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ベビーリング、とニックは繰り返す。
ベビーリング、とソルセリルはうなずき返した。
ソルセリルのいう【落とし物】。そのいきさつをニックが聞いてみれば、なんだか納得がいくようないかないような、そんな話だった。
「……じゃあ、何だ? その落とし物……ベビーリングの持ち主を探しに行ったってのか。……わざわざ? あの森に?」
「こんなにも連絡がないのが変ですが、恐らくは。君、彼が探し物をしていたのは知らなかったんですか? 君に真っ先に聞きそうなものですが」
僕やルティカルよりも顔が広いでしょう、とソルセリルはニックに問う。彼はクルースニクではあるが、普段は身分を偽って主に貴族や王族相手に商売をする『移動商人』として暮らしている。ていの良いカムフラージュだ。
『国や世界のあちこちを回る商人としてならば、クルースニクとしての役目も果たしやすい』
──などと口にするのがニックの常。『クルースニクらしくない』などの多少の難癖も、それで押し通してきたのがニックというクルースニク。
が、実際のところは少し違うだろうなとソルセリルは睨んでいる。女性と遊ぶのが好きな彼のことだ。本当にクルースニクらしくないと思うが、移動商人としての生活はさぞかしたくさんの女性と知り合えることだろう。そんなわけで彼は顔が広いのだ。
「聞かれなかったぞ? ……ああ、いや待て。その頃はちょうどこの国にいなかったのか。そうそう、一月前にこの国を出て……半月前に帰ってきたんだよ。聞くとか聞かねえとかの話じゃなかったな? 会ってねえ。うわー、タイミング悪かったな……」
「──ああ、君って人は!」
「タイミング悪いのは俺のせいじゃないだろ……」
分かっていますよ、とソルセリルはため息をつく。ただの八つ当たりだ。そんなのはソルセリル自身にもわかっている。
「ぶつかった拍子に……って話なら、相手の顔も分かってんじゃねえのか。そのぶつかった相手がどこの誰なのか調べれば、あいつが今どこにいるのかも分かるだろ」
「……それはそう、なんですけどね」
「何だよ」
珍しく奥歯にものがはさまったような、煮えきらない態度を見せたソルセリルに「何だよ」とニックはもう一度繰り返した。なんか不味い相手なのか? と促せば、ソルセリルは眉間に思い切り皺を寄せる。
「君を信頼して話します。……知っているのは今のところ、僕とルティカルだけの話なんです」
「……キナ臭い話ってことでオッケー?」
「ええ。胸くそも悪い話ですよ」
ソルセリルの話にニックの顔つきが変わる。友人としての君を信頼して話しますよ、とソルセリルは前おいた。
「前提として。君はメイラー家が守り続けてきたしきたりを知っていますね?」
「あれだろ。青い目に銀髪ってやつ」
「ええ」
【メイラー家】とは、一様に銀髪碧眼であるべきだ──というのがそのしきたりだ。それは、婿入りや嫁入りをするものにも適用される。血を混ぜるときにでも重視されるのがその要素であり、銀髪碧眼ではないものはメイラー家のものとなることはできない。ニックも銀髪に青い瞳を持っていたから、メイラーの血筋のご令嬢には何度となくお誘いをかけられたことがある。面倒事はパス──と何度も断ってきたが。
「では、僕に姪が……ルティカルに妹がいたのは知っていますか」
「……それは初めて聞いた」
「でしょうね。知っているのはルティカルの両親とルティカル自身、それから僕くらいなものでしたから。……友人の君にも話せないほどのことが……その子にはあったのです」
ソルセリルと友人関係にあるニックだが、ルティカルの両親とも仲が良かった。ルティカルの父であるランテリウスとは幾度となく冒険のような、無茶の過ぎる旅に出たことも度々あったし、ルティカルの母のサーリャとは共に馬を走らせる仲でもあった。
その二人がニックに隠すほどの秘密があったということ、つまり娘がいたというのが驚きで、ニックはしばらく何も言えなかった。一時期この国を離れていたことがあったから、その時にサーリャが身籠ったのだろうか、などと妙に冷静になってしまう。
ルティカルが産まれて──以前のような冒険や馬の遠乗りをしなくなってからも、幾度となく彼らの家に訪れたことがあるのに、娘がいる雰囲気などいっさい感じなかった。徹底的に隠していたということなのだろう。
「隠すほどのことがあったのか?」
「ええ。誰にも知られるわけにはいかなかったんです。……その子は、青い瞳を持っていませんでしたから。メイラー家でありながら、紫色の瞳をもって生まれてしまったんです」
その話にニックが何も言えないでいるうちに、ソルセリルは言葉を重ねた。
「青い瞳を持たなかった子がどうなるのか……。君にわかりますか、ニック」
大方の想像はつく。捨てるか殺すかだろう。瞳の色が青くなかったばかりにそんな目に遭うのは理不尽としか言いようがない。ニックの表情をみてから、ソルセリルは話を続ける。
「それでも。……青い瞳を持たなくても。ランテリウスとサーリャはその子を出来るだけ生かせるよう、厳重に隠して育てたんです。屋敷の地下に部屋までつくって。そこに立ち入れるのは両親と兄のみ。姉の……サーリャの腹から、その子を取り出したのが僕だったから出来たことです……少なくとも、産まれてすぐに──なんてことにはならずに済んだ。別の者があの子を取り上げ、瞳の色に気づいたのなら。その場で殺していたかもしれません」
ニックは押し黙るしかなかった。
「ランテリウスが逝去するまでは、すべてうまくいっていました。けれど、彼が亡くなってから彼女の存在が明らかになってしまったのです。当然、殺すか捨てるかを姉は迫られました」
「……捨てたのか」
ええ、と静かな答えが返ってくる。それしかなかったのだとソルセリルは続けた。
「いかな当主の娘であれど、因習からは逃れられなかったのです。僕も止めに入りましたが……しきたりを固持してきたあの一族だ。押し通せばどうなるかわかったものではなかった。姉と甥の二人の命と、姪一人の命。──自分でも下劣で品性に欠けた行いをしたと思っています。けれど、けれど……天秤にかけたときに重かったのは……」
「分かった。もういいよ」
ソルセリルの顔を見ていれば、どれだけ後悔したのかも、その判断をしてしまった自分を、未だに恨んでいるのかもよくわかる。だからこそニックは最後まで言わせたくなかった。友人として。
「その……ベビーリングの持ち主がお前の姪なんだな?」
「オスカーがぶつかったときには顔は見えなかったそうです。ですが、髪の色は見えたと。彼は銀髪か白髪だと言っていましたが、おそらくは」
「そういうことなんだろうな。──一応聞いておくが、本当にそのベビーリングはその子のものなのか。よく似たベビーリングを、たまたま白髪の娘が持っていただとか、そういうことはないのか」
「あのベビーリングは、メイラー家の者だと示す意匠でした。身の証を立てるときにも使うくらいですから。見間違えはありません」
ルティカルも同じものを持っています、とソルセリルは頷く。ルティカルのベビーリングには、彼の瞳と同じで矢車草のような青のサファイアがとめられているのだそうだ。そして、捨てられた子のそれは、菫のような紫色のアメシストがとめられている──とソルセリルは告げた。
「メイラー家は……森に子供を捨てました。森番のいる、あの森です。あの子が捨てられる前にも一人捨てられていたのを……僕は覚えています」
***
──森の魔女が人間を拾ったらしい。
──親に捨てられたか、あるいは孤児か。
──いやいや、人の青年という話だ。
──魔女も珍しいことをするものよ。
──あの魔女は変わり者さ。
──肥らせて食うつもりかね。
──悪魔にしてしまうのかもしれないよ。
森を一陣の風が吹き抜けていく。木々のざわめきに紛れ込むように、烏の噂話が流れていく。また下らない噂話を、と菫色の目を細めて、魔女はふっと息をついた。暇をもて余すとすぐにこれだから、烏は嫌なのだ。
口を開けば噂話か、他の生き物の陰口か。
そんなことだから神に体を黒くされたのだろう。闇より深いという地獄の沼に逆さまに沈められ、体を染められたのが烏という生き物だ──というような話は、各地に残っている。魔女は神をそこまで信じていなかったが、闇より深い地獄の沼に烏を沈めたくなる気持ちは理解できた。
「魔女さん?」
烏の言葉を理解しない人の青年が、ニルチェニアの背中に声をかける。お家にいて下さいといったでしょう、と魔女は振り向いた。ごめん、とオスカーがばつが悪そうな顔をする。「いい天気だったから、外に出たくなっちゃって」。
「……まだ、体が本調子とは言えないんですから」
「とはいえ、薬草摘みに水汲みまで。それから毎日の家事。……世話を焼いてもらっている身だし、僕だってたまには動かないと。体が鈍っちゃうからね。重いものくらいは僕が持ってもいいと思わない? 帰りは僕がそれを持っていこう」
「……そうね。お願いします」
にっこりと笑みを浮かべるオスカーに、ニルチェニアはため息をひとつ。言い出したら聞かないのをこの数日で学んだ。
オスカーはどことなく胡散臭い青年ではあるのだが、ニルチェニアを騙そうというような素振りは見せない。だからこそ、対応に困る。魔女に親切なクルースニクなど、居て良いわけがない。いるはずもないのだ。それなのに。
澄んだ水がたっぷりと入った桶を持ち、オスカーは「早く家に帰ろう」とニルチェニアに声をかけた。貴方の家ではないのだけど、と呆れた魔女はもう一度ため息をつく。ニルチェニアの二度目のため息に臆することもなく、オスカーは「帰ろうってば」と無邪気に笑った。そうね、と魔女は小さく返す。篭にいっぱいに摘んだ薬草が、爽やかな香りを漂わせていた。
適切な処置を施して数日もすれば、身体も自然と良くなる。
身体が良くなれば動きたくなるのだ──とオスカーはニルチェニアにいった。だからこそ、ベッドに寝てばかりの生活は嫌だ──とも主張した。
「今まで気づかなくてほんとに申し訳なかったけど、僕が寝てたせいで君は別のところで寝なきゃいけなかったわけだし……。このベッドは明け渡して、僕はかけてしまった面倒のぶんだけ、君に何かを返したいんだ」
一人ぶんしかないベッドにオスカーが寝てしまえば、ニルチェニアが寝る場所は無いも同然だ。別の部屋に敷物をしき、そこで眠るのが最近のニルチェニアだった。幸い、アガニョークとノーチも寄り添ってくれるから体が痛くなることも、寒くなることもない。床で寝るのも案外悪くないかもと思い始めたころだった。何しろ、ベッドに横になるときはアガニョークに寄り添えないのだから。
「紳士として最低の行いだと思ってるんだよ、魔女さん。……女性を床に寝かせて自分はベッドだなんて……」
「紳士である前に怪我人でしょう」
怪我人を床に寝かせるのは私の望むところではありません、とニルチェニアが口にすれば、オスカーは「見栄くらい張らせてよ」と苦く笑う。見栄で体を悪化させられても困るの、とニルチェニアは【紳士】をじろっと睨んだ。
「貴方はクルースニクなんでしょう? 早く良くなって、早くこんなところから出ていかなくちゃいけない人よ」
「……ここにずっと居たいって言ったら?」
オスカーの言葉にニルチェニアは首を振る。
「ここは魔女の家なのよ。……貴方には、相応しくないわ」
オスカーからは何度もこれと同じような言葉を聞いた。ニルチェニアはその度に似たような意味の言葉を返した。
オスカーの口にする言葉は真摯にきこえる。けれど、なぜそれを口にするのかニルチェニアにはわからなかった。魔女たる自分にオスカーが何をしたいのか。どんな目的でそんな言葉を口にするのか。
ニルチェニアには皆目見当がつかなかった。
オスカーはその度に残念そうな顔をする。
その顔の意味すらも、ニルチェニアにはわからなかったのだ。自分を惑わせようとしているのか。油断を誘おうとしているのか。油断を誘おうとしているのならば何故、オスカーはいつまでも諦めずに同じ方法でニルチェニアと距離を詰めようとするのか。
──ニルチェニアにはわからない。オスカーが自分を見つめるとき、どうしてそんな優しい顔をするのかが。