Chère Gregory
街の外れにある小高い丘の上に、煉瓦造りの建物が二棟、規律正しく並んでいる。そこは、街で唯一の病院だった。街の人間は皆、この病院で生まれ、この病院で死んでいく。人生の始点と終点の場所である。
その病院と街を結ぶ、たった一本の道沿いに、ログハウスを改装した小さなバーがあった。客の入りは多くない。病院へ行く者が、ほんの一時立ち寄るだけだ。
店には初老のマスターが一人と、若いウエイトレスがいる。他に店員の姿はないが、それでも十分に営業していける程度の客足なのだ。
店主の名は、ニキフォールという。元々この街の出身ではあるが、それを知る者はいない。三十年近く故郷を離れていた。顔を変え、名前を変えて戻ってきたのだ。今でこそバーテンの制服が似合う細身になったが、以前は熊のような図体をしていた。気づく者など、いるはずもない。
ある客が、何故ここに店を構えたのかと、ニキフォールに尋ねたことがある。商売には向かない立地である。人の往来が多い街中から離れ、面した道を通るのは病人か、その家族、もしくは病院関係者しかいない。
ニキフォールは答えた。
「老いぼれには、このくらいが丁度いいのですよ。お客様、一人一人のお話にも、お付き合いさせて頂けますから」
顔の皺が優しげに垂れ下がり、柔和な笑みを作っていた。
ニキフォールは、悲劇が好きだった。聞くのも、語るのも、悲劇がいっとう彼の心を刺激する。若い頃は、自分の手でそれを創ることに執心した。それは、他のどのような娯楽にも勝る、最高のエンターテイメントであった。
それも今は、随分と落ち着いていた。好きであることに変わりはないが、心酔してはいない。話を聞くだけで、十分に心を潤すことができる。
ニキフォールがこの地を選んだのも、本当の理由はそこにあった。病院には、悲劇が集う。酒を呷った客は、心の奥深くに沈殿した絶望や哀情の汚泥を、この店に吐き出して日常へと帰っていくのだ。
悲劇の収集は、ニキフォールの趣味であり、副業でもある。彼のかき集めた話に、値をつけて買い取る者がいるのだ。
その男は、ニキフォールの恩人であった。警察に追われ、故郷を離れたニキフォールに、居場所を与えた。そこで、恩を返すために働いた。ニキフォールは、現役を退いた今でも、彼のために働くことを選んだ。
客からこれと思う悲劇を聞くと、すぐに恩人へと連絡するようにした。近くへいれば、彼はすぐにバーを訪れる。人間の悲劇は、彼にとって生ものである。放っておくと、気付かぬうちに収束していたりするのだ。
ニキフォールは、また新しい悲劇を仕入れていた。連絡も、数日前に済んでいる。そろそろやってくる頃だった。
ニキフォールは、自身の落ち着きがなくなっていることを、自覚していた。緊張しているのだ。恩人のことを、尊敬している。同時に、彼は畏怖の対象でもあった。
店の入口に取り付けてあるベルの音が、店内に鳴り響いた。冷たい外気と共に、黒く澱んだ怪しい気配が、そろそろと床を這った。
「久しいな、ニーカ」
異様なほど背の高い男が、屈むようにして店の扉を潜ってきた。恩人である。初めて会ったのは三十年も前だというのに、その容姿は全く変わっていない。
彼の後ろに尾を引いた黒い霧が、閉まるドアに断ち切られた。千切られた先から空気へと溶けていく。ニキフォールは、黙って窓を開けた。
「静かでよいな、ここは」
「着いて早々、嫌味ですか、ジルさん」
「いや、すまない。褒めたつもりでいた」
本当は、黒い霧などない。ニキフォールは、それが幻覚であると知っていた。ジルに対する恐怖心が、ないものをあるように見せているのだ。
どうしようもなかった。ニキフォールはジルに出会うまで、他人に恐怖を感じたことなどなかった。当時は逆に恐怖されることの方が多かっただろう。ニキフォールと対峙する相手は彼の重厚な体つきに怯えた。そういう人間は、容易く殺すことができた。
しかし、ジルは違う。ニキフォールは、ジルを殺せない。恩人であるという精神的な制約のためではなく、実際に不可能なのだ。ただの人であるニキフォールでは、その力がないのである。
年老いてしまったことは、理由にならない。ニキフォールは種族として弱い立場にあり、それを覆すには、本当の意味で人でなくなる必要があった。だから、怖い。
「また、くだらぬことを考えているな」
「申し訳ありません。私は貴方に出会って、初めて自分が臆病だということに気がつきました」
「お前は考えているようで、考えていないな、ニーカ。ただの人は、私を怖いとも思うまい。容姿を見て、異様だと思うだけだ。お前が私に恐怖するのは、お前に力があるからだ」
「本能のようなものですかね」
「そうだ。年老いて落ち着きが出たと思っていたが、やはりお前は獣だな」
「なんとも仰る通りで。何かお飲みになりますか」
「ウォッカを」
ニキフォールが出した酒を、ジルは一息に飲み干した。用意したジュースには、手をつけない。必要がないのだ。この男が酔ったところを、ニキフォールは見たことがなかった。
「それで、新しい話があるのだろう」
「えぇ、貴方が興味を持ちそうな話が、一つだけ。それも、飛び切り新鮮なのが」
「ということは、あまり時間はないのだな。どんな話だ」
「この街に住む夫婦の話です」
ニキフォールは、カウンターの下から革張りの厚い冊子を取り出し、愛おしげに撫でた。
ある晩のことである。ニキフォールのバーに一見の客が訪れた。若い夫婦である。
「素敵なバーですわね、マスター」
「ありがとうございます。どうぞ、お寛ぎくださいませ」
「ずっと素敵なログハウスだと思っていたのですけど、こんな場所にあるバーなんて、物珍しいでしょう? 少々気後れしてしまいまして」
「でも、今日は勇気を出して入ってみて良かったわね、セリョージャ」
「うん、背中を押してくれて、ありがとうございます、フェーニャ」
特筆する程のことはない、ごく普通の夫婦だ。夫は一般的なサラリーマンで、頼りになる年上の妻がいて、彼女と幸せな生活を送っている。そのように見えたし、話を聞けば実際にそうだった。
夫婦は、店の常連になった。フェーニャは体のせいで酒を飲めなかったが、店の雰囲気を甚く気に入ったようだった。
ログハウスを改装した店内は静かで、穏やかな時間が流れている。街中のバーのように、騒々しい客もいない。古めかしい暖炉と、木のぬくもりが、寒空の下で凍えた体を温めてくれる。フェーニャはそう言って、頻りに店を褒めた。
夫婦は度々バーを訪れ、ニキフォールやウェイトレスを相手に世間話をして帰っていく。二人でパンを焼いた話、なんでも譲り合ってしまう話、セルゲイが間抜けをした話。なんでもないようなことが、二人にとっては大きな幸福の一部のようだった。
この夫婦に不幸があるとするならば、それはフェーニャが病弱なことだろう。付き合う前から通院しており、セルゲイはそれを承知で結婚した。二人にとって、それは些細な不幸だった。
夫婦は必ず二人で通院していた。フェーニャはいつも大袈裟だと断るのだが、それでもセルゲイはついて行きたがった。心配でしようがなかったのだ。
セルゲイは目的地がどこであろうと、共に出かけるのはデートのようでいいのだと恍けていた。心配していることを、悟らせたくなかったからだ。フェーニャはそんなセルゲイの思惑に気付かぬふりをして、結局は一緒に病院へ連れていく。
少しでもデートらしくするために、バーに寄ってみることにしたのだ。
そういう生活が続くのだと、セルゲイは信じて疑わなかったが、それはある日突然終わりを告げた。
バーでニキフォールとの会話を楽しんでいる最中、フェーニャは眠るようにして、静かに倒れた。彼女は病院に運ばれ、そのまま入院することになった。セルゲイは彼女の病状が悪化していることを、この時初めて知ったのである。
セルゲイはフェーニャを問い詰めた。
「どうして言ってくれなかったんです! こんなになるまで一人で耐えていたなんて。俺は、何も知らずに……」
フェーニャは、ただ困ったように笑って言った。
「今の自分の顔を鏡で見ていらっしゃい」
鏡で見る必要などない。自分がどんな顔をしているのか、セルゲイも自覚していた。不安で仕方がない。それを隠すこともできない。余裕など、ない。セルゲイの心の内を、フェーニャは察しているのだ。そして、言わなかった。
バーにはセルゲイが一人で来るようになった。フェーニャを見舞う前に寄っていくのである。店内で倒れたフェーニャを、ニキフォールが心配していたからだ。この頃はまだ、セルゲイにもその程度の気遣いができるくらいには、余裕が戻ってきていた。
相談事もした。入院生活は退屈だろうと、セルゲイはフェーニャを楽しませることに執心していた。どうしたらフェーニャが笑ってくれるか、面白い話はないか、芸はないか。
「なんだって始めてみればいいんです。最初は皆、素人。大事なのは、貴方自身が楽しむことでしょう。奥様は、よく気のつく女性だ。貴方が無理をしていれば、楽しいことも楽しくなくなってしまいます。お客様に楽しんでもらうためには、まず演者が楽しまなければ」
「ありがとう、マスター。そうしてみます。こんなにはっきりと答えを頂けるとは、思っていませんでした。そういったことに関わってこなかった私には、とても新鮮です。どこかで、エンターテイメントに携わっていたんですね」
「若い頃の話です。とは言え、今もやっていることは変わりませんよ。お客様には、バーにいる時間を楽しんで頂きたい。だから、私もここでお客様と接すること、お話を披露することを楽しんでいるのです」
フェーニャは、セルゲイの操り人形を気に入った。声音を変えて、おどけた調子で話すセルゲイと、彼の演じるマリオネットの動きが愛らしいのだと、何度もそれを催促した。彼女が喜べば喜ぶ程、セルゲイはマリオネットを操ることに没頭していった。
不幸の淵にいるような顔をしていたセルゲイは、徐々に元の穏やかな表情を取り戻した。フェーニャの病状が良くなっているというわけではない。フェーニャに指摘されたことと、病床にいる彼女自身が明るく振舞っていることが、彼に力を与えているようだった。
セルゲイは仕事の忙しい日も、吹雪の日も、必ずフェーニャの見舞いに行っていた。そして、その帰りにニキフォールのバーで操り人形の練習をしていく。それが日課となっていた。
酒を飲むことは、ほとんどなかった。ニキフォールや常連客の前で練習することで、技を磨くことが目的だったからだ。付き合いで飲む、その程度で十分だった。
それがある日、セルゲイは珍しく酒を飲むためにバーへとやってきた。彼はカウンターの隅に座ると、古びたトランクを足元に置いた。そこには、マリオネットが仕舞われている。
「いらっしゃいませ」
「ウォッカをください。ストレートで。それと、ピクルスも」
ぞんざいな注文の仕方だった。普段の彼からは、考えられない態度である。
「かしこまりました」
ニキフォールが返事をしても、セルゲイには聞こえていないようだった。それでも、ウォッカとピクルスがカウンターに置かれると、急いた様子でそれを呷る。酒と共に、何かを流そうとしているように見えた。
「何か、ございましたか」
ニキフォールは確信を持って、そう聞いた。
セルゲイからの返事はない。ニキフォールを一瞥するだけで、空になったグラスを差し出すだけだ。
ニキフォールも、返事を待ちはしなかった。グラスにウォッカを注ぎ、差し出す。それはまたすぐに空になって、カウンターの上へ戻ってきた。
「差し出がましいことを申し上げます。ただ話せることがあるなら、吐き出しておしまいなさい。詳細を話す必要など、ございません。貴方が求めていないのなら、余計な口出しも致しません。酒を飲むだけでは、何も流れてはいきませんよ。酒に頼れば頼る程、その毒は、貴方の内に留まり続ける」
そこで漸く、セルゲイはニキフォールを見た。酒に溺れつつある瞳の奥に、深い悲しみが揺れている。
「ご心配には及びません。酒に飲まれた者の弱音など、明日には皆忘れてしまいますよ。忘れてしまう他人に、少しばかり重荷を投げて、どこかへ捨ててもらえばよいのです」
ニキフォールが微笑むと、セルゲイは一度目を伏せ、逞しい肩を小さくした。
「俺はもう、このバーには来られないかもしれません」
その日、セルゲイは浴びるように酒を飲んだ。泥酔だった。結局、悩んでいることを話さぬまま、近くに住む医者に背負われ、帰っていった。
それから暫く、セルゲイがバーを訪れることは、本当になくなった。それでも毎日、見舞いに行くことは続けているようだ。開店準備中に店の外を掃除していたウェイトレスが、何度か彼の姿を見かけていた。
セルゲイが再び店に現れたのは、それから一ヶ月が経った頃のことだ。驚くことに、フェーニャも一緒である。彼女に至っては、実に二年ぶりの来店だった。
セルゲイが押す車椅子の上で、彼女は以前と変わらぬ優しい微笑みを湛えていた。
「お久しぶりです、マスター」
「いらっしゃいませ。お二人とも、変わりないようで安心致しました」
気休めだった。二人とも、酷く痩せ細っている。フェーニャなどは、以前より二回りは小さくなっているという気がした。
「あら、そうですか? これでも、すっごく痩せて、喜んでいたのに」
「おや、これは失礼致しました。さあ、お席へご案内しましょう」
いつの間にかニキフォールの隣に並んでいたウェイトレスが、セルゲイに代わって車椅子を押した。セルゲイはどこか浮かない表情で、ニキフォールと車椅子の後をついてきている。
以前二人が座っていたカウンター席に案内すると、セルゲイはそこに荷物だけを置いた。
「フェーニャ、俺は常連の皆さんにご挨拶してきます」
「えぇ、いってらっしゃい。私はマスターとお話して待っていますね」
「あまり無理をしないように。マスター、よろしくお願いします」
「お任せ下さい」
痩せこけた頬を僅かに持ち上げて、セルゲイは常連客が集まるテーブル席へと行ってしまった。
「私は痩せて嬉しいのですけど、彼まで一緒に痩せてしまって。おかしいでしょう? 病気をしているのは私なのに、あの人まで病気になってしまったみたい」
「あれも一種の病気でしょう。お可哀想に」
ニキフォールはフェーニャの視線を追って、セルゲイを見つめた。遠ざかる背中が、不安定に揺れている。
「お飲み物は如何なさいますか?」
「いつもので」
「かしこまりました」
ニキフォールは手際よく紅茶を淹れる準備に取り掛かった。ティーポットを使うのも、二年ぶりである。この店で紅茶を注文するのは、フェーニャだけだったのだ。
彼女が入院してからも、ニキフォールは道具の手入れを続けていた。茶葉を仕入れることも、やめなかった。
イギリスから仕入れた茶葉が、熱湯に当てられて生き物のように蠢き、開いていく。甘く誘うような花の香りが、湯気と共に立ち上り、店の空気に溶けていった。
ニキフォールは一度だけ、いつもより少し深めに息を吸う。フェーニャも同じようにして、カウンターの向こうで香りを楽しんでいた。
この紅茶を淹れるのも、今日で最後になるだろう。そう思うと、僅かな香りさえ名残惜しくなる。ニキフォールはポットの口から溢れ出る香りを閉じ込めるように、静かに蓋をした。
「懐かしい香りですね。前は気付かなかったけれど、ここの紅茶は格別に高級な香りがします」
「安い紅茶がお好きだと伺ってはいたのですが、貴女にはいつもこちらをお出ししておりましたので」
「セリョージャに聞いたんですね」
ニキフォールが肯定の代わりに微笑みを返すと、フェーニャは呆れた顔で首を振った。
「もう、あの人ったら……。そういう意味で言ったわけではないんですよ?」
「ご主人の淹れた紅茶がお好きなのでしょう」
「さすがです、マスター」
「お褒めに預かり光栄です」
そろそろ頃合だろう。ニキフォールは様子を見ながら、カップへ紅茶を注ぎ始めた。再び、優しげな香りが辺りに広がる。
「しかし、申し訳ございません」
ニキフォールの言葉に、フェーニャは小首を傾げて返した。
「当店では、お客様のお好きな紅茶をお出しできそうにないのです。代わりに、こちらでご容赦くださいませんか?」
カウンター越しにティーカップを差し出すと、フェーニャは花が開いたように笑った。頬の肉は落ち、眼球が浮き、肌も青白くなりはしたが、彼女自身が本来持っていた華やかな表情は、一つも変わるところがない。
彼女は一頻り、美しい琥珀色と馨しいその香りを堪能すると、一口だけ啜って息を吐いた。
「美味しいです」
「恐れ入ります」
フェーニャは二口程紅茶を楽しむと、幸せそうな表情を曇らせ、拗ねたような顔でセルゲイへと視線をやった。彼より年上であるフェーニャは、包容力のある大人の女性だったが、時折少女のような顔も見せる。それは、彼女の大きな魅力の一つだ。
「言葉の裏を読んでくれないんです。読めないわけではないのに、読む気がないんですよ」
「許して差し上げなさい。読む気がないのは、読む必要がないからでしょう。言葉の裏など知らずとも、ご主人は貴女の愛を十分に受けとめていらっしゃる」
「だったら、嬉しいんですけど」
フェーニャは照れた様子で俯き、大きく紅茶の香りを吸い込んだ。
「貴女の話をする時、ご主人はこの上なく優しいお顔をなさるのですよ。貴女への愛に満ちた、幸福そうな顔です。こちらが切なくなる程に」
「マスターが?」
「えぇ、胸が詰まるような感覚で」
「まるで恋をしているみたい」
フェーニャは上品に口元を隠し、しかし心底愉快そうに笑った。
ニキフォールは彼女の前に、クッキーを盛った皿を置いた。淑やかな女性の微笑みは、直ちに少女の満面の笑みへと変化した。
「似たようなものかもしれません。私はお二人に、大変な魅力を感じております」
「こんな体になっても、まだ男の人に魅力的だと言ってもらえるなんて、思ってもいませんでした。主人とセットというのが、少し残念ですけれど。マスターは、どうして悲劇がお好きなんですか?」
話題を変えたのではない。むしろ核心を突いた一言だった。
フェーニャはニキフォールの言ったことの意味が分からぬ程、彼を知らないわけでも、愚かなわけでもない。彼が好む悲劇の役者として、自分たちは彼の興味を惹いている。全てを理解した上で、それでも尚、彼女は微笑んでいた。
ニキフォールは、フェーニャの気丈な態度に息を飲んだ。
小さく、しかし強烈な刺激が、肌の上を小刻みに叩きながら駆け上がっていく。年甲斐もなく高鳴る心臓を、抑えることができなかった。唐突に訪れた快感に、恍惚としそうな表情を引き締めるのが、彼にできる精一杯だ。
こうでなくては、とニキフォールは思う。悲劇の主役は、不幸でない方がいい。真綿のような悲しみに包まれ、絶望の羊水に浸り、そんな自分に酔った者の話程、つまらないものはない。ニキフォールにとって、それはもはや悲劇ではなく、喜劇だ。
その点、フェーニャはニキフォールにとって理想の悲劇のヒロインだった。
「悲劇やら闘牛やら磔やらを見て、人間はこれまで地上で最大の快感を味わってきた」
「ニーチェですね」
「えぇ、私の場合はまさにこれです。悲劇を知ること、語ること、それらを楽しむことは、私にとって極上の快楽なのですよ」
ニキフォールは、フェーニャの微笑みに促されるまま、正直に答えた。それを望まれているような気がしたのだ。
フェーニャは納得したような表情をしていた。
「マスターって、とても紳士的ですし、皆さんそう仰るけど、私はどこか納得できないでいたんです。なんだか、いつも飢えているように見えて。でも、やっぱり、貴方は裡に凶暴な獣を飼っているんですね」
「もう年老いた獣です。暴れるような力もない。しかし、それは誰もが持っているものですよ。もちろん貴女やご主人の中にも、それはいる」
ニキフォールは、暗い眼差しでフェーニャに微笑んだ。フェーニャは、目を逸らさなかった。
「そうかもしれません。昔は悲劇なんて好きではなかったんです。でも、最近は妙に心地がいいの」
「貴女の中に眠っていた獣が、目を覚ましたのかもしれませんね」
彼女だけではない。きっと、セルゲイの中にも目覚めたものがある。ニキフォールは、それを肌で感じていた。
「酷い女だって、自分で呆れてしまいました。自分がそういう状況に置かれて、それで漸く他人の悲劇を楽しめるようになるなんて」
「そういうものでしょう。そのための悲劇です。そのための、快楽です」
「私はこの獣を、飼い慣らせるでしょうか」
「えぇ、きっと」
「獣に飲み込まれてしまうくらいなら、いっそ飲まれる前に死んでしまいたい……」
フェーニャは噛み砕いたクッキーを、紅茶で流し込むようにして、その体内に収めていった。
ジル・ハートレスは、閑散とした夜の街路を大股で横切った。人口の灯りが行儀よく整列する道を、一瞬のうちに横断していく。その眼前には、朧朧たる光が瞬き、彼を誘導するように先行している。常人には見えない光だ。
ニキフォールの話が終盤に差し掛かった頃、それは店の扉をすり抜けて、ジルの目の前に浮遊した。ニキフォールトの間、カウンターの上を何度か往復して、それはニキフォールの周囲を忙しなく飛び回る。
纏わりつかれている当の本人は、それに気づく様子もなく、ウォッカを注ぎ足していた。光を追って視線を彷徨わせるジルを見て、漸く異変に気づいたようだ。
「どうされました?」
「光が、お前の周りを……」
ジルが言い終えるより先に、光はニキフォールから戸棚に仕舞われたティーポットへと移動した。
「いや、あのティーポット、フェーニャ殿のために使っていたものか?」
「そうです。今は紅茶を注文されるお客様がおりませんので、ほとんど飾りのようなものですが」
ほぼ間違いなく、光の正体はフェーニャだろう。常人であるニキフォールには見えない、彼女の魂の輝きだ。
ジルは光に導かれるまま、古びたアパートに踏み込んだ。
物語は終幕へ向けて進んでいる。しかし、それはきっと、フェーニャの望まない結末なのだ。だから、彼女は店を訪れた。死期を間近に控えて、ニキフォールには何かあると、感じ取ったのかもしれない。ニキフォール自身には特別な力などなかったが、それでもタイミングよくジルが店を訪れていたのは、偶然ではないはずだ。
フェーニャの魂は、ある部屋の前で留まり、ジルが追いつくとドアの向こうへと消えた。
実体のあるジルに、物体をすり抜ける力はない。代わりに、彼は人差し指と中指を真っ直ぐにして揃え、鍵穴に触れた。鍵に見立てたそれを回すと、開錠の音が廊下に響く。人間の、人間に対するセキュリティなど、彼にとってはないのも同じだ。
ドアの向こう、部屋の中は薄暗い。廊下の灯りが、部屋に向かってジルの影を作っている。彼が歩を進めると、それは闇の中へと吸い込まれていく。
暗闇の中に、ジルを導いた光の姿はない。代わりに白い靄が女性の形を作り、奥の扉の前で浮遊していた。見る者によっては、恐怖さえ覚える白く透き通った彼女も、ジルにとっては清冽で煌々たる人の魂に他ならない。
「フェーニャ殿か?」
ジルが問いかけると、女性は静かに頷いた。促すように、ジルから扉の方へと視線をやる。
静まり返った扉の向こうから、強烈な鉄の臭いが漏れ出ている。
湧き上がる食欲を抑えながら、ジルは扉を開けた。蝶番が甲高い悲鳴を上げて、ジルを迎える。
鉄の臭いと共に、噎せ返る程のチープな紅茶の香りが溢れてきた。
粗末なベッドに上体を起こしているのは、生前のフェーニャだろう。美しい亡骸である。見る限り、外傷はない。眠るように死んでいる。
彼女の安らかな死の傍で、胸の詰まるような姿を晒しているものがいる。
フェーニャの眠るベッドに突っ伏し、清潔な白を赤く染めている。
顔中を涙の跡が伝い、身体からは赤い滴が垂れ落ちる。
彼の足元には、鋭利に尖った包丁が転がっていた。
「彼が、セリョージャなのだな」
フェーニャの魂が、彼を包むようにして寄り添った。
常人であるセルゲイが、その温もりを感じることはないはずだ。しかし、彼は何かを感じていた。彼の指が、僅かに反応を示している。
「まだ、生きているのか」
抱き起こせば、僅かな脈動が肌を通して伝わってくる。抱き起こした時の振動で、呻くこともできない。この男は、死の淵にいる。
「よく刃を抜いたものだ。抜かずにおけば、血が抜けず、より長く生きながらえることになる。分かっていて、そうしたのか」
フェーニャは、傍らで泣いていた。幽鬼である彼女の滴が、血溜まりに落ちることはない。それでも、彼女の発する光が哀哭に満ちているのが、ジルには分かった。
「今ならまだ、救うこともできる」
呟いたジルに、フェーニャは顔を上げ、縋る様な眼差しを向けた。彼女には、ジルが救世主のように見えているのだろう。
ただ、ジルは自信を持って、それを勧めることができなかった。人であるセルゲイを救うには、それなりのリスクがある。ジルの提案は、暗く濁った希望なのだ。
「ただの人である貴女の夫を救うには、貴女自身の力も必要だ」
条件も聞かず、彼女は大きく頷いた。
「よいのか。二人とも、天国に行くことはできなくなるぞ。セリョージャの魂を、この世に結びつけておく必要がある。そのために、フェーニャ殿にもこの世に留まってもらわねばならん」
フェーニャは、ただ頷くだけだった。なんでもいい。助けてくれるなら、ただ一人、自分のために命を絶った、愛しい男を救えるのなら、悪魔だろうが、怪物だろうが構わない。光り輝く魂が歪に歪むのも、彼女にとっては瑣末なことだった。
セルゲイは、目を覚ました。全身が震え、寒気が襲った。
夢を見ていた。最愛の人を、己の手で殺していた。何度も、何度も、同じことを繰り返す。そういう悪夢だった。
冷や汗で身体が冷え、喉が渇いて痛みを感じる。それで、セルゲイは自分が死ねなかったことを悟った。
生きている。落胆と共に、どうしようもない悲しみが、肌を切り裂く。全身の関節を鈍痛が襲い、息苦しくなった。まるで、重い病にかかったかのようだ。
「起きたか」
ベッドサイドに、これまで見たこともない程、背の高い男が立っていた。異様な風体をした、悪趣味な中年の男だ。威厳と気品を感じさせるのに、ひっそりと陰に潜むような仄暗さがある。それ故、セルゲイは声をかけられるまで、その男がいることに気がつかなかった。
驚愕で、漸く目が覚めた。必要以上に柔らかいベッド、家什の数々は品の良いアンティーク、どれもセルゲイの知らないものだ。見回せば、建物の一室ではない。天幕の中のようだ。
「貴方は……?」
呆然とするセルゲイが、なんとか発することができたのは、それだけだった。
「ジル・ハートレスだ。ニーカ……ニキフォールとは旧知の仲だ」
「マスターの……。あの、俺は助かってしまったんですか?」
「救ってくれと、頼まれた」
「マスターに?」
ジルは穏やかな動作で首を振って否定した。
では、誰が。セルゲイに思い当たる節はない。この奇妙な男との接点は、セルゲイの知る限り、ニキフォールだけなのだ。
「マスターじゃなければ、誰がそんなことを頼んだんです? 俺は、死にたかったのに」
「ニーカは、そんなことを頼みはしない。付かず離れず、そういう接客をしてきたはずだ」
「勿体つけてないで、教えてください。俺は死にたいんです。その人のことは、なんとか説得して、俺を放っておいてくれませんか」
「私からは、言えぬ。言いたくば、自分で言うがよい。言えるのであれば、だが」
「近くにいるんですか?」
「外に待たせている。呼んでこよう」
セルゲイの返事も待たず、ジルは幕を僅かに捲り、外へ声をかけた。
命の恩人は、すぐ傍に控えていたらしい。天幕に映った影は、ジルよりも大きかった。凡そ人とは思えない体格だ。当然、セルゲイの知人にはいない。
ジルは入口の幕を広げ、その人物を招き入れた。
悪臭がした。獣の臭いだ。
それは、人ではなかった。悍ましい、別の何か。皮膚は爛れ、所々剥がれ落ち、生の肉を晒している。剥がれた皮膚が変色し、こびりついていた。唇は全て削がれ、血の滲んだ歯茎と、黄ばんだ歯が覗いている。歯茎が傷んでいるせいで、歯は不安定な土台の上で、不自然な凹凸を持って配置され、半分以上が抜けていた。頭部には自由な方向へ繁茂した毛が覆っている。その奥で、これ以上ない程に見開かれ、充血した瞳。
セルゲイは、身体の震えを止めることができなかった。首周りから全身へ向かって、悪寒が駆け抜け、肌が粟立つ。悪夢から解放され、ジルとの会話で戻りつつあった体温は、前にも増して冷えてしまった。
恐怖していた。近づいてくる異形に対してではない。それを見た瞬間、恐怖に紛れて密かに芽生えた、己の感情に恐怖したのだ。悪夢はまだ、終わってなどいなかった。
彼の裡に芽生えた、懐古とそれにも勝る情愛。緩慢な動作で近寄る獣の、一挙手一投足に、懐かしさと、後悔と、愛しさが込み上げ、セルゲイの頬を涙が伝った。頭はそれを理解できず、否定し続けるが、魂は叫んでいる。
ベッドの傍らに立ったそれは、表情の読めない歪な顔で、セルゲイを見下ろした。セルゲイは、皮膚が剥がれ、腫れあがり、赤黒く変色したその手を取った。それは燃え上がるマグマのような色をしているのに、酷く冷たかった。
「何故、何故、何故、何故、何故、何故……。何故なんです、フェーニャ」
包み込むように握った彼女の手が、小さく反応を示した。返事は、なかった。
「お前には、フェーニャ殿に殺される権利がある」
「何を言っているんです?」
ジルの言っていることが、酷く不快に思えた。
「お前は頼まれたのだろう。殺してくれと。そして、それを実行した。美しい死体であった。成し遂げたお前には、彼女に同じことを頼む権利がある。そう言っているのだ」
「できるわけがない。そんなこと、頼めるわけがありません。俺と同じ思いをしろだなんて」
「ならば、生きるしかあるまい。彼女は、後悔していた。人生を放棄したことを。その責任を、お前に押し付けたことを。後悔しても、遅かった。フェーニャ殿は死に、お前は自殺を図った。死んでいる彼女が、お前にできることは限られていた。できたのは、生前から何かあると感じていた、ニーカを頼ることだけだった。運良く私が居合わせていなければ、お前は死ねていただろう。ただの人であるニーカが、彼女の魂に気づくことはないはずだ。万が一、何かを察知してニーカが駆けつけていたとしても、手遅れだった。私がお前を抱き上げた時、すでに人の手ではどうしようもない状態だったのだ」
「人の手って、貴方は何者なんですか。そんな状態の俺を、どうやって助けたんです?」
話はすでに、セルゲイの理解の範疇を超えている。それでも、自分が生きている理由、美しいままに死した妻が醜悪な姿で生き返った理由、それらを知らないままでいたくはなかった。
「お前は、心臓の下部を切り裂いていた。まずはお前に、私の心臓の一部を与えた。残っている全てを、だ」
ジルは自身でシャツを開き、心臓の辺りを見せた。縫い目がある。丁度、心臓を三つに分けるようにして、糸が皮膚を伝っていた。
「私の力だけで、お前を蘇生させることはできない。私の心臓を与えても、それを動かすだけの力が、ただの人であるお前にはないからだ。繋ぎが、必要だった。私の力と、お前の体と魂を繋げるものだ。フェーニャしか、いなかった。お前の魂をこの世に繋ぎ留め、私の力の受け皿となる。そのためには、彼女がお前に憑く必要があった」
「それでどうして、彼女がこんな姿になってしまうんですか?」
せっかく自分が美しく残した彼女が、何故こんな姿に成り果ててしまったのか。セルゲイの言葉は、詰問に近かった。
寄り添う夫婦を交互に見やり、ジルが長く息を吐いた。
「確認はしたのだぞ。この世に無理矢理繋ぎ留めた上、私の力を受ければ、魂は本来の輝きを失い、歪んでしまう。それでもいいのか、と」
フェーニャは構いもしなかった。自身の勝手で追い詰めたセルゲイを、救うことができるのならば、どんなものにでも縋ろうとしていた。ジルはそれに応えただけだった。
「そうでしたか……。申し訳ありません」
「とにかく、これから二人でどう生きていくのか、よく考えるのだ。分かっているだろうが、これまで通りの生活など送れまい」
「普通には、暮らしていけないということですね」
「フェーニャ殿を連れていてはな。あくまで人として、彼女の存在を隠しながら俗世とは離れ静かに暮らすか、あるいは割り切り、そういう者として生きていくか、二つに一つだ」
「そういう者というのは、化物として、ということですか?」
セルゲイは、ジルの曖昧な表現を、敢えて明確にした。自分たちが怪物に成り下がったのは、そういう方法でしか救えなかった目の前の男のせいではない。人生を放棄し、お互いを不幸にした、その結果だ。彼に気を遣わせるのは、筋違いというものだ。
ジルは間を置いて肯定した。躊躇ったというより、驚いたという感じだった。
「どちらの道も、用意はある。自分たちで選ぶのだ」
「そこまでお世話になるわけには……」
すでに大恩を受けているのだ。一生かかっても返しきれない。これ以上、ジルを頼るわけにはいかなかった。
「気にすることはない。乗りかかった船だ。それに、ただの人であったお前が、なんのコネクションもなしに、フェーニャ殿を連れて生きられるとは思えぬ。せっかく助けたというのに、結局二人揃って死なれては、救った甲斐がなかろう」
「どうして、そこまでしてくださるんですか? やっぱり、マスターから何か頼まれていらっしゃるのでは」
ジルが小さく笑ったようだった。表情に変化があったわけでも、笑い声を出したわけでもない。ただ、彼の纏う空気が和らいで、セルゲイにそう感じさせたのだ。
「ニーカからは、話を聞いただけだ。何も頼まれてはいない。これから先も、ないだろう。あれはもう、作り手ではない。語り手なのだ」
ニキフォールの語る物語がどのような結末を迎えようと、彼は過度な干渉を望まない。それが今の彼の美学なのだ。
「では、どうして?」
「お前たちに興味が湧いた。だから、助けた。それだけのことだ」
「貴方も人の不幸を楽しんでいるのですか」
セルゲイは咎めるような口調になるのを、抑えることができなかった。耐え切れるはずもない。必死だった。苦しかった。辛かった。そんな自分と、愛する人の、二人だけの生涯が、他人の娯楽のネタになるなど。
セルゲイの恩人に対する無礼な態度を嗜めるかのように、フェーニャが僅かにその腕を引いた。セルゲイが振り向くと、彼女は確かに首を振った。
ジルが気に留めた様子はなかった。未だ彼が纏う空気は穏やかで、容姿との差に微妙な不気味さがあるだけだ。
「悲劇を特別に面白いと思ったことはない。目も当てられないような悲劇も、私にとっては日常の一部だからだろう。私がお前たちに興味を持ったのは、夫婦というものを知りたかったからだ」
「お独りでいらっしゃるのですか?」
セルゲイの問に、ジルが大きく目を瞠った。僅かな間があって、その後ジルの口角が吊り上がる。今度はセルゲイにも、はっきりと分かった。彼は、笑っているのだ。
「私は、生涯の伴侶というものを得ることができなかった。必要としたことがないからだろう。生前、恋愛をすることもあったが、それでも最終的に一生を捧げるだけの相手には、ついに巡り合わなかった」
「タイミングとか、自分の意思とは関係のないところに原因があることもありますからね」
「そういうことにしておこう。これまで、そういった人間同士の関係に興味を持ったこともなかった。だが最近になって、少々状況が変わってな。いや、随分と前から変わり始めてはいたのだが、これもまたタイミングなのだろう。家族というのが、どういうものなのか、知りたかったのかもしれぬ」
「それで、俺たちを助けてくださった。でも、やはりこれ以上は」
「セリョージャ、お前には、私の心臓の半分を預けた。残りの半分は、別の者たちに預けてある。彼らは私の子となり、事業の一端を担ってくれている。お前は未だ人間ではあるが、血肉を分けたという意味では、彼らと何も変わらない。選ぶ道は違っても、私はお前を見捨てたくはないのだ」
ジルの微笑みは、ぎこちなかった。顔に走った縫い目が、笑顔を作る筋肉の邪魔をするのだ。無理をして、笑みを作ろうとしている。それが何故だか、セルゲイを安心させた。
「ねぇ、セリョージャ、私たち、この方に恩返しをしなければなりませんね」
唐突だった。懐かしい声が直接脳に語りかけてくる。それは、心を包む、愛しい人の声だった。間違うはずもない。フェーニャの声だ。
「今のは……」
「どうした?」
「いえ、えっと……」
フェーニャは、静かにこちらを見つめていた。口を開いた様子はない。獣のような荒い息遣いを繰り返すだけだ。
「私よ、セリョージャ」
もう一度、彼女の声が脳に響いた。
「フェーニャ、なのですか?」
戸惑いを隠せないまま、セルゲイが問えば、今度は声ではなく、目の前のフェーニャが頷く。
「不思議ですね、テレパシーというやつなのかしら? 貴方にしか伝わらないみたいなのよ」
「あぁ、フェーニャ、どうして話してくれないのです? 貴女の口で」
「試してはみたのですけど、おかしな声が出るばかりで」
フェーニャの声に苦笑の色が混じり、それと同調するように、目の前の彼女が大きな頭を傾げた。愛しい人の仕草だった。
「聞こえるのか、彼女の声が」
本当に、ジルには聞こえていないようだった。
セルゲイにのみ、フェーニャの声が聞こえる。それは特別なことだった。胸が熱くなるほどの歓喜が、セルゲイの身を震わせた。
「聞こえます、彼女の声が」
目の奥が疼き、胸の内を焦がす、彼女の声がする。目頭が熱い。これほど、神に感謝することがあっただろうか。
「セリョージャ、私が今こうして貴方に話しかけることができるのも、ジルさんのおかげなのですよ。だから、私はこの方にお礼をしたいの。外で待っている間、ここの様子を見ていたけれど、とても良さそうなところでした。こんな姿の私にも、皆さん優しくしてくださるんです」
「本当ですか? そもそもここはどういう場所なのでしょう」
「サーカス団みたいですよ。とても楽しそう」
フェーニャの声に喜色が混じって、大きな手がセルゲイの手を包み込んだ。フェーニャが、望んでいる。そしてきっと、セルゲイ自身も望んでいるのだ。これからどうしたいのか。どうすべきなのか。
「話は纏まったか」
「えぇ、フェーニャも俺も、望むことは一緒です。貴方への感謝を示したい」
フェーニャと顔を見合わせる。充血した目の真ん中、瞳の奥の輝きだけは、生前と変わらない。
「ならば、頼むとしよう。働きに期待している。芸名でも、考えておきなさい」
「ありがとうございました」
セルゲイの声を背に受けながら、ジルが退出する。きっと、これから死ぬまで世話になる背中だ。
ジルが出て行った幕を見つめていると、 大きな体を丸めたフェーニャが、甘えるようにベッドへ寄り添った。
「幸せになりましょう、セリョージャ」
「今度こそ、幸せにするよ、フェーニャ」
71-3さん(@Dahmer71_3)の企画参加キャラ・グレゴリーとエフゲニーをお借りしました。