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 完全には殺せなかった──と聞いた時も、ロベリアの顔色は変わらなかった。別にいいわ、と興味もなさそうな声を返しただけだ。


「動けなくはしたのでしょう?」

「はい。……ですが、直後に狼が──」


 我々を襲いまして、とロベリアに対する男の声はだんだんと小さくなっていく。火で追い払おうとしたが逃げなかっただの、その時に襲った男にも火傷を負わせてしまっただの。ロベリアはそれを聞いたときに不満を露に吐き捨てた。


「馬鹿ね。火傷のあとなんて残したら、獣が襲ったなんて言い訳は通用しないでしょうに」

「で、ですが狼はそのあと、男を引きずって森へ消えていきましたので」

「餌になったってこと? それなら良しとしましょうか」


 哀れなものね、とロベリアは冷めた顔で数日前に茶を共にした男の顔を思い浮かべる。恋を探しにいくなどと、浮わついた言葉を吐いた結果がこれだ。狼の餌になりに行っただけだ。

 ロベリアにとって、オスカーはそれなりに親しくしていた相手ではあった。けれど、これといって悼む気持ちもない。どうせ、彼もロベリアのものにはならない者だったから。すべて取り上げられたロベリアに、気まぐれに与えられた『お友達』。いつ取り上げられたって良いように、あまり深い気持ちを抱かないようにしていた。


 怪物と戦うクルースニクが獣に食い殺されたのだと思えば、無味乾燥とした滑稽さすら沸き上がってくる。面白いのかつまらないのか、自分でもわからない。ただ、人がいなかったら高笑いのひとつや二つは漏らしていたのかもしれない。なんだか空しさだけが心に残った。


 所詮はそんなものだ。いかに善の象徴と呼ばれる彼らすら、神は救いもしないのだ。ロベリアが彼に向けたのは、間違いなく理不尽な悪意だろう。彼に非はなかった。しかし、その悪意を神は振り払いもしなかった。善良な彼すら、神は見捨てたのだ。やはり神などいないのだと、善良な者でも見捨てるのだと、歪んだ笑みを浮かべた。


 ──善良な者すら救わないのならば。


 善良でもなんでもない自分のようなものは、誰も救ってはくれないに違いない──とロベリアは扇子で口許を隠しながら嗤う。善良な人間が救われないのに、悪人である自分が救われる道理などありはしまい。


 だからロベリアは自分で自分を救うのだ。自分が一番納得できる形で、自分を救うしかないのだ。そうでなければ、いつまでたってもロベリアはあの日の自分のまま、歪に年を重ねて醜く老いるしかないのだ。温かい手を握ることも許されず、大切なものを奪われた幼子のロベリアは、今もロベリアの奥底で泣きじゃくっている。


 だから、どんな手を使っても自分を救うしかなかった。誰にも救ってもらえないのだから。それがたとえ不条理で理不尽で、非道な行いであったとしても。


 ──一方的で身勝手な逆恨みだったとしても。


「……ロベリア様?」


 静かに笑みを浮かべただけだったロベリアに、男が恐る恐る話しかける。


「あら、ごめんなさい。……少し考え事をしていたのよ」


 もう下がっていいわ、とロベリアは男の目を見ることもなく冷たく口にした。



***



 身体中が熱く、痛く、そしてだるい。指一本も動かせないんじゃないかと思ったが、手に力を込めれば拳が握れることに気づく。普段から鍛えていたからかな、などとぼんやりした頭で考えた。重い瞼をやっとのことでこじ開けたが、視界はなんだかぼんやりとしていた。まばたきを何回か繰り返し、やっと周囲のものが見えてきた。


 頬になにか温かいものが当てられた気がした。それはオスカーの頬をぬるぬると這う。湿った温かい空気がオスカーの顔にあたり、毛むくじゃらの何かの顔が見えてくる。犬だろうか。真っ白い。よくよく目を凝らして、オスカーはそれが狼であるということに気づいた。


「うわっ!」


 叫んだオスカーに臆することなく、狼はオスカーの頬をなめている。ふんふんと鼻をひくつかせ、湿った鼻先をオスカーの胸に押し当てては離す。食おうとしているのかと思ったが、狼の方は極めて人懐こかった。叫んだ拍子に身体に鋭い痛みが走る。肩と左足が特に痛い。


「いててて……」


 呻きながら痛む箇所を見れば、丁寧に包帯が巻かれていた。森で倒れていたはずだったのに、と頭は混乱している。どうして自分はどこかの家で、誰かのベッドに寝かされているのか? もしかして伯父が? だとしたらこの狼は?

 オスカーが混乱しているのを横目に、狼が吠え始める。うわ、と身をすくませたオスカーの前に現れたのは。


「良かった。目がさめましたか」


 ──どこかほっとした顔の女性だった。


 白とも銀ともつかぬ長い髪。菫色の瞳。オスカーのそれよりもずっと白く滑らかな肌。春に咲く花のような唇はやわらかい笑みをたたえている。

 ほっとした顔の女性はそのままオスカーのもとにかけよって、ほっそりした指を伸ばす。何だろうとうまく働かない頭でオスカーが考えていれば、その指はオスカーの額にのせられていたタオルをそっと持ち上げた。温くなってしまったそのタオルのかわりに、固く絞られた冷たいタオルがのせられる。少しだけ頭がさえた気がした。


「あ、ありがと……?」


 どこかで見たような顔だと思ったが、どうにも思い出せない。 寝転がりながら礼をいうのも──と、オスカーが身体を起こそうとすれば「休んでいてください」と優しい注意が飛んでくる。自分より年下であろうその女性に、オスカーはますます困惑してしまった。ここは一体どこで、女性は誰なのか? どうして甲斐甲斐しく世話を焼いてくれているのか?


 困惑しているオスカーの表情を読み取ったのだろう。女性は「森に倒れていたの」と口にした。


「怪我がひどくて、その……町に連れてはいけなくて。ここで治療してしまったの」

「ああ……。これ、全部君が? ありがとう、てっきり死ぬんだろうと思ってたから」


 助かったよと痛みに顔をひきつらせながらもオスカーは笑ってみせる。オスカーをぺろぺろと舐めていた狼を下がらせた女性は、「この子が連れてきてくれたんです」と狼の背を撫でた。得意気な顔をした狼に、「助かったよ」と力なく笑った。森で狼に食い殺される話はよく聞くが、狼に助けられるとは。クルースニクをしていてよかったかもしれない──とひっそりと思う。きっと、ボロボロのオスカーをみかねて、神様が救いの手を差しのべてくれたに違いない。助けてもらえて良かったと、オスカーは親切な女性に心の底から感謝した。


「ありがとう、本当に助かったよ。君みたいな人がいてくれて、本当によかった」


 クルースニクを勤めている以上、オスカーにはいつ死んでも構わないという覚悟はあった。けれど、それは死にたいと思う(・・・・・・・)こととは違う。できれば死にたくないし、痛い思いもしたくない。今回は死ななかっただけ随分ましだ。


「僕が元気になったら是非お礼をさせてよ。……正直、ほんと死ぬと思ってたんだ。生きてるのが不思議なくらい」

「お礼なんて。今は何も考えないで、身体を癒してくれれば……」


 私も治せたのが不思議なくらいだから、と痛々しそうな顔でオスカーを見つめる女性に、オスカーはつい笑ってしまった。


 それから二言、三言と女性と言葉を交わし、オスカーはまた眠りについた。ひどく疲れていたのだ。傷だらけで重い身体は休息を欲し、ひとまずは安全な場所にいるからと気も緩む。女性が身体に塗ってくれた軟膏は火傷の熱さを和らげてくれた。つんとする薬の匂いに、ここまで安心したことが人生に一度でもあったろうか。






 眠ってしまった男にニルチェニアは安堵の表情を浮かべる。どうやら順調に回復に向かっているらしい。良かった、と小さく呟いて、眠っている男を嗅ぎ回っているアガニョークの頭を撫でた。


「どうしたの、アガニ」


 先ほどからどうも、アガニョークは男の胸の辺りに鼻を押し当ててはすんすんと匂いを嗅いでいる。一度離れたかと思うと部屋のなかをぐるぐると回り始め、男が着ていた服の前でぱたぱたと尻尾を振ってみせるのだ。まるで、ニルチェニアに何かを伝えるかのように。


「なあに、アガニ?」


 ただの遊びや気まぐれでもなさそうだと感じ取って、ニルチェニアはアガニョークが鼻先でつついている男の着ていた服を手に取る。ボロボロになってしまったそれは、もう修復のしようもない。ニルチェニアがそれを手に取ったとたん、ころりと何かが転がり落ちた。アガニョークが小さく鳴く。


「まあ……これは……」


 ニルチェニアが落としてしまった【大切なもの】──。


 アメシストと、ホワイトゴールドのベビーリングだった。



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