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「オスカーさん」
宙をじっと見つめて動かないでいる男に、リピチアは二度ほど声をかけた。──が、全く反応がないので。
「オ、ス、カ、ー、さ、ん!」
紙を丸めて棒にして、それでぽこんと頭を叩く。オスカーは一瞬目を見開いて、「何!?」とリピチアに顔を向けた。
まったく、とリピチアはわざとらしくため息をついて見せる。寝てないんじゃないですか、と丸めた紙でオスカーの脇腹を小突いた。
「いや……はは、そんなことはないんだけど。ちょっとボーッとしちゃって」
「大丈夫ですか?明後日の夜には“クルースニク”として働くのに。そんなにボーッとしちゃあ狼男に引き裂かれちゃいますよ」
「そんなヘマはしないよ」
「目の下にクマを作って、私に頭を叩かれるくらいなのに?」
リピチアの手痛い指摘にオスカーは苦笑いを浮かべる。その通りだからだ。
最近はずっと満足に眠れていない。どうしてもニルチェニアのことを考えてしまう。魔女に関する文献も読み漁り、他にできることといったらあの“小屋の焼け跡”で拾ってきたものの解析くらいだ。
自分では限界があるからと知り合いのリピチアを頼ってくれば、「私たちも最近そこで調査したんですよ」と言うものだから、お互いに詳しい情報を交換しあって今に至る。ただ、ニルチェニアのことを話すのは避けた。オスカーがあの場所を調べていた理由は「自分を襲った人間に関係があるかもしれないから」。これで通した。
オスカーがリピチアに解析を頼んだのは、あの“用途不明のガラス質の石のようなもの”だ。リピチアたちよりオスカーが先にそれを拾ってしまっていたためにリピチアたちはそれを見つけられなかったらしい。謝罪と共に解析を依頼すれば、「証拠が増えて嬉しい限りです」とにっこりされた。
「元々の依頼主のクルスさんにはお伝えしてるんですけど、この件……メイラー家の人間が関わっているみたいで。分家の方なんですけど」
「メイラー家が?」
「あの~。瓶があったでしょう? 中途半端に形を残してたアレです。あれを買ったのがメイラー家の人でして」
「そうか……」
メイラー家か、とオスカーは呟く。彼女の小屋に火をつけたのはクルースニクかと思っていたが、その線もあるな、と考え直した。何らかの方法でニルチェニアがまだ生きていると知って、メイラー家の人間がニルチェニアを始末しに来た──という筋書きだ。
「オスカーさんの持ってきた“ガラス質の石のようなもの”に関してははっきりしたことは言えないんですけど……ちょっとこれ、錬金術関係じゃないかなと思います」
「錬金術?」
「物質の解析をしたときに自然界には存在しない──安定した状態では存在しない──ものが含まれていた痕跡がありまして。幸い、ミズチさんが錬金術には滅茶苦茶に詳しいですからね。そっちに回しました」
「そうなんだ。どれくらいかかりそう? 早くても一週間とか?」
「いいえ。なるはやでお願いしまーすって言ってきたので、かかっても二日じゃないですか?」
「……凄いね」
「うちの隊はトップの中佐が筋肉系ですからね。脇を固める部下二人には頭脳が求められるというわけです!」
ふふん! と得意気なリピチアに「頼もしいなあ」とオスカーは称賛を送る。オスカーが詳しいのは【闇に親しむもの】、つまりは魔物やモンスターやその他の“怪物”ばかりだ。錬金術にも詳しくはないし、リピチアのように何かの解析ができるわけでもない。専門的なことは専門家に任せるに限るな、と改めて思う。
助かるなあ、とにこにこしたオスカーにリピチアがすっと真顔になった。おや、とオスカーは内心で首をかしげる。何かしたろうか?
「……結果が出たらすぐお伝えしますから。だから、今日はもう休んで下さい。酷い顔なの分かってます?」
「酷いなァ……元々こういう顔だよ?」
「──そういう冗談はいりません」
医者としての忠言ですよ、とリピチアはエメラルド色の瞳をきりりと細めた。悪い冗談だったな、と思いながら、ごめんね、とオスカーも謝る。心配してくれるのは素直に嬉しいしありがたい。
「寝ようとは思っているんだけど……寝付きが悪くてね」
「最近色々ありましたもんね……森で襲われるって、私でもトラウマになるというか……」
眠れなくなってしまうのはわかりますが、とリピチアは心配そうにオスカーを見る。「先生も酷く心配してるんですよ」と続けた。
「伯父さんが?」
「ええ。オスカーさんの前じゃそんな様子を見せたりしないでしょうけど。私の前でぶちぶち言うくらいですから、心配してますよ。相当心配してます」
「そう……」
心配かけちゃってるね、と他人事のようなオスカーにリピチアが変な顔をした。そんなの当たり前じゃないですか、と。
「どうしたんです? 本当に疲れちゃってますね?」
「ああ……ええと、そう?」
「甥っ子だったり知人、友人だったりが変な様子だったら、そりゃあ心配しますよ。そんな他人事みたいな……いつものオスカーさんじゃないみたい」
「そうかなあ」
「いつものオスカーさんならそんなぼんやりしたこと言いませんから。もう! やっぱりダメですよ休むなり何なりしないと!」
満月の夜に大ケガして帰ってくるなんて私も先生も許しませんからね! とリピチアはぷりぷりと怒りながらオスカーを部屋から追い出す。「最低八時間睡眠ですよーっ!」という声を聞きながら、オスカーはその場をあとにした。
***
リピチアの言いつけのとおりに自宅へ戻り、眠気もないのにベッドに転がる。オスカーの“自宅”は貴族のそれにしてはずいぶん小さい。平民の家よりはやはり大きいが、一人でも家の保全に手が回るほどの大きさだ。使用人もいない。自分の出来ることは全て自分でする。これはオスカーがクルースニクを始めた頃から変わっていない。
自分がクルースニクであるがゆえに、雇った使用人が【闇に親しむもの】などに襲われても困る。クルースニクを始めたときに貴族としての実質的な権利は伯父に──システリア家当主のソルセリルに──ほとんど返してしまったから、領地から税を得て暮らしていく……などということも出来ないのだ。権利関係に関しては“君が必要とするときまでは預かっておきます”と伯父が言ってくれたものの、果たしてそんな日が来るのかどうか。
ベッドに寝転がり、敷いてある絨毯の房飾りを数えて何とか眠ろうとする。眠気はいっこうに訪れない。このままじゃさすがにまずいよなあ、などと考えていれば、寝室の窓がコンコンと叩かれた。カーテンを開けて音の主を確認する。銀色の髪に青い瞳。よく知っている顔。
「クルス?」
珍しい。彼がオスカーの家に来るのはお互いがクルースニクの候補として修行していたとき以来だ。話がある、と窓越しに言われてオスカーは急いで家の扉を開けた。
「なに……どうしたの? 珍しいね」
「酷い顔だな」
家に入れた途端に顔をしかめたクルスに、「今日で二回目だよ」とオスカーは気の抜けた笑いを漏らしてしまった。そんなに酷い顔してるかな、と顔を撫でてみる。無精髭が手にちくちくと当たった。酷い顔かもな、と納得する。
「君みたいに分かりやすい色男じゃないんだ。目も細いしね? 酷い顔って酷いなあ?」
「そういう意味じゃない」
「それも二回目。……リピチアさんにも言われちゃってね」
「全く……」
軽口を叩く余裕はあるんだな、とクルスは少しだけ笑った。いい知らせだ、とオスカーに言ってから「お前の探している魔女を保護した」とオスカーの背を叩いた。嘘、とオスカーの口から驚きが漏れる。ほんと? と目を丸くしたオスカーに「本当だ」とクルスはにこりとした。
「先生から聞いている。銀髪にすみれ色の瞳の……おれの従妹だろう」
「──本当に? あの子は生きてるの?」
「生きている。火傷も怪我もおっていたが、今はもうそれもほぼ治りつつある、といったところだ」
「きみの屋敷にいるのか!? 会わせてくれ!」
顔をパッと明るくしたオスカーに、「それはできない」とクルスは首を振る。どうして、と口にしたオスカーに「あの子はお前が自分を殺そうとしたと思っているからだ」とやるせなさそうな顔で答えた。
一方、クルスの言葉にオスカーはまたも目を丸くする。何を言われたのかよく理解できなかったからだ。
「は──僕が? あの子を? どうして?」
「お前が……クルースニク協会に足止めを食らっているうちに家に放火されたそうだ。クルースニクらしき人物をあの子が目撃していて……」
「それで……それで、僕が裏切ったと……?」
唖然とした顔のオスカーに「そうだ」としかクルスは返せなかった。そっかあ、と妙に間の抜けた返事を投げてオスカーは深く息をつく。
オスカーは全身の力が抜けたようにふらりと長椅子に座り込んでしまった。顔を手でおおって、天を仰ぐように顔を上向けて。手の下に隠されている表情がどんなものかクルスにはわからない。絶望しているのか、怒っているのか、悲しんでいるのか、喜んでいるのか。
「生きてたんだ」という声が微かに聞こえた。大きく息を吸って、吐いて、オスカーは「生きてたんだね」と今度ははっきりと繰り返す。
「生きてた……! あの子は生きてた! それだけで十分だ! ……僕のことをそんな風に思っていたとしても、それだけで……それだけで、生きていてくれたなら……」
オスカーが喜んでいたことにクルスはほっとする。立ち直れないほど落ち込んだのではないかと思ったからだ。
ありがとう、とオスカーはクルスに抱きついてその背中をばしばしと叩いた。長い友人関係だ、オスカーが全身で喜んでいるのもクルスにはわかっている。仕方ないやつだな、とほんのり笑って「だから元気を出せ」と背中を叩き返す。
「あの子の家の放火についてはメイラー家が絡んでいるかもしれないという話は知っているか?」
「聞いた。ちょうどさっき、リピチアさんから」
「そうか。それなら話が早い。──その事もあって、ルティカルやシステリア卿には彼女のことを報せないで欲しい。……あの子もそれを望んでいる。迷惑がかかるかもしれないと」
「……わかった。約束するよ」
オスカーが頷く。頼むぞ、とクルスは応じた。
「先生が言うには“誰があの子の存在を見つけて家に放火したのかわからない”から、この話にカタがつくまでおれがあの子を保護することにしたんだ。……オスカー、それを手伝ってはもらえないか」
「会えなくても見守るのはオッケーってこと?」
「まあ、そうだな」
粋な計らいだね、と笑ってオスカーは「今なら心地よく眠れそうだよ」と心底ほっとした顔でソファーに沈む。ほっとした途端に眠気が押し寄せていた。
「おい。寝るなら寝室に行け」
おれはもう帰るから、とクルスはオスカーを小突く。知らせに来てくれてありがとうと何度も感謝を述べながら、オスカーは帰っていくクルスを見送った。