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──割れた小瓶。銀の小さな塊。金で出来たペンダント。
普通の人間にはそういうものにしか見えなかっただろう。しかし、ニルチェニアは【魔女】だ。先代の魔女から手解きを受け、その逝去と共に【魔女】を引き継いだ者だ。それが形だけだったとしても。だから、助けた男の腰鞄から出てきた、細々としたそれらが何であるのかにもすぐに思い至ってしまった。
──聖水の瓶。銀の銃弾。金の護符。
そのどれもが【闇に親しむもの】──つまりは、怪物に向ける武器や魔除けの品物、その類いのものである。服装からしてそうではないかと疑ってはいたものの、ニルチェニアの嫌な予感は的中したらしい。彼はクルースニクだった。
──【クルースニク】。
つまるところ、魔女の天敵。
彼があのベビーリングを拾ってくれていたということは、きっとあのときあの町でぶつかった男性に違いない。ニルチェニアがベビーリングを無くしたことに気付いたのは、その男性とぶつかった後だったから。それならば彼は、ぶつかった拍子に地面に散らばったものを一緒に拾ってくれた男性なのだろう。
ニルチェニアが彼の鞄の中身をあらためたのは、やましい気持ちがあったからではない。ちょっとした親切心だったのだ。
いつかは手放さなければと思ってはいたものの、ニルチェニアにとってあのベビーリングは自分にとって一番大事なものだった。それを拾ってくれていた相手だからこそ、鞄の中身になにか問題があったら、補填しておいてあげよう──という気持ちがニルチェニアにはあったのだ。相手の素性が全く気にならなかったかと言えばそれは嘘だが、持ち物から相手の素性が判別できるとも思ってはいなかった。彼がクルースニクであると知ってしまったのは、偶然だったのだ。
アガニョークが男を助けたのは、もしかしたらニルチェニアの匂いのついたベビーリングを彼が持っていたからかもしれない。ニルチェニアの持ち物を持っていたから、彼をニルチェニアの知り合いだと思ったのだろう。主人の知り合いがひどい有り様で転がっていたなら、アガニョークとて見捨てるわけにはいかなかったのだと思う。
実際は、彼はニルチェニアの知り合いでもなんでもなかったわけだけれど。
鞄の中身をみたきり、何も言えなくなってしまったニルチェニアをアガニョークは見つめている。心配そうだったその瞳に、何でもないのよとニルチェニアは笑った。アガニョークもニルチェニアも、もちろんこの怪我だらけの男性も、誰も悪くない。なにか悪いのだとしたら、それはニルチェニアの都合とタイミングだけだ。
「……隠し通せは、しないでしょうね」
彼らが本当に【善の象徴】であるのなら、魔女たるニルチェニアをどう扱うのだろう。命を救ったという建前こそあれ、彼らにとって魔女は滅ぼすべき存在なのだ。
ニルチェニアは人に悪さをした覚えは全くないが、そんなのはただの言い訳と切り捨てられてしまえばおしまいだろう。
願わくば、自分の正体が彼に気付かれませんように──。
そうは願っても、こんな森に一人で住んでいる時点で「魔女です」と申告しているようなものである。治ったらすぐに出ていってもらおうとニルチェニアは心に決めた。クルースニクの方とて、魔女の家に長く厄介になろうなどとは露ほども思わないに違いない。最悪の場合は錯乱の魔法でも何でもかけて、町へ送り返してしまえばいいのだ。
オスカーが再び目覚めたとき、声をあげるよりも先に腹の方が鳴った。うわっ、と思わず赤面する。身体の感覚からして何日間か寝込んでいたような気がするものの、それにしたって正直すぎる身体だ。聞かれていないだろうなと一人気まずくなっていれば、オスカーの寝ているベッドの傍らに陣取っていた狼が吠えた。
「……お腹、空きましたか」
狼の鳴き声に反応して、炊事場の方から顔を覗かせたのはあの女性だ。そう広くはない家とはいえ、オスカーの腹の虫が鳴いたのを彼女はしっかり聞いていたらしい。
「うっ……ごめん、やだなあ、恥ずかしい」
「お気になさらず。ずっと寝たきりでしたし。……お腹がすくのは、とても良いことと思います」
きっと、オスカーが目覚めたときのために作ってくれていたのだろう。消化に良さそうな、野菜の形が溶けるほどよく煮込まれたスープがオスカーのもとへ運ばれてくる。ぐう、とまた腹が鳴った。正直すぎる体に嫌になる。人前でこんな音を立てるのは、少しだけ残っている貴族としてのプライドが何だか傷つく気がした。まるで、飢えているみたいで。
恥をかいている上に迷惑までかけてしまっているが、女性の方はとくに嫌な顔もしない。なんてありがたいんだろう、とオスカーは木匙でスープをすくう。女性が食べさせようとしてくれたが、さすがに辞退した。片腕はいまだに使えないものの、もう片方の腕には何の問題もないのだから。使える方の腕を使えばいい。
「何から何まで……本当にありがとう、見知らぬ人間にここまで出来る人なんてなかなかいないよ。本当に助かった」
このスープ美味しいね、とオスカーが顔を綻ばせれば、女性の方も小さく笑みを浮かべた。私もこの味が好きだったの、と。
「私を育ててくれた人の──私の親のレシピです。昔、これをよく食べて。たくさん栄養がとれるから、今のあなたにぴったりだと思いました」
「そうなんだ……。ああ、優しい味がするなあ。久しぶりだ、こういうの」
貴族に生まれてしまえば、めったなことでは【家庭料理】などにはありつけない。それでもクルースニクという役目があるオスカーはそこそこ【家庭料理】には馴染みがある方だった。時と場合によっては町の大衆食堂で食事をすることもあったし、なんなら出店で買い食いをすることもあった。貴族でありつつもクルースニクであるというだけで、随分と俗っぽい生活をして来たのだ。だから、こういう料理自体は珍しいとは思わない。
人の生活に紛れ込む【闇に親しむもの】を退治する身だ、同じように人の──普通の人間に混じった生活をしなくてはならないときもある。大衆料理ならそこそこ食べなれているオスカーでも、久しぶりに食べた味だった。温かくて優しくて、空腹には涙が出てくるほど美味しい。
「随分落ち着いたよ。ありがとう」
すべて食べ終わり、オスカーは満たされた気持ちで女性に礼をのべる。身体の痛みも随分とよくなってきていた。すべて目の前の女性のおかげだ。
「ねえ、君の名前は?」
「……名乗るほどの名を、持ち合わせてはおりません」
にこりと笑って女性はオスカーに頭を下げると、そのまま炊事場へと下がってしまった。変なことをいってしまったろうかとオスカーは首をかしげる。女性に歳を聞いてはならぬときつく言われたことはあったが、名もその類いだったか? 何だか急に警戒されたようにも思えるのだ。
「ねえ、君たちはあの子の名前を知っているんでしょう?」
教えてくれないかなあ、などと白狼の背中に陣取っていた黒猫に声をかけてみる。猫とは思えないほど貫禄のある、でっぷりとした身体だが──案外素早い猫なのだと、オスカーはさっき気がついた。オスカーの腹の虫に驚いたときのこの猫は、びっくりするほど俊敏に狼の背から飛び降りたからだ。あの女性がスープを運んでくる頃には、白狼の背中に元通りになっていたけれど。重そうな猫だが、それを背中にのせている白狼は怒りもしない。親切な狼なんだなと、そんなことを考えた。
しかし、見た目に意外なほど俊敏な猫であろうが、親切な狼であろうが、オスカーに返ってくるのは猫と狼の鳴き声である。
──にゃあ。
──ぐるるぅ。
世話をしてくれている子の名前など、わかるはずもない。
***
「ねえ。そういえば、落とし物をしたんじゃない」
寝台に寝かせていた男性にそう声をかけられて、ニルチェニアは一瞬、何のことかわからなかった。僕の服の胸ポケットに入ってるんだけど、と続けられてベビーリングのことかと思い至る。
「その指輪、君のじゃないかな。僕がぶつかった子と、君の背格好は似ているし……声もそっくり。綺麗なその髪は忘れようったってなかなか忘れられないし」
「……やっぱり。あのときの方だったのね」
「うん。無事に届けられて良かったよ。──すごい迷惑をかけちゃったけど」
まさか、とニルチェニアは寝台に横たわる男性を見つめる。わざわざ届けに来たというのか。この、魔女と獣が棲むと言われる森に?
「……恐ろしいといわれているこの森に……わざわざ? つまりその……これを返しに来るために?」
探るようなニルチェニアの物言いに男性は苦笑いする。それから、どこか決心したような顔で「クルースニクだからね」と静かに告げた。
「魔女が出ても獣が出ても、まあ……どうにかなると思ったんだよね。実際は、魔女に会う前にボロボロになっちゃったけど」
──【魔女】。
それは、からかいやその類いで選んだ言葉ではないだろう。口調こそそれらしかったが、男性のアイスグレーの瞳に揶揄の色はない。やはりわかるものなのか、とニルチェニアは諦めた。相手はクルースニクだ。嘘を吐き通せるような相手でもない。素直に認めた方がまだましだろう。
顔色を変えることもなく男性を見つめ返したニルチェニアに、クルースニクの男性は「驚かないんだね」とにっこり笑った。
「僕の正体にはもう気づいていたのかな、魔女さん」
「……あなたの、鞄の中身をみてしまったから。……私のかごの中身と違って、あなたの小瓶は割れてしまっていたけれど」
「あちゃー。やっぱり割れちゃってたか。不用意に触ったりしてない? あれ、吸血鬼とかには効くって聞いてるけど、魔女にどう作用するかは知らないんだよね。手とか大丈夫? 硝子で切ったりしてない? 普通の状態なら効かなくても、傷に付着したら話は別……なんてこともあるわけだし」
一転して心配するような顔つきになった上、矢継ぎ早に聞いてくる【クルースニク】に、ニルチェニアは面食らった。どこの世界に魔女の心配をするクルースニクがいるというのか。
「べ、別に平気……です、けど」
探る顔つきのニルチェニアに、クルースニクは申し訳なさそうな顔になった。
「ああ、ごめんね、そりゃあ魔女さんには怖いよね。クルースニクだもん。でも、助けてくれたのに捕まえたりとか、酷いことなんかしないよ。そんなことをしたらただの最低野郎でしょ? クルースニク以前に人の風上にもおけやしない」
どうだか……と言いかけて口をつぐむ。想像上の【クルースニク】とは随分と様子が違う。もっと、堅苦しいのを想像していたのに。怪物とわかれば、すぐに襲ってくるものと思っていた。──いや、もしかしたら油断を誘おうという魂胆か? 想像していたのとはあまりにも違う。おかげでどう対処していいのかもわからない。
「……どうして、魔女だと?」
「こういう森に一人で住んでいるようだったから」
答えのわかりきった質問をぶつければ、想像していた通りの答えが返ってくる。魔女を目の前に警戒するようすもなく、クルースニクはあっけらかんとしていた。
「それから、僕に塗ってくれていた薬や傷の処置の数々、だね。医者でもなさそうだけれど、処置は的確、薬はてきめん。──なら、もう魔女しかないと思ったんだけど。違う?」
魔女の薬ってすごいねえ、とクルースニクは嫌悪感を示すこともなく口にする。火傷ももう全然痛くないもの、などと言いながら。
「……そうよ」
「そう。僕はオスカー。よろしくね」
諦めと猜疑心を滲ませたニルチェニアの返事にも、オスカーと名乗るクルースニクは笑みを崩さなかった。それどころか、手を差し出してくる始末だ。握手を求められているのだとわかってはいたが、クルースニクと知って手が握れるわけもない。
「──貴方のような人は、気軽に私のようなものに手を差し出してはいけないと思うの」
ニルチェニアには、そう返すのが精一杯だった。
育ての親以外で、初めて手を伸ばしてくれた人だった。けれど、その手を自分がとってはいけない気がしたのだ。
「私は、魔女だから」