15
「これも頼んでいい?」
柔らかい布で包まれたままのブローチを、オスカーはカウンターにおいた。こつんと微かな音がする。布をはらりと解き、青年に見せれば。
「あれ?」
オスカーが取り出したブローチを目の前に、店主の青年が不思議そうに首をかしげる。
「このブローチ……君のところから注文をいただいたものだったかな? ……刻印を見るかぎりはこの店で作ったものだけど……?」
──ブローチの裏側に刻まれている印は間違いなくこの店のものだね。
そう言ってから、すごく前にこれと同じものを見たのだけど、と青年は首をかしげる。
「たしか、このブローチを頼んだのは君の家じゃあないよね? なんで君が持ってるの?」
ライラックのブローチなんてそうは見かけないはず、とブローチを手に取った青年は、不思議そのものだというような顔でオスカーを見ている。
そんな青年に「ロベリア嬢のものでね」とオスカーは答えた。ブローチはきらきらと光っている。納得いったように青年は頷いた。
「ロベリア嬢……ああ、メイラー家の……分かれた家の方かな」
「そう。分家の。今日遊びにいったら、壊れかけてたから。ついでに直してもらってこようかって聞いたわけ」
「ああ、なるほどね。……あれ、じゃあロベリア様は……? ……うん?」
「どうかした?」
「あ──ううん、何でもない。気のせいだ。……えーと、じゃあ。こっちも直せばいい感じかな? 請求はどこ宛に?」
「僕宛で。一月心配かけちゃったお詫びみたいなものだから」
「あはは。そういうときにこそ指輪とか選びなよ」
君ってばほんとにそういうところがあるよね! と笑いながら、店主の青年は見積書をオスカーに渡す。
「こっちも三日以内には仕上げておくから。指輪と一緒に出せるようにしておくよ。多分そっちのが都合良いだろ?」
「ありがとう。助かるよ」
どうぞこれからもご贔屓に──と笑って、青年はオスカーの背を見送った。ドアベルがからりと鳴って、店内に静寂が戻る。
もう一度ブローチを見つめ、青年はぽつりと呟いた。
「……【娘の目の色と同じだから】……って、言ってたよなあ……」
ライラックのブローチをまじまじと見つめる。このブローチを作ったのは青年の父親だった。そのころ青年は【見習い】として父親に師事していたから間違いない。このブローチの石を選んでいた夫婦にたまたま話しかけたとき、夫婦はそう答えたのだ。娘の瞳と同じ色の石があって良かったと。──とても幸せそうに。けれどどこか物憂げに。
その表情が強く印象に残っていたからこそ、オスカーの説明が気になった。青年の記憶によれば、ロベリアという令嬢は瞳が青かったはずだ。そうでなくとも、メイラー家の人間は瞳が青いと聞くし。
「まあ、考えても仕方ないか?」
何かの聞き間違いだったのかもしれないし、と青年はひとつ大きく伸びをして、工房の彫金台へと向かう。友人の恋路──だと思う──を、応援してやりたいのだ。ずいぶん昔のことに気を散らしたまま仕事などしたくなかった。
***
数日後、オスカーは修理されたブローチを手にロベリアの元へと訪れていた。
流石にプロというべきか、緩んでいたブローチの針は元通りとなっていたし、どうやらくすんでいたブローチの土台も磨いてくれたらしい。ロベリアから受け取ったときより随分綺麗になっている。彫金師の青年を褒めたとき、「そりゃあね」と自慢げに返されたのが何だかおかしかった。オスカーと歳もあまり変わらないだろうに、褒められた子供のように胸を張るのだから。
「ロベリア。こんにちは」
「ごきげんよう」
いつも通りににっこりと笑い、ロベリアはオスカーを出迎える。
庭園に案内されるまでにロベリアの夫とすれ違い、オスカーは軽く挨拶を交わす。ロベリアの夫もまた、ロベリアと同じように綺麗な笑みでもってオスカーに返した。こんにちは、と。それからロベリアに顔を向けてやんわりと釘を刺す。
「ロベリア。クルースニク様にご面倒をおかけしてはいけないよ」
「ええ、あなた。弁えておりますわ」
オスカーに返すのと同じ笑顔でロベリアは夫に微笑みかける。こうしてオスカーの目の前でロベリアが夫と挨拶を交わすのも、初めてではなかったが──何とも言えない気まずさがいつだってそこにあった。ロベリアは貴族の娘だ。だから政略結婚というのも当たり前で、政略結婚した貴族の娘をオスカーはうんと見てきた。けれど、この二人は何かが違う。どこか遠い。
おそらくは二人の距離が遠い理由が『夫がロベリアを外に出したがらない理由』であるのだろうとは思うが、それが何なのかオスカーには見当がつかなかった。
ロベリアとその夫は、歳が離れているとはいえ、まだ子供もいないそうだ。それが余計に『政略結婚』という前提を揺らがせる。政略的な結婚であるのにも関わらず、子供もいないというのが引っ掛かるのだ。
その上、分家とはいえロベリアはメイラー家の令嬢。それなのにも関わらず、件の夫は『そこそこ』の家柄。好き合っているようにも見えない。ならばどうしてそんな二人が夫婦でいるのか、オスカーにはわからなかった。
「……全部私から奪っていくのね」
「えっ?」
夫が通りすぎたあと、ロベリアがぽつりと呟いた言葉はオスカーにはうまく聞き取れなかった。聞き返しても「何でもありませんわ」とロベリアがにっこりするだけに終わる。オスカーも深く聞こうとはしなかった。
「そういえば、ブローチを直してもらったからね。返しておこうか」
「まあ。随分と早いのですね」
「腕の良い職人に頼んだからね」
先程までの張り付けたような綺麗な笑みはどこへやら、ロベリアはオスカーの差し出したブローチに眼を輝かせていた。ひっくり返したり撫でてみたりしながら「元通りだわ」と顔を綻ばせる。ありがとう、とにこにことするロベリアに「どういたしまして」とオスカーも笑う。早速ドレスの胸元にブローチをつけたロベリアの笑顔は、年相応の可愛らしいものだった。
「それじゃ。また来るね」
「はい。お待ちしておりますわ」
ロベリアは淑やかに手を振ってオスカーを見送った。いつも通りだ。
システリア邸まで送りましょうかと馬車の手配を申し出たロベリアには「大丈夫」と返し、オスカーはのんびりと町へ向かって歩いていた。まだ昼を少し過ぎたくらいだから、久しぶりに町を歩くのもいいかもしれない。聖水やら銀の弾丸を買い足すのも悪くないなと考える。クルースニク御用達の店が町の端の方にあるのだ。ああいう『専門用品』は買えるときに買っておくに限る。
賑わっている町をのんびりと歩く。満月の夜にはこの辺りも地獄絵図──というか、気軽には絶対に歩けない場所になってしまうが、真昼ともなれば人も多く活気に満ちたいい場所だ。露天で軽食を売る青年も、流行りの服を売る服飾店も、威勢のいい声で客引きをしている女性のいる八百屋も、どこか見ていて心地よかった。
昼間は賑やかでなくちゃなあ、とオスカーは思うのだ。いきる力に溢れ、人として健全に生きて。オスカーの伯父のソルセリルは賑やかなのを嫌うけれど、オスカーはこういう賑やかさは大好きだった。
快晴の空もあいまって鼻唄でも歌いたくなるような陽気だ。風は爽やかで言うことなし。こういう日がずっと続いてくれればいいなと思う。こういう些細な幸せを守るために、オスカーはクルースニクになったのだから。
町の端の方にいくと人はまばらになる。店もぽつぽつとあるくらいで、その大半は特殊な専門店だ。クルースニクが御用達にするような店だったり、或いは騎士や狩人が出入りするような店もある。職人が使うような道具もこの辺りに売られていた。
オスカーのお目当ては薬屋だった。
広く知られている話では、「病気とは体の不調から来るもの」、あるいは「魔女や魔物からかけられた呪いによって引き起こされるもの」などに分けられる。
だからこそ魔術師の扱うような聖水やら何やらも【薬】として置いてあるのだ。魔除けとして使い、体から魔を追い払おう──というわけである。
そういう話と絡めてオスカーが【魔術師の道具と普通の薬とが混在する店】の話を何の気なしに医者のソルセリルに話したところ、「呪い云々で病気なんて起こりません」「昔の迷信です」「医学が発達してきたこの時世に嘆かわしい」と返ってきたことがある。医学に精通した伯父はそんな風に憤慨していたが、それは伯父が知識を身に付けているからだ。──とオスカーは思う。
正しい知識がなければぼんやりとした理解のみが存在するだけで、そこには──この場合は呪い云々の──正しくない知識が出来上がってしまう。
識者だけが知り得る事実は、他のものにとっては未知のものだからだ。未知のものに対して、人はこじつけであれ理屈を求める生き物だ。そうしてこじつけで出来上がってしまった理屈を後生大事にするから、正しい知識を受け入れるのが難しくなる。
そんなわけで病気とはどんなものなのか、その正しい仕組みを一般人が知ることはまずなかった。クルースニクになる前のオスカーだって、魔女や魔物から呪いをかけられたら病気になるのかもしれないと思っていた時期があったくらいだ。今は魔女たちの【呪い】と実際の【病気】が全く違うものだと理解できている。
実際に呪われたことは何度となくあったけれど、あれは病気なんかよりタチが悪い。歩くたびに頭に釘が刺さったような激痛が走るだとか、全身の毛が鱗に置き換わるとか、そういうレベルだ。病気や風邪のほうがずっとマシだろう。確実な治療法が確立されていたり、症状を緩和できるだけ本当にずっとマシだ。
呪いを解くのは本当に面倒くさい。薬を飲んでおしまい、というわけにはいかない。
二月と二晩月光に当てられた石を砕き、その欠片を飲め──だの、ワインと聖水を混ぜた風呂にきっちり二日間浸からなければならない──等々。場合によっては呪いが解ける前に死ぬんじゃないかこれ、と考えてしまうような解呪方法もある。
「そういえば、ニルチェニアも言ってたなあ……」
おとぎ話によくあるように、魔女の呪いは本当にキスでとけるのか──というような話をふったときのことだ。ニルチェニアにしてはものすごく悪い顔で、「そんなわけはありませんよ」とにやりと笑われた。キスひとつで解ける呪いなど、風邪より軽い障りだと。あのときのニルチェニアは確かに魔女らしい顔をしていた。
愛じゃ呪いは打ち砕けない、そんなものはおとぎ話の世界です──と。
幻想的なようでいて現実的な答えだが、その通りだろうなとオスカーも思った。愛のこもったキスひとつで魔女の呪いを無力化できるなら、呪いにかけられて苦しむクルースニクはいなくなる。
とりとめもないことを考えながら歩いていれば、もう薬屋の前まで来てしまっていた。