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冷たい地下牢に押し込まれ、ニルチェニアは途方に暮れてしまった。今朝まではあのあたたかく優しい人たちのいる屋敷にいたものだから、地下牢の暗さや冷たさがいっそうのこと身にしみる。自分が連れて行かれるのを必死に止めていてくれた人たちは大丈夫だろうか。まっさきに自分の前に出て、そして殴り倒されてしまったトゥルーディオのことを思い出し、ニルチェニアは悲しさと情けなさで目を潤ませた。
いつだってそうだ。いつも自分のせいで周りが酷い目に遭う。自分さえいなければ、周りも迷惑を被らずに済んだかもしれないのに。
わたしなんて産まれなければよかったのにと何度思ったことか。
牢の隅に膝を立てて座り、ニルチェニアは深く息をした。石の埃っぽいにおいに、じめじめとして湿った空気。他にもいくつかの嫌なニオイが混じり合い、ひどい空気だった。いつ出られるのかわからないし、もう一生出られないのかもしれない。惨めな気持ちだった。座り込んでしまった石の床は体温をどんどんと奪っていく。
足には鎖が繋がれて、妙なことに手首や足首には何かの模様が描かれた。擦っても落ちない染料は、古い森の民が自分たちの体に文様を描くときに使うものだろうか。
彼らは戦の前に自らの身体に文様を描き、勇ましく戦ったという。普通にこすっても落ちない染料だが、血液にはよく溶ける。勇ましいものほど血を浴びるから、文様が落ちているかいないかで、戦でどれほど熱心に戦ったのかがよくわかるのだ、と昔ジェラルドが話してくれた。リラと仲が良かったあの人だ。あの人はニルチェニアにもリラにも優しくて、たくさんのことを教えてくれもした。学ぶことの楽しさも、それを活かすことの大切さも。彼とリラがいたから、ニルチェニアはリラの亡くなったあと、ひとりでも薬を作り続けられた。知識がニルチェニアを救ったのだ。
学ぶことを惜しまなかったからニルチェニアは知っている。その、戦のための文様を描くあの植物がもう森には自生していないことを。その花の美しさに貴族が魅了され、こぞって株を持ち去っては庭に植え直したからだ。とくに、バッカスの花の近くに植えてやると美しく咲くという話だった。その話をしてくれたときのリラの寂しそうな顔を思い出し、ニルチェニアは胸に藍錆色の悲しみを抱える。持ち去られるのも奪われるのも、いつだってたった一瞬のことだ。
──どうしてこうなってしまうの。
いつだって、前を向こうとするとこれだ。ニルチェニアが何かを手に入れた途端、それは奪い去られてしまう。何かがニルチェニアの足首を掴んで引きずり倒し、そうして不幸の方へと引きずってゆく。それから逃れようと藻掻くのにも、もう疲れた。自分はただ、静かに暮らしたいだけなのに。誰かを酷い目にあわせようと思っているわけでもないのに。それでもこうして酷い目に遭わされるのだ。
いっそのこと、もう諦めてしまったほうが楽なのかもしれない。できる限りの力を振り絞って生きたって、結局こうなるのなら。苦痛は短い方が良い。ニルチェニアに残されているのは少しの幸福と大きな不幸の繰り返しなら、もう。
牢の隅に転がっていた、先の尖った石ころを拾う。これだけ尖っているのなら、肌くらいは切れるだろう。血管の集まったところを指先で探り、ニルチェニアはそこへ小石の切っ先を押し付ける。冷たさか痛さかわからない感覚があった。どくどくとうるさい心臓を抑えつけるために一度深呼吸した。
幸せになれるのはお姫様だけだ。魔女の自分はなりたいものにはなれない。
こうして冷たい地下牢で、惨めに死んでいくのが似合いなのだろう。
ニルチェニアの頬を熱い雫が滑っていく。ぽたぽたと落ちる涙は嗚咽を伴った。胸に渦巻く真っ黒な闇を、人への恨みを、忍び寄る〝魔女への誘い〟を、何とかして抑え込もうとする。
出会ってきた人たちすべてが悪い人ではなかったと。あたたかい言葉をかけてもらったことを、優しくしてもらったことを思い出す。
でも、そうやって自分自身を丸め込んだところで何の意味がある?
〝人の優しさ〟で無理矢理に自分を納得させても、赦しても、自分に投げられる石も罵倒も、なくなりはしないのに。
どうして赦さなくてはいけないのだろう?
どうして我慢しなくてはいけないのだろう?
ニルチェニアにはわからない。
どうして恨んではいけないのか。どうして憎んではいけないのか。
恨むな、憎むなと教えてくれた人がいたから、その言いつけを守っているにすぎないのかもしれない。
人としての善性など捨ててしまえ、と胸の中の黒い闇は甘く囁いた。闇に親しんでしまえば楽になれるぞと。
──〝満月の夜には狼が吠える。満月の夜には蝙蝠が羽ばたく。満月の夜には悪魔が誘う。満月の夜には魔女が微笑む。狂気の月を恨みの夜に沈めれば、夜はいつでも貴方を手招く。闇に親しむものへと手招く〟
──〝恨んではだめ。ほんものの魔女になってしまうから……〟
リラの言葉の数々が頭をぐるぐると回った。言い含めるような、あの慎重な口調を思い出す。何度も何度もリラの警句を頭の中で繰り返した。恨んではいけない。本物の、人を襲う魔女になってはいけない。狂気を恨みに沈めてはならない。それはニルチェニアが望むものじゃない。
──わたしは何になりたかったのかな。何を望んでいたのかな。何にならなれたのかな。
きゅっと目を閉じれば、ふと浮かんだ顔があった。あのときの優しい声を思い出した。
ばかみたい、と小さく笑いながらニルチェニアは涙をこぼす。結局のところ、ニルチェニアは人を憎みきれない。憎みたくても憎みきれない。人がどんなに優しいか、あたたかいか、知ってしまっているからだ。
──〝君がお姫様になりたいなら、そうなれるように僕がする〟。
ニルチェニアにそう言ってくれた人がいた。
その言葉はたとえ嘘だったとしても、ニルチェニアの胸の中でずっと輝き続けてしまう星なのだろう。恨みの夜にすら沈められない、たった一つの希望の星。あの時に抱いた嬉しさはもう、忘れようがないのだ。たとえ、言葉は偽りだったとしても、ニルチェニアの抱いた気持ちは偽りではないのだから。信じたかった。彼の言葉は本当のことだと。
オスカー、と声の出なくなった唇を動かした。
──あなたがどうか、良い人でありますように。
押し付けた小石を力いっぱいに引く。ぷつりと切れた肌から、真っ赤な血が溢れ出た。
***
魔女裁判が行われると言われている教会の前には、裁判の前から黒山の人だかりができていた。魔女裁判といえば、一般庶民にとってはちょっとした娯楽の側面もある。気兼ねなく誰かを悪しざまに罵りたいという野蛮な欲求は誰にでもあるもので、それは時折、領地を統治する貴族に向けられるものだ。
重税の是正や待遇の酷さの改善など、正当性も伴えは、それが勢いに乗って一揆や反乱にもつながる。
だからこそ、領主や貴族によっては魔女や人狼を捕まえた際に裁かれる様を一般に提供することもあった。差別と迫害、野蛮な娯楽だ。
そこでうまくガス抜きをして、貴族への不満を解消させようというのだ。
もっとも、そんな本音を丸ごとさらすわけにはいかない。だからこそ、表向きには「人に溶け込んで暮らす魔女や人狼のその様子や立ち居振る舞いを知ることで、一般人にも魔女や人狼の区別がつけやすくなり、自衛に繋げられる」というような理由をつけている。
何も考えずに石を投げて加害の欲求を満たしたい人間はそれを疑わないし、思慮深いものは悪辣な領主・貴族の狙いには気付いている。そのために、人によっては温度差も関心の差もある【娯楽】だった。
しかし、今回の魔女裁判は趣が少し異なる。誰もが興味と好奇をもって裁判の始まりを待ち望んでいた。
なにしろ、魔女だと言われている女の無実を証言する人間が幾人もいるのだという。それも、証人のほとんどが貴族であるそうだ。これらはあくまでも噂として流れている話とはいえ、異様なことと言えた。貴族が味方につく【魔女】とは、一体どんな女かと。
一方で、その女を魔女だと糾弾したのはあのメイラー家の血の流れをくみ、クルースニクを母にもっていたノージニッツィだ。彼は【血塗れ花】といわれるほど、怪物の処刑と植物を愛していた。彼の屋敷の庭はいつだって美しい花で彩られているのを、誰もが知っている。
貴族を味方につけた【魔女】と、数々の処刑実績のある【血塗れ花】。
だからこそ誰もが裁判の行方を気にかけた。ノージニッツィといえば裁判にかけたものは必ず処刑する人間であったし、彼の手によって怪物に仕立て上げられ、処刑された無実の人間もいる、という話が囁かれるくらいだ。
ノージニッツィは処刑好きだ、という話は誰だって一度は聞いたことがある。そんなノージニッツィとやりあう【魔女】など、面白いに決まっている。
集まった人々は口々に話す。裁判について、ノージニッツィについて、魔女について……。自分の見解や予想、あるいは裁判や魔女、ノージニッツィに対しての愚痴や体験談、思い思いに好きなだけ。
「最近は魔女裁判もなかなかなかったのにねえ」
「それが、裁判にかけられるのはクルス様のところにいた人だそうだよ」
「本当に? でもクルス様って怪物擁護派なんでしょ? 何でもかんでも助けてるっていうじゃない。魔女を匿っていてもおかしくはないよねえ」
「いやあ、あの人はそういう、やたらめったらな怪物擁護派じゃあないよ。良いのと悪いのと、ちゃんと区別してる。オレ、この前吸血鬼と間違われてクルースニクに連れて行かれるところだったけど、すんでのところでクルス様に助けていただいたからな。別のときには吸血鬼から助けられているし」
「なんだい。吸血鬼を助けようとしたり、吸血鬼から助けたり。はっきりしないお人だねえ」
「何でもかんでも悪いとか、良いとか、そういうふうに簡単にしようってのがよくないのさ。はっきりしてないんじゃなくて、単純にはしないってお人だよ」
人々は口々に噂して裁判が行われるのを待つ。
奇妙な期待と熱気が漂っていた。
「裁判は三日後だってのに、熱心だねえ」
あまり興味を持っていないふりをしながら、気のない言葉を人だかりに浴びせる人間もいたが、やはりその顔からは好奇が消しされていない。これはどう転がすべきか、と人混みに紛れていたニックは人々の様子を観察する。カードはいくつか作ってきていたが、予想よりも〝普通の人間〟が多いのだ。「他人が裁かれているところを囃し立てたい」というような悪趣味さを持つ人間は意外と多いから、煽って転がすのはそう難しくない。
「それにしても……オスカーは森に行っちまうし、何してんだあいつ」
この街で一番の好感度を持つクルースニクといえばオスカーだろう。彼がいれば聴衆の雰囲気も少しは【魔女】よりのものにできるのに、そのオスカーは森に行ってしまった。どうしてもやることがあると言うなり、何だかデカい猫とデカい狼を引き連れて森に行ったのだ。魔女の飼っていたノーチとアガニョークだというのは分かったが、何をしに行ったのか誰にも分からなかった。無駄なことをするタイプではないし、各々でやることがあったから誰もオスカーを止めなかったが。
三日か、とニックは顔をしかめる。三日後にはニックも裁判に出席しなくてはならなかった。高位のクルースニクのひとりであるから、立場はどうあれ見届ける必要があるのだ。友人の愛娘が魔女裁判にかけられる姿など見たくもなかった。




