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「うわっ!」
「……っ! ご、ごめんなさい!」
夜通し働き続け、それじゃあ家に帰ろう──と、くたびれながら歩いていたオスカーが曲がり角へ踏み出した瞬間である。
同じタイミングで曲がり角を曲がろうとしていた何者かに、見事にぶつかってしまったのだ。なんてベタな。
オスカーの知り合いの女性が愛してやまない、恋愛小説の冒頭みたいな出来事だった。パンでもくわえながら歩いていたなら、完璧だったことだろう。
オスカーは慌てて、転んでしまった女性を助け起こした。
「ああっと……ごめんね、ぼーっとしてて」
「いえ……こちらこそ」
女性が手にかけていた篭から、草の束や小さな木の実、用途不明の液体が入った小瓶などが転がり落ちていた。それを拾い集めて、オスカーは女性へと手渡す。
「瓶は割れてないみたい。君の方に怪我はなかった?」
「ええ、大丈夫です……その、すみませんでした」
まるで魔女のようなローブを身に付け、フードを深く被った女性は、深々と頭を下げてそそくさと去っていってしまった。フードからちらりとのぞいていた真っ白な髪は、まるで老人のようだったけれど。
「女の子だったのかな……?」
声の高さと、ぶつかったときに感じた体躯の華奢なこと。しゃんと伸びた背は老人というには健康的で、けれど一般女性を思い浮かべてみると細すぎる気がした。全くの他人ながら、ちゃんと食事をとっているのだろうかとも思ってしまう。
まあ関係ないし、と欠伸をひとつこぼして、オスカーは蛞蝓のようにのたりと一歩を踏み出した。夜通し働くのはこれだから嫌なのだ。いくら体力があろうと、眠いものは眠い。すぐに家に帰って、さっさと汗を流して眠ってしまいたかった。同僚からは「寝てるのか起きてるのかわからない」、「笑ったときに前見えてる?」などと言われる細い目を眠気に蕩けさせる。太陽の光が眩しかった。──と、オスカーの目を射抜くような、眩しい輝きがひとつ。
視界の下の方に感じたそれは、拾い上げてみれば小さなリングのペンダントだった。
「あれ……さっきの子かな?」
銀色の指輪に紫色の石が留まっている。それがネックレスの細いチェーンに通されていたようなのだが、肝心のチェーンが途中から切れてしまっていた。さっきの女性のものであるなら、オスカーとぶつかった拍子にどこかに引っ掻けてしまったのだろう。
辺りを見回してみたものの、そそくさと去っていってしまった女性の姿はどこにも見つけられなかった。仕方ない、とオスカーはそれを服のポケットにしまう。
「とにかく早く帰ろう……」
オスカーは早く眠りたかったのだ。どうせ今夜も【お仕事】に決まっている。なぜなら今夜は満月で、【闇に親しむもの】──ようするに、【怪物】が傍若無人に振る舞う日だからだ。
──オスカー・ルナルド・システリアはクルースニクである。
クルースニク。それは簡単にいってしまえば、怪物退治専門の聖職者のことだった。もともとは吸血鬼を専門に退治していたらしい【クルースニク】は、いつからか魔女やら動き回る死体やら狼男やら──何でもござれの退治屋扱いだ。
怪物たちが羽目を外す満月の夜。それはクルースニクにとっての月に一度の繁忙期だった。
それゆえ疲れているのである。うっかり道端で眠りかねないくらいには。
***
見知らぬ女性とぶつかった数日後、オスカーはとある診察室にいた。薬品の匂いと清潔すぎるほどに真っ白な部屋は、もうとっくの昔に慣れてしまったものだ。
「今回も大変だったようですね。怪我などはありませんでしたか」
「寝不足で倒れそうな以外は、何にも」
「それならよろしい。何かあったら、すぐに僕のところにいらっしゃい」
オスカーは欠伸を噛み殺しながら、白衣を身に付けた美丈夫に「伯父さんも大変だったねえ」と応じた。
この国の七大公爵家のひとつである【システリア】。そのシステリア家の当主であり、この国随一の医者であり、それからオスカーの伯父であるソルセリルは「今日から数日くらいはゆっくり休みなさい」と医者らしくオスカーに休息をすすめた。普段は厳格にもほどがある伯父であるが、オスカーが疲れきっているときは優しい言葉もかけてくれる。今日はちょうど、オスカーのやつれぶりにソルセリルが優しくなる日だったようだ。
ソルセリルの診察室で話すのはこれが初めてと言うわけではないし、ソルセリルに優しく言葉をかけられるのも初めてではない。が、毎回むずかゆくなるのはオスカーの年齢が“いい歳”だからだ。だんだん三十路という言葉が他人事ではなくなってくる。体力勝負のクルースニク稼業にも、多少の不安を覚える頃である──。
「クルースニクは身体が資本ですからね」
「わかってるって、伯父さん。僕だってもう子供じゃあないんだから。伯父さんも休みなよ? 結構忙しかったでしょ」
他者からは『外道なまでに合理的で厳格』という評価をされるソルセリルは、反面で身内に甘いのだ。いい加減僕もいい歳なんだけど──とオスカーがいったところで、その甘さはこれからも変わりはしないだろう。ソルセリルは早くに親を亡くしたオスカーを、息子同然に面倒を見て、可愛がってきた部分がある。それを考えると、仕方がないのかもしれない。
「僕の方は大したことはありませんよ。いつも通り、傷を縫って薬を塗って……。医者としての本分を全うすれば良いだけの話ですからね」
「そう言えるのは伯父さんくらいだろうねえ」
外道なまでに合理的すぎるところくらいしか難の見つからないオスカーの伯父は、人とは思えないほど有能である。血を噴き出して運ばれてきたクルースニクも、魔女の毒薬にやられた憐れな人間も、すべて救ってしまうのだ。だから外道であろうと最高の医者として称えられここにいる。
怪物たちの【やんちゃ】にクルースニクたちが付き合えるのも、ソルセリルのように腕のいい医者がいるからだ。救いようのない患者についてはいっそ冷酷なほどに切り捨てるソルセリルではあるが、助かる見込みさえあれば助けてはくれる。それがどれだけ心強いかは、満月の夜に開催される異種格闘技戦に参加したものしかわからないだろう。
「最近は【闇に親しむもの】の騒ぎに乗じて、普通の人間までもが馬鹿な真似に走りますから。火事場泥棒、混乱に乗じての暴力沙汰……。そんなものまでクルースニクが請け負っているのですから、忙しくもなりましょう。……人気の少なくて本当に危なそうなところでは騒がないのが情けないなと思わなくはありませんが……」
「まあね。でもそういう人たちでも被害に遭わないなら何よりだと思うんだよ、僕は。……もっとも、人の方はほとんど人にお任せしちゃってるけど。──やあ、ルティカル。そっちもお疲れさま」
診察室に入ってきたのは、随分と背が高い大男だ。オスカーもソルセリルも身長が低いわけではないが、大男──ルティカルは二人のより頭二つぶんほど背が高い。体の方も屈強で、がっちりと押し固められたような筋肉は見た目に違わず堅いのだ。噂であってほしいものだが、大きな岩も素手で砕けるとか、彼のその頑丈な筋肉はナイフの切っ先すら拒み、皮一枚しか切り裂けないだとか。そういう話をオスカーは聞いたことがある。実物を目の当たりにするとただの噂だと切り捨てられない、説得力のある筋肉なのだ。
──そんなむさ苦しい話に事欠かないくせに、顔立ちは繊細で美しい。理想的な筋肉を持つ、大柄な石膏像とでもいうべきか。これでもうちょっと愛想がよければ……というのが、噂好きなご婦人たちの口癖となっていた。眉間のシワが半端ないものな、とオスカーはご婦人がたにひっそり同意している。よく知れば愛想がない訳じゃないとわかるのだが、いかんせん眉間のシワと筋肉が“無愛想”なのだ。
そんな屈強な彼は、いわゆる軍人である。満月の夜の【暴動】には、【人と人との揉め事】には彼のような軍人がうってつけだった。彼ら軍人はクルースニクのように怪物に対抗することができないが、人が相手なら話は別だ。暴徒にとって軍人はよく効く・・・なのだから。
普段は表情もあまり変わらないルティカルだが、今日に限っては彼も疲れた顔を隠せなかったようだ。「今回は前回よりひどかったな」と一度息をつき、それから「そっちはもっと酷かったろうな」とオスカーへと労いの言葉を口にした。どこもおんなじくらい忙しいと思うよ、とオスカーもルティカルを労う。
クルースニクも軍人も、どちらも満月の夜は忙しいのだ。
どこだって酷い。
今回はオスカー一人で三人もの【闇に親しむもの】を対処しなくてはならなかったし、ルティカルはルティカルで火事場泥棒を五人はしょっぴいたと聞いている。その他にも小さないざこざがあったとかなかったとか聞いているから、ルティカルが顔に疲れを見せてしまうのもわかる。
「本当に、満月の夜は忙しいな。……叔父上もお忙しかったでしょう」
「君たちほどではありませんよ。それより、ルティカル──君が診察室に来るなんて。珍しく怪我でもしましたか」
「いえ。……オスカーに呼ばれたものですから」
何か用事があるときいている、とオスカーのアイスグレーの瞳に向けられたルティカルの瞳は、コーンフラワーのごとき美しい青だ。
真珠色や灰色の瞳を持つものが多いシステリア家とは違い、ルティカルは青い瞳を持つのが当たり前の、メイラー家の出身だ。まだ若い身でありながら、七大公爵家がひとつ【メイラー】の当主であるのがルティカルだった。軍人でありながら公爵家の当主も勤められるのは、ルティカルが他の人間に比べて飛び抜けてタフだからだ。自分にはとても出来ないとオスカーは常々思っている。
「そうなんだよ。伯父さんとルティカルにちょっと聞こうと思ってることがあって」
本来であればオスカーは、公爵であるソルセリルとルティカルの二人に、こんなくだけた態度はとれやしない。システリアの血筋とはいえ、オスカーは二人と同じ公爵ではないからだ。が、そこは伯父と従兄弟の間柄。誰もオスカーの態度など気にしない。だからこそ、オスカーもルティカルを気軽に呼ぶことができた。
「このベビーリングなんだけど……二人の知り合いの令嬢かご婦人に、最近ベビーリングを探して困っている人がいないかどうか聞きたくて。落ちたのを拾ったんだ」
「ベビーリング?」
どんなものでしょうか、と口にしたソルセリルにひとつ頷いて、オスカーは先日拾ったベビーリングを懐からとりだした。ベビーリングを見つめた二人に、「白髪か銀髪の女性が落としたものだと思うんだけど」と続ける。はっ、とルティカルが息を飲んだ音が聞こえて、オスカーはルティカルの顔を見上げてしまう。続けて、「白髪の女性」とソルセリルが小さく呟いたのも耳にした。
「あれ? もしかして、二人とも心当たりが?」
オスカーの問いに、ルティカルは何とも言えない顔をした。苦々しいのを懸命にこらえているような。一方で、ソルセリルの方はいつもの無表情である。
「いや……思い違いだと思う」
「そうですね。……あり得ないとは思います。オスカー、念のために聞いておきたいのですが。その……このベビーリングを落とした女性の瞳の色は覚えていますか?」
「瞳の色? ──いや、フードを深く被ってたからわからないな」
「そうですか」
ソルセリルは短くかえして、「アメシストとホワイトゴールドですか」とベビーリングをつまみ上げる。じっくりと見つめながら、「こういった素材のものを、一般人は持てないでしょうね」と続ける。一目みればわかるほど、素材は上等なものだった。
「この指輪の持ち主は、令嬢やご婦人であろう……という推測は間違っていないでしょう」
「それじゃあ、二人も何となく探しておいてくれると助かるな」
「──わかった」
これは僕が預かっておくとして、とベビーリングを再び懐にしまい、オスカーはソルセリルの診察室を出ていく。伯父さんもルティカルもちゃんと休んでね、と言い残して。
先に部屋を出ていってしまったオスカーには、あとに残された二人の顔を見ることはできなかった。
一人は苦虫を噛み潰した顔。
一人は深く後悔した顔。
「ねえ、ルティカル。あのリングに留められていた石の色を見ましたか」
「ええ。……綺麗な菫色でした」
「やはり……だとすれば、あのベビーリングは……」
「そうなんでしょうね…」
ソルセリルもルティカルも、そう呟いてから押し黙った。期待と不安と諦めと。アメシストの紫色の輝きで、思い出す出来事があったから。