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「……どういうことだ?」
ニックが呆然と呟く。魔女ではないはずの【魔女】の首、手首、足首を黒っぽい印が輪のように纏わりついている。本来あるはずのないものにニックは訝しみ、それから。それが何なのかに気づいて唇を震わせた。
「──下がれ」
静かに席を立ち、ニックはその場で一言発した。【魔女】を押さえつけていたクルースニク二人も魔女の体に残るそれに気づいたらしく、魔女の体から手を離す。
解放されてなお、【魔女】は潰されたように地面に這いつくばったままだった。ぴくりとも動こうとしないそれにクルースニクが恐れるような顔を一瞬のぞかせる。ニックと同席していた二人の高位のクルースニクも、なぜニックが止めに入ったかを察したらしい。手を振って【魔女】の側にいたクルースニクの二人を下がらせた。代わりに、ニックが白髪の娘へと歩み寄る。訝しむノージニッツィにひたりと視線を合わせ、ニックはゆっくり、聞き取りやすい声で話した。
「これは【魔女の印】ではない。……意図的に描かれたものだ」
華奢な体をそっと抱きかかえるようにして支えると、ニックは魔女の手首を聴衆にもわかるように上げて見せる。手首には黒い印が巻き付いていたが、ところどころに茶色い何かと混じり合った形跡がある。泣いていた【魔女】の涙が【印】に触れたところからは白い肌が覗いていて、それが【印】というのはお粗末な話だと言えた。よく見れば、体に刻み込まれる【魔女の印】などではなく、それに似せて描いた模様なのは明らかだったのだから。
「……君、手を切ったのか」
痛々しい真一文字の傷が残る手首を、ニックはそっと撫でた。この黒い染料は古い森の民がかつて使っていた染料だろうと看破する。試しに擦ってみれば、黒い染料と、酸化して茶色くなった血液と、魔女の涙が混じったものがニックの指に拭われていく。古い森の民の染料で間違いないな、とニックは確信を得た。この娘はそれを知っていて、自分の手首を切ったのだ。自らの血で染料を流すために。
娘は応えなかった。娘が何も言えないことはニックにもわかっていた。彼女の声は失われているのだから。ただ、彼女ができる精一杯の「無実の主張」がこれだったのだと理解して、ニックは今すぐこの、哀れな友人の娘を抱きしめてここから連れ出したくなってしまった。
『公平中立』の立場でニックはここにいる。それでも、そうであったとしても。
生まれ持った瞳の色で言いがかりをつけられて、【魔女】だと森に追放されて。それなりに穏やかに暮らしていたのに、その暮らしすら奪われて。今度は無理矢理に裁判にかけられ、人々に口々に罵声を浴びせられて。殺されて当然だ、生きていてはいけないものだと言われる。
地面に押し倒されて、解放されて、それでも娘がぴくりともせず倒れ込んだままだった理由を悟り、ニックは目頭を熱くした。
老獪な男だってそんな扱い方をされては自尊心を削られるだろう。年若い娘ならば、なおさらだ。そんな扱い方をされて折れない心はない。こんな扱いを受けた娘に、「頑張って立ち上がれ」と言える無神経さはニックにはなかった。
「……座らせてやりなさい。怪我をしたようだ。……椅子に余りがないのなら、私のものを使うといい」
畏れ多いとばかりに下級のクルースニクは二人して目を合わせたが、ニックはそこには気を向けなかった。
「早く。裁判を再開させなくては」
結局、ニックの椅子は使われずに、下級クルースニクはどこかから椅子を調達してきたようだ。証言台のすぐ前に椅子を置き、【魔女】を座らせる。証言台の下に潜り込んでいた鳥が椅子の脚を何度か突付いていたが、魔女はぼんやりとそれに目を向けただけだった。無理やり押さえつけた手前、【魔女】に引け目があるのかクルースニクは鳥を追い払うこともせず、そそくさと元の場に戻っていく。
場の空気は一変していた。ノージニッツィが誇らしげに提示した【魔女の印】はどうやら偽物らしく、その上【魔女】だと疑われたのはメイラー家の令嬢だったという話だ。その令嬢があまりに哀れな姿をさらしているのに、同情的な言葉を呟くものも少なくなかった。
場の空気が自分に不利なのを悟り、ノージニッツィは「ならば、誓ってみせよ」と【魔女】に向き直る。
「自らが魔女でないのなら……。神に誓えるはずだ。自分が魔女ではないと。誓え。誓ってみせよ」
【魔女】の声が潰れているのを知っていてノージニッツィがそう言い出したことなど、【魔女】側の人間は知っている。姑息な人、とリピチアが苛立って声を上げる。オスカーがコツコツと爪の先で椅子の肘掛けを叩く。
「待って、その人は──」
リピチアが「その人は声が出せない」というより前に、透き通った声が響いた。
「ちがいます!」
ノージニッツィが目を見開く。なぜ、とでも言いたげに。ノージニッツィはロベリアの方を見て、けれどロベリアの顔も驚愕に彩られているのに混乱したらしい。再び【魔女】の方に視線を合わせる。俯いている魔女の顔は見えず、ただ白い髪がヴェールのように彼女の表情を隠し去っていた。こつ、とオスカーの指先が椅子の肘掛けを一度鳴らした。オスカーただ一人が笑っていた。
「魔女じゃないわ」
同じ声が再びその場全員の鼓膜を揺らす。なんで、とリピチアが目を瞬かせている。驚きながらもかろうじて平静を繋ぎ止めたらしいニックが、「宣誓はなされたな」とノージニッツィに目をやった。
「なぜ……? その女は……」
狼狽えるノージニッツィの姿は聴衆にはどう映っていたのか。あの恐ろしい【血塗れ花】の威厳は損なわれたのか。何かしら、潮目の変わりそうな空気に一人の老婆が石を擲った。
「その娘は魔女じゃない……! 優しい子だよ! 【ラウレンテの火傷薬】の、薬師だよ」
老婆の声に【魔女】がはっと顔を上げる。涙に濡れた顔に、老婆はさらに声を振り絞った。老婆の告白に聴衆がどよめく。彼女があの「火傷薬」の制作者だったのか、と。老婆の必死の懇願が広場に響き渡った。
「その娘は魔女じゃないんです、クルースニク。どうかあなたがたに、ほんとうの正義があるのなら……。その子を救っておくれ。よく効く火傷薬を利益も出ないような値段で売る子なんです。そんな娘が災禍なんて……」
「聞いたことあるぞ。貴族には高く売っても、俺たちには安く売ってくれてた人なんだよな?」
「あの薬の仲介をしている同業者に契約のことを聞いたことがあるが、確かにそうだった!」
「そんな人が魔女なんてのは疑わしいよ」
ざわざわとざわつく聴衆の中、茶髪に緑色の瞳の男が「もしかして」とノージニッツィを指さした。
「──それが気に食わなくて処刑しようとしてるんじゃねェのか?」
その一言で潮目は完全に変わったのをノージニッツィは肌で感じた。聴衆の憎悪が【魔女】から自分に移り変わったのを。刺すような侮蔑の視線、軽蔑の眼差し、そして罵倒。一瞬にして崩れ去った空気にノージニッツィが狼狽えた。先程までノージニッツィに怯えていた二人が「あの【森番】……!」と悪態をついていたのにも気付かないほどに。
「そんな人をひどい目に遭わせて!」
「何が火の『災禍』だ、質の良い火傷薬を作ってくれていた人じゃないか!」
「常識的に正しく処刑されるのはお前の方なんじゃないのか!」
吹きこぼれる鍋のように膨れ上がった怒りに、「わあ、予想以上にすごいことに」とリピチアが唖然としている。「彼の仕込みがあったとはいえ」とルティカルもつぶやき、暴徒と化しそうな聴衆を抑え込みに向かった。これはちょっと私も行ってきます、とリピチアもルティカルの応援に向かう。一度爆発してしまうと手に負えなくなるのが暴徒の常だ。そうなったら裁判どころの話ではない。
「あの契約書にそんな意味があったとは」とソルセリルは離れた位置にいる悪友に視線を向ける。ニックは怒り始めた聴衆に気まずそうな視線を向けつつも、ソルセリルに向かって小さく目を瞬かせた。ここまで大事になるとは本人も思っていなかったに違いないな、とソルセリルは。聴衆の方を見遣る。ルティカルたちが抑え込んではいるが、時間の問題かもしれない。
「裁判どころの話じゃないな。……どれ、おれもルティカルの助けに向かうとしよう」
こうなったら仕切り直しの後に無罪放免だな、と呆れた様子のクルスに「そうなるだろうねえ」とオスカーも応じた。後ろの方ではノージニッツィに殴り込みに行こうとしている聴衆たちをルティカルやリピチア、その協力者たちが辛うじて抑え込んでいる。ここにいたら危ないなと二人で顔を見合わせた。二人がいるのはノージニッツィに向かう道のど真ん中だったからだ。
「……お前はあの子のところにいったらどうだ」
「そうする」
ただ一人、証言台の前でニルチェニアが呆然としているのをオスカーはなんとも言えない気持ちで見てしまう。人の心はすぐに変わりやすく、ほんの少しのきっかけで良い方にも悪い方にも変わるのだ。先程まで自分を罵倒していたものたちが、今や自分を庇い立て、ノージニッツィを悪しざまに罵っている様は──彼女の菫色の瞳にはどう映るものだろうか。
一歩一歩、オスカーはニルチェニアに近寄った。近寄ってくるオスカーを見上げて、ニルチェニアは唇を動かす。『この子は』と問われ、ニルチェニアが証言台の下に目をやったのに「まあ、そういうこと」とオスカーは小さく笑った。
コトドリ。あらゆる音を真似るという、ニルチェニアの住む森で出会ったあの鳥だ。オスカーはノーチとアガニョークを連れて森へ行き、あの時にニルチェニアの声を覚えた鳥を探し出したのだ。動物同士は話ができるのか、ノーチとアガニョークは簡単にコトドリを見つけ出し、そして協力を取り付けたらしい。オスカーが立てた音に応じて『ちがいます!』、『魔女じゃない』と鳴き分ける器用さを見せた。オスカーはその賢いコトドリを証言台の下に行くように誘導し、コトドリにはニルチェニアの声になってもらったというわけだ。
ニルチェニアの瞳からはぼろぼろといくつもの涙が落ちる。泣いているせいで唇の動きも読みづらかったが、概ねで自分に裁判という場で、コトドリを使って嘘をつかせるような真似をしたのに心を痛めたらしいことは理解できた。だが。
「良い嘘をつくのが良いクルースニクなんだって。……いいよ、こんなの。ひどい言いがかりで、これから先もずっと君が傷つけられるより断然良い。人を傷つける嘘は僕もダメだと思うけど、ねえ、この嘘って誰かを傷つけた?」
ニルチェニアは椅子から立ち上がれぬまま、オスカーの手を取る。片手だけ手を繋いだ状態で、それだけが自分にとっての拠り所だとでも言うように、ニルチェニアはオスカーの手を離さずに泣きじゃくる。冷たい手に、血と染料と涙がまとわりついた手首に、オスカーはぎゅっと胸を締め付けられるようだった。
ニルチェニアは何度も声の出ない口で謝った。オスカーにとってはそれが何よりも辛く、「謝らなくて良い」と繰り返す。ニルチェニアは何も悪くないのだから。
落ち着いたら帰ろう、今日は温かくて美味しいものを食べて、柔らかいベッドで眠れるから、とオスカーが声をかけた時、少し離れたところからクルースニクの叫び声が響いた。
「──【魔女】だ!」
ハッとしたオスカーが視線を向けた先には。
ノージニッツィの首を切り落とし、その頭を靴で踏みにじるロベリアがいた。




