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 あのクッションのような怠惰な黒猫の姿はない。まるで鍛えすぎた豹のような──随分とムキムキとした体になっている。猫違いかな、とオスカーは目を擦った。しかし、間違いなくノーチだ。


 オスカーをちらりとみて「フニャン」とバカにしたような鳴き声をあげたところなんて特にノーチだ。

 あの魔女の小屋において、ノーチはニルチェニアも含めてすべての生き物を自分のクッションか枕として扱っていた。自分よりも体格の大きな狼、アガニョークも例外ではない。


 ニルチェニアのことは餌をくれる枕だと思っていただろうし、アガニョークのことは毛深い枕だと思っていたことだろう。オスカーのことは餌をくれない枕だと思っていたはずだ。


 そんな怠惰な猫がこの見事な筋肉をどこで身に付けてきたというのか? 腕のなかの黒猫を凝視するオスカーに、「中佐が鍛えちゃって」とリピチアが笑った。


「すっごいムキムキになっちゃったんですよ……。以前はネズミも捕まえなかったのに、今はたまにうさぎとか獲ってきたりして。この前は……ここって番犬として狼を飼っていたりするんですけど、狼と取っ組み合っちゃったりしてて……」


 流石にびっくりしましたよーっ、とリピチアは笑っているが、オスカーは目を丸くしてしまった。


「狼って……猫なのそれ……いや、猫だけどさ……?」

「あはは。こんなに大きいとちょっと猫かどうかあやふやになってきちゃいますけど。この前なんか体当たりされて吹き飛んでましたもんね、ミズチさん。ちょうどその、狼とこの子との仲裁に入ったときに!」

「いや、マジで笑い事じゃねえスよ……でけえ猫の全力の体当たり、ほんとマジ意識飛びかけたっつーか……」


 確かに笑い事ではないだろう。筋肉質な体を手にいれてしまった、ただでさえ大きな猫と狼との取っ組み合いだ。それに割って入って仲裁を試みるのは勇気のいることだろう。

 最終的にはルティカルが二匹を止めたのだ──とリピチアは続けた。マジ勘弁してほしいスよ、と項垂れたミズチの気持ちはオスカーにもよくわかる。


「ミズチさんは鍛え足りてないんですよ。中佐に比べたら何ですかその筋肉! 中佐が鉄ならミズチさんは熟しきったトマトです! 潰したらべちゃってなるやつです!」

「中佐だって潰したらべちゃってなるスよ!?」


 あの怪物じみた筋肉の化身と並べないで欲しいスわ! とミズチが嘆く。見た目こそ怖そうな青年だったが、中身は随分親しみやすい性格のようだ。リピチアにからかわれるくらいには信頼関係も築けているのだろう。

 そんな二人を微笑ましくみつめながら、オスカーは黒猫を撫でながら口にした。


「……この猫さあ、クルスのとこに連れていってあげられる?」

「クルスさんの所ですか?」


 それは構いませんが、とリピチアは首をかしげる。何かあったんスか? とミズチも疑問を口にした。


 ニルチェニアの存在はルティカルとソルセリルには伏せるようにと言われている。リピチアを信用していないわけではないが、リピチアにニルチェニアのことを話せば、遅かれ早かれルティカルの耳にも入るだろう。そうなればソルセリルの耳に入ったも同然だ。ニルチェニアの飼い猫であったということは話すべきではないな、とオスカーは考えた。


 ノーチと目が合う。丸い月のような瞳がオスカーをじっと見つめていた。脇腹を撫でて顎をくすぐる。オスカーが小屋でお世話になっていたときのように、気持ち良さそうに金の瞳が細く閉じられた。間違いないな、とオスカーは確信する。筋肉質になってしまったけれど、この猫はノーチだ。


「クルスがちょっと前に飼ってた猫に似てるんだよね~。この前いなくなっちゃったって残念がっててさ。もしかしたらこの子かもしれないし、本人に確認とってみて良い?」


 自分の口からなめらかに嘘が滑り出ていくのにオスカーは内心で苦笑いした。聖職者だというのに、ここのところ嘘をついてばかりだ。“良い嘘をつくのが良いクルースニク”と教わりはしたが、良心が咎めないわけではない。友人や知人に嘘をつくのが心地いいわけがないのだから。


「クルスさんって猫飼ってたんですか?」


 初耳、と口にするリピチアに“飼い初めて少ししてから逃げちゃったもんだからさ”とそれらしく聞こえるようにオスカーは取り繕う。


「あ、そうだ。……良かったら、これからこの子を連れていってもいいかな。今日は満月の日だろう? 今日は丁度クルスの家の辺りで仕事することになってて。日がくれる前に連れていけたらと思うんだけど」

「ああ、なるほど」


 それなら、とリピチアは頷いた。もう会えなくなるのは寂しいですけど……と猫の頭を撫でて、「そうだ」とオスカーに声をかけた。「ちょっと待っててください」と。


「……ええと……これこれ! オスカーさん、これも一緒に」

「これ……鏃?」


 リピチアがオスカーに差し出したのはなんの変哲もない鏃だ。不思議そうな顔をしたオスカーに「見つけたときにこの子が咥えてたんです」とリピチアは説明する。


「この子がクルスさんの猫じゃなかったら、この鏃ごとまたここへ連れてきてくれればと。クルスさんの猫だったら、鏃に思い当たりはないか聞いてもらえたら、なんて」

「わかった。そうさせて貰うね」


 鏃か、とオスカーはノーチを撫でながら考える。自分が襲われた森で拾われたようだし、確実に手がかりになるだろう。






 リピチアたちの研究室からノーチをつれて、オスカーはクルスの屋敷へとむかった。もうそろそろ日没ということもあり、外に出ている人間はまばらだ。今日は満月で【闇に親しむもの】が出てくるせいだからだろう。傾きかけた陽の中ですれ違う人々に、オスカーは何度となく激励の言葉をかけてもらった。“クルースニクがいるから夜も安心して寝られる”、“いつもありがとう、今日もよろしくお願いします”──などなど。その言葉に笑顔で返しながら、オスカーはクルスの屋敷へと足を進める。


「……あの子は元気かな」


 アガニョークと一緒にニルチェニアがクルスの屋敷で世話になっている、という話はクルス本人から聞いている。一時期はクルスに怯えていたそうだし、ニルチェニアが負った“傷”の深さには何となく想像がつく。オスカーもそういう【闇に親しむもの】を多く見てきたからだ。何の罪もないのに蹂躙されるものの怯えをオスカーはよく知っている。


 僕と出会わなければこんなことにはならなかったのかな。そんなことをオスカーは考えてしまった。


 あのまま、誰に知られることもなく森のなかで暮らせていたなら。


 ──オスカーとぶつかったりしなければ。

 ──オスカーが森へ行ったりしなければ。


そうすればニルチェニアは穏やかにあの森で暮らせていけたんじゃないのか。


 抱えていたノーチがオスカーの顔をしっぽでぺちんと叩く。面倒くさそうに「にゃあ」と鳴くあたり、人の機微をよくとらえている気がしてならない。賢いんだよなあ、と筋肉質な身体を抱え直した。あの柔らかかった身体が懐かしい。


 考えたところで過去は変えられないし、ましてや無かったことにも出来ない。だからこそ歩き続けなくてはならない。

 黒猫の重い身体を抱えながら、オスカーはクルスの屋敷の門番と挨拶を交わす。顔馴染みの門番は直ぐにオスカーを通してくれた。




***




「──熊か?」

「ううん。猫」


 オスカーに出会うやいなや、オスカーの腕の中の生き物を見てクルスは目を丸くする。よく抱えてきたな、と巨大な黒猫を見ながらそんなことを口にした。


「途中まではちゃんと歩かせてきたから」

「そうか……。そうか。それで、この猫がどうした?」

「あの子の猫なんだよね。名前はノーチ。返してあげてくれるかい?」

「魔女の?」


 目を丸くしたクルスにオスカーは頷く。


「あの子と暮らしていたときより随分むきむきしちゃったけどね……。ルティカルが鍛えたんだってさ。お陰で肥満猫から筋肉猫に変わっちゃったわけ」

「肥満だったのか」


 撫でようとしたクルスの手をするりと避けて、ノーチは落ち着かなさそうにクルスの周りをうろうろとし始める。クルスの足元でフンフンと鼻を鳴らしながら、どうやら匂いを確かめているらしい。

 ひとしきり匂いを確かめたのか、ノーチはクルスを見上げて丸い瞳でじっと見つめる。クルスが困惑したようにオスカーの方を見た途端、「フニャッ」とノーチが短く鳴いた。それから、椅子に座っていたクルスの膝に勢いよく飛び乗る。うあっ、とクルスが呻いた。


 猫としては規格外の重さにクルスは一瞬怯んだようだ。無理もないな、とオスカーは生ぬるい微笑みを浮かべる。自分の治療時には“重し”として扱われたことをニルチェニアから聞いていたからだ。道理で、と思った。普通ならあの少女が一人でオスカーの治療を成功させるのは難しいことだろう。意識がなくとも痛みがあるなら暴れるのが人間というものだ。


「お、重ッ……重いなこの猫。それに何だ、急に……」

「枕認定おめでとう。その子、やたらと人を枕とかクッションとかにしたがるから気をつけて」

「枕……」


 微妙な表情になってから、仕方ないな、という顔でクルスはノーチを撫で始めた。


「それから……。これ、見覚えある? 先生に渡しておいてほしいんだ」

「鏃か?」

「そう。この子が見つけられたときに咥えてたらしくてね。もしかしたらあの子達の家を燃やした奴らのことがわかるかも。先生なら“儀式”できるから」


 祝詞詠むやつね、とオスカーは付け加えた。あれか、とクルスも頷く。猫でも大丈夫なのか? というクルスの言葉には「やってみないと分からないこともあるし……」と言葉を濁す他になかった。


「僕はこれから“クルースニク”として働かなくちゃいけないから、何処かに落としたりしても嫌だし。君に預けておくよ」

「わかった」

「あの子をよろしくね」

「もちろん」


 オスカーのいう「あの子」が魔女を指しているのを察し、クルスはしっかり頷いた。


 クルスからの話によれば、ニルチェニアは部屋から滅多に出てこないそうだが──それでもクルスの屋敷内でばったり会うというのは避けたい。そそくさと部屋を出ていくオスカーに「気を付けろよ」と声をかけ、クルスは膝の上の黒猫を撫でる。


「……おれが先生の“儀式”で見たのは君だったのか」


 にゃん、と黒猫のノーチが一鳴きする。

 クルスが最初にみた“ノーチ”は、魔女の記憶の中のものだ。焼け崩れていく家のなかで魔女を救うために犠牲になった黒猫。確かにあの記憶の中の猫とは随分違うな、と引き締まった体にクルスは笑みを漏らしてしまった。


「きっと喜ぶだろうな」


 魔女の記憶の中でこの猫が“死んだ”ときの、あの灰色の気持ちは忘れようと思っても忘れられないものだったから。

 よいしょ、と猫を抱き上げ、クルスは魔女の部屋に向かう。恐ろしいもの達が闊歩する満月の夜でも、彼女が寂しくならなければ良いと思いながら。

 

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