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いつもは静寂と共に平穏のあるクルスの屋敷が、今日だけは少し“そわそわとしている”のにニルチェニアは気付いていた。音に敏感なアガニョークは何となく煩わしそうでもあったし、トゥルーディアまでがどことなく落ち着かなさそうなのだ。何かあるのですか、とトゥルーディアに聞けば「今夜は満月ですから」という言葉が返ってくる。
──満月。
なるほど、とニルチェニアは納得した。自分以外に誰もすんでいないような森の奥深くにいたから気にしたことはなかったが、これだけ人の多く住む街となると【満月】は大きな意味を持つだろう。満月の夜。それは人に害をなす【闇に親しむもの】が活発になる夜だからだ。
【闇に親しむもの】。それはいわゆる“モンスター”だ。吸血鬼、狼男、魔女に食屍鬼。ニルチェニア自身も周りの人間からすればそこにカテゴライズされているはずで、ニルチェニアは【魔女】だ。ニルチェニアは人を襲うこともなかったし、【闇に親しむもの】に襲われたこともなかったから、あまりピンと来ないけれど。
人のかたちを取りながらも人に害を為す【闇に親しむもの】は、満月の夜、人のいる場所に出没するのだという。
──〝満月の夜には狼が吠える。満月の夜には蝙蝠が羽ばたく。満月の夜には悪魔が微笑む。外に出てはならない。幼子の手を離してはならない。夜はいつでも貴方を手招く。闇に親しむものへと手招く〟。
【闇に親しむもの】の恐ろしさを言い含めたこの唄は、古くからこの国に残る『子守唄』だ。満月の夜には狼男が、吸血鬼が、悪魔が月夜に歩く人間を狙って、闇へと手招くのだという。自らの眷属を増やすべく、或いは自らの衝動を満たすべく。邪なる思いで、血塗られた手で人を害するもの。それを【闇に親しむもの】というのだと。
同じ【闇に親しむもの】にカテゴライズされてしまうニルチェニアからすれば、この唄には少し理解の出来ないところもあるが、それはそれとして恐ろしい存在なのは理解している。吸血鬼などはその最たるものだ。
「今夜はお散歩はせずに、屋敷の中にいてくださいね」
トゥルーディアの言葉にニルチェニアは頷く。最近はトゥルーディアやトゥルーディオ、たまにクルスが付き添って夜の庭園をアガニョークとともに散歩するのが日課となっていた。
夜の方が人目を避けられるし、一日の終わりに美しい星空を見るのは心が慰められる。
本当はあまり褒められたことではないけれど、ドレスより動きやすい服装で広い庭をアガニョークと走り回るのは何よりも楽しかった。大きな狼だからと昼間はあまり外に出せないアガニョークも、夜ならいくらでも外を走り回れるのだ。
「カーテンもちゃんとしめて、怖いものが見えないようにして。こちらが招かない限りは入ってくることはありませんけれど……」
トゥルーディアの言うとおり、【闇に親しむもの】は外にいる人間を襲う。理屈はわからないが、“招く”ことをしない限りは家の中に入ってきたりはしない。意外なことだが、扉を破壊して入り込む──などという強行策を取ることはないのだ。扉が最初から開いていたりすれば、そこから入ってくることはあるらしいが。
満月の夜に【闇に親しむもの】に襲われるものは、運悪く外にいただとか、酔っぱらってつい外に出てしまったとか、あるいは「誰も外にでない」のを逆手にとって悪事を働こうとしたとか──そういう者たちが多い、という話をニルチェニアは聞いた。
そういう「運の悪いもの」を救うのがクルースニクだ。
人の多い町では満月の夜になるとクルースニクが街頭に立ち、うっかり外に出てしまった人間たちを手頃な建物に押し込み、【闇に親しむもの】を見つけ次第退治に入る。クルースニクと【闇に親しむもの】が争うのに乗じて、時折普通の人間も暴れまわることがあるそうだが、そちらは国で雇われた人間が対応しているらしい。──ニルチェニアはそういう話をオスカーから聞いていた。
オスカー、とニルチェニアは声のでない唇で呟いてしまう。あの人は今何をしているのだろう、と。ニルチェニアを上手いこと始末したと思っているのだろうか。ニルチェニアと同じような【闇に親しむもの】を今夜はたくさん手にかけるのだろうか。
クルスの屋敷に来てから随分たつ。けれど、オスカーのことを思い出さなかった日は一日としてない。
時間がたてば落ち着くかとも思っていたが、オスカーに向けていたぶんのニルチェニアの愛は、日を跨ぐごとに得体の知れない黒い気持ちになっていく。
復讐をしたいのか、ただ呪いたいのか。自分がされたように彼を焼き殺してしまいたいのか。それとも、それらすべてをしてしまいたいのか。怒りはニルチェニア自身もじわりと焦がしていくようで、手放したいのに手放せもしない。
渦巻く憎悪をひとしきりなだめて、最後の最後にニルチェニアはオスカーの手の温かさを思い出すのだ。優しい声と、穏やかな眼差しと。かけてくれた言葉の一つ一つ。
そのどれもが嘘だったのかもしれない。ニルチェニアを騙すためのものだったのかもしれない。それでもニルチェニアにとってそれは失いがたく、疑いたくないものでもあったのだ。
オスカーにもらったものはあたたかく、優しすぎた。ニルチェニアにはもう、自分が何をしたいのかわからない。どうなりたいのかもあやふやになってしまう。
いっそ恨めたら、と思う。自分の出会ってきた人間が全て悪人で、ニルチェニアを蔑み虐げるような人間ばかりであったなら。それなら、ニルチェニアは喜んで【魔女】になったのに。
けれど、クルスやトゥルーディア、リラのようにニルチェニアを助けてくれた人たちがいるから、それはできない。彼らの優しさを裏切るようなことはニルチェニアはしたくない。人間そのものを憎みたくも、怨みたくもないのだ。
──“闇に親しんではだめ。狂気の月を恨みの夜に沈めてはだめ”。
──“恨んではだめ。【本物】になってしまう”。
かつてのリラの言葉を思い出す。
すう、と息を大きく吸い、ゆっくり吐いた。
泣きそうな気持ちと、怒りに激しくうち始める鼓動を落ち着かせる。
怒りにのまれては、憎悪にのまれては、ニルチェニアは本物の魔女になってしまう。それはニルチェニアが望まないことだ。リラのような優しい魔女になりたいニルチェニアにとって、本物の魔女になってしまうことは──人を襲うような魔女になってしまうことは──どうしても避けたいことだった。
怒りに身を任せたらきっと楽になれるはずだ。感情のままに身を焦がすような憎悪をあたりに撒き散らせたら、きっとすっきりするのだろう。それでもそれはしたくないのだ。ニルチェニアが本物の魔女になってしまったら、今まで助けてくれてきた人たちを踏みにじってしまうだろう。見境なく傷付けてしまうだろう。それがたまらなく怖いのだ。
「そんなに寂しそうな顔をなさらないで」
トゥルーディアの優しい手がニルチェニアの手を握った。トゥルーディアの顔を見上げたニルチェニアに「朝の来ない夜などありませんから」とトゥルーディアは微笑む。
「どんなに怖い夜でも、朝は必ず来るものです。月は沈みます。大丈夫です。そうして、太陽が昇る……。どんなに辛くとも、いつかは一筋の光が差し込む。……あなたが望み、光に向かい続ける限り」
トゥルーディアのそれは【満月の夜】をさしたのか、それとも【ニルチェニアの心境】をさしたものだったのか。どちらなのかはわからなかったが、ニルチェニアは“ありがとう”と返すことにした。
「それではお嬢様、今日はゆっくりお休みになってくださいね」
いつもならニルチェニアが眠るか、もう大丈夫と言うまで部屋にいて雑談に応じてくれるトゥルーディアだったが、今日は随分と早くニルチェニアの部屋を出ていく。まだろくに日も落ちきっていないのに。
どうやらクルスの親戚の女性が屋敷に来ているそうで、トゥルーディアがその女性のお世話をするのだという。「あの人も狼が苦手なんですよねえ」とトゥルーディオが口にしつつ、アガニョークをちらりと見たのが今朝のことだ。
それを聞いてニルチェニアは一日部屋に引きこもるのを決めたのだ。ニルチェニアと“親戚の女性”の二人を世話しなくてはならないトゥルーディアの負担にならないように。
“親戚の女性”がアガニョークをみて震え上がったりしないように。
蒼い絨毯の上で丸くなっているアガニョークをみつめながら、ニルチェニアはベッドに入ってそうっとまぶたを閉じる。うつらうつらとし始めた頃、急に体の上になにか重いものがのし掛かった。なにかしら、と起き上がってみればアガニョークがニルチェニアの上に跨がって、鼻で胸をついてくる。
さむいの? と背中を撫でてやったが、どうやら寒いわけではないようだ。じれったそうに低く鳴いて、アガニョークは後ろ足で立ち上がると窓辺へ近づき、カーテンを器用に引っ張った。
──外に何かあるのかしら。
ニルチェニアはそろそろと窓辺へ近づき、アガニョークがめくったカーテンの向こう側を見る。いつも通りの夜だ。ニルチェニアの部屋からは門番の詰所がよく見えるのだが、今宵が満月ということもあってか詰所には煌々とした光が灯されている。窓から少し明かりが漏れているのだ。
詰所に何かあるのかとニルチェニアが目を凝らせば、明るい詰所にふらりと近づく人影が見えた。アガニョークがウウ、と小さく唸る。
ふわふわとしたクセのある銀髪。少し長いそれを背中でひとつにまとめた男。
聖職者が身にまとうような外套はニルチェニアには馴染みの無いものだったけれど、その背格好には見覚えがあった。
──あの人だ。
ニルチェニアを裏切ったクルースニク。オスカーだ。
すっと眠気が引いた。その代わりに心臓がばくばくと高鳴る。詰所に近寄る男からは目が離せず、ニルチェニアはその行き先を見守った。どうしてあの人がここにいるのだろうか、と。
クルースニクだから満月の夜に外に出ているのはわかる。けれど、よりによってこの屋敷に来たのはなぜだろう? あの、ニックと名乗ったクルースニクがニルチェニアの居場所を教えてしまったのか?
ニルチェニアが見守るなか、オスカーは詰所の扉をノックしたようだった。
扉が少し開いたのだろう。煌々とした光が外に漏れ──。
オスカーが無理やりに詰所の中に押し入ろうとする。扉の影から少しのぞいた門番の顔に見覚えがあった。夜のうちに門を守っている青年だ。クルスとトゥルーディアとニルチェニアが夜の散歩を楽しみながら近くを通ると、ぺこっと頭を下げて挨拶してくれる青年だ。
青年が抵抗しているのが見える。もうどう見てもオスカーが無理やりに押し入ろうとしているのは確実だった。
ニルチェニアは腹が立った。やはりあのクルースニクはろくでもなかったんじゃないか、と思う。アガニョークがニルチェニアの足を尻尾で叩く。お互いに目を見合わせて、それから。
ニルチェニアとアガニョークは部屋の外に飛び出た。
部屋を出たところでニルチェニアはアガニョークの背に乗り、しがみつく。アガニョークは勝手知ったるなんとやら──とでも言うように、屋敷のなかを駆け抜けた。
ホールを突っ切り、屋敷の大きな扉を人が一人とおれるほどに押し開ける。最初にアガニョークが外へ出て、次にニルチェニアが扉の隙間を通り抜けた。扉から手を離せば鈍い音を立てて閉まる。
ニルチェニアは再びアガニョークの背にのった。アガニョークは風のように庭を走り、詰所へと駆ける。詰所が見えてきたところでニルチェニアはアガニョークの背から降りる。
詰所へと押し入ろうとするオスカーの背中をとらえ、横から突き飛ばす形でアガニョークはオスカーへ体当たりした。
「……っ! お嬢様!?」
門番の青年が驚いた声を出した。