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すんごい間が空いてしまいました……
あれから、1年とちょっと。あたいは、すっかり桜花楼の看板猫として廓に居着いた。
桜花楼の真っ白猫、って評判になり、廓の売上も上がったらしい。桜色の首輪に可愛らしい音で鳴る鈴をつけ、座敷に顔を出すと、大抵猫っ可愛がりされて、花魁や客に撫でられたり、おまんまを貰ったり。たまに嫌がる客もいるけど、そういう客のきている部屋には禿や男衆が座って、あたいが来ると追っ払うから、あたいもすぐに心得て行かないようになった。遣手のばばあも、この子は招き猫だって、すぐに下にも置かない扱いになった。
あたいといえば、うまい猫まんまとふあふあの籠が忘れられなくて、多助さんにべったり。それで、あたいの世話は多助さんの仕事の1つになった。
多助さんからは毎日2回猫まんま。ちゃんと客に出す汁の出汁がらの鰹を使った、旨いやつだ。それに、お客さんから刺身やら煮付けやら。その辺を歩いていて追い払われることもねえから、日向を見つけちゃー安心して寝る。でも、あのふあふあの籠が一番のお気に入りの寝場所だ。
夜は多助さんが帰ってくるのを部屋で待って、真夏じゃなければ多助さんの布団のなかで寝る。寝てばっかりだって?猫は寝るのが仕事さね。
唯一嫌なのは、あたいが外で虫取なんかして遊んできて、そんときに藪のなかとか床下とかを通ってたりすると、禿や男衆がめざとく見つけて騒ぎ立てることだ。
「多助さん!ミャウが真っ黒!!」
「おう。……ほらミャウ公、こんなに真っ黒じゃ花魁の座敷にゃ出れねえぞ?」
多助さんはそう言ってあたいを取っ捕まえ、井戸端へ。そんで、ばしゃん!と井戸水をぶっかけてごしごし洗う。毎回逃げようとするんだが、普段頼りないくせに、このときばかりは引っ掻いても噛みついても手を離さねぇ。
***
吉原の春といえば、桜並木だ。
桜並木と言ったって、一年中桜の木が植わってる訳じゃねえ。冬枯れの桜を仲通りに置いとく、なんて興の醒めることをしちゃ、天下の吉原の名が廃るってもんだ。春になると植木屋が桜を植え付け、一夜にして吉原は桜の名所となる。この時期は江戸じゅうの男どもはもちろん、近隣から遠出してくる男や、昼間なら女もおおぜい花見に来る。桜花楼は中籬だから客もそう太客はいないし、近江太夫でも道中には縁がないが、大籬のお職を張るような花魁の道中は提灯に映えてほんとにきれいで、何度見ても見飽きない。
「天女さまみてえだなぁ。」
あたいが毛繕いをしながら花魁道中を見ていると、こっそり多助さんがやってきて、あたいの頭を撫でながらため息のような声でそう言った。日がくれてからの廓の裏方は目が回るようで、サボってる暇があるとは思えないんだが、その辺、割とちゃっかりしてるらしい。
そんなことを考えて、ちらっと横目で多助さんを眺め、……あたいはちょっとむっとした。
多助さんは、完全に花魁に目を奪われている。魂を抜かれたような、そんな風情で、あたいを撫でながら心ここにあらず……
「なんだい、早く仕事に戻んなよ!」
あたいは多助さんの手から逃れて、多助さんに文句を言った。多助さんは、「お?腹でも減ったか?」なんて言ってる。
ぷいっ、と振り切って、廓の外に向かいながら、あたいはよくわからないもやもやに、気持ちがちくちく刺されていた。
***
結局その日は廓には帰らなかった。あの、籠を持って多助さんが神社であたいを探してた日以来、初めてのことだ。
朝方まで神社の床下……は、行ってみたら狸のねぐらになっちまってたんで、軒下をちょいと借りた。もうだいぶ暖かいし、そんくらいでもなんとかなるだろってんでうとうとしてみたんだが、日がくれてぐっと冷える春の陽気に、じめじめした冷たい土。四方を囲われてるわけじゃない軒下は、風が吹いたらそのまま、あたいの体温を奪っていく。……多助さんの暖かい布団、ゆっくりあたいを撫でる大きいごつごつした手、あたいを覗き込む多助さんの穏やかな顔、そんなのが夢うつつに浮かんでは、はっと目が覚める。
結局あんまり寝れないまま、あたいは夜明けを迎えた。あのときみたいに探しに来たら、どうしてやろう。寄っていってなんかやるもんか。あたいを撫でながら他の女に見蕩れるなんて、失敬な。
……昼近くまで神社でそんなことを考えて待ってたんだが、多助さんはもちろん、禿の一人だって来やしねえ。腹は減るしくしゃみは出るし、あたいはちっと業腹だったけど、何でもないような顔して昼過ぎに廓に帰った。
***
「よう、ミャウ公。昨日はどこいってたんだ?多助が気にしてたぜ。……なんだおい、真っ黒猫になってんじゃねえか、洗ってやるよ。」
廓に戻ったとたん、男衆の五助に、首根っこを持ってつまみ上げられた。多助さんの柔らかい抱き上げ方と全然違う。五助は見た目もごっつくて、男衆の仕事もするが用心棒みたいなこともやるんだ。
「やめとくれ、痛いじゃないか!!」
あたいは必死に暴れたが、多助さんでも抱えられたら逃げらんないのに五助から逃げるなんて無理無理!だ。首根っこからぶら下げられたまんま、井戸端に連れてかれて、ばしゃん、ごしごし。容赦ないったらありゃしない。多助さんにされるのだって好きじゃねえが、随分優しく扱ってくれてたんだなと、あたいは変なところで感心した。
それにしても、あたいを洗うのはずっと多助さんの仕事だったはずなのに、どこに行ったんだろう?
その疑問は、五助からびしょ濡れのあたいを受け取った禿により明らかになった。
「多助さん、おいらの姐さんのお客の掛け取りに行ってんだ。ミャウ、もうちょっと待ちなね。」
禿……お信ちゃんはそう言いながら、あたいを手拭いでごしごし拭いた。この子は、暇があるとあたいを構いに来る猫好きで、二、三年たつと匂うような美少女になるだろうと内々では評判の、近江太夫の秘蔵っ子だ。
近江太夫の掛け取り、と聞いてぴんときた。この前の太夫の客は、相模の国の大店の息子という触れ込みで、様子もいいしお得意の但馬屋さんのご紹介ってのもあって、とんとんと通いからしまいには居続けて行ったんだ。それが、太夫に惚れ込んだとかで持ち金も使い果たし、但馬屋さんもいつしか愛想をつかし、それでも太夫、太夫と一方的に恋い焦がれて、どうしようもなくなったと聞いてる。
無論、金が払えないような客をいつまでも食わせておけねぇ。お鈴ばばあが火鉢の前にどんと座って、吉原で惚れたはれたというなら、おあしを揃えてからにしろ、と、慇懃無礼に申し上げて但馬屋さんまでこの前送っていったはずだが、但馬屋さんも食わせるくらいならともかく余所の道楽息子の道楽代まで払うことはないから、道楽息子の借金については相模まで取りに行ってくれと言ってきたんだろう。そんな借金とりや、花魁衆の手紙を相手に届けるのも男衆の大事な仕事の一つだ。
じゃ、四、五日は多助さんは帰ってこないだろうな、と見当がついた。今朝迎えに来なかったのも、多助さんが朝早く、暗いうちにに発ったからで、他意はないだろう。あたいはふっと息をついた。
「ミャウは多助さんが帰ってくるまで、おいら……あちきがお世話すんだ。えっと、よろしゅうおたの申しんす!」
「おうよ、頼むよ!」
あたいはにゃあと鳴いてそう返事したが、お信ちゃんは分かったかどうか。
***
その夜、あたいは多助さんの部屋で一人、籠に入って寝た。お信ちゃんは料理人に手伝ってもらってあたいにねこまんまを一生懸命作ってくれたし、廓の中もいつも通りで、あたいは好き勝手歩き回り、花魁や客に可愛がられ、刺身や焼き魚を貰って、腹がくちくなれば廊下の端やなんかで毛繕いをして休んだりしてた。
ところが、だ。
夜はお信ちゃんが布団に引っ張りこんでくれたんだが、なんだか寝られなかった。匂いがちがう、暖かさがちがう、大きさが違う。いつもはごつごつした手に撫でられて気持ちよく寝入ってたんだ。お信ちゃんが細い手で撫でてくれるのも悪くないんだが、なんか違うんだ。
あたいは、お信ちゃんが寝入ってから――いくらなんでも、撫でてくれてんのにぷいっと居なくなるような無愛想はできねえ――そっと彼女を起こさないように布団を出、誰もいない多助さんの部屋の、あの籠に入って寝た。
しっかり寝たのは二日ぶりだ。夢も見なかった。
***
翌朝、慌ててあたいを探しに来たお信ちゃんに起こされて、いつもの毎日が始まった。
お信ちゃんは、あたいの世話だけじゃなくて禿の仕事もあるし、むしろそっちが本業だ。廓の期待の秘蔵っ子であるお信ちゃんは、手習いやら踊りやら行儀作法やらに加え、和歌や漢籍、お茶、お花、碁、果ては帳面つけまで、ありとあらゆることを仕込まれてる。将来、どんなお客のどんな話にも対等以上についていけないとすぐに愛想を尽かされちまうからだ。それに近江太夫の身の回りの世話やらお使い、妹ぶんの禿の面倒まで見てるんだから、ものすごく忙しいんだ。あたいもそれは知ってたけど、どこにでもついてきてほしそうな風情のお信ちゃんにくっついて1日吉原じゅうを走り回ってたら、目が回りそうになった。
その翌日からは、お信ちゃんには悪いけど自由にさせてもらった。だいたいどの時間にはどこにいるか分かったしね。腹が減ったり、撫でてほしいときはお信ちゃんがいそうなところに行ってねだればいいんだ。寝るのは二日目から、籠になったしね。
そうやって何日も過ごした。この時代、四、五日が七、八日になることくらいよくある。あたいは気長に待ってた。
でも、十日たっても二十日たっても帰ってこないとなると話は別だ。もう吉原に桜はない。散り始めたらさっと抜いちまうんだ。それどころかじりじりとお天道様が梅雨前の一踏ん張りをはじめ、皆が単の着物が着られる日を心待ちにするようになりはじめてからも、多助さんからは便り一つなかった。お鈴ばばあには来てたのかもしれねえが、あたいに分かるわけもなし。
あたいは多助さんの部屋の中でぐるぐる歩き回り、僅かな多助さんの着替えや布団の匂いを嗅いでは気を紛らわせてた。お信ちゃんや、お信ちゃんから様子を聞いた近江太夫は心配してくれたけど、そんなことよりあたいは多助さんが心配で心配で。旅の途中で行きだおれてんじゃねえか、悪いやつに騙されて路銀がなくなっちまったんじゃ……そんなことを考えては、違う違うと首を振る。その頃はそんな毎日が続いた。あのとき、ぷいっと行っちまって、あたいったらなんてバカだったんだろ。ちゃんと甘えときゃよかった。
***
多助さんが戻ってきたのは、紫陽花の花が雨に濡れそぼる梅雨のある日だった。
「ただいま戻りやした。」
蓑笠に足拵えも旅姿の多助さんは、げっそりやつれて見えた。飛び付きたいけど濡れるのは嫌だ。とりあえず濡れない程度に側に寄り、多助さんの顔を覗きこむ。あたいの記憶にあるよりずっと日焼けして、目がぎょろりとしてみえた。
「お帰りなさい。あら、ミャウはもう気づいてたの。流石ね。」
「おうお信ちゃん、元気にしてたかい。太夫はおいでかい。あとお鈴姐さんと。」
「うん、ありがと。太夫はいまお昼寝してるよ。お鈴姐さんは帳面つけてる。」
「じゃ、まずはお鈴姐さんのところへあがろうか。」
「ミャウに先にかまってあげたらいいのに。ずっと待ってたのよ。多助さんの部屋から動かなくて。」
「そうなのかい?そりゃ嬉しいや。」
そういうと、多助さんは蓑笠を脱ぎ、手甲を外して雨を拭うとあたいに手を伸ばす。あたいは飛び付いて頭を擦り付けた。
「多助さん、帰ってきてくれてよかったよう。あたい、心配で心配で。」
「おうおう、ミャウは可愛いなぁ。」
そう言って撫でてくれる多助さんのごつごつした手は、やっぱり記憶と違って少し骨ばっていたけど、あたいはそのなつかしい感触にしばし身を任せた。
そしてまだまだ終わらない江戸編。
次話には終わるはず。