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昔々、ある貴族の娘が魔女として森に追放されたことがありました。彼女の髪は凍てついた銀世界のごとくに白く、瞳は毒花のような紫色だったのです。銀髪に青い瞳を持つのが当たり前であったその家の貴族たちは、彼女を魔女だと恐れ、疎み、大人になる前に森に捨ててしまうことにしました。
そうして森に捨てられた彼女の行く末を、誰も知ることはありませんでした。不吉を呼ぶ魔女を、不幸な娘の行く先を、誰も知ろうとはしなかったのです。
きっと腹を空かせた森の狼に食べられてしまったのだろう。誰もがそう思って彼女のことを忘れていきました。けれど、彼女は生きていたのです。
魔女として疎まれた彼女は、大地を包む雪のような白い髪を風に弄ばれ、菫のような瞳を涙で濡らし、森で暮らしていくことにしました。
もしお姫様として生まれていたなら、と魔女は涙を流します。もし、お姫様として生まれていたなら。そうしたら、白馬の王子さまが迎えに来てくださったでしょうか。
しかし魔女はお姫様にはなれません。白馬の王子さまの代わりに魔女を迎えに来たのは──。
***
「魔女さん、洗濯物なら僕がするよ」
「あまり無理をしないで」
彼が来てしまってから、二人分に増えた洗濯物。それを植物の蔓で編んだ篭に入れながら、魔女は男性に「体は平気なの?」と尋ねる。彼女が男性を見つけたとき、彼は酷い怪我をしていたのだ。切り傷、擦り傷、火傷まで。骨が変な方向に折れていたりしなかったのが幸いというべきなのか。何をしたら森のなかでそうなるのかは賢者たる魔女にも全くわからなかった。切り傷と擦り傷は森のなかでは付き物だ。しかし、火傷とは? 肩と左足に刺さっていた矢も気になる。しかしその理由を訪ねても彼は「何でだろうね?」と首をかしげるばかりだ。はぐらかしているのか、怪我を負ったショックで一時的に記憶が飛びでもしているのか。魔女にはわからない。
「もうそろそろ本調子かな。魔女の薬って凄いんだねえ、もう火傷のあとも見当たらない」
「褒めてくれてありがとう。……体が治ったら、ここから早く出ていくのね。クルースニクのお兄さん」
「おや、冷たい」
「……知らない男性を長々と家に泊めたい女がいると思うの?」
「身元不明の怪しいクルースニクを助ける魔女がいるくらいだからねえ」
長々と家に泊めたい女性もいると思うよ。
アイスグレーの瞳を細めて、クルースニクの男性はゆったりと笑った。そう思いたいならそう思えばいいわ、と魔女はあきれる。呆れた魔女の顔をみてクルースニクは「あっはっは」とおかしそうに笑った。「そんな女性がいないのなんて分かっているとも」と。
「……恩を返したいんだよ。僕がクルースニクであっても」
【クルースニク】。それは化け物退治を生業とする者の総称だ。彼らは吸血鬼、人狼、魔女や悪魔などの人に悪さをするものを退治してまわるのが仕事なのだという。
悪魔などに誘惑されぬよう、真面目でしっかりとした性格のものが多い──と魔女は聞いていたが、目の前にいる男性は真面目とは遠そうだ。どこか胡散臭く、けれど人懐こそうな笑みを向けてくる男性から目をそらし、魔女は小さくため息をついた。
なんでこんな人間を拾ってしまったというのか。しかも、よりによってクルースニクを。魔女である自分にとっては鬼門だろう。
けれど、ぼろぼろの状態で森に倒れていたのだ。運ばれてきたときにあんなひどい有り様で、助けないという選択肢がない。
彼の看病も一段落した頃、魔女は彼の所持品をあらため──それから、彼がクルースニクだろうと確信してしまった。身に付けている装身具がすべて銀製であったこと、それから武器にも銀が使われていること。この二つが大きな理由だった。
装身具に銀製のものが多いのは気にならないが、武器にまで銀を使っているとなるとクルースニクの確率はぐっと高くなる。そこに加えて銀の弾丸やら、小瓶に入った水やらが入った小袋を所持していたのだから、もはや楽観視する余地はない。持ち物の整理や壊れたものはないかなどと、親切心を出すんじゃなかったと後悔したのは、彼がクルースニクだと気づいたあとだ。
奇妙なことに、彼は自分を助けた相手が魔女と知っても態度を変えたりはしなかった。それが魔女にとっては不気味にも感じられたのだが、拾ってしまった手前、体の調子が万全でないものを森に放り出すのも気が引けてしまって今に至る。
「……正直なところ、貴方が怖いの。いつ私を……火炙りにする気なのかわからないもの」
「怪我人の僕を怖がる必要なんてある?」
何言ってんの、とけらけらと笑ってクルースニクの青年は「火炙りになんてしないよ」と魔女の手にそっと触れた。
「君が信じてくれるまで、何度でもいうよ。助けてくれた人にそんなことはしない。いくらクルースニクでも、そんなに不躾なことはしないよ」
「……どうかしら」
「【クルースニク】を信用できないなら、僕を……【オスカー】を信じてよ。君に嘘はつかないから」
「言葉だけ受け取っておきます」
触れてきた手を静かに払い、「治ったら出ていって」と魔女は繰り返した。深く知り合ってしまっては、互いのためにならないのは魔女が一番よく知っている。あの時もそうだったんだから──と唇を噛み締めた魔女の心情を察したのか。
男性の方もそれ以上は言葉を重ねることもなく、大人しく外へ出ていった。洗濯物がよく乾きそうな、いい天気だった。
「……信用されるのが大事かなあ」
なかなか手強そう、とオスカーはため息をつく。気を失っている間にクルースニクだと気づかれたのがまずかった。怖がらせるつもりもなければ、世話をしてくれた魔女をどうこうする気もない。オスカーの体が動くようになってから何日もたつが──或いは体が動くようになったせいか──、魔女は未だに自分を警戒しているようだった。ため息が出てくる。
「なんとかお礼が出来たらいいんだけど」
息も絶え絶えで道に倒れていた自分を助けてくれたものを、どうして害することが出来るだろう。
ため息をつきながら魔女が昨日着ていたシャツを、スカートを、或いはエプロンを木々の間に張ったロープにかけていく。魔女の薬を褒めたのはお世辞でもなんでもない。思ったことをそのまま言っただけだ。三日前は動くのも一苦労だったのに、今は思うように体が動くのだ。火傷で突っ張るだろうと恐れていた背中も、矢が深く刺さっていた左足も、今は見違えるようだった。魔女の薬ってすごいなあ、とオスカーはまた口にしてしまう。
自分のために貸してくれた男物の麻のシャツを、魔女のシャツの隣にかけた。ぼんやりと、ばたばたと風にはためく服を眺める。
「……男物の服があるってことは」
良い仲のやつでもいるのかな、とため息をつきそうになった。なんでため息つきかけてんの、と自分に言い聞かせ、空になった籠を手に魔女の家へと戻る。お疲れさまです、と声をかけてきた魔女にはひらひらと手を振って返した。
「ロベリアの言葉なんて真に受けたつもりじゃなかったんだけどなあ……」
何の気なしに呟いたそれに、魔女の娘が反応したように見えた。どうしたの、と尋ねたオスカーに「何でもないです」と魔女は返す。そう? とオスカーは首をかしげた。大きな独り言だったから、驚かせたのかもしれない。
しばらくして、魔女は薬草や木の実の入ったザル、すり鉢とすりこぎをもってテーブルへとやって来る。小さなテーブルはそれだけでいっぱいになってしまった。何をするのだろうとオスカーは魔女を見つめる。
「……薬。火傷の薬が無くなりかけていたから」
これから作るの、と魔女はすり鉢に薬草や木の実を入れていく。すり鉢に落ちた木の実はからからと軽い音をたてた。ノーチが逃げるようにして去っていく。
「ノーチはこの匂いが嫌いみたいで。あなたも嫌だったら、別の部屋に行ったほうがいいかも」
「ううん。これ、僕に塗っていてくれた薬でしょう? 作り方を教えてもらってもいい?」
「作り方を?」
「うん。……その、ずっとここにいられるわけではないようだから……」
「そうね」
また火傷したときに使いたいんだけれど、と控えめに申し出たオスカーに、そういうことなら──と魔女も頷く。あんまりにあっさりしたその態度に、オスカーはがっくりとしてしまった。期待していたわけではないが、少しくらいためらってくれても良いじゃないか、と。だが、仕方ない。魔女にとってはオスカーは間違いなく警戒すべき対象なのだから。
「すり鉢の方を押さえていようか。それとも、僕が擦った方がいい?」
「作り方を知りたいというなら、今は私が作るのを見ていて」
すり鉢だけ押さえていてくれれば、と魔女がいうのに頷いてオスカーはごりごりと潰されていく薬草を見つめる。確かに鼻につんと来る匂いが漂い始めた。レモンと薄荷を混ぜたような匂いがする。嫌いな匂いではないが、猫には辛いのかもしれない。白い狼のアガニョークは、オスカーと魔女を遠巻きに見つめていた。やはり匂いが気になるのだろう。それでもアガニョークがその場を離れようとしないのは、魔女の近くにオスカーがいるからだ。やはり警戒されている。優秀な番犬だ。アガニョークは狼だけれど。
「まずは材料を細かくすりつぶすの。……それから、布巾にすりつぶしたものを包んで、汁を搾り取って……」
うん、と頷きながらオスカーは魔女の顔をそっと見つめていた。作業に集中しているのだろう。オスカーの視線が向いていることなど、魔女は気付きもしなかった。自分がクルースニクでさえなかったら、とオスカーは思う。
自分がクルースニクじゃなかったら、彼女はずっと一緒にいるのを許してくれるかもしれないのに。ずっとこの小さな顔を見つめることが許されたかもしれないのに。オスカーは初めて、自分がクルースニクであることを恨んだ。