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三時の休憩にお茶菓子とハーブティー。のんびりした時間を過ごしているニルチェニアと同じように、ハーブティーを飲みながら絵を描いているオスカーは鼻唄まで歌ってご機嫌だ。オスカーの手元を興味深そうに見つめているのはアガニョークとノーチで、オスカーは二匹をモデルに絵を描いている。それがびっくりするほど上手なのにニルチェニアは目をぱちぱちと瞬かせた。上手ですね、とオスカーに声をかければ「趣味なんだけど、なかなかでしょう」とにっこりとされる。
「昔は自分で絵本とかも描いてみたりしてたんだよ。──ねえ、魔女さんはおとぎ話が好きなの?」
どうして、とニルチェニアが聞く前に、「かわいい本棚だよね」とオスカーが部屋のすみにおいてある棚を指差した。
「僕も、これ結構好きだったなあ。……嘘つきな騎士が、泣き虫なお姫様のためにいっぱい面白い作り話をするんだよね。荒唐無稽で、でもわかりやすくて。何度も読み返したのを覚えてる」
オスカーが棚から手に取ったのは【嘘つきな騎士と泣き虫なお姫様】だ。
ニルチェニアもこの絵本は大好きだった。ひどい嘘ばかりついていた騎士が、たった一人の泣き虫なお姫様のために優しい嘘をつき始める。泣き虫なお姫様は騎士が人目を忍んでお姫様の部屋に来るたびに彼の【冒険】の話をねだるのだ。お話のすべてが本当は嘘であることを泣き虫なお姫様は見抜いていたけれど、嘘ばかりでも優しい話は子供心に感じ入るものがあった。
「懐かしいな。ここにあるの、全部小さいときに読んだやつだ」
【月夜の精霊と月纏いの花嫁】、それから【すみれの花に祝福を】。この国で育ったなら、一度は読んだことのあるおとぎ話の絵本ばかりだ。そのどれもが優しい結末で終わる。悲しい思いをしても、苦しい思いをしても、最後に用意されているのは幸せな終わりだった。それがどれだけ羨ましいことか。
「……絵本もおとぎ話も好きなの。最後には幸せになれるから」
幸せになれるのはお姫様ばかりだけど、と小さく呟いてしまったのがオスカーに聞こえたのだろう。そんなことないよ、とオスカーが絵本を棚へ戻した。
「お姫様じゃなくても幸せになれる人はたくさんいるよ。君もそうだ」
慰めだろうかとニルチェニアは目を伏せた。無理よ、と首を振る。私は魔女だもの、と何度となく繰り返したその言葉をまた紡ぐ。まるで呪いのような言葉だ。何度もぶつけられ、何度も苦しめられてきた言葉。それでも口にしてしまう言葉。どんなに不幸になっても、この言葉のせいだと思い込めば諦めもつく。
「魔女がお姫様に憧れてるだなんて、変よね。絶対になれないのに。……恥ずかしいことよね。王子さまもいないのに」
自分を嗤うようにニルチェニアは口にした。オスカーもきっと自分を嗤うだろうと思った。不幸な魔女が幸せなお姫様に憧れているなどと。そんなの滑稽じゃないか。
けれど、オスカーは意外な言葉を口にした。
「憧れるのは恥ずかしいことじゃないよ」
僕も昔そうだったから、とオスカーは照れ臭そうに笑った。
「ずっとクルースニクに憧れてた。悪いものをやっつけて、みんなを幸せにする。……そんな風になれたらいいなって」
僕の両親は、とオスカーが一度言葉を切った。暗い話になってしまうかもしれないけれど、と少し不安そうな顔をして。
「悪魔に殺されてるんだ。二人とも退魔師……人にとりついた悪魔をはがす聖職者だね。そういうものだったから。だから、悪魔に殺された。そういうこともあって……僕はとにかくクルースニクになりたかった。復讐したかったのもあるけど。でもそれ以上に、自分みたいに悲しい思いをする人を増やしたくなかったから」
でもさ、とオスカーは空になったティーカップのふちをなぞる。少し困ったような口ぶりで続けた。
「その頃、クルースニクには【クルースニク】しかなれなかったんだ。種族としての【クルースニク】しかクルースニクになれなかった。人間がクルースニクになるなんて、考えられないことだった」
「……そうなの?」
「そう。……だから僕は悔しかった! それでもクルースニクになりたかった。色んな人に諦めろと言われたし、お前には無理だとも言われたよ。無理かもしれないって、諦めかけたときもある」
人の言葉って怖いよね、とオスカーは笑った。
「無理だ、できない、やれっこない──言われ続けると、本当にそういう気持ちになってきてしまうから。自分には無理だ、怪物を退治するなんてできない。【クルースニク】と同じことをやれっこない、なんて」
アイスグレーの瞳は物憂げで、遠い昔に思いを馳せている。この人も自分と同じ体験をしてきたのだとニルチェニアは悟った。思わず目を伏せてしまう。今までにかけられてきた言葉の数々が脳裏に浮かんだ。
──穢らわしい魔女め。
──不幸を呼ぶ魔女め。
──この家の面汚しめ。
──お前は幸せになってはいけない。魔女にそれが許されるわけがない。人に不幸をもたらす魔女が、穢らわしい魔女が。
幼い頃のニルチェニアに罵倒を浴びせかけた大人たちは、その青い瞳を醜悪な怒りに染めていた。ニルチェニアにはわからなかった。どうしてそういわれるのか、なぜ自分が魔女なのか。
幸せになってはいけないのだと、自分は不幸を呼ぶものなのだと、【そういうもの】として自分を知ることしかできなかった。
自分を知りたいと思うとき、自分を知ろうとしたとき、他者の下す【自分への評価】をその足掛かりとするのは当たり前のことだろう。そんな中でニルチェニアが受け取ってきたのは罵倒であり、悪辣な言葉の数々だった。人々が下した【魔女】という評価を受け取って、ニルチェニアは、自分が【魔女】なのだと知った。
「そんなとき、僕に手をさしのべてくれた人が二人いた。一人は僕の伯父で、もう一人は伯父の友人……今となっては、僕の師匠にあたる【クルースニク】だった」
嬉しかった、とオスカーは優しく笑った。
「伯父は『人は定義される』……っていってた。師匠は……先生は、へこんでる僕を見て『じゃあ俺が定義してやる』って笑ってた。その頃の僕には意味がわからなかったけど、今ならわかる。伯父はきっと『周りの人間の言葉によって人は自分を作りかえてしまう』と言いたかったんだと思うし、先生は『それなら俺が作りかえてやる』って言いたかったんだと思う」
「つくりかえる……?」
「そう。『無理だ、出来ない──』って、僕を無能な人間に『定義』してしまう言葉の代わりに、二人は僕に『お前なら出来る』って言葉をずっとかけてくれた。僕がなりたい自分になれるように定義してくれたんだ。今までずっと。そして多分、これからもね」
「それで貴方は……」
オスカーの顔は誇らしげで、ニルチェニアにはそれが眩しかった。
「そう。クルースニクになれた。ふふ、しかも栄えある人間としてのクルースニクの第一号さ。【クルースニク】の先生がお墨付きまでくれたんだ! お前はもう俺たちと一緒だって。種族としてのクルースニクではないけれど、ちゃんと僕が思い描いたクルースニクになれた」
だから君だって大丈夫、とオスカーはニルチェニアに笑いかける。戸惑うように伸ばされたオスカーの指が、自分の指に触れてもニルチェニアはそれを拒もうとはしなかった。おとぎ話のようなハッピーエンドに、ニルチェニアは驚いていた。オスカーの温かい手のひらが、ニルチェニアの冷たい手を優しく握る。
「君がお姫様になりたいと思うのなら、願うのなら。いつだってなれるよ。叶えられるよ。どうして自分を【不幸な魔女】だと決めつけてしまうんだい。魔女にだって……君にだって、幸せな物語が用意されているよ。魔女がお姫様になれなかった話なんて、どこにもないよ。少なくとも僕はひとつも知らない」
僕がそうであったように、君にだって幸せな結末があるとオスカーは言う。そうなのかしら、とニルチェニアは首をかしげた。今までそんな風に言われたことなんてなかった。クルースニクにこんな風にいってもらえるなんて、考えもしなかった。
そうなのかしら、とニルチェニアは思わず口に出してしまう。なんとなくオスカーの顔を見るのが気恥ずかしくて、とりとめもなく自分の指をいじってしまう。オスカーは優しい声で、安心させるようにニルチェニアの手を握りなおした。
「君がお姫様になりたいなら、そうなれるように僕がする。君を助ける。僕がしてもらったように。君を縛り付けてきた【魔女】という定義を、今度は僕がひっくり返そう。ねえ、僕は……僕は、君の王子様になりたい」
最後にそっと呟かれたそれに、ニルチェニアはびくりとしてしまった。オスカーが自分に向けていた優しい視線の意味が、ここに来てわかってしまった気がしたからだ。そういうことなのか。そこに、打算も計算もなかったのか。自分に向けられるその視線は、あたたかいものとして受け取ってよかったのか。
「……君にとっての王子様は僕じゃないのかもしれないけど。もしかしたら、僕は君の王子様になれないのかもしれないけど……」
それでもそうありたいんだ、と紡ぐオスカーの声は震えていた。ニルチェニアは泣きたかった。
誰にもかけてもらえなかった言葉を、きっとこのまま誰からもかけてもらえなかったであろう言葉を。クルースニクたる青年が、よりによって魔女の自分に。
「自分の【属性】で自分を作り替えちゃだめだ。……僕も【クルースニク】だけれど、こうして【魔女】に恋をしているんだから。自分の望まないものに定義される必要なんてどこにもないんだよ。僕はオスカーとして……でも、同時にクルースニクとしても。君を、魔女を愛しく想っている。──クルースニクが魔女に焦がれるのはおかしいことかな? 魔女である君がお姫様になりたいと思うのは、本当におかしいことなのかな?」
あたたかい手が祈るようにニルチェニアの手のひらを握る。ポロポロと落ちる涙を、オスカーの優しい手が拭っていった。なんと答えていいのかわからなかった。だから、ニルチェニアは手を握り返すことにした。




