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鬱蒼と生い茂る森の中は、湿った土と草の香りがする。普段は貴族らしく屋敷で暮らすオスカーにとっては、馴れない香りだ。けれど、不快ではない。ひんやりとした空気を肺一杯に吸い込んで、オスカーは伸びをした。餓えた獣がいる──というのが多少不安ではあるものの、人探しのついでにリフレッシュしに来たと思えば、森のなかを散歩するのも案外悪くない。
しかし、そんなのんびりした空気はすぐに壊された。オスカーが森に足を踏み入れ、しばらく歩いた頃だ。妙な風切り音を耳にしたときには、オスカーの足元には一本の矢が深々と刺さっていたのだ。猟師のものでも、狩人のものでも、あの森番のものでもないとすぐにわかった。
地に刺さった矢を引き抜けば、矢じりの先には何かの薬がべったりと塗られている。恐らくは毒薬か麻痺を呼び起こす類いの軟膏であろうが、獲物を仕留めるときに猟師はそんなものは使わない。全身の肉に毒などが回った獲物に価値はないからだ。毒塗れになった獲物を食べたいと思う人間はいないだろう。
あの森番も、もしオスカーを始末する気なら毒矢など回りくどい手は使わないに違いない。彼は立派な猟銃を持ち合わせていたから。
命を奪われるような心当たりはないはず──と考えて、自分がクルースニクであったことを思い出す。【闇に親しむもの】だ。恨みならめちゃくちゃ買ってたな、と妙に冷静になりながらオスカーは森を走った。飛んで来る矢の間隔、本数から考えて相手は一人ではなさそうだ。三人はいる、と舌打ちをする。弓を引く【闇に親しむもの】なんて聞いたことがない。出来れば出会いたくもなかった。
多勢に無勢では、戦い慣れしたオスカーもどうにもできない。これが接近戦ならいざ知らず、相手の姿も見つけられずに矢を射掛けられるのだ。うさぎ狩りのうさぎになったようなもので、忌々しいという他ないだろう。相手に背中を見せて逃げるのは下策、とはいえこの森の中ではなすすべもなく逃げるしかなかったのだ。せめて、視界の開けるところまで。そんなところがあるのかもわからないが、走り続けるしかない。
「──っ!」
鋭い痛みが肩に走る。自分の肩に何が刺さったのかは明白だった。焼けたような熱さを感じる。足がよろけ、体勢を崩し、地面に突っ伏すようにオスカーは倒れこむ。矢の刺さった部分からしびれが回る。口が情けなく開き、全身からは汗が吹き出す。寒気にも似た何かがオスカーを包み込んでいく。左足にもう一本矢が刺さったのに、オスカーは気が付かなかった。
まぶたがゆっくりと落ちていく。死の恐怖がそこにあった。
***
「あら、どうしたの」
普段は滅多に鳴かない飼い猫のノーチが、珍しくにゃあにゃあと騒ぎ立てるものだから、ニルチェニアは少し困ったようにノーチの背を撫でた。
ニルチェニアがここにきたばかりのころには、すらりとした黒猫だったのに。今やふっくらと大きな──クッションのような猫である。狩りもなかなかしないこの猫は、鳴くことも滅多にない。餌をもらうときだけニルチェニアに鳴くことはあったが、最近はそれもしない。足元によって来て、尻尾でニルチェニアの足首を叩くことのほうが多かった。怠惰を具現化したような猫だ。そこがたまらなく可愛いのだけれど。
ご飯の時間はまだよ、とニルチェニアが話しかけた瞬間、その丸々とした身体からは想像もつかないほど軽やかにノーチは飛び上がった。器用に出窓の棚へと着地して、みゃあみゃあと落ち着かなさそうに鳴き続ける。
外に何かあるのかと、ニルチェニアは窓の外に目を向けた。それから、血相を変えて外へと飛び出す。
「アガニ……アガニョーク! あなた、なんてことを……」
ニルチェニアが目にしたのは、血まみれの男を背にのせて帰って来た飼い狼のアガニョークだ。狼にしては珍しく真っ白な身体。それを男の血に赤黒く染めて、アガニョークは、駆け寄ってきたニルチェニアに鼻をすり付けた。
「人は襲わないでと──」
教えたでしょうと言いかけて、アガニョークの背中に乗せられたものがアガニョークの獲物でないことに気づく。肩と左足に矢が刺さり、何故だか背中は傷だらけで火傷のあとも見受けられる。狼が人に火傷を負わせることはないから、つまりアガニョークは。
「助けようとしたのね……」
疑ってごめんなさいとアガニョークの頭を撫でて、家に運ぶようにと狼に頼む。誇らしげに鳴いた狼は、背中に乗る男を落とさぬように慎重に歩みを進めていく。
ニルチェニアも急いで家に戻り、治療の準備を進めた。火傷や傷の治療なら、自分の面倒を見てくれていた女性に嫌というほど教え込まれた。【魔女】を助けてくれるものなどいないから、という言葉と共に。自分の身を救うのは自分しかいないのだと、ニルチェニアは身を以て知っている。
数日前に町に出ていてよかったとニルチェニアは息をついた。薬草もたっぷり買い込んだから、ひとを治療するくらいなら大丈夫だろう。幸い、作っておいてある軟膏にも余裕がある。
あの日、軟膏を売りつつ薬草を買いに町に出たときに、大切なものをなくしてしまった。それは辛いけれど、人としての生活に区切りをつけたのだと割りきれば諦めもつく。自分の手では捨てきれなかったものだから。いつか偶然に任せて失ってしまえば、きっと踏ん切りもつくだろうと思っていたから。
床にそっと下ろされた男を、アガニョークの力を借りてニルチェニアはベッドに横たわらせる。そうして飼い狼のアガニョークは男の体を押さえつけるように馬乗りになった。それを見て、ノーチ、と呼べば、肥えた黒猫が男の左足の付け根付近にのし掛かる。そのまま押さえていてね、とニルチェニアは二度ほど繰り返した。自分に言い聞かせているも同然だ。誰かが押さえてくれていないと、矢をうまく抜けないから。矢がうまく抜けなかったら、手元が狂いでもしたら、この青年が助かる確率はぐっと下がる。自分の気持ちを落ち着かせるために、ニルチェニアは飼い猫にまた話しかけた。
「引き抜いたらそこからが勝負だから」
手元に薬草と清潔な布、それから怪我に効く軟膏を用意して、ニルチェニアは矢をつかんだ。ノーチ、ともう一度呼び掛ける。
「わたし、あなたの重さには全幅の信頼をおいているの!」
心得たとばかりに、にゃあ、と黒猫が鳴く。
膝にのって来たノーチを撫でながら、ニルチェニアは深く息をついた。アガニョークがつれてきた男の治療は先ほど終えて、あとは彼が目を覚ますのを待つだけ。矢に塗られていた麻痺薬が厄介ではあったけれど、あれは時間をおいて自然に抜けるのを待つしかないものだ。むしろ、男の身体がそれで弛緩していたお陰で治療中に暴れられずにすんだ。麻酔もない中でああいった治療を施すとき、人の身体は無意識でも痛みに反抗するものだ。ニルチェニア一人では暴れる男を押さえつけることはできないから、好都合だった。
「……あの人、大丈夫かしら」
無我夢中であったとはいえ、医者でもないのに人を救うという大それたことをしてしまった。背中にぐっしょりと嫌な汗をかいたし、いまだに心臓がばくばくとしている。処置を終えたときには体から力が抜けてしまって、床に倒れそうだったのをアガニョークが支えてくれた。
「少しだけ眠るね……」
椅子に深く身体を預けたニルチェニアの足元にすり寄って、アガニョークが小さく鳴く。ノーチはニルチェニアの膝から滑るように降りると、アガニョークの背中へと着地した。予想外の重さにアガニョークは驚いたようだったが、大人しくぺたんと座り込む。疲れきって眠ってしまった飼い主の足首に鼻先をすり付けながら、アガニョークもゆっくりと瞼を閉じる。一人と一匹の安らかな寝息が響く部屋で、ノーチも大きなあくびをひとつこぼした。
一時間眠ったかどうか、少しの眠りについたニルチェニアは男の呻き声で目を覚ました。どうやらあの麻痺の薬が抜けたようだ。薬が抜けてしまえばあとに残るのは痛みだ。男の場合は火傷もおっているから、今が辛いときだろう。先代の【魔女】から作り方を教わった火傷治しの軟膏を手にとって、男の背中へ塗っていく。背中には火傷と共に傷もたくさんあった。そのいずれもが古い傷だ。軍人か何かだろうか、とニルチェニアは首をかしげる。彼が身にまとっているのは、白いシャツに刺繍の施された外套。ビリビリに破れてしまったり焦げたあとも残っているが、上等そうな衣服であるし、服装からすると貴族か、あるいは──
「聖職者……」
一言呟いて、ニルチェニアは首を振る。このまま助けてしまっても良いのだろうか、そんな考えがよぎったからだ。けれど、死にかけて苦しんでいるものを見殺しにすることなど、ニルチェニアにはできなかった。ニルチェニアを拾ってくれた先代の魔女は、死にかけていたニルチェニアを見捨てることなく拾ってくれたのだから。そんな優しいひとに助けられた過去を持つからこそ、見捨てることができなかった。
アガニョークが男の服に鼻を近づけ、フンフンと匂いを嗅いでいる。今はやめて、とアガニョークを遠ざけて、ニルチェニアは額に滲む汗を拭ってやる。男の苦しそうな顔が、少しだけやわらいだ気がした。




