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「ばかばかしい。何もかも、ほんとうに馬鹿馬鹿しいこと!」


 瑠璃溝隠(るりみぞかくし)の青い瞳を光らせて、ロベリアが嘲笑った。

 詰め襟のドレスは胸元までボタンが外され、袖口からは細い手首がのぞく。足首が見えるまでたくし上げられたドレスのもとには、首が切り離されたノージニッツィの遺体が転がっていた。胸につけていたはずの白い花のコサージュが血溜まりに落ち、花は赤く濡れている。

 じわじわと広がっていた血の水たまりももうそろそろ拡がりが収まる頃合いで、オスカーはしばらく自分が何を見ているのかわからないくらいだった。血溜まりの中に佇んでいる友人と、花に囲まれたお茶会で微笑んでいた友人の姿は結びつかない。


「馬鹿な男。馬鹿な男。馬鹿な男ッ!」 


 ロベリアは何度もノージニッツィの頭を蹴りつける。ロベリアを取り巻く黒い靄がノージニッツィの体をずたずたに引き裂いていく。ドレスの袖が揺らぐたびに手首に黒いものがのぞき、ドレスの裾がひらめくたびに、薄い靴下越しに足首に足枷のような文様が見えた。ヴェールを投げ捨てたロベリアの顔は化粧で隠されてはいたが腫れていて、首にはネックレスのように黒い印がぐるりと回っている。

 美しかった銀の髪が、夜のような闇色に染まり始めていた。【魔女】だ、とオスカーは直感する。クルースニクを含め、その場の全員が凍りつく。


 毒のような、とろけるような、呪いのような笑い声が響き渡る。


 ロベリアは美しく、禍々しかった。

 悪鬼が頭を垂れるような憎悪をまとい、夫の体を何度も足蹴にした。目をそらしたくなるような身の毛もよだつ光景なのに、ロベリアのその、解放されたかのような顔の美しさ(●●●)からは誰も目がそらせなかった。


「わたくしの姉さまを殺したくせにッ! わたしからリラ姉さまを奪ったくせにッ! わたしから全部奪ったくせにッ!」


 最後くらいわたしの役に立ちなさいよ、ほんとうに役立たず、とロベリアはついにノージニッツィの頭蓋骨を踏み砕いた。興奮のままにロベリアはあたりをぐるりと見回して、高笑いを響かせる。

 ニックが聴衆を下がらせる。ロベリアを刺激しないよう、少しずつ、慎重に。それをみたロベリアは毒々しく微笑んだ。


「なあに、ホンモノの【魔女】があらわれて、びっくりしてるの? ──わたくし、やっと解ってよ。【魔女】って、生まれながらじゃないんだわ」


 ロベリアは真っ直ぐにニルチェニアを見た。


「【魔女】は、生み出されるものなのよ」


 憑き物の落ちたような顔で、けれどどこか苦しそうで。ロベリアは叫んだ。


「何でアンタは救われるのよ。リラ姉さまは助けてもらえなかったのに。何であなただけ……。わたしは、この男に全部奪われたのに。アンタは……」


 ニルチェニアは物怖じせず、涙に濡れた顔のままでロベリアにいたわるような表情を向ける。その顔を見てロベリアはさらに叫んだ。自分の顔に爪を突き立てるようにして頬を覆い、絹を引き裂くような声でニルチェニアに言葉をぶつけた。


「どうして恨まずにいられる! どうして留まっていられるの! どうして……どうしてあなたは魔女にならないっ……」


 ロベリアの瞳からは涙が溢れ、ニルチェニアはオスカーの手をそっと離した。ニルチェニア、と呼びかけて留めようとしたオスカーにそっと微笑む。ゆっくり、オスカーの読み取りやすいように唇が動いた。


『前に、〝君のお願いを何だってひとつ叶える〟、と言ってくれましたね』

「それは……言ったけど」

『ロベリアのこと、どうか赦して』


 友達に駆け寄るような気軽さで、ニルチェニアはロベリアに近寄った。靄がニルチェニアの髪を断ち切り、靄に服の袖を切り裂かれようと、ニルチェニアは臆さなかった。振り払おうとしたロベリアをぎゅっと全身で抱きしめて、それからロベリアが身につけていたライラックのブローチに手を当てる。


 ブローチからは懐かしい声がした。ニルチェニアを可愛がってくれたひと、ニルチェニアにたくさんのことを教えてくれたひと、ニルチェニアと暮らしてくれた、ニルチェニアの憧れの『魔女』、リラの声が。


 ──〝ロベリアをわたしの可愛い妹を、どうか助けて〟。

 

 ニルチェニアはゆっくり息を吸って、ロベリアの心のなかに潜り込んだ。感情の再生をするには、心の少し深いところに触れる必要があったから。ほとんど何も知らない相手の心に潜るのは初めてだったが、失敗するとはこれっぽっちも思っていない。ブローチにこもったリラの意志が、ニルチェニアを導いてくれる。ロベリアを救おうとしてくれている。


 ライラックのブローチが、淡い光をまとってやさしくきらめいた。


 桜色の爪で淡いピンクアメシストの表面をそっとなぞり、リラの瞳と同じ色ね、と口を動かしたのをロベリアが読み取れたかどうか。ニルチェニアが触れたブローチ、細い指の先からまばゆい光が溢れ出る。星のような光は宙で弾け、その場の全員に降り注ぐ。


 光の弾けるたび、『リラ』という女性がたどった道筋、それから『ロベリア』という少女が歩まされた人生が溢れ出てきた。いくつもの喜び、いくつもの思い出、いくつもの悲しみ、いくつもの記憶。そのひとつひとつが人の心に花びらのようにふりそそぎ、水のように染み込んでいく。


 妹と仲のよかった『リラ』が森へ追放されて、『ロベリア』はそれをひどく辛く思っていたこと。

 姉を探しに森へいった『ロベリア』が、鹿に襲われたリラの死に様を知ってしまったこと。その数年後にノージニッツィに娶られたこと。その夫が巧みに姉を殺したのを知ってしまった日のこと。色々と難癖をつけられては、『ロベリア』がノージニッツィに暴力を振るわれていたこと。


 夫に復讐したいと思ったこと。

 姉と同じ境遇のニルチェニアが助かるのが許せなかったこと。

 どうせ一生このままなら、もう全部滅茶苦茶にしてしまいたかったこと。


 極彩色の泥が入り混じり、脳に直接流れ込んでくるような強烈な感情をニルチェニアはゆっくりと抱きしめていった。リラのことも知っているし、リラがロベリアをどれほど愛していたのかも知っている。

 ロベリアがいたからこそ、リラはニルチェニアを殊更にかわいがってくれたのかもしれない。時折、ニルチェニアはリラが自分を見る眼差しに別の人の影を感じ取っていた。そんなふうに愛されていた『ロベリア』を、リラの本当の妹を、ニルチェニアはいつか見てみたいと思っていた。


 心の、意志の世界から、ニルチェニアが少し抜け出して現実世界に目を向けた時、ロベリアはしゃがみこんで泣いていた。幼い子どものように泣きじゃくり、溢れる光に、リラが抱いていたロベリアへの愛に打たれている。夜の闇を映したような黒が、じわりとじわりとロベリアの髪から引いていく。それに応じて、ロベリアの【魔女の印】もほろほろと溶けていった。


『──優しくしてもらえた記憶があるなら』


 ニルチェニアはロベリアに届くよう、柔らかな声で呼びかけた。菫色の柔らかい光が、ライラック色の光に混じって弾けていく。ニルチェニアの声は聞こえないはずなのに、その場の誰もかもの頭の中には、慈しむような響きを伴ってその声がきこえた。


『優しくしてもらえたことを思い出して。優しさを思い出して。もし、あなたにそれがないのなら、わたしがこの先、いくらだって注ぐから。──ロベリア』


 ニルチェニアは、美しい銀色に戻ったロベリアの髪に口付ける。


『わたしを育ててくれた人の名前を、あなたはきっと知っている。リラというの。リラはね、わたしに教えてくれた。可愛くてたまらない、大事な妹がいるって。ロベリア。……あなたのことです』


 ニルチェニアはロベリアの体をもう一度ぎゅっと抱きしめる。大事でたまらない、とでも言うように。わたくしはあなたに酷いことをしたのに、と呻くロベリアに、気にしていない、とニルチェニアは微笑んだ。あなたはこれだけ酷いことをされてきたのだから、誰かを恨みに思うことくらいあって当然だ、と。それはわたしが一番よく知っている、と。


『リラはわたしを助けてくれた。だから、わたしはリラのかわいい妹を助けたい。ロベリア、すべてなかったことにしましょう』

「でも……わたしは、わたくしは……!」


 あなたは愛されていたし、愛されている、とニルチェニアは繰り返す。リラがあなたを愛していたし、わたしがこれからあなたを愛すの、と。


『恨んではいけないとリラに教えられた。恨んでしまったら、憎んでしまったら、本物の悪い魔女になってしまうから。ロベリア、思い出して。このブローチをもらった時、リラはあなたに何て言ったの?』

「あの日──リラねえさまは──………」


 ロベリアは泣きじゃくった。あの日、姉に言われたことを思い出した。リラはあの優しい手のひらでロベリアの頬を撫ぜ、『愛している』と微笑んだのだ。

 寒い夜のごとく、黒く鋭く冷えていたロベリアの心臓に、あたたかく柔らかな白い光がやさしく灯るのをロベリアは感じた。魔女になんてならなくていい、と、どこかで姉の声がしたのも。


 菫色の光とライラック色の光がやさしく混じり合い、ロベリアに降り注ぐ。おとぎ話か何かのようなそのシーンに、誰かがぽろりと呟いた。


「ありゃ、魔女じゃない。聖女だよ──」




 




 

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