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「何かあったのかい」
まるで気遣うようなそぶりで声をかけてきた夫に、「何でもありませんわ」とロベリアは笑顔を顔に張り付けた。本当はロベリアのことなどどうでもよいと思っているくせに、まるで想いあった夫婦かのようにこういうやり取りを仕掛けてくるこの男が嫌だった。この世で一番ロベリアを疎み、蔑んでいるくせに。ロベリアを叩くことに躊躇もしないくせに。
「そうか。何かあったら言いなさい、君は妻なのだから」
「ええ」
ロベリアにとってこの男は夫ではない。恋する対象でも、愛着を持つ対象でもない。ただの鎖だ。もしくは檻だろう。ロベリアからすべてを奪い、枯れさせていく男。
「そう言えば、森にすむ魔女はどうなったんだい? 上手く死んだかな。小屋ごと燃やしてくるように言ったんだろう?」
夫の問いかけにロベリアは一瞬どう答えるべきか迷った。
死んだ、と答えるのは簡単だ。けれど、実際のところ“魔女”は生きている。クルスの屋敷にいたのがその魔女なのだとロベリアは確信していた。
美しい銀髪に優しい菫の瞳。
──魔女と断罪されるに値する色。
青い瞳に銀の髪をもつロベリアの姿を見たときの、物怖じしたような微笑み。
──あの子はクルースニクを恐れていた。
そばについていた狼の毛にはまだ焼け焦げたようなあとがあったし、トゥルーディアやクルスの彼女に対する態度を見たときに何となくわかったものがある。
彼らはロベリアをあの“魔女”から遠ざけようとしていた。だからわざわざ、彼らの目を盗んであの“魔女”に接触した。
もちろん、クルスたちにとってロベリアのように“事情を知らない”ものに彼女の姿を見せてしまうのは避けたかったことだろう。だから、相手がロベリアであってもロベリアでなくても、同じように彼女から距離をとらせたはずだ。
けれど、それ以上。
“それ以上の理由”があったからこそ、トゥルーディアをわざわざロベリアの“世話係”にして彼女から遠ざけたのだ。
その理由にロベリアは思い当たっている。
“この男の妻だから”だ。ロベリアがこの男の妻だったから、クルスたちは彼女に自分を近づけたくなかったのではないか──と思う。
ロベリアの夫は“成り損ない”だ。
クルースニクの母親を持っているにも関わらず、クルースニクには成れなかった存在。魔を祓う才能もなく、ただの人間として生まれた存在。それでも彼の両親は彼を愛して育てたはずだ。疎むことなく、一人の人間として彼を育てたはずだ。
愛をそそいで育てたならば、人はまっすぐ育つのだ──という話をロベリアは聞いたことがある。が、この男に関してはそれは間違いだったといえよう。もしくは、彼は“真っ直ぐ歪んでしまった”。
クルースニクである母に愛をそそがれる度、その誇り高い血が流れているのにクルースニクにはなれなかった自分を恥じていたのだろう。誰よりもクルースニクに近くあろうとして、けれどクルースニクには成りきれない。ただの弱い人間のくせに、クルースニクのように強くありたがる。
彼の悪いところは、とロベリアは冷めた目で夫を見る。
彼は、オスカーのように努力をすることを知らなかった。流れる血にばかり囚われ、自分が何者であるかを見定め、受け入れようとはしなかった。いつかクルースニクの血に目覚めるのだと信じて、そうして老いていった。
彼は、結果ばかりに目を向けていた。クルースニクとは【闇に親しむもの】を狩るもののことだ。狩ることばかりを、命を奪うことばかりを考えて手段を選ばなかった。ひとたび“吸血鬼”や“魔女”だと疑えば、潔癖にもそれらを排除していった。
彼は、他人を支配したがった。自分の手の届くところに不穏分子を置きたがったし、想定外のことには酷くイラついた。だからロベリアは彼の望むように“妻”を演じた。“魔女”の妹を思い通りに動かせるうちは、彼はロベリアを痛めつけることはあっても、最後の一歩に踏み出すことはないだろうと知っていたから。
努力せず、結果ばかりに執着し、他人を支配したがる者に何が成せようか。
結局ロベリアの夫は何にもなれなかった。ごく普通の貴族の男として老いていくのみだ。老いた身体に見にくく肥大した自我を押し込めて、在りもしない虚構にその身を捧げて。【闇に親しむもの】の命を奪い続ければ、いつかはクルースニクになれるのだと信じこんで。
努力して、過程を重視して、他人のために動くオスカーは純粋な人間であってもクルースニクと成れたのに。
ロベリアとオスカーが友人であることを彼は誇らしく思っているだろう。人間であってもクルースニクとなったオスカーが、自分の妻と友人であることを自慢に思っていることだろう。けれどそれだって彼の功績でもなんでもないのだ。
つまらない男だとロベリアは思う。権高で驕傲で傲倨で、何の取り柄もない男。何も成せないのに、誰かの手柄まで自分のものだと勘違いするような男。
「──ロベリア?」
訝しむような顔が自分を見ているのに気付いて、ロベリアは「……まだ生きているかもしれませんね」と薄く笑った。自分の思い通りにことが運ばないと不機嫌になる夫を、心底見下して嘲笑っているとき、ロベリアはささやかながら彼に復讐できた気持ちになるのだ。
ロベリアの姉はこの男によって害された。
この男はロベリアがそれを知っているとは思ってもいないだろうが。
姉を喪い、“魔女”に一番近い人間だったから──と、ロベリアはこの男に囚われた。
──“お前の瞳が紫に染まることがあったなら”。
慕っていた姉がついに森へ追放されたのを知り、数年後に人の目を盗んで森へ入り。神々しく白い獣に姉が蹴り潰されているのを見て、ロベリアは泣きながら逃げ出した。恐ろしかった。何もかもが。
狼に襲われながらも森から逃げ帰ってきたロベリアを捕まえて、この男は陶然と嗤ったのだ。
──“その時は私がお前を殺してやるからね”。
最初はこの男が何をいっているのか、ロベリアには理解できなかった。姉を喪い、狼に襲われて──。半狂乱となって森から逃げてきた子供にかける言葉ではないからだ。
──“お前がまともな人間になれるよう、私も気を付けてやるけれど”。
最後に囁かれた言葉もその時のロベリアには意味のわからないものだった。数年後、この男から婚約を持ちかけられ、無理矢理に夫婦となるまでは。
「ロベリア、その魔女はまだ生きているのかい? ……どうして?」
夫が怒り狂う前に出す猫撫で声にロベリアは内心で嘲笑った。実に器の小さい男だ。けれど、それでいい。ロベリアの一挙一動に気をとられ、心を乱し、そうして襤褸を出せばいい。この男が怒っているときに冷静になれるような人間ではないことを、ロベリアはよく知っている。
「死体も見つかっていませんもの。それに……」
ひそめるように声を小さくし、ロベリアは小さく笑った。
「この前、あの方のお屋敷でそれらしい子を見ましたの」
***
音を出さないようにそっとグラスがおかれる。白ワインの入っていたワイングラスその表面に銀髪に青い瞳の優男を映し出していた。
「──じゃあ、俺の質問に答えてもらおうかな」
にこっと笑ったニックの前には悔しげな顔をしたクルースニクが二人。先日、“魔女が棲む森”へ足を踏み入れたあの二人だ。あの件に関してはこの二人がよく知っているだろう──と、ニックはまずこの二人から話を聞くことにした。
しかし、だ。
ニックが高位のクルースニクとはいえ、【闇に親しむもの】への態度が友好的であるからと、彼らはなかなかニックの話に付き合ってはくれなかった。
それならば、とニックは平和的に解決する道を選んだ。
力業でどうにかすることもできたが、加減を間違えてクルースニクの死体が二つ転がるのもよくない。何でもそうだが、平和的に解決できるならそれが良い──例えば、【対話】とか。
【対話】の結果、酔い潰れたクルースニクが二人出来上がったわけである。
大概のクルースニクは愚直で、一度交わした約束はまず破らない。嘘をついて逃げたりすることもまずない。この二人もその例に漏れないことをニックは把握していた。だから──。
──“酒の飲み比べで勝ったら話を聞かせてくれ”。
ニックはそう約束を取り付けたのだ。
クルースニクの性質からすれば──“真面目”だと言われる彼らたちのイメージからすれば──“酒の飲み比べで勝ったら”などという話は端から聞き入れられることなど無さそうなものだ。しかし、一般的な“飲酒”とクルースニクたちの“飲酒”は少し意味が異なってくる。
クルースニクにとって、飲酒とは魔除けの意味合いが強い。吸血鬼が白ワインを嫌うのは好く知られていることだが、酒というものは神への供物とされることも多いほど神聖なものだ。その神聖なものを身体に取り込む“飲酒”は、クルースニクにとっては儀式的な意味を持つ行為だった。
人間とは体質が違うとはいえ、クルースニクとて酔わないわけではない。
飲酒による“酔い”、つまりは酩酊である種のトランスを引き起こし、普段以上の力を呼び起こすこともあった。
ただ酒を飲むといっても娯楽的な面の強い人間の“飲酒”とはまた違った意味合いを持つ行為であり、神聖な行為であり、だからこそ“飲み比べ”が成立するわけだ。
強いクルースニクほど酒に強く、潰れにくい──という話がまことしやかに囁かれているくらいには。
「うう……いくらニックさまと言え、ど……!」
「なんでそんなに飲め……うっぷ」
顔を真っ赤にしてうめく二人に「年季が違うんだよ」とニックはニヤリとして見せる。店の酒樽を空にした経験ならそこらの飲んだくれよりも多いのだ。羽目を外すことなく真面目に酒を嗜んできたクルースニクに負ける気はしなかった。なんならグラスでちびちび飲まずとも良かった。上品とは言えないが、ボトルから直接飲んだって良かったのだ。ニックにとってはこの程度の酒など水のようなものなのだから。
「俺の勝ちで良いよな?」
酔いつぶれかけた二人が飲んだ酒の量よりもニックの飲んだ量の方が遥かに多い。二人も素直に敗けを認め、渋々ながらニックの問いに答えを返し始めた。呻きながらの返答は少々聞き辛くはあったが、何も得られないよりましだろう。今にも吐きそうな二人を介抱しながら、ニックはあの森での一件へ質問を重ねていった。




