伊都君とお母様~不適切ケアの女王様~
私は芹沢良子40歳、介護歴9年の中堅です。
今日は「不適切なケアを防止するには」っていう研修のために、こうべ市民福祉交流センターっていうところにやって来ました。
受付で名札を受け取り、席はグループ分けされてると教えられ、6人テーブルに向かいました。空いてる最後の席に、私は「おはようございます」と挨拶して座りました。そこで、左隣りの席の30半ばくらいの長髪小太りの男性が、知っている人だと気が付きました。テーブルに置いてある「伊都」っていう名前を見て、そんな名前珍しいのでピンときたんです。6年前に有料老人ホームにも勤めていた時、同じ敷地内のグループホームにいた人に違いありません。でも私は、彼にそんな事を言ったりはしません。直接話したことがあった訳ではないし、私の事なんて分かっていないはずだからです。だったらわざわざ話す必要はありません。なんといっても私、なかなかの人見知りですから。
ところで私は、伊都君のお母様とは話した事がありました。その有料老人ホームに勤めていた時、隣りのユニットにいたんです。その時50歳くらいだったでしょうか、私のいたユニットとは長い廊下でつながっていたので、よく伊都君のお母様がお叫びになる声を聞いたものでした。認知症の利用者に対して「さっき約束したでしょ!」とか「さっき説明したでしょ!なんで分からないの!」とか四六時中怒鳴っていたものです。さらに、私の夜勤勤務での2時間おきにしなければいけない巡回時、巡回している伊都君のお母様をお見受けした事がありませんでした。
そのことを思い出し、あなたのお母様こそ不適切ケアの女王様と呼ぶにふさわしいと、チラリホラリと伊都君の膨れっ面を見ては心の中で思っていました。
そして、午前中の講義が終わって午後の演習の時間になり、我々7グループは「利用者に大声で怒鳴った。叱りつけた」というテーマについて、どうしてそうなるのか、その原因をポストイットに1人1人書いていく作業を行う事になりました。
これはまさしく伊都君のお母様のことではありませんか、私は伊都君のお母様のことを思い浮かべながら次々とポストイットに書いて模造紙に貼っていきました。
「認知症の人に対する理解が足りない」
「そもそも利用者と関わる気がない」
「認知症の利用者に対して『さっき約束したでしょ!』と怒鳴る職員がいた」
「認知症の人に対するリスペクトがない」
「自分の思い通りにいかないと腹が立つ」
「短時間の間に何回も同じことを言われて腹が立つ」
「常識が通用しないから腹が立つ」
と、伊都君のお母様に関するものを7枚書きました。
ところで、不適切ケアの女王様の血を受け継ぐ伊都君はなんと書いてあるのかと思い、見てみました。
「急に利用者が怒り始めたので」
「ストレスがたまって」
「夜勤明けで神経が尖っていてつい」
「トイレ誘導などの時、利用者に抵抗されて」
とか書かれてありまして、素晴らしいサンプルがせっかく身近にいらっしゃるというのに、ハッキリお母様の事だと分かる文面はありませんでした。もしかしたら一緒に働いたことがないのかな?きっと知らないんでしょう。でも女王の血を受け継ぐ者としての究明にしては、なんとも生温いと言わざるを得ません。
そうして、ポストイットに書いた意見が出揃うと、リーダーになった、ケアマネージャーをしているという、頭頂部から前方にかけてポッカリ穴が空いたかのようなヘアースタイルの、50代であろう眼鏡男性が中心になって、似たような意見を分類していく作業をすることになりました。ちなみに伊都君は発表役に選ばれていました。
作業が始まってしばらくして、驚くべき事態が起こりました。伊都君が、私の書いたポストイットの文面を、模造紙の「介護者の資質、想いや感情」と題されたコーナーに、自分のお母様のこととも知らずに大人しく分類していると言うのに、こともあろうか、ハゲリーダー様が、私のポストイットに対して「厳しいな」と呟いたのです。一体、何が厳しいというのでしょう?全部ハゲリーダー様の前にいる伊都君のお母様の事で、本当の事なんです。私が愕然としていると、何人かいる研修担当の指南役の1人が見に来られました。するとハゲリーダー様が「これはちょっと隠しときましょう」と、私の「そもそも利用者と関わりたくない」と書かれたポストイットを折り曲げたんです。なんという事でしょう。伊都君のお母様にテレパシーで操られでもしているのでしょうか。もしかしたら脳の前頭葉に著しく栄養が行き届かないために、その一帯だけ毛がないのかもしれません。だって実際問題、伊都君のお母様に限らず、介護現場なんてそういう職員ばっかりなんです。それこそが不適切なケアの最大原因ではないんですか?真実から目を逸らしているとしか思えません。私が憤りを感じていたら、指南役の色白の40歳くらいの弱々しそうな眼鏡男性が「正直でいいんじゃないですか」と笑って言われました。そうでしょう。さすが指南役だけあって、眼鏡先生はよく分かってらっしゃいます。
さて、全ての作業が終わり、いよいよ発表する時がきました。我々7班6人は皆の前に立ち、ホワイトボードに模造紙を貼って、伊都君がマイクを持って説明し始めました。伊都君は自分の母親のこととも知らずに「介護者の資質、想いや感情」に書かれたポストイットの文面を読みあげます。
「認知症の人に対する理解が足りない、認知症の人に対するリスペクトがまるでない、自分の思い通りにいかないと腹が立つ、短時間の間に何回も同じことを言われて腹が立つ」
そうやって伊都君が言うのを聞いていて、私は不思議な気持ちになりました。
よりによって「不適切なケアを防止するには」という研修で、私の介護キャリア最大級に不適切なケアをしていた人の息子と出会って、その息子が自分の不適切な母親がどのような資質を持ち、どんな想いや感情でいたかを大勢の前で読みあげる事になるだなんて。
そして私は、このちょっとした奇跡のような偶然になんか意味でもあるのかな、と考えてみました。
介護の神様がちょっとした意地悪をしたのかな――まあ、意地悪と言っても、私以外誰もこの状況の奥に隠された物語を知らないわけだけど――そんなふうに一応の結論付けをしました。
そうして私は、こうべ市民交流センターを後にしました。
「お疲れ様です」
すると後ろから声をかけられたので振り向きました。そこには笑顔の伊都君いました。
「お疲れ様です」
私が軽く会釈すると、伊都君は小さくお辞儀をして小走りで走っていきました。私は少しの間彼の後ろ姿を見送り、今にも雨が降り出しそうな曇り空の下歩き始めました。




