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まったりペースで更新中です(開き直り……汗)
しばらく多助さんに撫でられてうっとりしてたら、多助さんは「さて、そろそろいいかい?」なんていうとあっさりあたいを膝の上からどかして去っていった。
「なんだい!あたいと会えて嬉しくなかったってのかい?」
あたいが追いかけてにゃーにゃーと文句を言っても、「すまんな、お鈴姐さんに報告しなきゃ」とか生返事をするばかり。お鈴ばばあとあたいのどっちが大事だってんだ。あたいは腹が立って腹が立って、多助さんの部屋に駆け込んだ。
(ふん。見てろ。)
多助さんと暮らして1年以上。何をしたら嫌がるかなんて熟知してる。あたいはふすまと障子をばりばりと引っ掻き、更に着替えや部屋中の至るところに小便をひっかけてやった。知ってるかい?猫の小便って臭いんだよ。しかも臭いが取れねえんだ。ちっとはあたいの気持ちを思い知れってんだい!
***
そしらぬ顔で近江太夫のところに行ったら、太夫はもう目が覚めていて、お鈴ばばあとの話が終わった多助さんがちょうど部屋に参上したところだった。
「多助、お疲れさんでありんした。苦労したのでありんしょう。」
「勿体ねえことでござんす。」
そう言って話し始めた多助さんの話をまとめると、相模のぼんぼんの掛け取りは一言で言って大変だったらしい。実家に匿っているのはわかっているのに、あの息子は勘当した、もう当家とは縁もゆかりもない、払う筋合いもないの一辺倒。だんだん路銀は底をついてくるし、お鈴は金を取り返すまで帰ってくるなというしで途方にくれたらしい。結局、その辺りの口入れ屋に仕事を紹介してもらい、武家の草履取りやら商家の下男やら、あらゆることをして宿代を稼ぎながら掛け取りに日参。とうとう根負けしたぼんぼんの実家が百両を叩きつけたところで帰ってきたそうな。
「郭の売り掛けは百両もあんしたか?」
「取り立ての路銀も含めて九十二両でござんす。八両は手切れ金と口止め料てえ言い種で。まぁ、あっしが路銀を自分で稼がなきゃもっと値上がりしてた訳で、キリのいいとこだったんじゃねえですか。」
「楼主は多助に労い金を渡しんしたか?」
「おひねりをいただきやした。あっしも多少あっちでの仕事で余剰金がでやしたし。」
「ならいいことでありんした。あちきからもこれを。タバコ代にでもおしなんせ。」
「ありがとうごぜえやす、遠慮なく。では、今日はあと休みをいただいておりやすんで。」
そんな会話を終え、多助さんが退出する。このまま部屋に戻るらしい。ヤバイ。
***
多助さんが部屋から出たのを確認して、多助さんの部屋に先回りして戻り、天井裏に潜む。
がらり、と障子が開き、やれやれ、と多助さんの声がして。
がたっ、と多助さんが我に返ったように立ち上がる気配がした。
「く、くせぇ!」
そう叫ぶと、ばたばたと辺りを確認する音がした。
「ミャウの野郎、やりやがったな!どこにいきやがった?!うー、くせぇ!」
障子を開け閉てし、わずかな家具をひっくり返し、軒先を除きこんであたいを探す音がする。あたいはドキドキしながら身をすくめた。
「あら多助さん、どうした……しんしたの?」
そこに、お信ちゃんが通りかかった。多助さんの様子がよほど切羽詰まっていたのだろう。心配そうな声だ。
「ミャウのやつ、俺の部屋の至るところに小便ぶっかけやがった。襖も障子もこの有り様だ。あいつ……」
「え?ミャウが?」
「猫の小便の臭いだしな。畜生……。ただじゃおかねぇ。」
「そんなはずないよ、多助さん。ミャウ、おいら……あちきとは絶対一緒に寝なかったんだよ。多助さんの部屋じゃないと夜は寝ないんだ。しょっちゅう多助さんの荷物くんくん嗅いで、切ない声あげてさ。……多助さんが帰ってきたさっきだって、あんなに喜んでたじゃないか。」
お信ちゃんは必死にいい募る。ってか、あたいの行動、お信ちゃんにバレバレじゃないか。こっ恥ずかしくて耳としっぽがへたっちまうよ。
「……ミャウが?」
多助さんの怒髪天をつくような怒りは、少しなりを潜めたようだった。
「そうだよ、もう見てられないくらいだったんだよ。多助さん、帰ってきてからなんかやらかしたんじゃないの?」
「何もしてねえぞ。ちょいと撫でてからはお鈴姐さんやら太夫と……」
「嘘でしょ、信じらんない、何にもしてやらなかったの?あんなに待ってたミャウに?」
そうだよお信ちゃん、このすっとこどっこいの唐変木にもっと言ってやれ。
「いや……」
「お鈴姐さんや太夫へのご報告が大事なのはわかるけど、それにしたって少しゆっくり撫でてやって、出がらしのかつぶしかなんかひとつまみやるくらいはできるじゃない!それはミャウだって怒るよ。」
「そんなもんか?しかし、これはなぁ……」
そっと覗くと、多助さんは途方にくれたような顔であたりを見回している。悲しそうな顔を見て、あたいはとたんに罪悪感に襲われた。
(やり過ぎた……。)
着替えは洗えば済むが、畳や襖はそうはいくまい。破れかぶれの障子は張り替えるしかなかろうし、布団に染み込んだ臭いはそう簡単には取れず、しばらく布団なしでごろ寝するしかないんじゃないだろうか。
***
結局、多助さんはその日の午後いっぱいを、旅で疲れた体に鞭打って洗濯をし、お信ちゃんから手習いのときに出た反古をもらってきては破れた襖や障子に内側から貼り付け、布団を丸洗いして干すことに費やした。
あたいはもう多助さんに申し訳なくって、でも邪険にされた悲しい気持ちもやっぱりあって、どうにも出ていけず、物陰や庭先からじっと多助さんを見てた。多助さんも疲れてるに違いないのに、なんてことしちまったんだろ。でも、あたいはあんな簡単にあしらわれるような軽い猫じゃねえんだもの。そうだろ?
全てが終わったのはもう日が傾いて西に沈む頃合いで、午後になって顔を出したお天道様が真っ赤に庭先を染めていた。着物は生乾き、布団はぽたぽた水を垂らすのをやっとやめただけだけど、夜になんのにそのまんま干しとく訳にもいかねぇってんでとりあえず多助さんの部屋の中で干してある。着物の枚数も大したことねぇけど、多助さんの部屋だって狭いもんで、やっと横になれるだけの場所だけが空いていた。
「ミャウ、ちっとこっちに来いや。」
ふう、とその狭い隙間に腰を下ろした多助さんが一息ついてからあたいを呼ぶ。
多助さん、怒ってるかな。
「どっか近くにいるんだろ?ったく、お前は昼間だってちっと見かけたと思ったら逃げやがって、でもまたちらちら様子見に戻ってきて。もう怒ってねえから、出てこい。」
ほんとかな。
逡巡してると、いきなりがらりと障子が開いて、こちらを優しく睨む多助さんと目があった。あわてて逸らす。
ずんずんと近寄ってきて、多助さんはあたいの脇の下に手を入れると目線の高さまで抱えあげた。
「ミャウ。このいたずらっ子め。」
あたいはいやいやをして必死に目を逸らすのに、多助さんがどこまでも除きこんで来る。横目でそっと盗み見ると、怖い顔を作っているけど、目が笑っていた。
「こんなことしたのはお前だろ?今日の飯は抜きだな。」
そんな殺生な!
今朝ねこまんまを食べてから、いろいろあってあたい、何にも食べてない。もうすぐ飯の時間で、腹がぐるぐる言ってる。あたい、必死ににゃーにゃー抗議した。腹が減ってんだい、そもそもあんたが唐変木のこんこんちきじゃなきゃあたいだってそんなことしようと思わなかったのに、このすっとこどっこい!
多助さんはにやにや笑ってあたいの抗議をしばらく聞いて、なんか芝居がかってうーんと考え込むようなそぶりをした。そして、一通り聞きおわると、ふと真面目な顔をしてこちらを覗き込む。
「なぁ、ミャウ。お前、俺に怒ってんのかい?」
そんなことない。ただ、相手されなくて悲しかっただけ。
「喧嘩別れみたいなあとに長えこと留守にして、帰っても相手もできなくて悪かったよ、ミャウ。な?仲直りだ。」
……なんでこの男は、こんなに簡単にあたいを許せるんだろう。許して、自分から謝れるんだろ。
あたいはたまんなくなって、多助さんの頬に一生懸命頬ずりした。会えなかった間にあたいの知らない臭いがついてた。いっぱい耳とか頬とか口とか擦り付けて、全部あたいの知ってる多助さんにしてやる。
多助さんはされるがままに、ずっとあたいに付き合ってくれた。
その日は、久しぶりに多助さんのねこまんまを食べて、多助さんにくっついて眠った。眠る頃には、多助さんはいつもの多助さんの匂いになってた。
***
その年の八朔。
暦の上では秋で、確かに夏の盛りは過ぎたが、まだまだ残暑の残る季節。つくつくぼうしが啼くこの日に、遊女たちは一斉に白無垢を纏う。
この日登楼できるのは、遊女が呼んだ馴染み客だけ。近江太夫も他の花魁たちも、水無月のはじめから衣装を誂え、文月の半ばからそれぞれに馴染みの客に手紙を書いて誘いかけ、多助さんたち男衆は江戸じゅうを走り回ってそれを届けて、準備万端整えていた。
八朔にお茶を引くなんて、そんな恥を花魁に掻かせる訳には行かない。そんな矜持で、馴染みの客も誘いに応えて来ようとする。それだけじゃない、白無垢の花魁が道中するのもこの日だけだし、どの廓を覗いても真っ白に涼しげで、八朔の雪と言われるこの艶やかな行事を一目見ようと、江戸じゅうから見物客が押し寄せてくる。吉原は暑さも相まっててんてこ舞いだった。
「ミャウ、こちらに来なんせ。」
近江太夫は白羽二重のつやつやした白無垢に身を包み、座敷の中から通りがかりのあたいを呼ぶ。昼見世はさっき終わったところで、二番目のお馴染みの旗本さまは家に帰ったらしい。武士の客は門限が厳しいんで割と昼に来る。夜は商人のお客が多いんだ。
「夜のお客様は尾張屋さまでありんす。尾張屋さんは縁起を担がれるのがお好きな方、八朔の日に桜花楼の真っ白猫が訪れればお喜びになるでありんしょう。ミャウ、また夜にご馳走を用意しておくので立ち寄りなんし。」
太夫はあたいに旗本の……松之助さまと言ったか、お客の食べ残した鯛の頭を振る舞ってくれながらそう言った。細かくせせればけっこう身がついてる。夜も鯛かな、縁起物だし。でも、尾張屋さんが居るときならこんなせせるような真似じゃなくて、身のでっかいとこをくれそうだ。あたいはワクワクしながら夜を待った。
***
日が落ちて、夜の帳が降りた頃。
太夫の元に顔をだすと、尾張屋さんはもう登楼してて、膳と酒を膝の前に、ほんのり赤い顔をして太夫の手をずっと握っていた。尾張屋さんは40がらみだが苦みばしったいい男で、そんなことをしていてもいやらしい感じはしない。太夫もわざわざ今日という日に呼ぶくらいだ、憎からず思っているんだろう、差しつさされつ、たまに目線を絡ませて笑い合う姿は本当に慈しみあっているように見える。
お座敷に呼ばれた芸者衆の踊りが一通り終わって、最初のご祝儀が配られる頃合いで太夫がこちらを見た。
「尾張屋さま、ミャウが。」
「おお、ミャウ。よく来たよく来た、こっちへ来い。」
そういうと、尾張屋さんはご機嫌に白身魚の身を箸でつまんで左右に振った。
跳んでくような無様な真似はしねえが、あたいはしっかりそれを見つめて……あれ、目が回るような。
「尾張屋さま、からかっちゃ可哀想でありんす。」
「いやー、目線だけで喰われそうに見つめてるからつい、な。」
気づいたら、魚を摘まんだ箸がぐーるぐると回されて、あたいはつられて獅子舞のように首を回していたらしい。照れる。
「すまんすまん、ほれミャウ、食べろ。」
尾張屋さんは、大きな鯛の半身の半分ほどをほぐして手元の皿に盛り、あたいに差し出した。あたいはもう夕飯のねこまんまを食べちゃいたけど、これは別腹、やっぱたまんねえね。そのあと、尾張屋さんと太夫に撫でてもらったり、芸者衆や幇間の芸事に交じってみたりして二人を喜ばせ、そのたびに尾張屋さんから褒美の刺身やかつぶしをもらう。このかつぶし、尾張屋さんがわざわざあたいのためにお店からもってきたんだってさ。あたいも花魁になれるかね?
やがて宴はお開き、尾張屋さんと太夫は奥の間でしっぽり。あたいは多助さんの部屋で仕事のあがりを待つ。
そのときだ。
「火事だ!」
「楓楼が燃えてる!」
そんな声とともに、鐘の音がせわしなくカンカンカンカンと鳴った。楓楼って、桜花楼のすぐ隣で、春と秋のふたご楼と呼ばれてる廓じゃないか。
ただでさえ人の多い八朔の吉原。もう、客も女郎も脱ぐもん脱いで、生まれたての姿になってる刻限。楓楼はぼんぼん燃えていて、もう阿鼻叫喚の様相になってた。
「尾張屋さま、近江太夫、こちらに!」
多助さんの声が聞こえる。お客様、特に金払いのいい太客に傷をつけるわけにはいかねぇ。それに、太夫は稼ぎ頭。太夫さえいれば、桜花楼はいくらでも再建できる。それから、二番手以下の花魁たちと客、並行して楼主やお鈴ばばあ、などを男衆が手分けして誘導し、逃がし終えたころには、桜花楼の建物は真っ赤に天を焦がし始めていた。
それでも、客たちはもちろん、お信ちゃんをはじめとした禿たちや、花魁の一人も欠けることなく空き地に避難したのを確認し、あたいはほっと息をついた。多助さんたちががんばったおかげだ。
肝心の多助さん、……多助さんはどこだろう。
「お鈴姐さん、大変!多助さんがいない!」
「え?さっき最後に出てきたろう。」
「違うんです姐さん、多助はミャウが見えねえって。猫は魔性だからもう逃げてるよって俺は言ったんだが、多助が戻ってみるって。」
何やってんだい!
そんな会話を聞いたあたいは、にゃんともいわずに桜花楼だった場所に駆け戻った。廓はもう原型をとどめないほどに燃えていて、近寄れないほどだった。
『多助さん、多助さん!!』
あたいは声の限りに鳴いた。そのとき、真っ黒こげの何かが桜花楼だったところから飛び出してきて、あたいを抱きしめた。体中が熱かった。
「ミャウ……お前、逃げてたのか。良かった。」
『良かったじゃないよ、このすっとこどっこい!何やってんだい、あたいなんか先に逃げてるにきまってるだろう!』
「元気そうでよかった……俺ぁ、もう長くねえな。こんだけ焦げちまえば。」
『何気弱なこと言ってんだい、皆のところに行くよ。ほら、火がまた迫ってきた。』
「俺ぁ、もう動けねえよ。ミャウ、幸せになれよ。」
『あんた置いて行けるわけないだろう。』
「ほら、行け。」
『嫌だよ、あんたがいない世界なんてあたい生きてる意味ないよ。』
「行かねえのか?もう火が近くに来てる。……お前、俺と心中してくれんのか。」
『あんたが助かる気がないのが悪いんだろ。』
「ミャウ、お前が来てくれて、俺の世界は……俺は場末の女郎の息子で、どうしたって日の目を見ねえ育ちで、桜花楼に拾われてもできねぇ奴で、何の希望も色もなかった。お前を見たとき、どうしたって自由に生きてるお前がうらやましくて、きらきらして見えたんだ。」
煙にゲホゲホとせき込みながら、多助さんはそんなことを言った。
「お前が俺のところに来てくれて、初めて世の中捨てたもんじゃねえって思えたんだ。一緒に住み始めて、ますますお前の気高さに、計算のない無邪気さに、きれいなその姿に、俺ぁもっともっと惚れた。猫相手におかしいのかもしれないが、本当に俺ぁお前に惚れてた。お前がいなきゃダメなんだ、俺ぁ。」
『多助さん……』
「だから、お前が幸せに生きてくれたらそれだけでいいんだ。」
それだけ言うと、多助さんは満足げに目を閉じた。何なら微笑んでいるように見えた。
『多助さん!多助さん!』
あたいだって、あんたに惚れてたよ。
最初はなんてドジで間抜けで、でも一生懸命な変な奴、としか思ってなかったけど。
一緒に暮らし始めてから、どんどんしっかりしていって、楼でも頼られるようになっていって、あたいの世話もしっかりしてくれて。
けっこういい男じゃねえの、って思って、……いつの間にかなくてはならない奴になってた。
多助さんを置いてくなんて考えられなくて、あたいは多助さんの身体に縋って鳴いた。そのうち、そのあたりまで火が回ってきて、あたいは気を失い、……たぶん、そのまんま命を落とした。
100年生きたら化け猫になるっていうけど、全然無理だったね。
反古、反古紙……書き損じなどをして不要になった紙。
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大変長らくお待たせいたしました。
なんとか今話で江戸パートを終わらせようとしたら、けっこう大量に(笑)
これからもまったりペースで進めていきますので、よろしくお願いします。