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Chère Natsume

 日本での興行を終えた宵座から、連絡が入っていた。面白い妖怪を見つけたので、一度確認してくれと言うのだ。女郎蜘蛛という妖で、わざわざ人に化け、人間に紛れて暮らしている。報告を寄越した白火に理由を問うと、楽しげな声音で、行けば分かるとだけ返ってきた。

 ジルは報告のあった街に宿を取り、女郎蜘蛛を探した。深夜になれば、街の路地裏や高架下に小者の妖怪が現れる。そういう者たちに尋ねれば、どんなことでも少しは情報が手に入った。知能が低いため、吐き出されるのは単語の羅列で、それを精査する必要はあるが、情報量は多い。小者であればあるほど、昼間は人や物に憑いて移動しているのだ。

 女郎蜘蛛のことは、すぐに分かった。街の妖怪の中でも、最も力のある者の一人として有名だった。妖怪としては、まだ若い。しかし、人が一生を終える程には生きている。他の妖怪から、一目置かれる程度に力があり、人に紛れて暮らせるだけの知性もある。

 しかし、白火が面白いと言った理由は、他にあった。一人暮らしをする彼女の部屋を、毎日のように訪れる男がいる。ごく普通の、人間の男である。

 蜘蛛の巣に、蝶が自ら飛び込んでいく。そんなことが毎日繰り返されているのに、男はいつも五体満足で、女郎蜘蛛の部屋から出てきた。

 どういうつもりか、女郎蜘蛛に聞いた者がいた。何故食わぬのか、食わぬなら食ってもよいか。問いかけに答はなく、代わりに無数の刃物が返ってきたという。関わろうとする者は、同胞であろうと容赦なく殺される。いつしか、街の妖の間で、密かに囁かれるようになった。

 女郎蜘蛛が、人間の男に恋をした。

 白火は、これを耳にしたのだろう。いかにも下世話な彼女の好きそうな話題であった。深淵座の古株である彼女の、嬉々とした声が思い出される。

 ジルは、ある露店居酒屋に通い始めた。女郎蜘蛛と、連れの男の行きつけである。美味い串焼きを出す店だった。露店の粗野な雰囲気に合わず、酒は上品な味わいのものを置いていた。

 ジルが人間社会に馴染むには、いつも少々の時を要する。死んだ体は見る者を不安にさせる程に青白く、皮膚の縫い目も異様である。背は、人より頭三つ分も高い。ただでさえ威圧的な容姿に加え、外人であるというのも、交流の妨げとなった。

 それでも、飲み屋では一旦店主と馴染みになってしまえば、遠巻きにしていた客とも打ち解けられる。根気よく通い詰め、漸く女郎蜘蛛とも知り合うことができた。

 話しかけてきたのは男の方で、女郎蜘蛛はその隣で注意深く、ジルの様子を伺っていた。ジルがどういう存在なのか、初めから分かっているようだった。片時も離れまいと男に寄り添っているのは、甘えているのではなく、守ろうとしているのだろう。

 足繁く通っているうちに、女郎蜘蛛の警戒心は徐々に薄れていった。ジルに害意のないことが理解できたのだろう。名を呼び合う程度の顔見知りにはなれた。女郎蜘蛛は、夏めと名乗った。

 時折、一人で店に来る夏めと、同席することもあった。他愛もない世間話が多かったが、夏めはそんな会話の合間に、何か言いたそうな顔をしていた。

 打ち解けた頃、ジルは一度日本を離れることにした。他の国にも、訪ねておきたい者がいる。いつまでも、一所に留まっているわけにもいかないのだ。サーカス団は、今も各地で興行の旅をしている。仕事は、山積みだった。

 夏めに会いに来たのも、勧誘のためではあったが、暫く好いた男から離れはしないだろう。ジルは挨拶のため、日本を離れる前に件の居酒屋へ寄った。

 夏めは店の隅にある卓に着き、一人で酒を呷っていた。不機嫌なのが、一目見れば分かった。怒っているというより、拗ねているのだろう。唇を突き出し、への字に曲げ、如何にもつまらないという顔をしている。


「どうしたのだ、夏め。そんな顔をして。他の客が近寄れぬではないか」

「ジルさんかい。別に、なんにもありゃあしないよ」

「何もないのに、そんな顔をするのか、お前は。随分と退屈そうな顔をしているではないか」

「あんた、分かってて言ってるね?」

「彼は?」


 夏めの問いに対して、逆に問いかける形で返したジルに、夏めは大きな溜息を吐いた。ジルの指摘通り、夏めの不機嫌は連れの男が原因らしい。


「仕事で遠出をしててね。日帰りだけど、今日は家に帰って、とっとと寝るんだとさ」

「それで、構ってもらえないから、拗ねているのか」

「うるさいねえ。放っておいておくれよ」

「そうもいかぬ。残念だな。暇を告げに来たというのに」

「暇? どこかへ行くのかい?」

「旅の空に戻ろうと思う。それで、お前たちに別れを告げに来たのだ」


 言いながら、ジルはトランクを下ろした。夏めの正面に座ると、彼女は体を傾けて、ジルの荷物を覗き込んだ。


「驚いた。随分と大荷物だねえ。もう、戻っては来ないのかい?」

「お前とは、また会うこともあるだろう。だが、彼が生きているうちに、また日本を訪れることができるかは、分からんな」

「そうかい。それは、寂しくなるねえ」


 夏めは、遠くを見ている。ジルが言外に含ませた、人間との寿命の差について、悩んでいるのかもしれない。

 これまで、お互いの本当の部分に触れる話は、一切してこなかった。敢えて触れないようにしていた節もある。二人の間で、それは暗黙の了解となっていた。

 それでも、いざ離れるとなると心配だった。すでに、情が移ってしまっていたのだ。


「ねえ、ジルさん、あたしはどうしたらいいんだろうねえ。あの人と一緒にいたい。それだけのことなのに、いろいろなものが邪魔をするんだ」

「お前たち二人で、乗り越えていくしかあるまい。承知で溺れたのだろう?」


 人の一生は、短い。ジルや夏めからすれば、ほんの一時に過ぎない。男が寿命を全うした後も、夏めは生き続ける。障害を乗り越え、男と添い遂げることができたとしても、その先にあるのは愛する者のいない世界だ。そうなったとき、夏めは耐えられないかもしれない。ジルは、それだけを気にかけていた。


「人間は、愛する者と添い遂げるために結婚をするだろう? あたしには、それができない。戸籍も何も、持っちゃいないからね。あの人は結婚なんて書類上の話で、そんなもんには拘らないって言ってくれるけど、周りは黙っちゃいないだろうよ」

「結婚に必要なものなら、揃えてやることもできるが」

「そういう問題でもないのさ。今まで人として生きてきたっていう証が、あたしにゃ一つもない。薄っぺらい紙切れなんかじゃ、残せないものなんだよ」

「それでも、お前は彼と共にありたいと、そう願っているのだな」

「もちろんさ。あたしの中に、唯一譲れないものがあるとしたら、それはあの人のことだけ。他には何も望まない」


 ジルには夏めの気持ちを理解することができた。ただ、理解はできたが、共感することはできない。

 それは、とうの昔に置いてきた感情だった。屍人となってからは、そんな気持ちになったこともない。無意識に避けていたのかもしれない。夏めのように、本気で人を愛する勇気が、ジルにはなかった。


「人と暮らしていくのは、難儀であろうな」

「よく言うよ。ジルさんは面白いくらい溶け込むじゃないか。あたしなんかより、余程化け物らしい成りをしてるってのに」

「違いない」


 夏めは、笑っている。機嫌は直ったらしい。


「こうして冗談でも言って、笑ってくれるようなのが、あたしの周りにはいなかった」


 小妖怪たちのことを言っているのだろう。確かに、この街でまともな会話ができる程、知恵のある妖怪は、夏めだけであった。


「あんたが来てくれて、本当に楽しかったよ」

「私も楽しかった。お前の相談に乗ってやれぬことを悔いた日もあるが」

「そんなこと。女ってのは、聞いてもらうだけで満足なのさ」


 強がりだというのは、ジルにも分かった。


「私の知る者で、そういうことの世話が好きな女の妖怪がいる。片輪車で、白火という。それを紹介しよう。私などより、よい相談相手になろうよ」


 白火であれば、万に一つも悪い方へ導くこともないだろう。面白がりはするが、元来優しい人間を見抜き、助けたりもする妖怪なのだ。


「お前と同じ、日本の妖怪でもある。色恋のことでなくとも、困ったことがあれば、その者に話してみよ」


 ジルは手元の酒を一息に飲み干して、立ち上がった。出立の刻限が近づいている。


「本当に、行っちまうのかい?」


 夏めが、名残惜しそうな顔で見上げてくる。ジルはそれを見て、己がここから離れ難く思っていることに、漸く気がついた。

 恋とは別の、暖かい感情がある。それは、人間でなくなった時に失ったものだったが、ノーチェや団員たちとの関わりで、もう一度取り戻したものでもあった。硬く冷たい腐りかけた身体の中で、己の持ち得る唯一の温もりである。

 それが、夏め相手にも、いつの間にか芽吹いていた。


「白火からお前に連絡を寄越すよう、話しておこう。私と連絡を取りたい時は、白火を頼れ」

「あぁ、分かったよ」

「ではな。いずれまた、必ず会いに来よう」


 それだけを告げて、ジルは店を後にした。星が、少し煩い。

 背後で、自分を呼ぶ声がした。店の前で、夏めと男が手を振っている。結局、彼も夏めを甘やかしてしまうのだ。

 ジルはシルクハットを小さく上げて、会釈で返した。




 それから、日本では四季が数週し、何度目かの春を迎えた。ジルにとっては、ほんの僅かな時である。

 白火から、連絡があった。夏めが男と駆け落ちをしたのだ。夏めから、ジルへの連絡を頼まれたわけではない。思い詰めている様子だったので、一応報告しておこうというのだった。

 胸の内を、何か悪いものが駆けていった。白火も、それを感じたのだろう。だから、態々報せを寄越したのだ。

 ジルは早々に日本へ渡った。二人の行き先は、白火から聞いている。山村の外れにある一軒家に、二人は身を寄せていた。

 凡そ人が住めるとは思えぬ、一軒家とは名ばかりの荒屋である。錆び付いた門と玄関までの間には、好き放題に野草が生い茂り、屋根は所々瓦が剥がれ、壁の木材は朽ちかけている。

 人間の男を連れた夏めが選ぶとは思えない。それでも、ここがそうなのだと、ジルには分かった。

 腐った木板の隙間から、漏れ出てくるものがある。黒く澱んだ霧が、滲む様にして、徐々に空へと溶けていくのだ。それは、紛うことなき夏めの妖気である。

 僅かに流れてくる妖気には、懐かしさと心地よささえ覚えるが、ただの人には辛いものであるはずだ。故に、夏めは常に妖気を隠していた。これ程までに溢れているのを見たことはない。

 野放図に伸びる雑草を掻き分け、荒屋の中へ土足で踏み入った。屋内には、夏めの禍々しい妖気が満ち満ちていた。沈殿し、まとわりつくような気が、ジルの足元に絡んでくる。

 妖気の他に、濃厚な臭気がジルの鼻を擽った。馥郁たる香りである。ジルは無意識に、唇をひと舐めしていた。唾液腺が刺激され、腹が減ったような気さえする。それがなんの匂いなのか、すぐに分かった。

 見える範囲に、夏めと男の姿はない。それでもやはり、ここにいるのは間違いがなかった。妖気と臭気は、奥の部屋から溢れている。

 ジルは躊躇うことなく、部屋の奥へと向かった。外から見た様子では、小屋程度の広さしかない家である。夏めの妖気を辿れば、すぐに彼女の下へ行き着くことができた。

 人であれば、惑わされ永遠に幻覚の中を彷徨うことになっただろう。それ程に濃い妖気を、夏めは発している。意識的であれ、無意識であれ、どちらにせよ、夏めが他者の侵入を拒んでいることに、違いはなかった。

 進めば進むほど、妖気と臭気は強くなる。一際それが強い部屋に、夏めは鎮座していた。

 息を呑む程、美しい女郎蜘蛛の姿で、血の池に沈んでいる。それが、匂いの元だった。


「おや、ジルさんじゃあないかい」


 億劫な様子で、夏めが首を傾げた。大事そうに、何かを抱えている。


「何をしておるのだ、夏め」


 踏み出したジルの足元で、赤い雫が跳ね上がる。


「死ぬのさ」

「馬鹿なことを言うものではない」

「そう、馬鹿なことなのかもねえ。でもね、本気だよ、あたしは」


 夏めが、腕の中のものを、愛おしそうに撫でた。それで、何を抱えているのか、漸く分かった。

 一片の曇りもなく、美しく輝く白いそれは、人の頭蓋骨であった。


「それは……」

「ジルさん、あたし、どうしちまったんだろう。この人を、あたしは、あたしは。あんなに愛して、あぁ、どうして」


 喰らったのだ。夏めは、愛した男を、自ら喰らったのだ。


「もう、よい。それ以上、語らずともよい。こちらへ来るのだ」

「嫌だよ。あたしは、もう生きていかれない。死ぬんだ。死なせておくれ」

「ならぬ。とにかく、この村を出る。もうここでは暮らしていけまい」

「どこでだって、生きてなんかいけやしないよ!」


 夏めの妖気が、肌を刺すような鋭利さを孕んだ。漏れ出る全てが、ジルに向かって突き刺さり、残りは夏めの身の内で暴れている。ジルは、耐えることができた。それが、夏めの感じる痛みの、ほんの一部でしかないことを理解できたからだ。


「お前の生は、まだ続くのだ。妖しは、人ほど容易く死ねはせんぞ」

「分かってるさ。もう何度も、心の蔵を貫いてるってのに、あたしの身体は一向に死にやしない」

「なんということを……!」


 夏めの胸には、無数の穴が空いていた。


「それでも、弱ってはいるんだ。お願いだよ、ジルさん。あたしじゃもう、自分に止めを刺す力が残っちゃいない。お願いだから、あたしを殺しておくれよ」


 言い終わると同時に、夏めの体が傾いだ。血溜りに、蜘蛛の身体が横たわった。小さな波が血池を揺らし、ジルのブーツを汚した。




 ジルは、夏めの眠る天幕の前で、彼女が目覚めるのを待ち続けた。

 荒屋で倒れた夏めは、すでに瀕死の状態であった。ジルが止めを刺すまでもなく、放っておけば、数日のうちに死んでいた。胸に空いた穴の一つは、確かに心臓の左心室を削り、それを修復するだけの妖気も残ってはいなかったのだ。己の内で暴れ回る妖気を抑え切ることができず、垂れ流していたせいである。

 ジルはその場で己の心臓を切り分け、夏めに与えた。それからはもう、本人の妖力次第である。

 白火と共に、宵座まで運び、世話は白火を始めとする宵座の女衆に任せた。ジルにできるのは、そこまでであった。

 数日経った夜更に、天幕から出てきた白火が、ジルを中へと追いやった。

 寝台から上半身だけを起こした夏めが、酷く怨めしいという顔をして、こちらを睨んでいる。


「気がついたのだな。気分はどうだ」

「最悪さ」


 憎まれ口は、以前と変わらない様子である。


「どうして殺してくれなかったんだい」

「了承はしなかったはずだが」

「それは、そうだけれど。あんたがやらなくても、あたしはまた死ぬかもしれないだろう?」

「勝手は許さぬ」

「は?」


 ジルの言う意味が分からないのだろう。夏めは睨むのを忘れ、首を傾げた。


「私はお前に命を貸したのだ。借りたものは、返さねばならぬ。それは、分かるな?」

「それは、分かる。でも、命なんてどう返せって言うんだい」

「命など、返せるはずがなかろう」

「じゃあ、どうしろってんだい!」


 怒りに任せて振り上げられた夏めの拳が、ジルの肩を叩いた。痩せ細ったそれは、ジルの体を揺らすこともなく、布団の上へとずり落ちていく。


「私がよいと言うまで、死ぬことは許さぬ。お前には、この宵座を預ける。現座長が、ちょうど引退を考えておったのだ。これから、お前がここを率いてゆけ」

「呆けたふりして、酷いことをするんだねえ、あんた」

「私も、怪異なのだ。酷いこともする」


 腕の中には、何もない。それでも、夏めは何かを抱きしめるようにして、静かに蹲った。




にーちゃん( @21veintiun0 )の企画参加キャラ、夏めちゃんをお借りしました。

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