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手首には包帯を巻き、その上から長手袋を。首は詰め襟にして肌の見えないものを。絹の靴下を履いているから、足首は見えない。顔以外を見せない自分の姿を鏡に映し、ロベリアは嘲笑った。何もかもがめちゃくちゃで、無様だ。思わず笑い出したくなるほどに。
オスカーが訪ねてきてから、ロベリアは部屋の外に出なくなっていた。もともと半軟禁状態でもあったし、夫のノージニッツィがロベリアに対していつもより腹を立てたのも知っている。機嫌を損ねたからこそ酷く殴られたのだし、殴られた痕はドレスで隠せと言い捨てたくらいの夫だ。殴られたロベリアが部屋の外へ出なくなっても、特に気にする素振りはなかった。むしろ、好都合だと思っているだろう。外面だけは良くあろうとする器の小さい男だから、自分が殴って怪我をした妻が、人目に付くようなことは避けたいに違いない。
ロベリアにとってもそれは好都合だった。もう人に会う気はなかったし、やるべきことはした。オスカーも馬鹿ではないから、ロベリアの真意には気づかなくともロベリアの罪には気付いているだろう。あとは時間が過ぎるのを待てばいい。
どうせ滅茶苦茶になるのなら、周りを巻き込んでしまえとロベリアは思っている。自分だけがつらいのも、自分だけが報われないのも許せなかった。自分以外にも苦しんでほしかった。ロベリアの振るう悪意を見て、誰もがロベリアを魔女と言うだろう。それでも構わない。むしろそうあってくれと願っている。
「私は魔女ではない」
鏡の中の自分を見つめながら、その青く昏い瞳を見据えながら、ロベリアは虚ろにつぶやく。
愛しい姉が、リラが、森に追放されたときのことを覚えている。あんなに優しい姉が瞳の色だけで謗られた。慕っていたのに引き離された。どうしても会いに行きたくて、森に向かった先で、リラは。
「わたくしは、魔女になる」
鏡の中の女は血のように赤い唇を動かした。
いっそ自分も魔女であったなら、とロベリアは思う。そうだったら、いつまでも大好きなリラと暮らせたはずなのに。けれど、ロベリアは魔女ではなかった。姉の薄紫の瞳とはちがう、青い瞳を持ったただの娘だった。だから姉の後を追うことはできなかったし、姉は家から立ち去るとき、妹のロベリアにライラックのブローチを託した。愛していると言い残して。
姉の胸に輝いていたライラックのブローチを手渡されたとき、幼かったロベリアにもそれが『別れ』なのだと分かった。もう二度と会えないのだと感じたとき、心の隅に闇が滲んだ。その闇はだんだんと大きくなって、ある日ロベリアを突き動かしたのだ。
森に行け、姉に会え、と。
姉を探して森に向かった先で、ロベリアは白い狼に襲われた。狼と言ってもまだ小さかったが、ロベリアの腰に噛み付いてズルズルとどこかへ引きずっていった。無我夢中で暴れたら諦めて逃げていったが、あれは恐ろしい経験だった。
恐怖のせいで記憶がところどころ欠けているが、森の中で見つけた姉も、白い動物に襲われていた。あれは何だっただろう。白い獣が姉の血で赤く染まっていたことしか思い出せない。その姉を助けようとして、あの白い狼に襲われたのだ。そのくせ、その話を大人にしても誰も信じてはくれなかった。
狼に噛まれた恐怖が勝ったのか、ロベリアの中の闇は彼女をふたたび森に駆り立てることはしなかった。
その代わり、少しずつ膨らんではその衝動の矛先を探していたようにも思う。オスカーがベビーリングの持ち主を探していると言ったとき、森に少女がいると知ったとき、心の隅に押し込めていたはずの闇が溢れてきた。もう何もかもがどうでもいい気持ちになっていた。何もかもをめちゃくちゃにしてやりたかった。
姉はああして無惨な死を遂げて、それすら誰にも悼んではもらえず、そんなことがあったことすら信じても貰えないのに。それなのに、どこぞの誰かは生きている。生きているというだけで憎かった。八つ当たりと言われればそれまでだが、だったらなんだというのだろう。目の色が違っただけであんなに無惨な最後を迎えさせられるのと、何が違うのだろう。どちらも理不尽なことに変わりはない。
自分が破滅に向かうなら、ノージニッツィにもその渦に巻き込まれてもらわなくては、とロベリアは詰め襟の息苦しい夜着をまとったままベッドに横になる。メイラー家そのものも滅茶苦茶になってほしかった。だからわざわざあんなに見え透いた痕跡を残したのだ。焼け跡に残された痕跡をたどれば、メイラー家の分家にかならず行き着くだろう。現に、オスカーはそれに気づいたからロベリアに会いに来たのだし。
すべてうまく行っている、とロベリアは笑顔を浮かべた。あと少し、あと少しで全部が滅茶苦茶になるだろう。少なくとも夫もこの身も破滅するだろうし、ロベリアの望みはそれだけだ。
「わたくしは魔女になるのよ……」
たった一人のベッドの中で、ロベリアは身体を小さく丸めた。幼い頃、雷を怖がって泣いたロベリアにリラは添い寝をしてくれた。あのときの体温を思い出す。幸せなはずの記憶は、ロベリアを慰めてはくれない。
心の一番静かで穏やかなところに巣食った闇が、手首に、首に、足首に印を刻もうとしているのをロベリアは受け入れていた。人を憎めば憎むほど、この闇はロベリアを魔女へと近づける。それはロベリアにとって、一番の救いだった。巣食われることこそが唯一の救いだった。
***
「滅茶苦茶な人だなあ」
テーブルの上に残された書き置きをつまみ上げ、トゥルーディオは呆れた顔をする。つい昨日まで森番のジェラルドが療養していたはずの部屋は、今となってはもぬけの殻だった。
使っていた寝台はきれいに整えられていて、そんなところに配慮されましてもと困惑してしまうほど、彼はきっちりと部屋の中を片付けて森に帰ってしまっていたのだ。残された書き置きには森に戻って森番を続けること、それから手当や【魔女】への待遇の手厚さなどへの感謝が書き連ねてあったが、それにしても。
「怪我だってまだ完治してないでしょうに。あのボロボロの状態でよく戻りましたよねえ」
「連れ戻すべきか?」
呆れた顔を隠せなかったクルスに「いやあ、無駄でしょう」と返し、トゥルーディオは「わざわざ行き先まで書いてあるし、大丈夫ですよ」と軽く請け負った。本当に姿を消したかったなら、魔女の従僕はこんな手段を取らない。それはトゥルーディオ自身よくわかっている。
結局、娘みたいな存在だったと言っておきながら『魔女』には一度も会わずに森番は姿を消してしまったわけだが、それにも複雑な思いが絡んでいるのも何となくだが察せられる。合わせる顔が無いのだろう。
本人もリラを手に掛けたことは仕方がなかったとはいえ、途方もない後悔を抱えているはずだ。今更なんのわだかまりもなく過ごせるほど簡単な問題でもない。
それでも、とトゥルーディオは思ってしまう。あの『魔女』にとって母親のような、優しい存在を亡くしたあと、彼が寄り添ってくれていたなら。遠くから見守るのではなく、近くで彼女を支えてくれていたなら。そうしたら、あの魔女の娘ももう少し違った道を歩めたのではないかと。あれほどに自尊心の低い、自分の存在価値を全く信じていない状態にはならなかったかもしれないと。
「世の中って本当にうまくいかないですね。頑張ったって報われないし、無害でいたって迫害される。自分のことしか考えない人間のほうが得をするし、そういう奴しか楽な生活ができない」
「トゥルーディオ?」
「秩序があるから横暴を通せるのに。善良な人間がいるから秩序が保たれているのに。横暴を言うやつはそんなことお構いなしに善良な人間を食い物にする」
人間のこと、嫌いになっちゃいそうだなあ、とトゥルーディオは言いながら、それでもクルスには微笑んでいる。
「俺、旦那さまに会えてよかったなって思ってますよ。俺たちも裁判にかけられたじゃないですか。処刑前提の。……姉さまも俺も、あそこで終わると思ってましたし、全部巻き込んで死んでやろうと思ってました。何もしてなくても疑われて、石を投げられるくらいなら本物の化け物になってやろうって。あの場にいる全員を……いいえ、あの土地すべてを呪って死のうと思ってました。姉さまも多分そうだったはずです。あの人、俺より苛烈だし」
でも、とトゥルーディオはカーテンのはためく窓に近寄って窓を閉める。おそらくはここからジェラルドは脱出したのだろう。メモには「シーツを破って悪い」と残されていたとおり、窓枠にはシーツを破って撚ったロープが垂れていた。古典的すぎて思わず笑ってしまうが、これをやってのけるのにはかなりの腕と勇気を必要とするはずだ。怪我人がやることじゃないだろとトゥルーディオは笑いだしたい気持ちと呆れ返る気持ちとで唇を奇妙に歪めた。
「あなたは俺たちを信じてくれました。だから俺たちはあなたに付いた。俺たちの魔女が処刑されて、俺たちから灯火は奪われた。そこにあなたが現れた。……あなたは、俺たちの新しい灯火なんです」
俺たちの中にあった闇をあなたが払った、とトゥルーディオは微笑む。クルスの顔は驚きに染められていた。面と向かってわかりやすい感謝を述べたことはあまりなかったし、照れくさい気持ちはあるが、伝えるなら今だとトゥルーディオは思ったのだ。
言わなきゃわからないことばかりのくせに、言ったってすべてが伝わるとも限らない。そういうところも人のやり取りは面倒くさいと思うが、人としての道を歩むと決めたならば、人としての生き方をしてやろうとトゥルーディオは決めている。
「いつかは払えるんですよ、旦那さま。闇も憎しみも何もかも。いつかのあなたが灯火になって、俺たちを照らしてくれたように」
「……そんな大層なものになれていたかな、おれは」
「自信を持ってください。あのお嬢さまもずいぶんいい方向に進んでいると思います。薬を作るのも生きがいの一つになるでしょうし、クルースニクに復讐する! みたいな目標を立てて生きるよか、よっぽどマシですよ。めぐり合わせが良かったですね」
そしてそのめぐり合わせを作ったのがあなたなんですから、とトゥルーディオはにっこり笑って、「全部うまく行きますって」と請け負った。
「これだけたくさんの人がお嬢さまのことを心配してるんですよ。お嬢さまにもそれは伝わっていると思いますし。これでうまくいかなかったら、おかしいですよ」
トゥルーディオはのんびりと笑って、未来の明るさを語る。こうして語るトゥルーディオが殴り倒され、“魔女”が攫われたのはこの日からわずか数日後のことだった。