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真っ白な狼、アガニョークと魔女の娘がじゃれているのを見ながら、クルスは昨日のオスカーのことを思い出していた。彼はあの少女が生きていたことを本当に喜んでいた。噛み締めるように「良かった」と口にする姿は間違いなく本物で、知らせて良かったと思える。
心配なのはオスカーが魔女の目の前に姿を現してしまうことだが、それについては「絶対にしない」と言っていたから大丈夫だろう。姿を見せて逃げられても困るもの、と続けていたから信憑性は高い。
クルスが従兄だと知ってからというもの、魔女は少しだけ心を開いてくれたように思える。時折兄のルティカルの話をねだるものだから、クルスも話して聞かせてやっていた。
トゥルーディアからは「何を話したらいいのかわからないみたいなのです」と言われていたから、共通の話題──ルティカルのことを少し話したことがある。それがきっかけだったのだろう。
兄の話を穏やかな顔で聞く魔女に「会わなくていいのか」と何回か聞いてみたことがあるが、その度に彼女は声のでない唇で“大丈夫”と答えるのだった。彼女は“迷惑をかけてしまうから”と断るものの、ルティカルなら多少の困難や襲撃くらいはあの頑強な肉体でどうにかしてしまえそうなものだ。
もしかすると、彼女のなかでは“ルティカル”は十年ほど前に見た少年のままなのかもしれない。十数年前のルティカルは確かに今よりはもっと“貴族らしい”見た目であったように思う。具体的に言うと今よりずっと筋肉がなかった。父親に似て線の細い──ともすれば少女のような儚さすらある少年だったのだ。今からは全く考えられないことだけれど。
あの頃のルティカルならこの子の兄といっても納得だな、とクルスは魔女を見る。積もったままの春先の雪みたいに、目をはなした瞬間に消えていそうな繊細さがある。
療養用に用意した部屋だからあまり大きくはないのだが、そんな部屋の中でも魔女とアガニョークは一緒になって絨毯の上を転がってじゃれあっていた。アガニョークに押し倒された魔女の真っ白な髪が蒼い絨毯に広がって、狼はそんな風に付き合ってくれる飼い主を嬉しそうにぺろぺろと舐めている。
少女が狼に食い殺される数秒前──。一見するとそんなところだが、一人と一匹は本当に楽しそうだ。のし掛かってくる狼を絨毯の上で擽る姿は淑女にはほど遠いが、とクルスは魔女を見つめる。楽しそうなのは良いことだ。しょんぼりした顔でベッドに寝転んでいるよりもずっと良い。
「……君、足は隠せ、足は」
背丈の二倍ほどの体長がある狼とじゃれあっていれば仕方ないことだが、ドレスの裾がちらちらとめくれあがっている。この年頃の娘にしては随分無防備で、クルスは気が気じゃなかった。人前で足をさらすなど、裸で街道を練り歩くようなものだ。
クルスに声をかけられてはっとしたのか、魔女が慌てたようにドレスの裾を直す。「おれは向こうを向いているから」と顔をそらしてから「気を付けてくれ」と耳を少し赤くしてクルスは口にした。つい深いため息をついてしまう。周りと比べて違和がない程度には彼女に淑女としての作法を教える必要があるのかもしれない。森にいれば必要のなかったものだろうが、ここでしばらく預かるとなれば話は別だ。後でトゥルーディアに頼むべきだな、とクルスは一人で頷いた。
クルスが気を遣って顔をそらしている間も、魔女とアガニョークは随分遊んだようだ。狼であるアガニョークの息づかいからは楽しそうな雰囲気が感じられる。
しばらくしてからアガニョークが額をクルスの背中に擦り付け、魔女と狼の戯れの時間は終わったらしいことを知らせてくる。魔女はドレスをポンポンとはたいたりして装いを整えていたものの、絨毯に寝転んでいたから髪はぐしゃぐしゃだった。手櫛で元に戻そうと何度も髪を撫で付けているが、狼と心行くまでじゃれあったあとだ。そう簡単に直るものでもない。
「……こっちへ。直してやるから」
クルスは魔女を手招いた。
今でこそクルスの髪は肩につかない程度まで短く切ってあるものの、クルースニクとしての修行を積んでいる間はずっと伸ばしっぱなしだったのだ。髪の結いかたなら知っている。魔女は少し驚いたようにクルスを見上げて、それからそっと近寄ってきた。
髪の毛を引っ掻けてしまわないよう、クルスはゆっくりと手櫛で髪をゆっていく。銀色の髪は確かに魔女がメイラー家のものであることの証だ。ルティカルとそっくりな銀の髪を三つ編みにして、大人しくしている魔女に「終わったぞ」と声をかける。ありがとう、と身ぶり手振りで伝えてきた魔女にクルスは頷いた。
***
久しぶりにゆっくりと睡眠をとった。二日も体を休めることができたからか、随分と体が軽い。クルスからの報せの件もあり、オスカーは幸せな気分でベッドから起き上がる。ニルチェニアは生きていた。それだけで心が満たされる。
身支度を整える。今日はリピチアの元へ向かおうと決めていた。先日の“解析”の件だ。錬金術が関わっているのかもしれない、というあのガラス質の石のようなものについての話を聞きにいくのだ。
「あーっ! 待ってましたよオスカーさん!」
リピチアの元を訪れればニコニコ顔で出迎えられる。リピチアの隣にいる、疲れきった顔をしている金髪の青年が錬金術に詳しい“ミズチさん”だろう。
髪を編み込み、いかつい見た目にした上に──口元にも耳にもたっぷりのピアス。軍人や研究職とは思えない。まるでチンピラのような青年である。しかし、リピチアと同じく頭脳労働者だ。
年齢は不詳で飼っているペットは蛇、好きな食べ物は魚と卵だとリピチアから聞いている。それ以外では寒がりだとか、ビビりだとか、ルティカルとの腕相撲に秒速で負けたとか、本人にはとても話せないようなことばかりを聞いている。見た目と違って付き合いやすい性格だ、というリピチアなりのアピールなのかもしれない。
何度か遠くから見かけたこともあるし、それ以上にリピチアやルティカルを通じて彼の人となりを聞き及んでいる。しかし、面と向かって話すのは初めてだ。
「初めまして。オスカーです」
「ども。ミズチです」
差し出した手はしっかりと握られる。見た目よりずっと真面目な人っぽいな、と心の中だけでオスカーは呟いた。口調は気軽なものだったが、常日頃から堅苦しいクルースニクに囲まれる身だ。これくらいのざっくばらんさが心地良い。
「そんじゃ……【解析】を頼まれたこれの話スけど」
オスカーが解析を頼んだ正体不明のガラス質の石は、手のひら大の瓶に詰められてミズチの手の内に収まっている。ミズチは瓶をからからと振って、「簡単に言えば“火種”スね」と瓶をオスカーへ渡した。
「聖職者サンの耳に馴染みがあるかはわからねえスけど。【種石】って聞いたことあります?」
「……錬金術師と魔術師が使うものじゃなかったかな? ええと、確か……魔力が宿った石のことだっけ?」
「そうそう。それです、それ」
ミズチはオスカーに渡した瓶を掴み、ふたを開けて中身をオスカーの手のひらに転がす。
オスカーの手のひらにころんと転がされたのは、一見するとただのガラス片だ。オスカーが火事の現場から拾い上げてきた時のまま、ガラスのように煌めいている。
「これ、【種石】なのかい?」
「ちょーっと違うスね。“人工種石”とでも言っておきましょうか」
──【種石】とは、簡単にいってしまえば魔力の結晶のことだ。
錬金術師たちの間では【賢者の石】の創造の際に【核】として用いられることで有名な錬金材料である。【賢者の石】の創造に必要とはいえ、山や海、森、川、どこからでも採取できるものだ。貴重なものとは言えない。
また、【種石】にお世話になるのは錬金術師だけではない。
魔術師が自分の魔力不足を補うために使うものでもある。自分のキャパシティ以上の魔力を使う魔術を構築するとき、【種石】で不足分を補うのだ。駆け出しの魔術師のバッグには一掴み分の【種石】が入っているのも珍しくない。【種石】自体に宿る魔力は微量とはいえ、魔力の結晶だから魔術に使えるというわけだ。
「【種石】は“結晶”スけど、これは……そうスね、“入れ物”って感じスね。炎、水、風、土……この世界には色んな【魔力】が存在してるんスけど、これはその“魔力”を収めておくための入れ物ス。ガラスっぽい見た目なのは中に納めた魔力が何に属するものなのか判別するためじゃねーかな。凝縮させた魔力は色がつくんで。土の魔力とか黄色いし。水は青で炎は赤……っていう、まあそういう感じで」
この“入れ物”、【人工種石】が錬金術で作られたものなのだとミズチは言う。おそらく中身は炎の魔力だったはず──とのことだ。
「凝縮させたとはいえ、これっぽっちの大きさじゃたかが知れてますからね。マッチの火程度の火種になるかってくらいで」
「そういうことか。じゃあこれで火をつけたってことだね」
「おそらく」
最近出回ってる便利道具の一種スね、とミズチは結んだ。マッチと違って湿気たりもしないし、持ち運びも楽な上に急に発火したりもしない便利さで、少し値が張るものの、最近流行り始めたものなのだそうだ。そのせいでたまに小火騒ぎがあったりもするのだとミズチはぼやく。
「いくら便利で安全なシロモノって言っても、使う人間が適当なことしたら意味がないってことですね。貴族の間でも広まってるらしいんですが、使い方がよくわかってなくて火傷する人も多いって先生がため息ついてましたよ。たまに家まで燃やしちゃうとか」
リピチアの補足にオスカーが首をかしげる。
「伯父さんが?」
「ほら、先生は腕のいい人ですから。使い方も理解してなくて、でもやたら大袈裟に語るような人たちからは引っ張りだこ」
「ああ、だから火傷で」
「そういう人たちからは“特別料金”をとって相殺してるみたいですけど。優先すべきものを後回しにして診させられるのが苦痛って言ってましたよ。変に立場がある相手だと無下にも出来ないから、尚更だと。馬鹿に便利道具を持たせるな、とまで言いそうな雰囲気でしたね」
言いそうだなあ、とオスカーは苦笑いしてしまう。
「使う人次第で便利なものにも危ないものにもなる、か」
ミズチとリピチアの話をオスカーが聞いていれば、部屋の隅で「にゃあ」と猫の鳴き声。
「ん? 猫かい?」
どこかで聞いたことのある鳴き声だ。そちらに気をとられたオスカーに、リピチアが申し訳なさそうな顔をした。
「ごめんなさいオスカーさん。猫、お嫌いでした?」
そういうわけじゃないよ、とオスカーは首を振り、前にここにきたときは猫はいなかったでしょう、と返した。オスカーの疑問に答えたのはミズチだ。
「最近少尉が拾ってきたんスよ。えーと、……あのー、……オスカーさんが襲われた森で。……最近そこで調査したんで」
言葉を選ぼうとしたのだろうが、ほかに伝わりやすい言葉を見つけられなかったのだろう。「襲われた森で」と申し訳なさそうに口にしたミズチに「大丈夫」とオスカーは笑った。それより猫だ。オスカーの耳に狂いがなければ、この猫の鳴き声は。
「──見てくださいよ! すごく元気な猫ちゃんなんです!」
部屋の隅からリピチアが抱き上げてきた猫の毛の色には見覚えがある。その真ん丸で月のような金色の瞳にも見覚えがある。一般的な猫のサイズから逸脱した大きな体にも見覚えがある。しかし。
「随分筋肉質な猫だね……?」
──オスカーの記憶とはうってかわって、怠惰のたの字もないような、筋肉を主張する体つきになっていた。端的にいって──マッチョだ。