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頬にひんやりとしたものが触れたのを感じて、ニルチェニアは目を覚ました。目を覚ましてから、見慣れぬ景色にその菫色の瞳を丸くする。ニルチェニアの目の前には見たこともない女性が微笑んでいて、「目覚めましたね」と優しく声をかけてきたのだ。驚いてしまって思わず頷く。目の前の女性の藤色の瞳が緩んだ。
「わたくしはトゥルーディアと申します」
頬に触れていたのはトゥルーディアの手のひらだったらしい。あまりに起きないから心配でしたのよ、と言われてしまって、ニルチェニアは何も言えなくなってしまった。──否。
「差し支えなければ、貴女のお名前をお聞かせ願えますか」
トゥルーディアの言葉に言葉を返そうとして、ニルチェニアは自分の口から音が紡げなくなったのに気付いた。かすれ声にもならない、僅かな空気の震えが漏れるのみだ。潰れてしまったんだ、とニルチェニアは変に冷静な頭で考えた。あれだけ煙でいぶされて、熱のこもった空気をすって、それから大泣きしたのだ。潰れても何も不思議じゃない。やっぱり、と思ったのみで。
目の前で微笑んでいる『トゥルーディア』は、ニルチェニアの返事を待っているようだった。けれどいつまでたっても声が返らないこと、ニルチェニアが喉に手をやっていることに「まさか」と口にする。
「まさか──喉が?」
ニルチェニアは頷くしかなかった。
トゥルーディアは「こんな子にまで」と一瞬だけキッと眦をつりあげ、それから「怖かったでしょう」とベッドに横たわるニルチェニアに目線を合わせるように屈む。
「ここには怖いクルースニクも意地悪な人もいませんからね。どうか安心して」
ニルチェニアはやっぱり頷くしかなかった。声が返せないからだ。トゥルーディアはニルチェニアを抱き寄せて、背中をとんとんと優しく叩く。ニルチェニアはそれに遥か遠い記憶の母を思いだし、ほんの少し泣いてしまった。優しい指先が幾度もニルチェニアの髪を労るように撫でる。
話せないニルチェニアを気遣ってか、トゥルーディアはニルチェニアがここに来た経緯を話し始めた。泉のほとりで倒れていたこと、トゥルーディアの主である青年がニルチェニアの保護を決めたこと、安心してここに身を寄せていて良いこと。
「わたくしも昔は【魔女】に師事しておりましたのよ」
だから大丈夫、とトゥルーディアはニルチェニアににっこり笑う。それでも困惑したような、警戒したようなニルチェニアに「なかなかすぐには信じられませんよね」とトゥルーディアは寂しそうに口にした。それから少し考えて、「魔法は使えはしませんが、【獣の言葉】は話せます」と続けた。
そう話したトゥルーディアにニルチェニアはようやっと警戒をとく。自分と同じ世界で生きてきたのだと理解できたからだ。
「あなたの側にいた白い狼も旦那様が面倒を見てらっしゃいますから。近いうち連れて参りましょう」
優しいメイドの言葉に、アガニョークだ、とニルチェニアは顔を輝かせた。表情からなにか察したのか、くすくすと笑って「あの子はずっと側におりましたよ」とトゥルーディアはニルチェニアの手を握る。
もうなにも心配はいらないのです、とトゥルーディアは何度も繰り返した。ニルチェニアを安心させるように、自分に言い聞かせるように。
ニルチェニアを見るトゥルーディアの顔はどこか切なげで、ニルチェニアはそれにトゥルーディアの師事していた魔女の行く末を感じ取った。だから優しいのか、と納得もする。
自分より弱いものを助けるとき、そこに多少の自己投影があるのは珍しくもなんともない。一時の気まぐれであったとしても、過去の自分を救うために、現在の他人を助けることもあるのだ。他人を介した自らへの施しは、歪であれどほんの少し救われる。
【魔女】は、或いは【魔女に関わったもの】は、【普通の人間として見なされなかったもの】たちは、そういういびつな形でしか自らを救えないのかもしれないな、とニルチェニアはトゥルーディアの手を握り返した。
どうせ真っ当な形で報われることも、救われることも望めやしないのだから。
***
『そこ』が燃えたというのをオスカーは知らなかった。クルースニク協会にしつこく事実を伝え直し、魔女の存在はなかったこと、自らに起こったのは恐らくは狩人による誤射であり、鹿と間違えたんじゃないか──というまことしやかでもっともらしい『推論』を並べ立て。三日ほど拘束され、解放されてやっとあの子のもとへ向かえると喜びながら森を歩いたというのに。
「何だよこれ……」
オスカーを待っていたのはあの怠惰な黒猫でもなく、賢い白狼でもなく、ましてや健気な魔女でもなかった。
爽やかな朝日に照らされ、朝露に濡れていたのは。
──焼け崩れた小屋の残骸、漂う煙の臭い、見るも無惨な『魔女の家』。
嘘だろ、とオスカーの口からは知らずのうちに言葉が漏れていた。こんなのは認めたくないと何度も頭をふる。最後に見たときのニルチェニアの笑顔が、はにかんだ顔が、すみれ色の瞳が頭に浮かんでオスカーの胸を締め付けていく。
「なんで……」
火の不始末だったんだろうかと、小屋だったものにふらふらと近づく。小屋そのものが酷い燃えようで、どこから火が出たのかもわからない。暖炉のあった辺りも、炊事場の辺りも、もう記憶を頼りに探るしかないのだ。見覚えのある鉄鍋や、薬の原料か何かが入っていたガラス瓶が、いびつにとろけて転がっている。本棚だったものはすっかりと燃えていて、一部は炭のようになっていた。ニルチェニアが大事にしていたはずの絵本の類いはひとつ残らず燃えてしまっていて、どこにも見当たらない。
「嘘だ。……嘘でしょ、ニルチェニア」
小さかったベッドも、敷かれていたラグも、ノーチがお気に入りだった毛布も、アガニョークが使っていたクッションも、ニルチェニアが身に付けていたあのフード付きの外套も、何もかもがなくなっていた。
屋根は焼け崩れて落ちてしまっている。下敷きになっていたら絶対に助からないだろう。
「どうして、そんな」
服が汚れるのも構わずに灰と炭と焼け残りの中に手を突っ込む。どこかにあの子がいるんじゃないかと、もしかしたら何らかの手段で逃げおおせているのではと、その避難した痕跡があるのではと、オスカーは夢中になって焼けた家を探し回った。
こんな別れかたはあんまりだと泣くことも出来なかった。
幸せにすると──彼女の夢を、願いを叶えたいと伝えたのに。
寒い日だったはずなのに、オスカーは汗だくだった。何かを見つけるまで手を休めようとは思えなかった。ありとあらゆるところをひっくり返し、焼け残りの中に身を投じ、そうしてようやく見つけたのは。
溶けて腕がぐんにゃりと曲がった、オスカーの贈った指輪だった。繊細だった彫り模様は熱に溶けたせいで、醜く爛れたようになっている。綺麗な紫色だったアメシストはくすんで、緑がかったような鈍い黄色に変色してしまっていた。
沸き上がったのは絶望だ。
「嫌だ……ニルチェニア、嫌だよ、こんなの」
雨が降っているわけでもないのに、摘まもうとした指輪にはぽたぽたと雫が垂れてくる。自分の目元をぬぐうこともせず、オスカーは声を圧し殺して泣いた。歪んでしまった指輪をそっと握りしめ、喪ってしまった笑顔を思う。こんな別れ方をするなどとは、これっぽっちも思っていなかったのだ。
──何が原因だった?
何度も頭のなかで繰り返す。何が原因でこうなった? 本当に火の不始末だろうか? どうしてここまで燃えてしまった?
オスカーには導き出せなかった。火の不始末というには火元がどこなのか特定も出来ないし、それにあまりにも燃えすぎている。日も当たらず、ひやりとした空気は湿気を含んでいるという良い証拠で、そんな空気の中にある木製の小屋がこんなにもよく燃えるのだろうか?
──まさか。
オスカーはふと立ち上がり、燃え尽きた小屋の周りを見て回る。冷静な目でよく見れば、家は奇妙な燃えかたをしていた。
まるで結界の中で家を燃やしたかのように、地面に残る焼け跡が焼けた部分とそうでない部分とでくっきりとしているのだ。ムラがない。
普通に燃えた場合、地面に残る焼け跡や焦げ目は境目が曖昧なものになる。それは風で煽られたり、あるいは燃えたものに水分が含まれたりしていて焼け方にムラが残ってしまうからだ。地面が朝露に濡れて黒くなっていたから気づくのが遅れたが、これはオスカーに違和を抱かせるには十分なことだった。
魔術かその類いだろうとオスカーは見当をつける。ニルチェニア自身が火をつけたのだろうかと考え、それはないはずだと考えを一蹴した。アガニョークとノーチをあれほど可愛がっていたあの子が、動物たちを巻き添えにするようなことをしたとは思えない。
──じゃあ、誰が?
オスカーの脳裏に浮かんだのは、自分を襲ったものたちだ。この森で魔女に出会うきっかけとなったあの者たちだ。ただの勘に近い推測ではあったが、間違っている気はしなかった。
少しでも何かの証拠が残っていやしないかとオスカーは小屋の周りを探り始める。辛うじて焼け残っていた瓶を拾ってみたり、炭を崩して何かの焼け残りが無いかと見てみたり。
くっきりと残った「焼け跡」の境界線上からは、用途不明のガラス質の石のようなものがいくつか。熱を受けた瓶が割れて飛び散ったのかと思ったが、大きさはどれも似通っている。自然に割れた瓶ではなさそうだなと考えながらオスカーはそれをいくつか拾ってハンカチにくるんだ。ついでに近くに転がっていた怪しげな瓶も拾い上げる。
いくつかの瓶が原型をとどめない状態で転がっていたのに対し、“境界線”付近に転がっていた瓶は原型をとどめていたのが気になったのだ。
結局、ニルチェニアに繋がりそうなものは指輪ひとつしか見つけられなかった。アガニョークがいた痕跡も、ノーチがいた痕跡も見つからない。骨の一つでも残っていたなら弔ってやれたのに、と思いながらも骨が見つからなかったことに正直安堵している自分がいるのもオスカーは感じている。
死んでいるという証拠を見つけてしまったら、何かがぽっきりと折れてしまいそうだった。
「……僕が襲われたところにも行ってみるか」
一月はたってしまったが、もしかしたら何かのこっているかもしれないとオスカーは森の入り口へと引き返す。何かしていないと気が狂いそうだった。誰が彼女をこんな目に遭わせたのだろう。どうして彼女がこんな目に遭わなくてはいけなかったのだろう。どうして自分はその場にいられなかったのだろう。どうして助けられなかったのだろう。
どうして。どうして。どうして。どうして。
すべて終わってしまったことだ。けれどどうしても割りきれなかった。
「──絶対に許さないからな」
低く呟いた声は森の奥深くへと吸い込まれていく。クルースニクとなって初めて抱いた、燃えるような怒りだった。