12
アガニョークが甘えるようにすり寄ってくる。それを受け入れながら、ニルチェニアは鼻唄を歌いながら鍋をかき混ぜるオスカーの背中を見つめていた。
魔女の家の台所にクルースニクが立っているというのはなんだか不思議な感じだ。オスカーが動くたび、彼の髪がチラチラと揺れた。少し癖のある銀髪はひとつに結われ、垂れている。触ってみるとどこかふわふわしていて、自分の髪とは随分違うのだな──と感じたのを思い出していた。
オスカーの怪我も火傷も、もうほとんど癒えていた。こうしてニルチェニアに手料理を振る舞えるくらいには。それなのに、ニルチェニアには「出ていって」が言えなくなっていた。
あれだけ「ここにいていい?」という言葉を言っていたオスカーが、あの一件から──「君の王子様になりたい」と言ってから──それを口にしなくなったのも大きいのかもしれない。
だから言い出すタイミングがつかめないでいるのだ。きっとそうに違いない、とニルチェニアはアガニョークの頭を撫でた。未だに素直になれない部分があるのを誤魔化すように。
オスカーの言葉は嬉しかった。ずっとずっと、欲しくてたまらないものだったようにも思える。“自分が何者であるか”を他者に定義され、森にまで捨てられて。それでも未練がましく【今の自分以外の何か】になりたがったニルチェニアを、オスカーは笑わないでいてくれた。
おとぎ話のお姫様に憧れている──などと、リラには恥ずかしくて言えなかった。ニルチェニアの中では、リラはもうお姫様であり、善い魔女だったからだ。憧れのお姫様に「貴女のようになりたい」と言えるほど、その頃のニルチェニアは強くなかった。
リラには優しい王子さまがいて、彼はいつだってリラを愛していた。王子さまがいたからこそ、リラはお姫様でいられたのだろう。彼の腕で眠れたからこそ、リラは悪い魔女のまま終わらずにすんだのだ。リラの王子さまはニルチェニアにも優しかったけれど、リラに比べて彼は少しだけニルチェニアからは遠かった。だから結局は彼にも話せなかった。彼とリラなら、ニルチェニアの憧れの話もちゃんと聞いてくれたかもしれないけれど。
つまるところ、今の今までニルチェニアには勇気がなかった。
こうなりたいと口にする勇気もなく、他者から向けられた罵詈雑言にとらわれたままだった。撥ね付ける勇気がなかった。
それをオスカーは看破し、ニルチェニアを忌々しい言葉たちから解放してくれたのだと思う。ほんのちょっとの勇気を出せるように。だからオスカーには話せてしまえた。それが不思議で、けれど当然であるようにも思えた。
ぐるぅ、とアガニョークが機嫌よさそうに鳴いている。ニルチェニアも鳴けるものなら鳴いていただろう。こそばゆくて、なんだかむずかゆくて、けれど心があたたかい。リラと暮らしていたときと似ているが、ちょっと違う幸せな気持ちがニルチェニアの中にある。
「ねえ、ニルチェニア」
鍋をかき混ぜながらオスカーが言う。
「明日、外でご飯を食べてみない?」
どうして、とは聞かなかった。ニルチェニアもそうしたいと思ったからだ。
やっぱり綺麗だと思ったんだよ、とオスカーはにこにことしている。よく晴れた青空は勿忘草色で、吹き抜ける風は爽やかだ。ニルチェニアの住む家の目の前がひらけた花畑になっていたのにオスカーは目をつけていたらしい。「洗濯物を干している時に、きれいな場所だと思ったんだよね」としきりに頷いていた。
シロツメクサ、レンゲ、へびいちごや野ばら。一人で過ごしていたときには何とも思わなかった野草たちだ。なのにオスカーが「きれいな場所」だと言ったとたん、ニルチェニアにも美しい花畑に見えてしまった。何でかしらと首をかしげても答えは出てこない。ただ、目の前に咲く花々が格段に美しく見えたのだ。
「ピクニックっていうのを一度やってみたかったんだよ」
「……これはピクニックっていうの?」
「そう。こうやって外でご飯を食べたり遊んだりね。……いい大人になるとなかなか出来ないことだし、何より一人じゃ味気ない」
「そうなの?」
外でご飯を食べるのも、遊ぶのも、一人で出来ることだとニルチェニアは思ったが、オスカーがしたいのはきっとそういうことではないのだろうとも思った。オスカーが求めているのがニルチェニアの考えるものと同じなら、彼はニルチェニアを誘ったりはしなかっただろう。一人で勝手に外にでて、好きに食べて遊べばいいだけの話なのだから。
ニルチェニアが作ったサンドイッチを、オスカーはいそいそと籠から取り出した。パンにバターとマスタードを塗って、野菜と薫製肉を挟んだだけのものなのに、どうやらオスカーはそれが楽しみだったようだ。二人ぶんを籠から出して、一人ぶんをニルチェニアへと手渡す。同じタイミングでサンドイッチにかじりつけば、何故だかいつもより美味しい気がした。オスカーが来てから不思議なことばかりだ。
「ああ、いいなあ。ずっとこういうことがしてみたかった」
にこにこと満足げなオスカーは、膝にのってきたノーチをわしゃわしゃと撫でて遊んでいる。お腹を出して甘え始めた黒猫にニルチェニアは笑ってしまった。たゆんとしたお腹をなで回し、ごろごろと喉をならすノーチを存分に構う。のんびりとした時間が心地よかった。食べて、飲んで、少しおしゃべりして。髪を揺らす風にそっと目を細めたりして。
「あ。そうだ。ちょっと指を貸してよ」
思い付いたように口にしたオスカーに首をかしげながらも、ニルチェニアは右手をオスカーに差し出す。そっちじゃなくて、とくすりと笑ってオスカーはさらりとニルチェニアの左手をとった。何をされるのだろうかとオスカーの手を見つめてしまう。ニルチェニアが見つめるなか、細い指にシロツメクサが巻かれていく。なんだかくすぐったいと思いながらも、オスカーの気のすむまでじっとした。
「出来た。花冠は作るのもちょっと時間かかるし」
「あ……」
シロツメクサの指輪が自分の指にあるのに、ニルチェニアは目をぱちぱちとさせる。こういうの作ってみたかったんだよ、とオスカーはゆっくりと目を細めた。
「クルースニクをしていると、あんまりこういうのんびりした時間ってとれないから。……ごめんね、ありがと」
オスカーはニルチェニアの薬指からシロツメクサのそれを抜き取る。それに少し残念な気持ちになってしまった。きれいだったのにな、と思いながら咲いているシロツメクサに手を伸ばした。
──わたしにも作れるかな。
指に巻き付けて結べばいいだけなのだから、と自分の指に巻き付けて見るものの、結び目が甘いせいか途中でほどけてしまう。四苦八苦しているニルチェニアを、オスカーが優しく見つめているのに気付いていたのはノーチとアガニョークだけだった。
「……明後日、ここを出るよ」
隣にいたクルースニクからそんな言葉が出てきたのに、ニルチェニアの細い指からシロツメクサがぽろっとこぼれ落ちる。ノーチが尻尾でオスカーの膝を叩く。
「ばたばたしてて忘れちゃってたのもあるけど……誰にも連絡をいれてなかったし、心配かけちゃってると思うから」
「……そうですよね」
自分とはちがって、オスカーには人間の友人も仲間もいるはずだ。それならば心配だろうとニルチェニアもうなずく。ここしばらくの間、隣に彼がいるのが当たり前になってしまっていたけれど。本来はありえないことだ。
──だから、諦めなくては。
ニルチェニアはこぼれおちたシロツメクサを拾わずに、ぎゅっと手を握りしめる。
二人がしばらく無言でいると、アガニョークが何かを見つけたようにニルチェニアを鼻先でつつきだす。
「あ……」
尾羽の大きな鳥が近寄ってきていた。茶色っぽい体はこの森では珍しくないものだけれど、久しぶりにみるその鳥にニルチェニアの顔はほころぶ。見た目以外のある一点において、この鳥はとんでもなく珍しいのだ。
警戒心もなく近寄ってきた鳥を見て、ニルチェニアは「おいで」と声をかける。
ちょこちょこと寄ってきてニルチェニアの膝の上に落ち着いた鳥に、オスカーは興味深そうな目を向けている。
「この子ね、すごいのよ」
竪琴にも似た模様の尾羽をゆらゆらと振っている鳥の頭を、ニルチェニアはそっと撫でた。
「色んなものの音を真似られるの」
お喋りしてみて、とニルチェニアが鳥へ呼び掛ければ、鳥はつぶらな瞳をぱちぱちさせて『お喋りしてみて』と繰り返した。ニルチェニアの声と寸分違わないそれにオスカーが「面白い鳥だねえ」と感嘆の声をあげる。
「コトドリっていうの。人の声も獣の鳴き声も何でも真似てしまうのよ」
「へえ……。珍しい鳥だなあ、見たことなかった」
オスカーが興味をもったのにニルチェニアはほっとして、それから戸惑うように声をあげた。
「その、あの……この森はこんな風に不思議な動物もいっぱいいるし……ええと、ノーチもあなたを気に入っているみたいだし、だから……」
ああでもない、こうでもないと思い悩みながら口のなかで言葉を転がす。ニルチェニアがもごもごとしている間、オスカーは優しい顔で次の言葉を待っていた。
「だから……その、たまにでいいですから……また、遊びに……」
だめかしら、と俯いたニルチェニアにオスカーは「すぐ戻ってくるつもりだから」とくすくすと笑った。本当? とぱっと顔を輝かせるニルチェニアの手にそっと触れて、ニルチェニアが握ったままの拳をそっとほどく。細い指に自分の指を絡めようとして、けれどニルチェニアがびくっと体をすくませたのに気づいてそれをやめた。指先だけを少し触れあわせながら、オスカーは耳の真っ赤な魔女に微笑む。
「もし……もし、君が良いと言ってくれるなら、僕はここに住みたいくらいなんだ。クルースニクはそう簡単にやめられないし、僕もまだ辞めるつもりはないから、ちょっと難しいかもしれないけど……。先生にも相談してみるつもりだよ」
ここだと人と連絡を取るのが難しいからなあ、とオスカーは言う。問題はそれだけだ、とでも言うように。ニルチェニアにはそれが嬉しかった。
「あなたと一緒に暮らすのは、魔女のわたしにも赦されることなのかしら」
つい念を押すように聞いてしまったが、オスカーはそう聞かれるのも予測していたようだ。いつものようなのんびりとした顔と、いつものように穏やかな声音でニルチェニアに聞き返す。
「僕がクルースニクであることを、君が許してくれるなら」
だからニルチェニアもいつものような調子で返した。
「あなたがクルースニクでも、わたしは構わないわ」
こういうやり取りひとつで、不思議なほどに嬉しくなれるのだ。わたしよりよほど魔法使いみたい、と銀髪のクルースニクを見つめてしまう。少し勇気をだして、触れているオスカーの指先に自分の指を絡めてみた。気づいたオスカーはにっこりとして、きゅっと手を握る。
「そう。それなら大丈夫。僕がクルースニクだからって怒りだすような、怖い魔女じゃなくてよかったよ」
「そんなことで怒るような怖い魔女じゃないわ」
手を繋いでもらえたのと、帰ってきてくれると約束してくれたのと──。照れ臭さと嬉しさにつんとしたニルチェニアに、オスカーはからかうように口にした。
「そうだよね。君はいつだって可愛いもの。ちがう?」
「ちがいます!」
いつもそういうことばっかり言うんだから──と、ついついぷくっと膨れてしまうが、楽しくてどきどきするのだ。
──隣に人がいてくれるのは、こんなにも幸せなことだったのか。
優しく微笑むオスカーを直視できず、膝に乗ったコトドリをひたすらに撫でていればコトドリが『魔女じゃない』『ちがいます!』とニルチェニアそっくりの声で鳴く。
どうせならさっきの僕の台詞を覚えてほしかったなあ、とにやにやとしたオスカーに、ニルチェニアは真っ赤になった。
君はいつだって可愛い──なんて、彼とそっくりな声で鳴く鳥なんて恥ずかしすぎるから。
「ふふ。そんなことを囁くの、僕だけでいいよね」
「もう!」
意地悪を言わないで、とそっぽをむきながらも魔女の手とクルースニクの手は繋がれていた。