3
「森に住んでるっていうの? 女の子が? 一人で?」
思わず素っ頓狂な声を出したオスカーに、メイラー家の娘は愉快そうに、けれど上品に笑う。細い指をカップの取っ手にひっかけて、口許へ。紅茶で唇を湿らせて、娘はゆったりと話を続ける。仕草の一つ一つが優美だった。まるで作り物のように。
「ええ。森ですわ、オスカー様。ひとりかどうかは分かりませんけれど。森の入り口に、森の番がいる小屋があるでしょう? それから、周りをぐるりと囲む柵。あそこを越えて、女の子が一人森に入っていくのを見た……という話をメイドたちがしていたのを、聞いたことがあるのです。魔女みたいな服を着た女の子だったそうですよ」
オスカー様の出会ったかたも、きっと魔女みたいな子だったのではないかしら、とロベリアはゆっくり笑った。
魔女みたいな子か、とオスカーは記憶をたどる。ローブにフードつきのマントを着ていたし、かご一杯に薬草やら何やらを詰めた姿は魔女と言えば魔女だろう。普通の娘がフードつきマントをつけただけだと言われれば、そうであるだけのような気もするが。
「うーん……? 君のいうような【魔女みたいな子】かどうかはわからないけど……。森に住んでるっていうのは、にわかには信じがたいね。あの森、おっかない獣が棲んでるって話じゃないか」
だから人が立ち入ったりしないように森番がいるのだろう、と続けたオスカーに「そうですわね」とロベリアも頷く。
「そんな森に人が……しかも女の子が立ち入るのを、森番が許すのかな?」
「さあ? それはわたくしにはわかりかねますわ。けれど、もしかしたらオスカー様の出会った方は……本物の魔女だったのではないかしら? 魔女なら、森番の目くらいはごまかせる魔法を身に付けているのかもしれません」
「魔女ねえ……」
そんな雰囲気はなかったような、と思いながらもオスカーは「森にすむような子があんなベビーリングを持ってるのかなあ」と呟く。ロベリアはそれに「ひとを見た目で判断するのは良くないことだと思いますのよ」と苦笑いした。わたくしも人のことはあまり言えませんけれど、と続けて。
「一度、森に行ってみるのも手だと思いましてよ。落とし物から始まる恋……などということもあるじゃありませんか」
「ロベリア嬢、君はまたそうやって……。僕は別にそういうつもりじゃないんだよ」
「あら! オスカー様。まだそんなことをおっしゃるの? わたくしたちの間でも、オスカー様の隣を歩く女性がいつ現れるのか……お話の種になるほどですのに」
くすくすと笑うロベリアに、相変わらずそういう話が好きなんだねえ、とオスカーは肩をすくめる。貴族の令嬢は噂話かお茶会しかしないのかい、とからかえば、ロベリアは「それ以外させてもらえないのですよ」と柔らかに微笑んだ。それもごもっともか、とオスカーは「毎日退屈なんじゃないの」と茶菓子をつまむ。そんな退屈な生活ばかりをしていれば、恋愛小説にどっぷりはまってしまうのも、わからなくはない。
「けれどね。恋だのなんだのはクルースニクには不向きすぎるよ。共に夜を過ごせない恋人を、君は欲しいと思うのかい?」
「そう言われてしまいますと、なにも言えなくなってしまいますわ」
皆様随分と心配していらしてよ、とそっとまつげを伏せたロベリアに、「ご忠告ありがとう」とオスカーは笑う。
「僕ももうそろそろ三十だけど、まだクルースニクをやめるつもりはないからさ。危険と隣り合わせの生活をしても良いといってくれる人がいたら、考えてみるとしようかな」
「まあ。でしたら……しばらくはわたくしたちのお話の種も無くならなさそうですわね?」
「僕なんかでよければお茶の共にでもしてよ。退屈なら尚更さ」
にっこりと笑って、オスカーは「それじゃあ」と席をたつ。
「君の言うとおり、恋でも探しにいこうかな」
森に魔女などいるはずもないことを、ロベリアはよく知っていた。あそこにあるのは餓えた獣、それからその獣に喰われた【メイラー家】のものがせいぜいだろう。馬鹿馬鹿しい、とロベリアはオスカーの立った席を見つめる。一人残された屋敷のテラスで、ロベリアは固く拳を握りしめた。脇腹に残った傷は、ロベリアを未だに苛んでいる。あのとき自分がもっと森の奥深くまで探しにいったのなら、大切なものを取り返せたのだろうか。
ロベリアは神もクルースニクも、どちらも信じてはいなかった。神は試練を与えるだけ与え、救いの手など差し伸べぬ。クルースニクは善の象徴とうたわれながらも、その実ただの人間と変わらない、と。少なくともロベリアはそう思っている。
「……許さない。許さないわ。貴女だけ逃げるなんて。生き延びるだなんて」
懐かしい紫色の瞳。優しく笑ううつくしい顔。ロベリアにとってそれはすべてで、そして奪われたものだった。遠い昔に捨てさせられたもの。慣例にしたがって、そうさせられたもの。
「魔女なんてどこにもいやしないのよ!」
喉の奥から絞り出した声は、誰にも聞かれることはない。
***
鬱蒼と生い茂る木々。ボロ小屋当然の小さな家。申し訳程度にたてられている柵を見つめながら、これからどうしようかとオスカーは立ち尽くしていた。柵を越えるのは簡単だが、どうにもボロ小屋の中から鋭い視線を浴びせられているような気がしてならない。
「……森番って言うくらいだもんなあ」
小屋のなかから視線を向けている男が、森の所有者かどうかオスカーにはわからない。しかし、挨拶くらいはしておくべきだろう。面倒なことにならないといいけど、とため息をつきながら、オスカーは小屋の扉を叩く。即座に扉が開いた。
「……森に何か用か」
出てきたのは茶髪の男だ。年はオスカーより少し上といったところだろうか。エメラルドのような緑色の瞳が、オスカーのアイスグレーの瞳を射抜いている。ただの森番じゃないな──とオスカーは感じ取った。雰囲気がどうにも鋭すぎる。けれど、それをわざわざ指摘するほどオスカーも馬鹿ではない。
「人を探していてね」
「魔女でも見に来たのか。こんな森に」
からかうというよりは馬鹿にした口調ではあったが、オスカーはそれに柔和に笑うだけにした。懐から例のベビーリングを取り出して、「これを落とした子がここにいるかもって話でさ」と細い目をさらに細くして笑う。出来るだけ人の良さそうに、警戒心を解くように笑いかけてみたが、茶髪の男の刺すような雰囲気は変わらない。
「……中に入れ」
「えっ?」
予想外の男の行動に、オスカーは目を丸くした。お茶でもどうぞ──という雰囲気ではないが、オスカーに危害を加えよう──というような物騒な雰囲気もない。
戸惑いはしたものの、オスカーは小屋へと足を踏み入れる。外観のボロさとは裏腹に、小屋の中は綺麗なものだった。生活感が滲むこじんまりとした室内は、案外あたたかい雰囲気まで感じられる。ハンティングトロフィーなのだろうか、真っ白な鹿の頭のとなりに、なかなか物騒な猟銃がかけられていた。それが何とも「森番らしい」。
それさえなければ、森番とその家族がここで慎ましく暮らしていると言われても疑わなかっただろう。鹿の頭に何やら小さなペンダントがかけられていたのが気になるが、何かのまじないだろうか。遠目からでは花を模したようなものである──ということくらいしかわからなかった。
「俺は森番のジェラルドだ。あんたは」
「僕はオスカー。クルースニクのオスカーだよ」
勧められるがままに椅子に座る。家主のジェラルドも椅子に腰かけた。オスカーの座っている椅子は来客用なのだろう。可愛らしい子供用の椅子がもう一脚あるのが、なんとも不釣り合いでおかしかった。
「クルースニクがどうしてこんな森に。……あァ、いや。どうしてこんな森に、そのリングを落とした娘がいると思うんだ?」
「そういう話を聞いたからだよ。今のところ、その話しか情報がなくってね」
昼間は暇だしね、と茶目っ気を出しながら応じたものの、ジェラルドと名乗る男の表情は緩みもしなかった。
「悪いことは言わない。早く帰れ。ここは魔女も獣もすむ森だ」
「魔女なら大丈夫さ。月イチで遊ぶような仲。満月の夜のパーティはなかなか刺激的だよ。今度ご招待しようか」
「……本当にお前、クルースニクか?」
「クルースニクが皆お堅いと思っているなら大間違いだよ。スタンプの絵柄じゃないんだからね?」
にっこり笑った【聖職者】に毒気を抜かれたのか、それともまともに相手をするのは疲れる手合いだと悟ったのか。ジェラルドは張り詰めていた雰囲気を少し和らげて「ここに人が来るのはずいぶん久しぶりだ」と頭をかいた。
「そう?」
「こんな不気味な森だからなァ」
確かに好き好んで来るような場所じゃないよね、とオスカーも同意を返す。それに気を悪くした様子もなく、ジェラルドは「そのベビーリングの持ち主は」と話を切り出した。
「あんたの……友人か何かか?」
何かを恐れるような、あるいは何かを探るような響きがそこにある。それは一体何故だろうと思いながら、オスカーは「顔もわからない他人だよ」とのんびり返した。
「町でぶつかった拍子にね。ぶつかった相手の子が落としていったってわけ。ああ、ねえ。全く関係ない話なんだけど、どうしてここには子供向けの絵本なんてあるの?」
部屋の隅の方に置いてある本棚には、薬草の図鑑や動物の解体手引き書、普通の小説に混じって子供用の絵本が納められていた。
【すみれの花に祝福を】、【星のかけらと彫金師】。それから、オスカー自身も小さい頃によく読んでいた【嘘つきな騎士と泣き虫なお姫様】。そのいずれもがこの森番には不似合いなもののように思えた。
「……昔、ガキを育ててた。その名残さ」
苦々しい顔をした男に、オスカーは深くは突っ込まなかった。多かれ少なかれ、人には秘密というものがある。踏み込んではならない領域も。
「……こんな細かいことに気づくお前なら大丈夫そうだな。暗くなる前に引き上げろよ。森のなかで死なれちゃあ、俺が責められるから嫌なんだよ。昔にどっかのご令嬢が森に入って噛まれたことがあってな。……次はないぜと脅されたって訳だ」
茶のひとつも出さずにすまなかったなと口にしたジェラルドに、気にしないでとオスカーは返した。
森に入っても大丈夫かどうかを精査されていたのかと気付いて、思わず苦笑いをしてしまう。粗野な森番かと思えば、案外そうでもなさそうだ。
「……もし、森で魔女に会ったとしても。危害は加えないでやってくれないか。……あいつは、悪いやつじゃないんだ」
「……おや。知り合いか何かなの? それをクルースニクの僕に言うなんて、なかなか勇気があるね」
「クルースニクが皆お堅いわけじゃないんだろ?」
ジェラルドの言葉にオスカーはにやりと笑う。たぶん、それだけで意味は通じたはずだ。