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 あたたかい毛布にくるまって、引き締まって堅い猫の腹に顔を埋める。しかし、顔は全く埋まらなかった。今までになかった感触にニルチェニアの顔は緩む。ふかふかした柔らかなお腹だったものがかちかちと引き締まっていても、ノーチの体温は変わらない。ノーチがいてくれるだけでそれは幸せなのだ。多少むきむきになったところでノーチのかわいさは変わらない。


 猫の腹の温かさを堪能していれば、ノーチが面倒くさそうにニルチェニアの顔を押し退けてくる。“だめ?”と顔をふにゃふにゃにゆるめて、ニルチェニアは猫の腹から顔を離した。金色の瞳がニルチェニアをちらりと見て、ニルチェニアの腕に頭をのせてくる。そのままニルチェニアの腕を枕に寝始めた。かわいい、と顔がゆるんでしまう。この黒猫はこういうところが最高にかわいいのだ。普段はちょっとふてぶてしかったりするけれど。


 ニルチェニアがノーチの寝顔を見ながら幸せな気分に浸っていれば、今度はアガニョークがニルチェニアの顔を鼻先でそっとつつく。くうん、と甘えるように鳴いてそのまま鼻先を胸に押し付けてくるものだから、思わずにやにやとしてしまう。見た目こそ怖いがこちらも最高にかわいい。ニルチェニアの胸に頭をのせてきた狼を撫で回す。


 ──夢みたい。


 あの燃えてしまった小屋で過ごした日々を思い出す。いつもこうして二匹と過ごしてきたのだ。ノーチもアガニョークも、ニルチェニアにはなくてはならない友達だった。ノーチとアガニョークがいれば、ひとりぼっちでも寂しくなかったのだ。


 ──ここはあたたかい。


 クルスもトゥルーディアもトゥルーディオも、誰もがニルチェニアに親切にしてくれる。

 暖炉の火が消えていないか、寒くないか、温かい飲み物はいらないか、とか。


 トゥルーディアはあかぎれやささくれだらけだったニルチェニアの手のひらにクリームを塗ったりしてくれて、ニルチェニアの手の冷たさと白さに「まるで雪の精みたいじゃありませんか」などと微笑みながら手を握ってくれた。


 トゥルーディオは時折「内緒ですよ」とニルチェニアにこっそりお菓子を持ってきてくれる。持ってくるのが昼食前や夕食前だから、いつもトゥルーディアに怒られてしまうけれど。


 クルスは言わずもがなだ。ニルチェニアのような“魔女”を、嫌な顔ひとつせずに屋敷においてくれている。寒い外に追い出すことも、冷たい言葉をかけることもない。


 あの森の中の小屋は一人で暮らしていくには問題なかったけれど、いくぶん古くなってきていたからすきま風も吹き込み放題で冷たかった。冬場は窓の隙間や戸の隙間に干した草を詰めたり、アガニョークとノーチにくっついてもらって暖まったりしたものだけど、それでも寒いことに代わりはなかった。


 寒くて、薄暗くて、湿った森の小屋。

 自分はずっとあそこで暮らしていくものだと思っていたのに。


 ──もう、ないものね。


 思い出のつまったあの小屋はなくなってしまった。

 そのかわり、ニルチェニアたちは今こうしてあたたかい場所で過ごせている。何年ぶりかしら、とニルチェニアはうとうととしながら考えた。


 幼い頃はニルチェニアもこうしてのんびり暮らせていたのだ。日の入らない部屋ではあったけれど、暖炉もあったし大好きな本もたくさんあった。あの頃はアガニョークやノーチの代わりに大きなくまのぬいぐるみを抱いていたように思う。朝と夜には両親が会いに来てくれて、兄が顔を見せにきてくれて、ニルチェニアはそれで十分だった。


 ──トゥルーディアさんもクルスさんもいつまでもここにいて良いと言ってくれるけれど。


 いつかは出ていかなくちゃ、と考える。“魔女”を側においておくことの危険さをクルスは知っているはずだ。それを知っていてなお側にいてくれることに、嬉しさも申し訳なさも感じてしまう。


 ──ただ「出ていく」だけでは許してもらえないだろうから。


 理由を見つけなくては、とニルチェニアはアガニョークを撫でる。説得力のある理由がなければトゥルーディアたちはニルチェニアを心配し、外へ出さないだろう。一人で生きていく力を身に付けない限り、優しい彼らはニルチェニアを保護し続けるはずだ。


 ニルチェニアはしばらく無言でアガニョークを撫でる。撫でているうちに扉が控えめにノックされた。誰だろう、とニルチェニアはぱっと身を起こす。ノックの音にノーチも気づいたのか、猫らしからぬ不機嫌そうな顔で眠そうに鳴いた。


「──こんにちは」


 そうっと、申し訳なさそうに扉が開く。


 トゥルーディアではない。ニルチェニアが合図を──ベルをならす前に扉を開けたのだから。

 身構えたニルチェニアは、扉から顔を覗かせた女性が寝転がっているアガニョークに怯えるそぶりを見せたのにはっとした。


「え、ええと……。その」


 どうしたものだろうか、とアガニョークを見つめる女性にうなずいて、ニルチェニアは眠たげなアガニョークを抱き寄せる。アガニョークは眠いのか、入ってきた女性をちらりと見て興味をなくしたようにあくびを漏らした。


「大丈夫、かしら……」


 おずおずとしたその様子にニルチェニアはこっくりと頷いた。女性は後ろ手で扉を閉めて、ニルチェニアにはにかむ。おはようございます、とにっこりされたあとに申し訳なさそうに「お話がしたくて」と続けられたものだから、ニルチェニアは少しだけ毒気を抜かれた。


 入ってきた女性の髪は銀色で、その瞳は青い。クルースニクかと考えてしまったが、その声には聞き覚えがあった。狼に怖がるのも。

 昨日、廊下で会った女性だ。クルスの親戚のようなひと。


 自分の性質上──“魔女”という存在である以上──あまり知らない人間と関わるべきではないが、クルスの親戚であるならば少しくらいは平気だろう、とニルチェニアは女性の求めに応じた。とはいえ、喉は煙でいぶされてしまって話せないのだ。トゥルーディアが前に用意してくれていた皮紙とペン、それからインクをベッドサイドのテーブルから手にとって、ニルチェニアは“声がでないのですが、それでもよろしければ”と書き連ねる。


 女性はニルチェニアの手元をみて不思議そうな顔をしていたが──何故ニルチェニアが急にペンを手に取ったのか不思議だったのだろう──ニルチェニアが書き連ねたそれを見るなり、「喉がお悪いの?」と心配そうな顔をして見せた。


 ──“少し”。


 ニルチェニアは少し考えてから短い答えを綴った。

 火事でこうなりました、などと正直に言うつもりはなかった。どうしても重い話になるし、初対面同然の相手に話すことでもない。


「風邪なのかしら? 早く治ると良いわね」


 心配そうな顔つきにニルチェニアは懐かしい気持ちになる。女性の顔はどこかリラに似ていて、昔ニルチェニアが風邪を引いたときに同じような顔をしたのを思い出したからだ。


「今度、ここへきたら喉に効く飴を持ってくるわ。薬草を煎じたものらしいから、苦くて美味しくはないのだけど……」


 でも効果はてきめんなのよ、と女性は得意気に笑う。それから、興味津々とばかりにニルチェニアの顔を覗きこんだ。


「クルスさまったら、こんなに可愛らしい子を連れてきているなんて。ねえ、クルスさまの大事な人だったりするのかしら?」


 昨日もそんなような言葉を口にしてクルスを困らせていたな、とニルチェニアは女性の瑠璃溝隠(るりみぞかくし)の瞳を見る。顔の雰囲気はリラにそっくりだけれど、少し子供っぽさもある表情はリラには似ていない。そういうことなのだろうな、とニルチェニアは一つ、息をついた。


 恋愛のお話がお好きなの、と皮紙に綴ってから、ニルチェニアは思い出したように“クルス様の大事な人ではありません”と付け足した。ふうん、そうなの、と女性は興味をなくしたように呟く。


「ごめんなさい。私、お友だちも少なくて……そういう話をできる人もあまりいないものだから。昨日の夜、あなたを見かけて……。お話ししたいと思ったのよ」


 ──“そうなんですか”。


 この人はきっと結婚をしているのよね、とニルチェニアは女性の指にはまっている指輪を見つめる。歳はニルチェニアとたいして変わらなさそうだが、貴族であるならば結婚していてもおかしくはない。

 貴族の、特に女性においては結婚が決まったときに指輪をつける慣習があるのだ。仕事をするのに邪魔であるから──と、庶民たちにはあまり広まっていない。その代わり、平民の場合は耳飾りをつける人が多いのだそうだ。


「ああ……これね。そうよ。結婚はしているけど、家にこもりきりだから。同年代の人と話すことも少ないの。満月の日が近づくと、こうしてクルス様の家に預けられるくらいで。ほら、クルス様ってクルースニクの心得があるでしょう?」


 昔クルースニクに弟子入りしていたから、と続けた女性にニルチェニアはなるほど、と頷いた。だから“吸血鬼避け”などをニルチェニアに渡してきたのかもしれない。オスカーとも懇意のようであったし、あのクルースニクのニックという人とも随分親しい様子だった。“先生”と呼んでいたような気もするし、もしかするとクルスの師匠は彼なのだろうか。


「……友達が会いに来るのは許してくれるのよ。でも、屋敷とクルス様の……従兄の屋敷を行き来する生活で、友達なんて滅多にできないの。だから──」


 ──“友達になりましょう”。


 女性が次の言葉を紡ぐ前に、ニルチェニアはそう綴った。女性は驚いたようにニルチェニアを見つめ、小さな声で「どうして」と呟く。呆然としたような、どこか信じられないとでもいうような声にニルチェニアは小さく微笑んだ。


 ──“わたしも、女の子のともだちはいないから”。


 かつて、ニルチェニアを拾って育ててくれたリラは、ニルチェニアにたくさんのものを与えてくれた。ニルチェニアはリラのようになりたいと思いながら生きてきたのだ。与えてもらったたくさんのものをいつか返したいと思いながら、結局それは叶わなかった。


「……じゃあ、また今度」


 今度は飴を持ってくるわ、とどこか落ち着かなさそうな声で、女性は一度だけニルチェニアの手を握った。冷たい手にニルチェニアは驚きながら、そっと自分の手を重ねる。それにも女性は驚いたようだ。ニルチェニアを見て、何事かを口にしたものの──囁きより小さなそれははっきりとは聞き取れない。逃げるように部屋を出ていった女性にニルチェニアは首をかしげる。


 “ごめんなさい”。そう唇が動いた気がしたけれど、謝られることなんてなかったはずだ。手が冷たいのを謝られたのかしら、とニルチェニアは皮紙を見つめる。

 クルスは元より、最近ではトゥルーディアもトゥルーディオもニルチェニアの唇の動きだけで言葉を読めてしまうから、皮紙を使うことはなかったのに。


 そう長い時間でもなかったけれど、ペンで綴った言葉が皮紙のあちこちに散らばっている。それが何だかくすぐったくて、ニルチェニアは微笑みをこぼした。


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