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「……っ! お嬢様!?」


 門番の青年が驚いた声を出したが、それをかき消すようにアガニョークが遠吠える。狼の遠吠えは満月の夜によく響いた。

 アガニョークに弾き飛ばされたオスカーはゆっくりと立ち上がり、ニルチェニアたちを見据えた。ぺろり、と唇をなめて目をゆっくりと細める。


「嗚呼、随分と……そこの男より美味そうだ」


 アガニョークがぐるるる、と威嚇するように唸る。声を聞いてニルチェニアはぞっとした。

  目の前にいるのは間違いなく“オスカー”だが、夜に響いた声はオスカーのものではなかった。しゃがれた老人のような、聞いていて背筋が粟立つような声。ニルチェニアが以前に聞いていた“オスカー”の優しい声とは似ても似つかない。


「お嬢様! それは吸血鬼です! クルースニクの……! オスカー様に化けて……ッ!」


 門番の青年が叫ぶ。吸血鬼、とニルチェニアが言葉を理解したときには、“吸血鬼”はニルチェニアの目の前まで迫っていた。突き飛ばそうとしたニルチェニアの腕を掴み、にたりと笑う。オスカーと同じ顔の筈なのに邪悪さは桁違いだ。


 冷たい微笑み。薄い唇が弧を描いたところから、わずかに覗く牙が鋭く光っている。獣のようであり、ヒトの邪悪さを具現化した生き物のようでもあった。


 恐ろしい、とニルチェニアは心から思った。“この世のもの”ではない匂いがした。直感だ。関わってはいけない。おぞましく、到底敵うことのない相手であり、宵闇の住人なのだと。光の元を歩くことを赦されない代わりに、夜の闇においては絶対的な存在なのだと。


「抵抗しても構わんが、無駄に苦しむだけだぞ」


 ニルチェニアをそのまま乱暴に地面に押し倒し、吸血鬼は舌舐めずりをする。頭を打つのは辛うじて避けられたが、背中がひどく痛んだ。呻くニルチェニアに満足そうに嗤い、喉を押さえつけながら吸血鬼は歌うように囁いた。


「最近はクルースニクどもが勢いづいていたからなぁ。……こんなご馳走に出会えるとは思っていなかったよ」


 喉をつかんでいる吸血鬼の手を苦しげに引っ掻くニルチェニアをにやにやと見下しながら、吸血鬼は吐き捨てるように笑った。


「お前、口が聞けないのか。良い悲鳴が聞こえたろうに残念だ」


 歪んだ笑みを見せた吸血鬼の瞳が紅く光る。それが意味するのが抵抗を封じる“呪い”だとニルチェニアは知っている。だから目をそらそうとした。


 しかし、目をそらそうとすれば「俺を見ろよ」と顎を掴まれ、無理やりに目を合わせられる。まぶたを閉じようとすれば死人のように冷たい指がニルチェニアのまぶたをおさえ、こじ開ける。


「その目玉ごとほじくりかえして食べても良いんだぞ」


 赤い舌が吸血鬼の薄い唇を滑る。鋭い牙を覗かせて、ニルチェニアの首もとに吸血鬼の顔が迫った。

 いやだ、とニルチェニアは足をばたつかせる。どうして他者の欲を満たすための相手に、自分が選ばれなくてはいけないのか。

 けれど、抵抗したら殺されるのかもしれないと思えば怖くて体が強ばる。恐怖に涙したニルチェニアに愉快そうに笑って、吸血鬼は冷たい親指でニルチェニアの涙をぬぐった。死人のように冷たい肌に撫でられても、安心などできなかった。知らない人間に急に触れられたときのような気持ち悪さが残る。


「満月の夜に外に出るからだ」


 運が悪かった自分を恨め、と鼻で笑った吸血鬼は、うっとりとした顔でニルチェニアの首に口づけた。冷たい舌が血管を探すように蠢き、それからピタリと止まる。吸血されるのだとニルチェニアの心は冷えた。牙だろうか。何か鋭いものが血管の上に当てられ、今まさに貫かれんとしていたとき。


「……その子から離れて」


 よりによって僕の姿で何をしているの、と声が降ってくる。一度ニルチェニアから体を離し、顔を上げた吸血鬼の「クルースニクか」といううんざりした声にニルチェニアは身をすくませた。どうして、と音の伴わない言葉が唇からこぼれる。


 ──どうして。どうして、“この人”が。

 ──満月だから? クルースニクだから?


 恐怖と混乱のなか、ニルチェニアは吸血鬼に押さえつけられながらも声の主を見てしまう。どうして彼がここにいるのだろう。どうしてニルチェニアを助けようとするのだろう?


 クセのある銀髪にアイスグレーの細い瞳。動きやすさを重視したデザインのコートは、聖職者としての装いとして許されるもののギリギリの範疇だ。コートに金糸で刺繍がされていなかったら、誰も彼のことを聖職者やクルースニクとは思わないだろう。彼の雰囲気は他のクルースニクに比べて“優しい”から。


 月夜にきらりと煌めく金糸は、今のニルチェニアにはすがりたいほどに輝いて見えた。


 闇を祓う光。

 怪物と対峙し、怪物を退治するクルースニク。


 ──オスカーさん。


 ニルチェニアの視線が向けられたのに気づいたのだろうか。

 一瞬だけオスカーの瞳が動揺したように見えた。けれど、その瞳はすぐに冷静さを取り戻す。ニルチェニアから目をそらして、オスカーは冷ややかに吸血鬼を見据えた。


「三度目はないよ。その子から離れな」

「半端者が偉そうに」


 吸血鬼の注意がオスカーにそれた瞬間を見逃さず、アガニョークが勢いをつけて吸血鬼に体当たりを繰り出した。吸血鬼が突き飛ばされて体勢を崩したのを見逃さず、オスカーはニルチェニアと吸血鬼の間に割って入る。ニルチェニアを後ろにかばいながら、アガニョークを呼び寄せた。


「遠吠えで呼んでくれて、ありがとう」


 オスカーの呼び掛けにアガニョークが応える。助かったよ、と微笑んでオスカーは吸血鬼へと何かを投げた。吸血鬼が避けようとしたところをアガニョークが噛みつき、身動きを封じる。オスカーが投げたものは吸血鬼の体へと突き刺さった。くそ、と吸血鬼の舌打ちが響く。


「ただの人間(エサ)の分際で!」

人間(エサ)にも抵抗する権利はあるからね」


 アガニョークを振り払おうとする吸血鬼の目の前で、オスカーは手のひらサイズの小さなミセリコルデを懐から何本も取り出した。さっき投げたのはこれね、とニルチェニアはオスカーの背中を見つめる。手のひらに収まってしまうような大きさの、十字架のような形の短剣。クルースニクにはぴったりの武器に思える。


「せめて痛みの少ないようにするよ。それが僕の慈悲だ」


 言い終わる前にオスカーは小型のミセリコルデを一つずつ、正確に吸血鬼の体へと投げていく。

 左足、右足、左腕に右腕。宵闇に吸血鬼を縫い付けるように、月夜に鋭い光をまとった銀のミセリコルデは次々に吸血鬼を貫いた。アガニョークに「下がっておいで」とオスカーは優しく声をかける。吸血鬼は身動ぎも出来ないようだ。膝から崩れ落ち、暗い夜に荒い息遣いが響く。


「あとは僕がどうにかするから。……ご主人様と、安全なところへ逃げておいで」


 ニルチェニアの顔をオスカーは見ようとしなかった。

 オスカーにかける言葉も、声も、ニルチェニアにはなかった。

 すがるように手を伸ばしかけて、ニルチェニアはそれを引っ込めた。


「──ねえ。君、クルスのところにこの子達をつれていってもらえる? 腰抜けちゃってるのかも」

「ああっ……はい!」


 オスカーに声をかけられ、門番の青年が大慌てで頷く。動こうとしなかったニルチェニアとアガニョークを引っ張るように、青年は一人と一匹を屋敷へと連れていった。

 二人と一匹の背中を見送って、オスカーはやっと安心したように息をついた。吸血鬼に向き直り、ぽつりと呟く。


「……ごめんね」

「──何が慈悲だ! どうして人の血を啜るのにお前たち(・・・・)がしゃしゃり出てくる! お前たちも──お前たちも、別の生き物の命を喰っているのに!」


 おかしいだろう、と吸血鬼は吐き捨てた。


「そうだね」


 僕たちは植物も動物も食べるからね、とオスカーは頷いた。


「……ならば、俺たち吸血鬼も許されて然るべきだ。人と動物、植物、それぞれの命に貴賤はないはずだ。命は命。人を喰うのも草を喰うのも、同じ罪だろう」

「そうだね。でもさ」


 耳につけていた青い石のピアスを外し、オスカーはそれを吸血鬼に突き刺さったミセリコルデに一度ずつぶつける。かつ、こつ、と微かな音とともに、露出しているミセリコルデの柄が青く燃え始めた。


「──殺すのを楽しんだらダメだよ。いたぶって悦ぶのは、恐怖をかきたてて嗤うのは“怪物”だよ。それは僕たちも君たちも同じ。命を奪うことに、他者を虐げることに快感を得てはいけない」


 ピアスを耳へ戻し、オスカーは“転生の祈り”を口にした。


 ──無垢なるものへ産まれますように、祝福される命となりますように。


 本来は死んでしまった人間に対する追悼の祈りだ。

 次も人に産まれ、祝福される生を歩めるように、という弔いと慈悲の気持ちがこもった祈りだ。【闇に親しむもの】へこの言葉を紡ぐのはオスカーくらいで、こうして彼らの旅立ちを祈るからこそオスカーは周りのクルースニクに異端の目で見られていた。


 ミセリコルデに灯った青い炎がゆっくりと吸血鬼の体を包み込んでいく。浄化が目的の炎ゆえに、見た目に反して痛みも苦しみもなく火は燃え尽きる。燃え尽きたとき、“浄化”は終わるのだ。そしてそれは【闇に親しむもの】の終わりを意味する。


 体を包み込みはするものの、焼くことはしない青い炎に吸血鬼は驚いたようだった。


「……大半のクルースニクはこんな面倒なことはしないだろ。銀の杭で俺たちの胸をひと突き。お前は一体、何なんだ」


 俺の同胞たちは皆苦しんで灰になったというのに、と吸血鬼は困惑したように呟く。そうだろうねとオスカーも頷いた。

 大半のクルースニクは吸血鬼を「命」として扱わない。だから吸血鬼相手には──【闇に親しむもの】相手には残虐なことも出来てしまうし、それに良心の呵責を覚えることもない。なぜなら自分たちは“正義”だから。

 それに思うところがない訳ではないが、そうなってしまうのも理解できる。


 オスカーは【闇に親しむもの】も“クルースニク”も大勢見てきた。だからどちらの言い分もわかるが、どちらにも賛同は出来ない。


 吸血鬼には他者の血液が必要不可欠だ。だからといって、他者への暴力を許して良いわけではない。

 クルースニクだからと【闇に親しむもの】への残酷な行為を許して良いわけでもない。


 物事には“程度”というものがある。その“程度”を越えてしまったら、そこには悪も善もない。


 とはいえ、【闇に親しむもの】たちの横暴を腐るほど見てきたクルースニクたちが、彼らに過剰な反応をしてしまうのもわからなくない。

 クルースニクや普通の人間のように“命”を頂いているだけなのに排除されるのが納得できない、という吸血鬼側の言い分もこれまた理解できる。それが人間の血液なのか、豚やら牛やらの肉なのか。その違いだけで命を奪うことに関して差異はない。


 どちらかが一方的に正しいという訳じゃない。クルースニクも【闇に親しむもの】も、極論をいってしまえば同じ生き物だ。存在そのものが善だの悪だの、そんなことはないだろう。生まれたときから“善”だの“悪”だのとは決められないだろう。


 だからオスカーは結論を出した。“他者を虐げることに快感を得た方が悪い”という結論を。


「僕は君たちが心から本当に憎いという訳じゃないから。……恨みがない訳じゃないけど。たまたまそういう風に生まれて、たまたま命を奪うことに愉しさを覚えてしまったんだ、と思うことにしてる。……だから、次はそうじゃないものに生まれてほしい。それだけなんだよ」


 首から下までを青い炎に包まれて、それでも吸血鬼は「変な奴だな」と笑った。

 青い炎が吸血鬼を包み込み、燃え尽きたあとには白い灰が残っている。夜風に拐われて、灰は濃紺の月夜に溶けるように散っていった。


 オスカーは灰が風にさらわれていくのを見届けた。

 ひとつ息をつき、満月を見上げ。そうしてまた、夜の闇へと戻っていった。暗闇の中の一筋の光でいられるように。



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