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クルスの部屋から飛び出てきた“何か”を、ニルチェニアは凝視した。満月とはいえ窓のカーテンなどはすべて閉じてしまっているから、角灯の明かりだけがうすぼんやりとしていてその“何か”が何なのかよくわからない。
黒くて、艶々した毛があって、それから獣特有の美しい曲線の身体。逞しい筋肉。ムキムキとしたその姿はニルチェニアには見覚えのないものだったが──。
──にゃあ。
丸い月のような金色の瞳に、少し低めの鳴き声。それには覚えがある。
目がなれてきて、飛び出てきたものが猫だと知れた。指先を震わせながら、ニルチェニアは黒猫に手を伸ばす。
自分の記憶の中のクッションのような丸々と肥えた猫と、今目の前にいる逞しい猫。その姿を重ね合わせて──重ならなかったけれど──、ニルチェニアはノーチ、と唇を動かした。
みゃあ、と大きな猫がすり寄ってきたのにニルチェニアは興奮ぎみにその身体を抱き締める。すりすりと額を押し付けられたのが最高に愛しい。
ノーチ、と何度も呼んでニルチェニアは艶々とした毛並みにに顔を押し付けた。声は出ていなくとも、ノーチはニルチェニアが自分を呼んだのに気づいたのだろうか。ざらつく舌でニルチェニアの頬を一度だけ舐めた。ぎゅうっと心臓が締め付けられたような気持ちになる。目の奥が熱くなって、熱い雫が溢れてくる。
──ごめんね。ありがとう。守ってくれて、ありがとう。
吸血鬼に襲われたときに流したものとは違う涙が、ニルチェニアの頬を伝って落ちていく。脂肪がすっかり筋肉に変わっていたとしても、抱き心地が少々変わっていたとしても、ノーチはノーチだ。ニルチェニアの可愛くて大事な家族なのだ。
部屋の前で座り込み、猫を抱えて泣くニルチェニアにトゥルーディオがもらい泣きをしてしまったのか鼻をすする。
どうして君が泣くんだ……と微笑みとも苦笑いともつかないそれをこぼしたクルスに、「なんか気持ちがわかっちゃうんですよ……!」とトゥルーディオは目元をぬぐった。
良かったなぁ、と鼻をすすって、「良い話だ……」とトゥルーディオは何度か呟く。その背をクルスはぽんぽんと叩いた。
年若い娘の小さな背中がさらに丸まって、夜を映したかのような黒猫を抱き締める。そんな姿が月明かりにぼんやりと照らされている光景は、トゥルーディオでなくともほろりとしてしまうのかもしれない。
ニルチェニアがようやっと顔をあげた頃、大人しくしていたアガニョークがノーチの方へと歩みを進めた。
アガニョークもノーチの変わりぶりに驚いたのか、前足でおそるおそる黒猫をつつく。ノーチはニルチェニアの腕から抜け出て、アガニョークの足に優しく噛みついた。噛みついてきた黒猫をじっと見つめ、白い狼は黒猫に鼻をおしつけ、猫の匂いを確かめる。記憶の中のそれと合致したのだろう。まるで笑うかのように口を開けて、ぐるぅ、と穏やかな鳴き声を漏らした。みゃあ、とノーチもそれに返す。顔をぐしゃぐしゃにしながら泣く飼い主に、なだめるように二匹が身体をすりよせる。
この場で唯一“獣の言葉”を理解できるトゥルーディオが、白狼と黒猫の鳴き声の応酬を耳にして何度も目頭を拭っている。
寝るどころの話じゃなくなってしまったな、とクルスは微笑む。吸血鬼の現れた恐ろしい夜だったけれど、一人と二匹にとっては幸せな夜になっただろう。少しはあいつへの印象が良くなると良いんだが、と幸せそうな少女の泣き笑いを視界におさめ、クルスはそっと息をついた。
***
二匹と一人が幸せな夜をすごし、爽やかな朝を迎えた頃。
クルスは死にそうな顔つきのクルースニクの、死んだ魚のような眼を見る羽目になっていた。生気が全くない。まるで吸血鬼に血を吸われた後のように。
朝一番でクルスの屋敷にやって来たのは、昨夜大活躍したという噂のオスカーだ。
彼が夜明けと共にクルスの屋敷に訪れることは予想がついていたから、クルスはオスカーのために食事も風呂も用意させて待っていた。
満月の夜の翌日のクルースニクがどれだけボロボロなのか、クルスはよく知っている。満身創痍という言葉が本当にぴったりなのだ。
満月のあとのクルースニクといえば、いつもはかっちりと着こんだ礼服もシワと砂ぼこりまみれだったりするし、きれいに結い上げた髪だってほつれたり崩れたりと枚挙にいとまがない。誰がどう見ても“疲れきっている”のだ。クルースニクに人間味を感じるときがあるのだとすれば、それは満月のあとの疲弊した姿だろう。
少しでも身体をやすめて欲しいという気遣いで風呂も食事も用意していたのだが、食事と風呂の前にオスカーが口にしたのは「大変申し訳ない」という謝罪の言葉だった。
予想はしていたものの、見事な頭の下げっぷりにクルスは苦笑いしてしまう。
「……あの子の前に姿を出すなって言われてたのに、こんなにもすぐに約束を破ることになるなんて」
「不可抗力だ」
「それにしたって……。最悪だろ……」
あの子は、と聞いてくるオスカーに「部屋で寝ている」とクルスは返す。怖がって逃げたりしてない? と重ねて確認してきたオスカーに「大きな黒猫と白い狼をつれてこの屋敷から逃げるのは難しいだろうな」とも口にした。目立つから、と。
「そういう意味じゃなくてさ……。いや、それなら何よりなんだけど……。その、僕について何か言ってたり……?」
恐る恐る、といった様子のオスカーにクルスは首を横に振る。
「何も」
「そ、そう……」
それはそれでちょっと気になるんだけど……とオスカーは落ち着かない様子でクルスの顔をちらっと見た。「部屋は教えない」とクルスは聞かれる前に断った。
「今は行くつもりがなくとも、知ってしまったら行かずにはいられないだろう。ダメだ」
「……だよね。うん、諦める……」
怖がらせたら元も子もないし、と言いつつもオスカーが残念そうなのにクルスはぽんぽんと背中を叩く。何かあったら伝えるから、と。
「ノーチに関しては本当に喜んでいたよ。火事のときにあの子をかばったようだったから。死んだものと思っていたようだ」
「そうだったんだ。……そうか、じゃあ連れてきて正解だったな。そっか、喜んでくれたんだ」
良かった、と微笑むオスカーに報われてくれれば良いんだがな、とクルスは思ってしまう。
身内の贔屓目ではあるけれど、少し胡散臭そうな雰囲気とは違ってオスカーは良い奴だ。魔女の勘違いは根深そうだが、何とかしてその誤解をといてやりたいとクルスも思っている。
嬉しそうなオスカーにクルスは前々から聞きたいと思っていたことをたずねてみることにした。
「……あの子は。……オスカー、君にとってあの子は何なんだ?」
「えっ。何、急に」
「きちんと聞かせて貰っていなかったな、と思ってな。……命の恩人、で終わるものか?」
「……どういう意味だよ」
「分かっているくせに」
「君だって分かってるだろ」
耳の先を少し赤くして、そっぽを向くオスカーに「君がそういう気持ちを抱く相手を見つけるなんてな」とクルスはやんわり笑った。別にいいだろ、と照れたような口ぶりのオスカーに「からかいたいわけじゃないんだよ」とクルスは穏やかに紡ぐ。
特定の人間と深い間柄になろうとしてこなかったオスカーに、ようやっと訪れたらしい春。クルスはそれを祝福したいのだ。
「好きだよ、ちゃんと。……彼女が僕をどう思ってるかなんて、もうわからないけど」
「……報われてほしいと思っている」
「──ありがとう」
オスカーの耳につけられた青い石のピアスがきらりと光る。ずいぶん立派になってしまったな、とクルスは息をつきながら気が抜けたように微笑んだ。
「同じころにクルースニクを目指したのに。全く別の道を歩くことになるとは」
「そうかな」
全く別の道なんかじゃないよ、とオスカーは眠そうな顔で笑う。ふにゃふにゃにふやけた顔で笑うところを見るのは、クルースニクの修行時代ぶりかもしれない。寝不足になると普段よりもよく笑うんだよな、と兄弟子の顔に苦笑いした。
「僕も君も、良いことをしようと思ってやってるんだからさ。……全く別なんかじゃないよ」
「そうか」
「そうだよ。……だから僕も先生も、君を応援してるんだから。自信もってよ」
ふあ、とあくびを噛み殺し損ねたオスカーに「いつもの部屋が空いているから」とクルスは鍵を差し出した。オスカーがここで寝泊まりするときに使う部屋だ。ありがとう、と礼をのべて、眠たげな顔でオスカーが部屋を出ていく。
「……おれも少し寝るか」
昨日の夜は吸血鬼騒ぎで寝るどころの話ではなかったし、魔女と猫の件もあった。昼くらいまで寝ても許されるだろう、とクルスは伸びをする。ばきばきと背中の方で大きな音がしたが、聞かなかったことにした。




