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魔女の瞳から涙がこぼれ落ちたとき、なんて美しいのだろうとオスカーは思った。一粒一粒が宝石みたいにきらきらとしている。オスカーが手をさしのべて涙をぬぐっても、魔女は拒もうとはしなかった。
「ねえ、君の……君の名前を教えてもらえないかな。こういうときに君のことを“魔女さん”って呼びたくないから。君の、君だけを指す言葉を……君の名前を呼びたいんだ。君だけに贈りたい言葉だから」
魔女の涙は止まらない。ずっと苦しい思いをし続けてきたのだろうと思う。オスカーの場合は夢を嗤うものだったけれど、彼女の場合は違う。彼女の生き方自体を、あるいは彼女自身を嗤い、蔑み、貶める言葉だっただろう。
クルースニクをしていてわかったことがひとつある。外側と中身は、時に一致しないのだ。美しい見目のものの中身が醜悪であることも、怪物と呼ばれるものの中身が善良であることもあった。本当の悪と本当の善。オスカーにはまだその見極めがしっかり出来るとは言えない。けれど、クルースニクとして見極めたいのだ。
吸血鬼、悪魔、魔女として生まれてしまったとしても。人に害をなさないのなら、心根が善良であるのなら。それはクルースニクの敵ではないとオスカーは信じている。
泣いている主人を心配したのか、白い狼のアガニョークが寄ってきた。すりすりと魔女の足に鼻先を擦り付け、慰めるように甘えている。黒猫のノーチはいつものように、椅子に腰かけたままの魔女の膝に落ち着いている。にゃあん、と普段なら考えられないほど可愛らしい声を出して。
「ニルチェニア」
涙声だったが、はっきりと聞こえた。
「わたしの名前、ニルチェニアっていうの」
魔女にとって、名とは重要なものだとオスカーは思い出した。師であるニックが「媒介に使うものだから」と語っていたのを思い出したのだ。名を使い、“魔”と契約することも、あるいは人智を越えた現象を呼び起こすこともあるのだと。だからこそ、滅多に人に名を教えないのだ──とニックに教わったのだ。その名を託してくれたというなら、少しは彼女に信用してもらえたのではないか、とオスカーは思う。
ニルチェニア。
古いおとぎ話のなかでしか聞かないような、今となっては懐かしい響きの名前だ。おとぎ話が好きな彼女にぴったりの名前だ──とオスカーは一人でうなずいた。
そういえば、彼女の本棚に納められていたいくつかの絵本の中のお姫様の名前も【ニルチェニア】だ。もしかしたら、それで余計に憧れがあったのかもしれない。本の中の、自分と同じ名前のお姫様は幸せになれるというのに、自分は魔女だと蔑まれる生活を送ってきたのだろうから。
そのあと、涙をすっかり流し終えて、少し腫れぼったい瞳でニルチェニアはオスカーに微笑んでくれた。素敵な言葉をありがとう、と。その笑顔がオスカーにとっては心踊るものだった。やはりこれは恋なんだろうか、と改めて思ってしまう。まさかロベリアにかけた【恋を探しにいこうかな】という言葉が現実のものになるとは。
「ねえ、ニルチェニア。君のことをもっと知りたいんだ。話せるところだけで良いから、僕に教えて欲しい」
お願い、と請えばニルチェニアはこくりとうなずいた。泣き腫らした眼を擦って、赤くなった鼻を鳴らして。それから、ひとつ息を吸って。
「……私は、魔女として森に捨てられた。それから、リラに……わたしのひとつ前の【魔女】に育てられたの」
ぼんやりと、何かを思い出すように語るニルチェニアをオスカーは止めなかった。彼女のことなら何でも知りたかったし、どうしてニルチェニアが頑なに自分を魔女だと呼称したのか、気になったからだ。
「見てもらえればわかると思いますけれど。……私は白い髪に紫色の瞳をもって産まれてきたから。それが【魔女】の証だって、森に捨てられたの。私が産まれた家は、こんな瞳と髪を持っているのはみんな魔女かその類いだ──っていう言い伝えがあったみたいで。生まれてからずっと、物心ついたときにはみんなが私を【魔女】だと蔑んだ」
だからあれほどまでに自分を魔女だと言ったのか、とオスカーは納得した。幼い頃に投げ掛けられた言葉は、いつまでたっても縛り付けてくるものだ。本人がいくらそれから逃れようとしても、その努力すら嘲笑うように。
リラもそうだったの、とニルチェニアはぽつりとつぶやく。
「リラも紫色の瞳を持っていた。だからこの森に捨てられたの。リラが森に棲みはじめて、【この森には魔女がすんでいる】なんて噂がたって……しばらくして私が捨てられた」
拾ってくれたの、とニルチェニアは言う。
「リラが全部わたしにくれた。愛も、知識も、【魔女】としての振る舞いも。……リラは本当に魔女だったわ。悪い魔女ではなくて、とてもいい魔女なの。薬をつくって人を助けて、人にはできないことをする、いい魔女なの。わたしはリラみたいな魔女になりたいとも思って。その……不幸を呼ぶ魔女ではなくて……ええと」
うまく整理しきれていないのだろう。ニルチェニアは困ったように顔をくしゃりとさせる。きっと、彼女のなかには【魔女】といっても二つの意味の【魔女】があったのだ。良い魔女と悪い魔女。理想としてのお姫様に憧れながら、身近な存在の良い魔女にも憧れていたということだ。不幸を呼ぶ悪い魔女の自分には、到底叶えられない願いだと思いながら。
「わたし、なりたいものになれるの?」
「君が望む限り」
オスカーははっきりと答えた。
君が望む限り、僕が助けると。なりたい自分になれる手助けを僕がする、と。
「君にお礼をしたいんだ。何でもいい。君のお願いを何だってひとつ叶えるから。それを、君へのお礼にしたい」
ニルチェニアは戸惑ったようにオスカーを見つめて、それから小さくうなずいた。すみれ色の丸い瞳に、オスカーの顔がうつっている。
***
久しぶり、と片手をあげて挨拶してきたニックに、クルスは「どうも」と簡素に返す。珍しい来客に驚いたのだ。午後の休憩時間だったが、まあいいだろう。久しぶりに見るクルースニクは、相変わらず陽気だった。急な来客にも動じることなく、メイドのトゥルーディアが茶と茶請けを用意する。それに笑顔で「ありがとう」とニックは頭を下げた。メイドに対してそんな態度をとる来客はニックくらいだ。頭を下げられたトゥルーディアは一瞬だけ驚いた顔をしたが、その表情もすぐにしまう。主たるクルスの前では動揺など見せてはならないと思っているのだろう。下がっていいぞ、とクルスは声をかけた。メイドは一礼と共に場を辞す。
メイドが下がったのを見届けて、ニックが口を開いた。
「悪いな、こんな急に」
「ええ、全く」
わざと冷たい言葉を返してみたが、ニックの方はにこにことしている。毒気を抜かれた気がしてクルスは表情をゆるめた。この人はいつもこうだ。
「それで……どうしたんですか。急にくるなんて。珍しい」
いつもはきちんと訪問許可をとってから会いにくるニックにしては、ずいぶんといきなりの訪問だった。何かあったのかとクルスが勘繰るくらいには。
「いやあ、ちょっとな……。込み入ったことを聞きたくてさ」
困ったように笑うニックにクルスは首をかしげる。なんだろうかと身構えた。
「君の従姉妹のロベリア嬢が森で狼に噛まれたときのこと、覚えてるか?」
「随分と昔のことですね。ロベリアが読み書きもできなかったような頃だ。何かありましたか」
「ああ、いや。少しな。……オスカーが行方知れずなのは知ってるだろ」
「はい」
人でありながらクルースニクとして常に前線で戦い続けてきた男が、一月ほど前から行方をくらましているのはクルスも知っている。オスカーの動向はそれとなく気にしていた。クルスは諦めてやめてしまったが、かつてはクルスもオスカーと同じようにクルースニクを目指していたのだから。
彼はシステリア家でクルスはメイラー家。その違いはあれど、同じ貴族出身のクルースニク志望として気も合ったのだ。オスカーの方がクルスより少し年上ということも影響して、オスカーは随分とクルスのことを気にかけてくれたのも覚えている。兄のような、悪友のような──そんな存在だった。喧嘩も数えきれないくらいしたけれど。
「その……オスカーが最後に訪れたのが、あの森なんじゃないかって話でな」
「ああ……」
何とも言えない気持ちでクルスはかつての師を見つめた。あの森には獣と【魔女】がいるという噂だ。ニックはそのことを聞きにきたのだろうか。
「クルス。お前はあの森に行ったことはあるか? 森の中に入ったことがあるか、という意味だが」
「いいえ。何度か入ろうとはしましたが。森番の男に追い返されますから、入り口までが精々ですね」
森に入ろうとすれば、どこからともなく森番の男がやって来る。彼は滅多なことでは人を森の中に入れようとはしなかった。いわく、「ここには獣と魔女がすんでいるから」。危険だから立ち入るなと、つまりはそういうことだった。森番の男は強く引き留めることこそしないが、その言葉には貫禄がある。どことなく足を踏み入れるのを躊躇ってしまう。だからクルスはあの森の中には入れずにいた。
「……ロベリア嬢が森の中に入れたのは、どうしてだか知らないか?」
「……そういえば、聞いたことがないですね」
「だよな。……何でロベリア嬢が森に行ったのか、お前は知らないか?」
クルスの従姉妹のロベリアは、幼い頃にあの森で狼に噛まれたことがあった。どうしてあんな森にロベリアが向かったのか、クルスも知らない。ただ、保護されたときのロベリアが泣きじゃくりながら「おねえちゃんが」と何度も繰り返しているのは聞いた。彼女に姉はいないはずなのに。
「聞いていませんね。ただ、森から戻ってきたロベリアは酷く錯乱していました。狼に噛まれたのが怖かったのか……「おねえちゃんを助けて」と何度も繰り返していたのは先生もご存じでしょう? きっと森の魔女に悪戯されて……あるいは呪いをかけられてあんな目に遭ったのだ、とおれの周りの大人は話していました」
「うん。それは俺も覚えてる」
【おねえちゃん】。それが誰を指すのか、ロベリア以外には誰にもわからなかった。ロベリア自身もわかっていたのかどうか。魔女の悪戯だと大人が言う一方で、ロベリアは泣きじゃくり、狼に噛まれたのも忘れたように「森にいかなきゃ」と何度も口にした。従姉妹がそんな風になったのが恐ろしく、クルスは子供心にクルースニクになることを決心したのだ。ロベリアのような思いをする者を増やしてはならないと。その正義感をもって、クルスはクルースニクになるつもりだった。
「……そういえば、いつだったか……ルティカルも森に行っていたことがあるはずです。母君のサーリャ様と一緒に。あれは十年ほど前のことだったでしょうか」
ニックの顔色が少し変わったのにクルスは気付かなかった。
「ランテリウス様が亡くなられてから、少したった頃だったと思います。二人して熱に浮かされたように森に通っていたかと。……もっとも、それもすぐに終わりましたが。森に関してはおれよりルティカルに聞いた方がいいかもしれませんよ」
「……そうだな」
記憶をたどりながら話せば、かつての師はひとのいい笑みを浮かべて「変なこと聞いて悪かったな」とクルスに頭を下げる。気にしないでくださいとクルスは返した。
「オスカーのことはおれも心配していますから。何か話に進展があったら……」
「勿論。お前にもきちんと話すよ」
「仕事さえなければおれも探しにいきたいところですが、そういうわけにもいかなくて」
「分かってる。……お前には一番面倒で辛いことを押し付けてしまっているから。いつも悪いな、クルス」
いいえ、とクルスは首を振る。クルスがしているのは【クルースニク】には出来ない人助けだからだ。オスカーがニックと同じように戦うのを選んだとき、クルスはオスカーとは違う道を選んだ。
そして、その道を選んだからこそクルースニクになるのを諦めたのだ。そのことを不満に思ったことがあるわけではないが、ニックはこの道を選んだクルスを心配しているようだった。
「俺たち【クルースニク】みたいな、分かりやすい【善】ではないからこそ、お前は口さがない噂もたてられるだろうし、奇異の目で見られることもあるだろうから……」
次の言葉を躊躇うようなニックに、クルスはきっぱりと口にした。
「世間一般からすればとんでもない痴れ者だと思われているでしょうが、おれはこれも一つの【善】だと思っていますからね。奇異の目も口さがない噂も特に気にしてはいません」
クルスの答えにニックは安心したように笑う。助かるよ、と言ってもらえたのがクルスには誇らしかった。クルースニクでない自分にも、助けられるものがある。それを知ったからこそクルスはこの道を選んだ。
「……この話、場合によっては非常に厄介なことになる気がしてるんだが……クルス、何があっても助けになってくれるか」
「もちろん。【灯】の長として」
──【灯】。
クルスを長とする組織の名だ。【灯】の主な活動は、【闇に親しむもの】として生まれ、不当な扱いを受けたものへの保護や支援。ある意味ではクルースニクとは対極の存在であり、だからこそ誤解されることも多い。
「【生まれがその者の本質を定めるわけではない】。……おれは、そう思っていますから」
クルスは知っている。
人として生まれても残虐な意思、思想を持つものもいれば、怪物として生まれても善良な心を持つものもいるということを。クルスが救いたいと思ったのは後者で、そんなものたちの灯となりたかったのだ。
クルースニクを目指していた頃、クルスは悪い者も善い者も、ありとあらゆる者を見る羽目になった。どちらが怪物でどちらが人間なのかと問いただしたくなることもたくさんあった。だからクルースニクになるのはやめて、自分が正しいと思えることをしようと思ったのだ。師であるニックはそれに反対することもなく、それもまた一つの【善】のあり方だと言ってくれた。だからこそ進めた道だ。
「先生。オスカーが見つかったら、久しぶりに三人で食事にもいきませんか」
「おっ。そりゃいいな!」
早く見つけねえとな、と口にするニックにクルスも頷く。頷きながらも、師がいう【厄介なこと】とは何なのかが気になっていた。