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お待たせしました。

ある、秋の日のことだ。


ピューピュー冷たい木枯らしの吹く日で、……あたいは多助さんにおまんまを貰えるようになってから飢えることはなくなっていて、ちょうどその日は朝から桜花楼(おうかろう)の一階の屋根で日なたぼっこをしながらうとうとしてた。


二階座敷の窓から、ちょいと手を伸ばせば届くような場所だけど、そんなことする奴は誰もいないから、まったりこんとしてたわけだ。


その日の近江太夫――桜花楼の一番売れっ妓が代々継ぐ花魁名だけど、そのときの花魁の本名はお涼さんといった――のお客は、居続けのぼんぼんで、名は慶之助。あとからわかった話だけど、薬問屋の三男坊の放蕩息子で、親は早々にお店の手伝いにするのは諦めて、そいつにゃ家作をやって、店賃で食ってけるようにしてやってたらしい。家作の管理は差配さんがやってくれるし、ぼんぼんは何を悩むこともなく、どっぷりと近江太夫に入れ込んでいた。


ただこの慶之助、金払いはそれなりにいいが、品性がなってねえ。揚代を払うのを笠に、男衆はもちろん、花魁や禿、果ては楼主にまで無理を言う癖、おひねりの1つもやらないから、みんな客だからってんで煽てあげるけど、心のなかじゃ蝮みたいに嫌ってた。あたいだって例外じゃない。桜花楼の猫って訳じゃあないが、そんなもんは以心伝心、伝わるもんさ。


「おう、近江太夫。」

「はい、なんでありんしょう。」


おっとりと答えた近江太夫は、あたいから見るとちっとびくびくして見えた。昼もなく夜もなく責め立てられて、他の客の座敷に呼ばれて出りゃあ髪を引っ張られ、「そんなに他の男がいいか、この淫乱」と狂乱してみせての折檻じゃ、そうなるのも無理はない。


遊女は寝るのが仕事、そんな理屈は慶之助には通じやしない。それどころか、一丁前の間夫(まぶ)のつもりでいるらしい。なのに、金はある癖、落籍(ひか)す気配もない。ほんとにどうしようもない奴だよ。


「タバコ盆をおくれ。」

「タバコをお吸いになりんすか?」

「いんや、お前が浮気をしないよう、おっぱいに焼き印を入れてやろうと思ってね。」


近江太夫は青ざめた。この男のことだから、やるといったらやるだろう。遊女の手管のひとつに入れ墨はよくあるが、ほんとにやったら仕事にならないから墨で書いたりすんのが当たり前。それに、場所も腕なんかで、まちがってもそんなところに入れたりしない。


「主さん、それは困りんす。」

「いいから持ってこい。なんだ、この廓は客にお運びをさせんのかい?」

「あちきは遊女でありんす。そんなご無体は」

「お前、せんに俺に惚れたと言ったのはありゃ嘘っぱちだった、てえことかい?」

「それを言いなまんし。あちきには他に客もいんす。」


近江太夫は手練れの花魁だが、あまりのことに壁にある紐を引いた。じきに男衆が駆け付けてくるはずだ。客の恥をさらすようなもんだから、普通はこんなもんはないが、慶之助が無体を言うようになってから楼主が取り付けた。まだまだ近江太夫には稼いでもらわなきゃならねぇ、あんな男に殺されちゃたまんねぇ、ってさ。


「いいから寄越せ。」

「おやめなんし。」


我慢がしきれなくなった慶之助が、目の前の火鉢から灰掻き棒を取り、火鉢の火の上に置く。花魁をねじ伏せ、裸に剥く。


「やいのやいのうるせぇ。タバコで勘弁してやるのはやめだ。」

「いやぁーーー!!」


花魁の悲鳴。灰掻き棒は赤く色が変わってきた。男衆は間に合いそうにねぇ。あたいは、もう見てられなくなって、全身の毛を逆立てて飛び上がると、慶之助の背中に爪を立てて飛び降りた。近江太夫にはこっそり魚を貰ったことだって何度もある。猫に一宿一飯の恩がないって訳じゃあないんだよ。


「このやろう!」


慶之助は邪魔されたことに腹をたて、真っ赤になった灰掻き棒を振り上げてあたいに殴りかかる。あたいはひょいひょいと逃げた。廓に居続けのうらなり瓢箪に負けるミャウ姐さんじゃあねぇ。慶之助が振り回した灰掻き棒で、部屋のなかはむちゃくちゃだ。そんな中、


「近江太夫、失礼いたします。あけますよ。」


少し慌てたような……実際慌ててたんだろうが、多助さんの声がして、襖が開いた。あたいはそっち側の部屋に駆け込んだ。


「慶之助さま、いかがなさいましたか。」

「どうもこうもねえ、そこのどら猫が俺にいきなり飛びかかりやがった。見てみろ、背中が血だらけだ。成敗するから捕まえろ。」


血だらけなんて大嘘の嘘っぱち。ちょいと赤い筋がついただけだ。


「慶之助さま、それにしてもお部屋が……」

「たかだか中籬の女郎屋の座敷なんざ、いつだって修繕の金くらい出す。いいから早く猫を寄越せ。」


まずい。客と男衆じゃ、立場が違いすぎる。あたいだって灰掻き棒で殴られちゃたまったもんじゃないから、こっそり次の間から階段に出ようとした。


そのときだ。

がばり、と音がするような勢いで多助さんが頭を下げた。


「あいすみません。この猫は、わっちの守り神で。こいつを殴るんなら、あっしを殴っておくんなさい。」

「それが望みならそうしてやらぁ!」


慶之助がまだ赤みの残る灰掻き棒を振り上げ、降り下ろそうとしたそのとき、近江太夫がその手を掴んだ。


「主さま、おやめなんし。猫ならよくても、男衆は楼主が黙っちゃおりますまい。」

「うるせぇ、お前が殴られてぇか、遊女の分際でっ」


そのとき、何事かと様子を見に来た遣り手ばばあが口を挟んだ。


「おやおや慶之助さま、近江太夫を傷物にしたら、太夫の借金、全部耳を揃えて払ってくださいねぇ。」

「なんだと?」

「太夫の借金、まだ大半が残ってますからねぇ。傷物にされちゃあ商売あがったりだ。」

「……生意気な口、聞きやがって。」

「おっと、この座敷も、こうまでぐちゃぐちゃにされたんじゃあ大工を入れないと。お(たな)に今日までのつけと、この座敷のことを書いて多助を使いにやりますから、つけのお金と一緒にお迎えにいらしたお店の方と一旦おうちへお帰りいただいて。お座敷がきれいになったら太夫から手紙(ふみ)を寄越しましょうよ。」

「金、金、金か。亡者め。」

「ここは吉原、恋も情も金次第の色里でありんすよ。あぁ、大工の払いはそちらにおつけしますから、お払いになってからご登楼くださいねぇ。」


あたいは、遣り手ばばあに惚れそうになったね。そのあと、遣り手ばばあが居続けのつけと座敷の修繕のお代だけじゃなく、近江太夫がお座敷なしでお茶を引く間の揚代やら、座敷の造作をこの際豪快に格上げするための工事賃なんかも慶之助のお店につけて寄越したときいて、ますますすかっといい気持ちになったもんだ。


***

「さて、お前さんたちの話を聞こうじゃないか。」


思わぬことでそろそろ古くなってた座敷の改装ができることになって、それと近江太夫が別の客につくことができるようになってホクホクの遣り手ばばあは、そこそこご機嫌なようだ。一通りの後始末をつけた後、近江太夫と多助さんを遣り手部屋に呼んで、ことの次第を聞きただすことにしたらしい。慶之助につけた揚代?取れるとこから取るってぇ遣り手ばばあのやり口で、太夫は自分の座敷がない間は、別の座敷で客を取るに決まってる。


「慶之助さまが、あちきのおっぱいにタバコで焼き印を押すとお言いなんして、押し問答になりんした。そこに猫が割ってはいって……。」


太夫がきびきびと答えていく。太夫は客にはおっとり話すが、もとは貧乏御家人の娘の下町育ち。けっこうちゃきちゃきとした妓なんだ。


「じゃあなんだい、多助は猫を庇って灰掻き棒で殴られるところだったってかい?お前はどこまでとんちきなんだろうね?」

「でも姐さん、そのおかげで座敷も血で穢れんせんし、姐さんも間に合いんした。それに、猫が割って入りんせんしたら、多助さんも間に合わず、あちきはおっぱいに焼き印を入れられるところでありんした。あちきもこの猫が殴り殺されちゃ、夢見が悪うありんす。」

「……ミャウは、廓の守り神のお使いかもしれやせん。」


多助さんが遣り手ばばあと太夫の会話に割り込み、二人にぎろりと睨まれてびくっと居すくんだのがわかった。でも、多助さんは引き下がらなかった。


「お前がその野良猫に入れ込んでるのは知ってるけどね。」

「お願いさんでございます。これから、どんどん寒くなります。台所の隅なり、こいつの……ミャウの居場所を作ってやっちゃくれますまいか。」

「嫌だね、こんな汚い畜生のいる廓なんて聞いたことないよ。うちは客商売だよ?」

「あっしがきれいにしてやりますんで。この通りで。」

「お前の頭なんざ、いくら下げられたって一銭にもなりゃしないよ。」

「お(ねげ)えします。」


多助さんが床に這いつくばって頼む。あたいは、そんなことされなくても結構いいねぐらを確保してるし、冬は冬でこれまでだってどうとでもしてきたんだから、なんて思いながらも、ここまで必死になってくれることにちっと感動もしてた。


「あちきからもお願いしんす。猫といえば招き猫、客商売には縁起もの。」

「太夫までなんだい。」

「その猫はあちきの恩人でありんす。」


太夫の口添えもあり、あたいはその日から桜花楼の……正確には、多助さんの飼い猫になった。

お読みいただき、ありがとうございました。


廓ことばも時代によって変わってきますし、本当は「○○太夫」というのは吉原初期の頃の位で、「花魁」とは時代が違うらしいのですが。

……雰囲気と勢いでご容赦ください。


もう1、2話、江戸時代が続く予定です。

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