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──死んでしまいたい。
泉のそばに丸くなって、ニルチェニアはしゃくり上げて泣いていた。そんなニルチェニアを気遣っているのか、アガニョークは優しく寄り添い小さい鳴き声をあげる。時折涙を舐めとるように顔を舐められた。あなたは本当に優しい子ね、とニルチェニアはアガニョークを撫でる。
ニルチェニアをこの泉までつれてきてくれたのはアガニョークだった。焼け落ちる家から飛び出てきたのだ、自分だって足が焼けて痛むだろうに、その大きな背にニルチェニアを乗せてここまで走ってきてくれた。泉につくなりアガニョークは腰を下ろし、ニルチェニアを抱き込むように丸くなって体を休めた。無理をさせてごめんなさい、とニルチェニアはそれにも泣いた。もうどうしたらいいのかわからなかった。アガニョークの白い毛を撫でる。焦げてしまったのだろう、所々黒くなってしまった毛は、撫でても白さを取り戻すことはない。それにも悲しくなってしまって、ニルチェニアは狼に謝ることしかできなかった。
家は焼け、ノーチは自分をかばって死んでしまった。帰るところもなければ、抱き締める猫もいない。アガニョークはニルチェニアに寄り添ってくれているけれど、それでも癒せない【寒さ】は、ニルチェニアに涙を流させる。
「な、なんでっ、どうしてっ」
煙も吸い、熱風にも触れ、これ以上声を出して泣こうものなら喉がつぶれることくらいニルチェニアにもわかっている。けれど、涙は止まらない。どうして彼が裏切ったのか、ニルチェニアにはわからない。嘘よ、と何度も呟いてしまう。けれど、状況から見ても彼がそういう企てを起こしたように思える。癇癪を起こした子供のようにニルチェニアは泣きじゃくった。
「もう嫌ぁ……! 何で、どうしてわたしばかり……!」
昔に捨てられたときも。
リラにおいていかれてしまったときも。
今回のことだって。
おとぎ話のお姫様は苦難に見舞われてもいずれは幸せになるだろう。けれど、ニルチェニアは魔女なのだ。苦難に見舞われても幸せにはなれないし、幸せになることを許してももらえない。そうしてきっと、最後には誰かに退治されて終わるのだ。
「わたし、わたし、産まれてこなければ良かった……!」
魔女として産み落とされなければ、こんな思いもせずにすんだのに。アガニョークの背中に顔を押し付けてニルチェニアは呻いた。
夜の闇の冷たさが身に染みる。身体を寄せあっているはずなのにちっとも温かくなかった。
アガニョークだって、自分が飼い主でなければもっといい生活ができたのではないか。こんな目に遭わずにすんだんじゃないか。そんなことばかりを考えて、その度にニルチェニアは傷付いた。誰に向けたかもわからない「ごめんなさい」と「ゆるして」を繰り返すうちに、ニルチェニアの声はどんどんと枯れていく。炎に焼かれ、煙にいぶされ、その上大泣きして。二度と声が出せなくなるかもしれないという懸念はあっても、泣かずにはいられない。
「……好きだったのに。好きなのに。オスカー、どうして」
やっと新しい自分になれそうな気がしていた。
【魔女】ではなく、なりたい自分になれると思ったのに。王子様になりたいと言ってくれたのに。白爪草の指輪を作ってくれたのも、絡めた指を握り返してくれたのも。あの指輪をくれたのも、全部嘘だったのだろうか。
どうして。その言葉だけが幾度となく唇からこぼれ落ちた。
優しく笑ってくれたのも、嬉しい言葉をかけてくれたのも、すべてニルチェニアをこうするための布石にすぎなかったのだろうか。
オスカーを信じたい気持ち、裏切られたのだという気持ち、その両方がニルチェニアの胸をかきみだしていく。何が本当で何が嘘なのか。ニルチェニアにはもう分からない。
夜が明ける。ニルチェニアを抱き締めるように、アガニョークは一晩中丸くなっていた。飼い主が泣きじゃくるのを止めはせずに、柔らかい尾でその背を撫で続けた。
小鳥が鳴き始め、夜空はだんだんと藤色から牡丹色に。それからゆっくりと檸檬のような色に空が明るむ頃、ニルチェニアの喉はもう声を出せなくなっていた。目を腫らし、泉のほとりで狼と共に眠っていたのを見つけたのは、青い瞳を持った銀髪の青年だ。
***
クルスと“それ”を交互に見ながら、トゥルーディオは慎重に口にする。
「保護する女性ってこの人のことですかね? ──この人のことですよね?」
「そうだと思うが。……何故そうも距離をとる?」
「犬が苦手なんです。しかも狼じゃないですか。かなり大きいし……」
泉のほとりで倒れていた娘を見つけたのはクルスだった。トゥルーディオと共に近寄ろうとすれば、少女を守るように丸まっていた白いものが頭をあげる。それが何なのかに気付いたトゥルーディオは、さっと距離をとってクルスとその『白いもの』との邂逅を見守っていた。
「狼に対してそんなに大胆に距離を詰める人、初めて見ますよ」
「そうか」
臆することなく『白いもの』に近寄ったクルスに、トゥルーディオが真顔で「狼が怖くないんですか」と問う。もっと恐ろしいものもたくさん見てきたからな、と返せば「そういうものでしょうか」とトゥルーディオは不可解そうな顔をした。
何にせよ苦手ならば無理に近寄ることもあるまい──とトゥルーディオはそのままに、クルスは低くうなり始めた狼に声をかけることにした。
これが普通の狼であったなら、クルスもこんなことはしない。獣は人間の言葉を理解しないし、獣の言葉をクルスは理解できない。けれど、倒れている少女を守るように身体を丸め、こちらへ威嚇してくる狼というのは『普通ではない』。この少女が魔女であると仮定したとき、この狼は人間の言葉をある程度理解できるだろうとクルスはふんだのだ。
【魔女】が四本脚の獣と意思疎通を可能にするとき、その魔女は【悪いもの】として扱われる。獣の言葉を理解できるのは同じく【獣】のみだからだ。【獣】、つまりは【ヒトならざるもの】というわけだ。
【魔女】が鳥たちと意思疎通を可能にしても【悪いもの】として扱われないのは、鳥が二本脚だからだ。人も鳥も二本の脚を持つ生き物だから、鳥はヒトの仲間として扱うのだと。
人は二本の手と二本の足をもつ。しかしながら、人の【手】はかつて【前肢】と呼ばれていたものだ。だからこそ、人は【二本脚】と【四本脚】の間で揺れ動くのだ──という話を、クルスは昔助けた魔女に聞いたことがあった。
──では。
目の前で倒れているこの女性の足は何本だろう。
「そこにいる女性を助けたいんだ」
狼に話しかければ、灯火色の瞳がクルスを真っ直ぐに見返す。値踏みするようにじろじろと見るものだから、クルスは腰を落として狼に跪いた。こちらに敵意も支配する気もないことを分かって貰わない限り、狼はクルスと睨み合うつもりだろう。歯を剥き出して唸りはするものの、威嚇でおさめているあたりやはり『わかっている』のだろうと思えた。
「ここは冷える。ここに居続けたら、君もその女性も辛いことと思う」
狼に包まれるようにして眠っている少女はどうだかわからないが、夜明けの森だ。日も当たらない上、泉のほとりともなれば気温は周りよりも低くなる。その証拠にクルスも狼も吐く息が白い。丸まって小さくなっていること、それから人に寄り添っていること──その二つを加味すれば、狼の方が寒がっているのは予想がつく。
「怪我も火傷も面倒を見たい。おれ達は君たちを決して害さない」
薄暗い森のなかではよく見えないが、クルスの目には狼の毛に焼け焦げたところがあるように映った。どうしてそんなことになっているのかは何となく予想がついてしまう。きっと『クルースニク』だ。でなければ、こんなところに少女と狼がいるわけがない。家に放火でもされたのだろうか。
次はどう言葉をかけるべきかとクルスが黙っているうちに、トゥルーディオがそっとクルスと白い狼に近寄ってくる。ほんの少しだけ躊躇うように口を開きかけ、それから閉じて。一拍置いて、仕方がない──とでも言うように狼に話しかけた。
「……あんまりこういうところ、他人には見せたくないんですけど──旦那さまにならいいか。……『この人は嘘をついていないよ。クルースニクでもない』」
トゥルーディオが話し始めたとたん、狼はやっとその瞳に安堵の色を宿した。狼の表情が和らぐところを見るのは初めてだった。狼という獣にも、表情があったのか──などと思ってしまう。その驚きも追いやって、クルスは目を丸くしてトゥルーディオを見た。
旦那様にならいいか、の後の言葉は、人の言葉ではなかったからだ。獣の鳴き声のような、独特の音の連なりのそれ。ヒトの耳を持つクルスには聞き取れることのないその言葉を、トゥルーディオが話したのに驚いたのだった。
「トゥルーディオ……それは」
「【獣の言葉】ですよ。……旦那さまも話だけなら聞いたことがあるんじゃないですか。正しい話かどうかは別として。……【魔女】とその【使い】が扱う言葉──とされているものです。俺たちは元々そういう環境にいましたからね。これくらいは話せますよ。今のは“こちらは嘘をついていないし、クルースニクでもない”と伝えたんです」
昔仕えていた魔女に教えてもらったのだろう、とクルスは察した。それ以上はトゥルーディオも語りはせずに、「早く連れていきましょう」とクルスをせっつく。
「【獣の言葉】を使えるものは【仲間】というわけか」
「そういうことです。……そこの女の子は俺が運びますから、旦那さまはその……狼の方を」
「【仲間】でも苦手なのか……」
「昔、手酷く噛まれたことがありまして」
クルスの言葉にトゥルーディオがしかめ面をする。犬みたいな生き物はどうもダメなんですよ、と珍しく弱気な言葉を続けて、大人しくなった狼のもとで寝ている女性を抱き上げた。
二人が馬車に戻ってきたとき、トゥルーディアは「あら」とだけ声を発した。狼を連れて帰ってきたのに反応が薄いね、とトゥルーディオは抱き上げていた少女をトゥルーディアに任せる。「一晩待たされていたのだもの」とトゥルーディアはにっこりと笑った。もう帰ってこないのかと思ってしまったわ、と。それに比べたら大したことはないでしょう、と続けて。
「こちらの男性の手当ては終わりました。……ひどい怪我でしたけれど、これなら数日休めばどうにでもなる範囲だと思いますわ。顔の腫れはなかなか引かないかもしれませんが……」
「そうか。……すまないが、こちらの女性も頼めるか。火傷を負っているかもしれないんだ」
「ええ、旦那様」
少女を一瞥し、「ひどいこと」としんみり呟いたトゥルーディアは、「早く帰りましょう」とトゥルーディオを御者台へと急き立てた。はいはい、とトゥルーディアに軽い返事をして、トゥルーディオは御者台へと登る。
「ちょいと飛ばしますけど、文句は抜きで!」
三頭の馬をうまく操りながら、トゥルーディオは馬車を走らせていく。クルスにトゥルーディア、怪我をした男に眠っている少女、そして大きな狼──馬車のなかはお世辞にも余裕があるとは言えなかったが、目的が達成できたことにクルスはほっとした。少女の様子を見たトゥルーディアは「可哀想に」とため息をつく。
「随分怖い目に遭ったのだと思います。……服も所々焦げて。髪まで……。それに、こんなに冷えて。本当に酷いこと。身体も痩せ細って、これじゃあまるで枯れ木のよう」
少女の頬に残っていた涙の乾いた跡を撫でながら、メイドがしんみりとこぼすのをクルスは聞いていた。
「しばらくは屋敷で療養させようと思うんだが……」
「この子のお世話ならお任せくださいな」
にこにこと笑って、トゥルーディアは膝にのせた少女の頭をゆっくりと撫でた。狼は無理です、とトゥルーディアに続けられたのに「双子はそういうところも似るのか」とクルスは少し笑ってしまう。
「トゥルーディオも犬が苦手だと言っていたよ」
「わたくしもあまり得意ではないのです。トゥルーディオほど表には出さないように努めておりますけれど」
貴方も大変でしたねえ、と平然と狼を撫でるトゥルーディアの言葉は、どこまでが本当なのかクルスには分からなかった。ただ、狼の方も少しは心を許しているのか、撫でられるがままなのが幸いといったところだろう。
一人と一匹を撫でるトゥルーディアの手つきはひどく優しい。壊れ物でも触れるかのようなそれに、自分達の境遇を重ねてしまっているのだろうか、とクルスは何となく思ってしまう。
慕っていた老魔女を火刑台に送られた過去を持つトゥルーディアとトゥルーディオ。二人からすれば、この娘は他人事には思えないのだろう。
「目が覚めたら……いろいろと話を聞いてやってくれないか。おれよりは君の方が適任だろう」
「はい、旦那様。心得ております」
目覚めたときに見知らぬ男が近くにいるよりは、同性同士の方が安心だろう。
そういうクルスの配慮はトゥルーディアに伝わったらしかった。
「少し眠るよ。屋敷についたら起こしてくれ」
「かしこまりました」
眠れるかどうかはわからんが、と心の中で付け足してクルスは目を閉じる。ちょいと飛ばしているぶん、馬車の揺れはひどかった。




