Chère Noche
灯りの消された仄暗い部屋で、赤子の小さな瞼がゆっくりと閉じられた。祖父母から与えられたベビーベッドの中で、襤褸に埋もれている。ベッドも襤褸も、母親が以前使っていたものだった。
「やっと眠ってくれたのね」
愛する我が子を寝かしつけた母親は、優しい目で子を見つめ、安堵の溜息を漏らした。子育ての疲れからだろうか。自分の瞼も、ひどく重い。
またいつ泣き出すか分からぬ我が子の傍を、離れるわけにはいかなかった。交代してくれる夫はいない。彼女は未婚の母だった。昼間は両親に子を預け、働いていた。辛いことがないわけではない。金はなく、粗末な荒屋で暮らすしかない。年老いた両親が助けてくれるが、それも幼い我が子の養育費に消えていく。それでも、愛しいこの子を立派に育ててみせると、神に誓ったのである。
母親はベビーベッドの柵に凭れ、若葉のように小さな手をそっと握って、自身の意識を静かに沈めた。
意識を手放したと思った次の瞬間には、目が覚めていた。それほど容易に、深く眠ることができた。疲れているのだ。
息子の泣き声で、起きたのだった。決して、大きな泣き声ではない。愚図っている程度だ。それでも、母の耳は敏感になっていた。
もう一度、寝かしつけなければならない。立ち上がろうと体に力を入れたところで、それをできないことに気がついた。体に力が入らない。全ての筋肉が弛緩してしまったかのようだ。
窓が視界に入った。肌が粟立つのを感じた。
開いている。カーテンの揺れる音がする。
いつもはしっかりと戸締りをしてから、寝かしつけている。今日も、そうしたはずだった。
誰かがいる。そう気づいた時、声も出せぬ体が浮いた。持ち上げられている。冷たい何かが、首筋を這うのを感じた。
刺すような痛みの後、急激に眠くなった。
何かがいる。その確信があるのに、眠気に逆らうことができない。自分が眠ってしまったら、息子を守るものはない。眠ってはいけない。
襲い来る睡魔に抱かれるようにして、母親の意識は再び闇に堕ちていった。彼女はもう二度と、闇から抜け出すことはない。深く静かに、大地へと還っていくのだろう。
息子は、泣き続けていた。母との別れを、感じたのかもしれない。愚図っているだけだった泣き声は、一層大きくなっていた。
「はぁ、うるさいですね」
呟いたのは、少年だった。掴んでいた女の体を無造作に放り、代わりに赤子を持ち上げた。
「どうしたの? おしめ? それとも、お腹がすいたんですか?」
そのどれでもない。鼻を近づけてみるが、それらしい臭いもない。しかし、少年にそれが分かるはずもなかった。
「お前、獣の臭いがしますね」
分かったのは、それだけだった。
「仕方ない。もうお腹がいっぱいで食べられませんし、お前は持ち帰ることにしましょう」
少年は柔らかな手つきで赤子を抱き上げ、優しく背中を摩ってやる。少し、冷えているようだ。
カーテンの揺れる音がして、それで漸く、風が入ってきていることに気がついた。
ベビーベッドに残された襤褸で赤子を包み、少年は荒屋を後にした。
床には、母親だった女の体が、闇の中で静かに転がったままだ。
明るい夜であった。月光が眩しい程に輝いている。月が満ちようとしているのだ。
美しい貴婦人が、森の中を歩いている。深い森には不釣合いな、豪勢な装飾のドレスを纏っていた。ピンヒールが柔らかな枯葉の絨毯に突き刺さり、ひどく歩き難そうだ。
彼女は覚束無い足取りで、体を大きく揺らしながら、森の奥へと向かっていた。ドレスの裾が枯葉を引きずり、大きな音を立て続けている。
木葉を踏むのとは、また別の嫌な音がした。ヒールに刺さった奇妙な虫が、緑色の汁を垂らしながら、六対の足を無様に蠢かしている。女は悲鳴を上げるどころか、見向きもしない。
女の進む先に、小さな人影がある。影は微動だにせず、女が近づくのを、ただ静かに待っていた。
ドレスが汚れるのも構わず、女は影の前に跪いた。そうして、すっかり動きを止めてしまった。
女の肩を掴んだ影は、少年の姿をしていた。貴族の子のように上品で、整った顔をした少年である。白く透き通った肌は美しく、月光が浸透し、皮膚の下から発光するような錯覚をさせる。
少年は気怠げに、小さく口を開いた。凡そ人とは思えぬ、長く鋭い牙を剥き出しにして、彼は女の首筋に食らいついた。牙が艶のある肌を突き破る、生々しい音が響く。
女が声を上げることはなかった。その目は虚ろなまま、天を仰いでいる。
少年の細い喉が鳴り、小さく浮き出した喉仏が動く度、女の肌は色を失っていった。光を反射するような若い肌から、徐々に水分が抜けていく。無数の皺が入り、罅割れていった。
女の目から光が消えていく。瞳は徐々に上を向き、やがて瞼の向こうに隠れた。白目だけが残り、月の光を映すこともなくなった。
痙攣し始めた女の体が動きを止めた頃、少年は漸くその首筋から唇を放した。皺の溝を通って、赤い滴が落ちていく。彼はそれを舌で掬って、食事を終えた。
「久しいな、ノーチェ」
見計らったように、男が現れた。人では珍しいほどの長身が、闇の中で揺れている。
「あぁ、ジルさん、こんばんは」
ノーチェはジルの姿を目に留めると、緩慢な動作でジルへと寄っていった。喰らい尽くされ、干からびた女はすでに彼の手から放られ、木葉と虫の上へと転がっている。
「食事はもうよいのか?」
「もういらないです」
「そうか。息子は一緒じゃないのか」
「もう何年も前に、いなくなりました」
どこからか、ノーチェが子どもを拾ってきて育てていたのを、ジルは覚えていた。少しだけ、成長を楽しみにしていたというのもある。
「なぜだ?」
「はぁ、母親を殺したこと、うっかり喋ってしまいました」
なんでもないような調子で、ノーチェは言った。どこか面倒だという雰囲気さえ感じさせる。
ジルは僅かに胸騒ぎを覚えたが、ノーチェはなんとも思っていないようだった。
「そんなことより、今日はどうしたんです?」
「勧誘に来た。サーカスというものを始めようと思っている」
ノーチェとは、相応に長い付き合いだった。お互いに気の遠くなるような年を重ね、知り合ってからもかなりの年月を経ている。年を数えることは、とうの昔にやめてしまった。ノーチェとも、どれほどの付き合いになるのか、最早把握できてはいない。
今は、そういう者を訪ねて、サーカスへの協力を乞うていた。
「サーカスって、人間が楽しむものでしょう?」
「そうだ、私が創るサーカス団も、人間を客とする」
ジルは懐から一枚の紙切れを差し出した。サーカスのチケットにする予定のものだ。上等な黒い紙に、金の字でサーカス名が書かれただけの、単純なデザインにした。あとは裏面に、公演日を印字するつもりだ。他に余計なことは、一切書かない。代わりに、人では到底扱うことのできない力を込めてある。
「どうしてです? 俺たちには、必要のないことだという気がします」
「いずれ、必要になる。お前にも力を貸して欲しい。無理にとは言わぬ。明夜、ここに来よう。返事はその時でよい」
「はぁ、そうですか。せっかくなので、住処に案内します。汚れているけど。久しぶりだし、お茶でもどうですか?」
「頂くとしよう」
ノーチェが先に立って、歩き始めた。女の遺体は、放置していくようである。
「あれは、そのままか?」
「はい。森の獣たちが、処分してくれますよ」
「用心しなさい。痕跡は、なるべく残すべきではない。一所にいるのも、避けるのだ」
「大丈夫ですよ。なんだったら、明日一緒に立ちましょう」
「そうしよう」
ジルはノーチェの歩幅に合わせ、森の奥へと向かっていく。夜明け前には、宿に戻らなければならない。人の中を歩くのは、避けたかった。
明晩、ジルは予告通りに、ノーチェの屋敷を訪ねた。森の奥深くに、人目を忍ぶように佇む豪邸である。家主は貴族であったらしいが、数十年前に没落し、屋敷は捨てられてしまっていた。
ノーチェはそこに愛用の棺をおいて、寝泊まりをしている。人を近づけぬよう、森の入口から屋敷までの道には、幻術が仕掛けられていた。
昨夜のうちに案内され、ジルは迷わず、屋敷まで行くことができた。
「ノーチェ、入るぞ」
暗い玄関ホールは、閑散としている。大きく取られた窓から、煌々と月光が差し、それが一層暗がりを濃く見せた。
出迎えは、なかった。ノーチェはまだ、眠っているのかもしれない。元来、怠惰な性質である。一見、物憂げにも取れる彼の言動は、惰気から来るものなのだ。ただ見た目の麗しさから、よい印象を与えることの方が多かった。
荒れ果てた屋敷を、ジルは遠慮なく探索した。床の随所が腐りかけ、大きく軋んだりする。あまり大きな音を立てたくはなかった。何か理由があるわけではない。ただそうした方がいいと思った。それは、不安にも似ていた。
自然と足が早まった。丈夫な所だけを選んで早足に歩くのは、骨が折れた。
「いないのか、ノーチェ」
ジルは棺の置かれた部屋へ、声をかけた。ノーチェからの返事はなかった。代わりに、小さな物音がした。
屍人となってから、ジルは恐怖を忘れていた。今、自分の中でのたうち回る、言い様のない感情は、それなのだろうか。
そんなはずはない。もう死ぬことはないのだ。何を恐れることがある。
しかし、扉を開けた瞬間に、気がついた。人は、自分の身に降る火の粉だけに、恐怖するのではない。
大きな窓の前に、影が浮かんでいる。悍ましい二足歩行の獣が、腕から子どもを吊っていた。月光に、赤い液体が光って落ちる。
ノーチェの体だった。胸を貫かれ、力なく、ぶら下がっている。
心臓を打たれたような、衝撃が走った。鳥肌が立っていた。肌を何かが這い回る感じがして、動くことができない。
ジルは、その獣を知っていた。ノーチェを訪ねた時に、何度か会っている。
「お前は……」
ジルが声をかけると、獣はノーチェから腕を引き抜き、窓を突き破って逃走した。
追うことはしなかった。それよりもまず、やらなければならないことがある。ジルはノーチェの体に駆け寄った。
「ノーチェ、無事か」
無事なはずだ。吸血鬼の体が、胸を貫かれただけで、壊れるはずはない。
服を脱がせ、傷口を診て、ジルは絶句した。回復していない。胸には穴が開いたままで、赤い肉が崩れ落ちていくのが見えた。血は、流れ続けている。心臓が欠けて、右心室がなくなっていた。身体を巡った後の血液が、欠けた部分から大量に流れ落ちていく。
「何故だ。何故治らぬ」
「爪に、銀が仕込まれて……」
「分かった。もうよい」
ノーチェの胸が僅かに上下して、懸命に息をしようと肺が動いているのも見える。冷や汗をかいている。血をなくして、身体は冷えている。
慎重にノーチェの体を横たえ、ジルは自身の上着を脱ぎ捨てた。ボタンを外すのさえもどかしく、力任せにシャツを開ける。弾け飛んだボタンが、床に転がって乾いた音を立てた。
剥き出しになった自身の肌に、ジルは手持ちのナイフを当てた。
「何を……?」
「お前に、私の心臓をやろう。私には、必要がないものだ。あっても仕方ない。使い古しだが、お前の力があれば動かすこともできよう」
ジルは自身の青白い皮膚を切り裂いて、肋骨の奥を弄った。静かな心臓に、手が触れた。取り出して、ちょうどノーチェからなくなったのと同じ部分を、慎重に切り分けた。少年の身体には、少し大きいかもしれない。
「銀が身体のうちに残らなかった。それが幸いした。銀で抉られた心臓さえ戻れば、お前はまた生きられる」
返事はない。ノーチェの体は、小さな痙攣を起こしていた。息も上手くできないのだろう。
「死んでは、ならぬ」
ジルは包むようにして握った己の心臓の一部を、ノーチェのそれに押し当てた。
二週間、ノーチェは眠り続けていた。
その間に、ジルは彼を棺に入れ、屋敷を離れた。その場に留まるのは、危険だった。少しでも遠くに行かなくてはならない。その一心で、歩き続けた。
最も気になったのは、匂いだった。近くにいれば、あれは間違いなく、匂いだけで自分たちを見つけることができるだろう。足跡の付きにくい岩場を選んで歩き、時には知人の怪異を頼って距離を稼いだ。
目覚めたノーチェは、暫くジルから離れなかった。恐れているのかもしれない。
「周到だった。以前、お前が連れていた子だな」
「育て方を、間違えました。人間の真似事なんて、するんじゃなかった」
「寂しいことを言う。私はこれから、お前とそれをしてもよいと思っているのだ」
「え……?」
「お前とは、血肉を分けた。肉体の、血の絆ができた。それが全てというわけではないが、家族も同然だという思いが、私の中に湧いてきている」
片手で掴んで持ち上げられそうな程、小さなノーチェの頭を撫でた。目を細めてそれを許す仕草が、猫のようだ。
「サーカスを作ろう。お前はそこで生きていくといい。仲間がお前を守ってくれる。お前もまた、仲間を守るのだ」
「俺が、守る?」
「そうだ。お前のような者たちの、拠り所になる。言っただろう、いつか必要になると」
ジルはノーチェの手を取って、人のいない夜道を歩き出した。
つびえるさん( @LillyRody_gs )の企画参加キャラ・ノーチェくんをお借りしました