねぇ、清人」
背後から鈴を転がしたような、そんな声がする。声につられて振り返ると、そこには一人の女の子が立っていた。
ほっそりとした輪郭に、アーモンドのような焦茶の瞳。それと、猫の尾のような長い栗色の髪。
セーラー服を身にまとったその人物は、俺の幼馴染だった。
「清人は私の事、好き?」
悪戯っぽくそう尋ねる彼女に、俺の心臓はどくんどくんと高鳴る。
「ねぇ、答えて?」
あの時、俺はーー杉原清人は、なんて答えたっけ。
「ーー清人は私の事、好き?」
さっきまで煩かった蝉の声も、車の音も、何も聞こえない。耳の痛くなるくらいの静寂が二人の間に漂い始める。
そこまでは、はっきりと覚えている。
けれど。その時、俺が一体何と答えたのか。何をしたのか。
それだけが、思い出せない。
♪ ♪ ♪
「っぷぁ!!」
荒い呼吸のまま俺は飛び起きる。
次いで、先ほどまで見ていたものがやっぱり夢だった事を認識するとはぁと肩を落とすとため息を一つ。
「……なんだこの不完全燃焼感、折角のクリスマスだってのに」
寝ぼけ眼を擦ってみれば、視界に入るのは十二月二十五日を示すカレンダーの表示。その日付が意味するところはもはや説明不要だろう。
……俺は生まれてこの方世間一般でいうところの悪い事なんて一度たりともしたことがない。その自負がある。
で、あるからして。クリスマスという目出度き日なのだし、プレゼント代わりにさっきの追想をいい感じに補完してくれれば良いのに。
なんて、益体のない事を思いながら大きく深く呼吸する。
「……着替えるか」
こうして俺のーー杉原清人の一日は始まる。
♪ ♪ ♪
平凡な一日というものは何よりも素晴らしい。
両親と共に朝食の並ぶテーブルにつきながら、そんなことを思う。
「そう言えば、今日はクリスマスだな。清人はその、なんだ。気になってる子とか居ないのか? 大学生なんだし、女の子と気軽にお付き合い出来るのは今しかないぞ」
焦げ付くほどに鮮烈な希望も、胸に居すわり心を黒く染め上げるような絶望もない。穏やかで、ありふれていて、たまに息苦しさで窒息しそうになる、そんなごく平凡な毎日。
「生憎、大学入ってもそういうのとは無縁だからな。残念ながら、多分俺が末代だ」
「アナタ、朝からデリカシーないわよ。それともお弁当は日の丸をご所望かしら?」
「わ、悪かった。反省するからそれだけは勘弁してくれ……」
例えるならそれは、今齧っているバターを塗ったトーストに似ている。
美味いか不味いかで言えば、前者寄り。でも特段美味しいかと言われればそれは否。けど、毎日毎日飽きもせず食べている。それでいて、今まで消費したパンの枚数なんて一々記憶にもとめない。
無感動に経口摂取される一枚のバタートーストと、勝手に過ぎて行く平々凡々な日常。それに果たしてどれだけの違いがあろう。
「けど清人。好きな子がいるならアタックしときなさいよ。……後々になって後悔しないように。|BSS《僕が先に好きだったのに》は性癖の故障の原因になるって本に書いてあったわ」
「因みにその情報の出所は?」
「清人の本棚にあったラノベよ」
「息子の本棚を勝手に漁るなよ……」
「あら、共通の話題を持つのって大切な事なのよ? 話が弾まないのって悲しいじゃない」
「……」
けれど。だからこそ平凡な一日は、きっと大切なのだ。
「それじゃ、大学行くから」
「はーい、行ってらっしゃい」
「気をつけてなー」
ヒトという生き物は失ってから初めて失ったものの大切さに気がつくものだという。
けれど。
「外寒っ……って、誰だ?」
ーー大切だと分かっていて尚、それを失う理不尽に見舞われる場面は、確かにあるのだ。
玄関のドアを開けて一歩。視界に入るのは見慣れない青白い肌の女だった。そこまでは、まだ理解出来た。
ただその女は尋常じゃないくらいボロボロの黒いローブを身に纏っていて。そして、その手には……妄想の中でしかお目にかかる機会が無い、それこそ死神の持つような大鎌があった。
ああ、そうだ。死神。目の前の女はその言葉がピタリと嵌るような風体をしている。
「初めまして杉原清人。唐突な事で大変恐縮ですが――死んで下さい」
気付けば、それは躊躇なく俺に向かって振り下ろされていて。
「……は?」
ああ。
さようなら、平穏の日々。