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「随分良くなってきましたねえ~」
小熊ほどの大きさのある黒猫に相好を崩しながら、リピチアは上機嫌で黒猫の面倒を見ていた。
適切な処置を施したからか、想像していたよりも早くに黒猫の火傷も怪我も落ち着いた。動物も診られるんスね、と聞いたミズチに「実はこっちが専門だったりするんですよ」とリピチアも返したりして。
怪我などを治す間のんびりとさせていたためだろう。見つけたときよりもいくらかふっくらとしている黒猫を横目に「大丈夫なんスか」とミズチはリピチアにたずねた。
「何がですか?」
「いや、その……見つけたときよりも丸くねえスかね……」
「大丈夫ですよ」
自信たっぷりにリピチアが答える。
「この子、元々脂肪がたまりやすい種なんです。……というか、運動させないと筋肉が脂肪に変わるタイプで。狩りが得意なんですよ。動けば全部筋肉に戻ります。だから大丈夫です」
「……何が大丈夫なんスか」
怠惰を具現化したような黒猫のどこが“大丈夫”なのか。訝しんだミズチにリピチアがにっこりとする。
「中佐が『今度私が鍛えよう』といっていました」
「そりゃ大丈夫スね」
ルティカルに鍛え上げられたらさぞかし筋肉質な猫になるだろう──とミズチは手のひらを返した。ミズチも一度ルティカルのトレーニングに付き合ったことが──付き合わされたことが──あるが、あれは相当な体力を必要とする。
本人は「軽いトレーニングだよ」などと涼しい顔だったが、熊と取っ組み合って投げ飛ばせる自信のある人間と、熊と取っ組み合ったらサンドバッグにされる自信のある人間とでは基礎体力は雲泥の差だ。
結局あのときのミズチは三十分ももたずに『軽いトレーニング』から離脱した。体力お化けについていけるわけないですよ、とリピチアもミズチに同情したほどだ。猫なんてきっとあっという間にムキムキになるだろう。
ルティカルの地獄のようなトレーニングが待っているとも知らず、黒猫は呑気にリピチアの机の上で眠っている。丸い体ももうそろそろ見納めか……とミズチは肥満体形の猫を撫でてやった。柔らかくて気持ちが良い。お腹の辺りのたるんだ肉が特に最高だった。冬だったら抱いて寝たい。
「結局、小屋の火事にはクルースニクが関わってたってことで良いんスかね?」
猫を撫でながらのミズチのそれに「そうですねえ」とリピチアものんびり応じ、「もしかするとクルースニクより不味いものが関わってたって線も出てきましたけどねえ」と困った顔をした。
「不味いもの?」
「【メイラー家】ですよ」
猫をなでるミズチの手が止まったのを見て、「中佐も私の分析結果は見てますから、安心してください」と付け加えた。どこに安心しろというのか。【メイラー家】とはつまり、中佐──ルティカルが当主を務めている家だ。それがあの小屋の家事に関わっていると言われて、何が安心だというのか。
「中佐もこの件は納得済み、ということです。つまりですね、中佐の家だからと手加減を加えたり忖度しなくて大丈夫、ということです。安心でしょ」
普通は上司に関わる“不都合”を見つけたりしたらクビはねられてもおかしくないですしね、とリピチアはミズチににっこりした。そういう意味での安心か、とミズチも苦笑いを返す。
リピチアは平気な顔で続ける。
「いつもより怖い顔をしてレポート読んでましたよ。正直近付きたくないくらい」
「何でメイラー家が……?」
「それは【どうしてメイラー家が出てくる──だなんて分析結果になったのか】という意味で聞いていますか? それとも【メイラー家が小屋を燃やした理由は何だろう】という意味ですか?」
「前者スね。後者はわからないでしょ?」
「ええ。燃やした人にしか【燃やした理由】なんかわかりませんからね。じゃあ【どうしてそういう分析結果になったのか】ですけど」
硝子瓶です。とリピチアは断じた。
硝子瓶スか。とミズチは応じた。
例の原型をとどめていた硝子瓶のことだ。
怪しいと三人ともが睨んでいたものだが、調べた結果「メイラー家が購入したもの」だと裏付けが取れたのだという。「メイラー家」といってもルティカルのような「本家」が買ったものではなく、「分家」が買った品物らしい。購入先を少し当たったら出てきたのだそうだ。ちょっとツメが甘いですよね、とリピチアは唇に指を当てて考え込む。
「調べたら簡単に出てきてしまうような証拠品を、あんな風に放ったままにしておくものでしょうか?」
「他の瓶と同じく溶けると思っていたとかじゃねえスか」
「うーん……。瓶の中身も調べましたけど、そっちは何の物質も出てこなくて──というか、検出できなくて」
「あれだけ激しく燃えてると中身までは……」
「そうなんですよねえ。蒸発しちゃってて。しかもすぐに拾いに行けた訳じゃないので、朝露やら夜露やらに濡れたんでしょうね。検出できたのはそういうものばかりで。そういうのと瓶の中身とが混じっちゃうとワケわかんなくなるんですよね。もうちょっと正確な検査が出来る方法を確立させていきたいんですけど……」
この子がくわえていた鏃もどこから来たものなのか……とリピチアは膝の上の猫をなでる。鏃が喋ってくれたら楽なのに! とリピチアはため息をつく。にゃあん、と黒猫がないた。
「再現検証しようと思って瓶を加熱してたら火傷しちゃうし。お気に入りの火傷薬は切れてるし……」
「火傷薬にお気に入りのとかあるんスか」
「町外れの薬屋で売ってるんですよ。“ラウレンテの火傷薬”! 最近は仕入れ元が卸してくれないとか、蒸発したとかで火傷薬は仕入れられていないらしくて。よく効くから好きだったのに」
散々ですよ、とリピチアは膨れる。確かにそれは散々だとミズチも頷いた。薬の降ろし主が蒸発するなんて話は滅多にきかない。なんかあったんだろうなとミズチは適当に納得することにした。
リピチアと違ってミズチは火傷には縁がない。自分の腰につけた鞄にいつ買ったかも定かではない薬があるのを思いだし、リピチアに差し出す。珍しい部下の優しさにリピチアが涙をぬぐう真似をした。それから薬のラベルを見て笑い出す。
「えっ。貸してくれるんですか……ってこれ、結構前に買ったやつじゃないですか。ラベルが黄ばんでる……」
「熟成させてたんできっとよく効きますよ」
「もう。適当なんですから!」
けらけらと笑いながらリピチアは「ありがとうございます」と薬の瓶を受けとる。軟膏を適当にすくって塗っていた。塗るのか、と凝視してしまったミズチに「無いよりはマシですよね」ととリビアは応じたが、ミズチは微笑むだけにとどめておく。使用期限の切れた薬の効能など分かるわけもない。
「それにしても。メイラー家が絡んでいたとして……あんな森の中の小屋を燃やす理由がわからないんですよね」
「何があったんスかね」
ああでもないこうでもない──と話し合う二人に耳を傾けるように、黒猫は静かに目を閉じて尻尾を揺らしている。
***
「……最近、きちんと休んでいますか」
「えっ? うん、もちろん」
いつも通りだよと笑うオスカーに「嘘はお止めなさい」とソルセリルは呆れた顔をした。クマが出来ていますよ、と目を細める。
オスカーの元気がないのは睡眠不足のせいではない。ここ最近オスカーが睡眠時間を削ってまで何かを調べているのをソルセリルは知っていた。それが【魔女】関連であることも。こうして診察室に引っ張って来なければ、オスカーは今も自分の部屋で集めてきた情報と睨みあっていたことだろう。
オスカーがベビーリングを返しに行き、そしてその最中に森で何者かに襲われ、怪我をしていたところを救ったのが【魔女】だ。
そしておそらくその【魔女】は、何年も昔に捨てられてしまったメイラー家の令嬢であるはずだ。オスカーが拾ったベビーリングはメイラー家が身の証しを立てるのにも使うもの。ソルセリルやルティカルが行った【魔女の正体の考察】に間違いはないだろう。
そして、その魔女がすんでいた小屋が何者かによって燃やされたのだという。オスカーから話を聞く限り、そこには魔女の他に猫と狼が一匹ずつすんでいたそうなのだが──彼女らがいた形跡も、彼らの亡骸もまだ見つかってはいない。
オスカーは希望をもって──あるいはすがるように──彼女らを探しているのだろう。森番までもがいなくなった森にたまに出掛けているのを知っているし、【魔女】に繋がりそうな情報をかき集めているのも知っている。オスカーと【魔女】の間に何があったのか、誰にも知る由はないが、きっと大事な相手だったのだろうとソルセリルは察した。
「……オスカー」
「諦めきれないんだよ、伯父さん。せめて……せめてあの子達の亡骸を見つけられたなら納得もできたけど。もしかしたら諦めることもできたかも。でも、何も残っていないし──どうしてあんなことになったのか……誰も知らないから」
だから僕だけは、とオスカーはへらりと笑った。
「どちらであるにせよ、僕だけはどうしてそうなったのか知っておきたい。……誰がやったのか突き止めたいんだ」
赦せないから、と小さく呟かれた言葉にソルセリルは目を伏せた。諌めるべきだと分かっていたが、諌める資格が自分にないのも分かっていた。
【魔女】をあの森に捨てる決断を下してしまったのは他ならないソルセリルだ。まだ小さかったルティカルと、夫を亡くし体調を崩しがちだったサーリャを守るためだったとはいえ、幼い少女を森に捨てることに頷いてしまった。
そんな決断をした人間が、間違った選択をした自分が──彼女の安否を気遣うものをどうして諫められようか。
「……オスカー、仮に君が真実を知ることになったとして、誰がやったのか突き止めたとして。君はその時どうするんです?」
「それは……。それは、その時になってみないとわからないな」
オスカーは困ったように笑った。
嘘だ、とソルセリルは思う。
笑ったのは顔だけでアイスグレーの瞳は困ってもいない。腹は決まっているのだ。誰がやったのか突き止めたならば、オスカーはきっと。
「──クルースニクであることは、君の夢だったでしょう。それを捨てる覚悟があるんですか」
「“善い”クルースニクであることが僕の夢だからね」
ソルセリルは探りをいれるために、少々狡い言葉を選んで甥に問う。甥は当たり前のようにそう答えた。
やはりか、とソルセリルは顔に出さずにオスカーを見る。やはりオスカーはクルースニクを疑っているのだ。
当然の思考だ、とソルセリルは思う。
【魔女】の“火炙り”。誰が為したかと問われれば、誰もがクルースニクを想像するだろう。
【悪しき魔女を炎の力で浄化する】。古くから使われてきた手だ。人が相手ならば残酷だと批判されるような手段でも、相手が魔女であるならば称賛される。
「伯父さんが信じてくれるかはわからないけど。……彼女は凄く優しい子なんだよ。僕がクルースニクだと知っても助けてくれた。自分は床で寝て……怪我人の僕をベッドに寝かせるような子なんだよ」
悪い魔女じゃないよ、と絞り出すような声をソルセリルは聞いている。
人の感情の機微に疎いと言われるソルセリルですら、オスカーがどうしようもない気持ちを抱えているのがわかった。
オスカーのこんな声を聞いたのは「お前みたいな人間はクルースニクになれっこない」と【クルースニク】に否定されたときだろうか。もう十数年も前の話だ。あれからオスカーは逞しく強かな【クルースニク】となったけれど。それでもオスカーにはまだ強くなりきれない部分がある。人が人である限り、どうしても“弱み”はあるものだ。ソルセリルはそれを否定しようとは思わない。
「……あんな酷いこと、されて良いわけがない」
【中身】を見ずに【外側】だけで判断される辛さをオスカーは知っている。だからこそ、【魔女】に特別な思いを抱いたのだろう。自分を重ねてしまったのだ。
それを優しさというのか、愚かというのかは、ソルセリルには判断が出来なかった。そのどちらでもあるような気がしたからだ。
「……君は“クルースニク”なんですよ。それだけは忘れないように」
「わかってるよ」
どちらであるかを決めるのはオスカー自身であり、ソルセリルもそれをよく知っている。だから念を押す言葉だけにとどめた。
オスカーは聞き分けの良さそうな言葉を返したが、もし【誰がやったのか】分かったとき、それがクルースニクであってもオスカーはその【誰か】に刃を向けてしまうだろう。
だからこそ伯父としてソルセリルはオスカーを諌めなくてはいけなかった。けれど。
「僕はちゃんと、自分が正しいと思ったことをするよ」
そのためには、クルースニクであることすら諦めても良い。
そんな瞳で傷ついたように微笑むオスカーを諌めることなんて出来やしなかった。
傷ついたのは何にだろうか、とソルセリルは思う。想像以上にクルースニクが残酷だったことだろうか。それとも【魔女】を喪ってしまったことだろうか。それとも、自分がオスカーを止めようとしているのではないか、と察してしまったのだろうか。
ソルセリルとて小屋を燃やした【誰か】が憎くないわけがない。【魔女】はソルセリルにとっては姪であり、かつて見捨ててしまった命だ。その命を救えたかもしれないのに、またここでみすみす見捨ててしまうような真似はしたくなかった。再び【間違った選択】をしたくはなかった。今度こそ、正しいと思えることがしたかった。
かつてのソルセリルにはその選択をすることが出来なかったから。だから、あの森には魔女が棲んでいたのだ。
「君の選ぶ道が最善であることを、僕は期待します」
ソルセリルに言えるのはそれだけだった。
オスカーを止めるのも、オスカーを後押しするのも。
どちらが正しいのかわからなかった。