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本当にこの人でいいのですか?

作者: 河灯 良平

 加古川由美は自宅で友人の石垣沙紀と小さなテーブルを挟んで座っている。由美は沙紀がロンドン旅行の土産として持ってきたアールグレイティーに口を付ける。由美は紅茶には詳しくなかったが、カップから立ち昇る柔らかい湯気と芳醇な匂いを嗅いで、この紅茶が高価なものであることが分かった。

「由美は最近彼氏とうまくいっているの?」

 沙紀が突如、しかし何気ない口ぶりで尋ねる。

「もちろんよ。順調中の順調。問題なんて何もないわ」

 由美は満面の笑みを浮かべて答える。この答えは本当であり、二十六歳になる由美の四歳年下にあたる彼氏との交際に彼女は大変満足していた。

「そうなんだ。羨ましい限りだわ」

「沙紀こそ、あんなにかっこいい彼氏がいて羨ましいわ」

「私の彼氏の顔はいいけど、すごく優柔不断なのよ」

「それくらい、いいじゃない」

「それくらい、じゃないのよ。その日に履く靴下の色を決められずに、私に電話してくるのよ」

「それは重症ね……」

「それに趣味が国会中継。その間私は何をしておけばいいのよ」

「それはもっと重症ね……」

 そう言って、紅茶をもう一口飲む。そして由美は自分の彼氏の事を再び思い浮かべる。彼と出会ったきっかけは、友人の紹介で、年下と言う事でどうなるかと思ったが、年齢という溝は案外簡単に埋めることが出来るものだった。彼が定職についていないのが少し心配であるが、音楽で生活できるようになるという夢があり、応援するつもりだ。自分を愛してくれている事は確かであるし、お互いなくてはならない存在だと相思していることだけで、自分は十分に満たされていると思っている。

 突如、由美の携帯電話が鳴る。着信音は今流行りのロックバンド、彼女がこのバンドを好きになったのは彼の影響だ。ディスプレイには彼の名前が表示されている。すぐに電話に出る。

「彼から?」

 電話を終え、携帯電話を机に置くのを待っていたかのように、沙紀が尋ねる。

「うん。今、私の家の近くにいるからこの前忘れていった、携帯電話の充電器を取りにくるんだって。いいでしょ?」

「あったりまえよー」

 語尾上がりでそう言うのは彼女の可愛い口癖だ。背伸びをして腰を回していた沙紀は、急にすべての動作を止めて、じっと天井を見つめた。そして少しの間があった後、立ち上がり、にやにやと笑う。

「ねえ、由美。彼を驚かしてみない?」

 沙紀はそう言って、また笑い出す。彼女とは小学生からの付き合いになるが、悪戯好きはその頃から何ら変わっていない。

「驚かすって、どんな風に?」

「なに、簡単よ。由美はそこの床で気絶したふりをするだけ」

 そう言って、床を指さす。

「あんまり、楽しそうじゃないけど」

「なに言っているのよ。彼がどんな風に慌てふためくか気になるでしょ。男の弱いところに女は惚れるのよ」

 そう言われて、由美はそれなりに乗り気になる。なぜなら、彼女の中で彼氏の弱い部分に触れることによって、彼への愛がより一層強まるような気がしたからである。もしかしたら、眠り姫を起こすようにキスをしてくれるかもしれない。そう思って頬を赤らめる。しかし、上手くいくだろうか。

「だけど、彼が救急車を呼んだり、隣の家に駆け込んだりしたら迷惑よ」

「大丈夫、私は押入れの中に隠れてそっと様子を見ているから、雲行きが怪しくなったら止めるわ。軽いお遊びよ」

 沙紀は一種のサディスティックな笑みを浮かべながら押入れを開け、中に自分が入れる空間があるか確かめる。由美は彼女のその一連の行動を見て、彼女はいつもこのようなことを彼氏にしているのだろうか、と沙紀の彼氏に同情し、一方で優柔不断であるらしい彼があたふたしている姿を想像し噴き出してしまいそうになる。

「なんとか入れるわね。少し埃っぽいけど」

 そう言った瞬間、玄関のチャイムが鳴る音がした。沙紀は素早く押入れの中に体を入り込ませ、由美ふすまを閉めるように指示する。

「私はここから見ているから、倒れていなさい。彼、合鍵持っているの?」

「持ってない!」

 そこからの由美の慌てっぷりは凄かった。なにもこの悪戯を止めればいい話なのだが、彼女の思考にはこの悪戯は必ず成功させねばならないという一種の使命感が植え付けられており、どうにかして彼をこの家に入れ、私は気絶した真似をしなくてはいけない、そんな思いで頭がいっぱいになる。押入れの中の沙紀の様子が見て取れない為に感じる無言の圧力と、繰り返し鳴らされるチャイムが彼女の焦りに拍車を掛ける。

 そこで、鍵をそっと開けて玄関先で急な気絶を装うという計画を思いつく。この場合、沙紀には私たちのやり取りが見えないであろうが、自分には彼の対応が分かるであろう。やはりどうしても、彼の対応が気になる由美はこの計画を実行することを決意し、玄関へ駈け出す。

 しかし、由美はあまりにも慌てていた為、テーブルに足を思いっきり打ちつけ、そのまま前のめりの状態で床に顔面を打ちつける。部屋には鈍い音が鳴り、テーブルのカップが床に落ちたが割れはしなかった。

 もちろんこの状況を押し入れの中の沙紀も僅かな隙間から目撃しており、一向に起き上がらない由美を見て当然驚き慌てた。沙紀は即座に飛び出し由美を助けようとする。しかし、彼女の衣服が壁に飛び出た金具が引っ掛かり出る事ができない。焦る心を抑え慎重に金具を衣服から外し出ようとした瞬間、由美の横に立つ男性に気づく。

 どうやら、由美は鍵を閉めていたかったようで、彼がその事に気づいて入室してきたのだろう。その時、押入れから出ればよかったのだが、沙紀は何か間を外されたようで出ることができず、その様子を一枚の薄い板を隔てて見る。しかし、その板の厚さ以上の隔たりを感じてまるで自分がこの空間から完全に隔離されているようだ。

 彼は、由美を見て体をビクリと反応させて、明らかに動揺の色を帯びた表情を呈する。二歩三歩と後ずさりをした後、意を決したかのように近寄り、顔に耳を近づける。

「気絶しているだけか……」

 そう彼が安堵を含んだ声を出したのを聞いて、沙紀も胸を撫で下ろす。

 彼は彼女をそのままに部屋の周りをぐるっと一周する。一体この男は彼女をそのままにして何をしているのだ、と怒りを感じたその時、彼は彼女の鞄に手を伸ばし中を覗く。そして鞄の中に手を突っ込み、引き出された手には財布が握られていた。彼は財布を何の躊躇いもなく中の紙幣とカードを抜き取り自分の鞄に無造作に入れる。そして、今度は引出しを開け、時計や指輪などを次々と鞄に入れる。

 沙紀は目の前で行われているあまりにも自分の想像と掛け離れた行為に、戸惑い呆気に取られていた。そう言えば、由美の彼は定職につかず、いわゆる売れないミュージシャンであったのを思い出す。彼女は彼について献身的で、盲目的と言っていいほど彼を愛していたようだが、彼の行為を見た後では、由美はいい金ずるとされていたとしか思えない。

 そう思ったところで、やっと彼への激しい怒りが湧き出してきた。恋人が気絶しているにもかかわらず、その事には大して気にせず、それよりも彼女の金を盗みとることを優先する。最低男。そう思った瞬間、沙紀はふすまを勢いよく開け飛び出していた。

「ちょっとあんた何してるのよ」

 大声を聞いて、男は驚きのあまり尻もちをつく。

「最低ね。さっさと鞄の中の物を出して。由美にあやまりなさい」

 沙紀は怒りにまかせて叫び散らす。その間も彼は怯えた表情を浮かべ、体を硬直させている。沙紀は何も言わない相手にさらに怒りを募らせ掴みかかろうとする。すると男はその手を避け、急いで立ち上がり、玄関の方に体を向け駈け出した。

 沙紀は彼のこの一連の動作を見て、即座に追いかける。大学時代まで陸上をしていた彼女は男にすぐに追いつき力任せに肩を引っ張る。彼は後ろに倒れこみ、そして後ろを向いた状態で立ち上がる。その間も彼は黙ったままだ。

「何とか言いなさいよ」

 そう言って、沙紀は彼の肩を掴み、力任せに自分の方へ体を向かせる。振り返った彼は沙紀に体を預けるようにしてもたれ掛って来た。

 その時、沙紀の腹部に鋭い痛みが走り、その痛みの部分から熱を感じる。

 彼はよろよろと後ずさりする。顔は蒼白で、唇がわなわなと震えている。

「え……」

 沙紀は痛みのする部分を見る。その腹部には何か細長い棒の様なものが見える。一体これはなんなのだろう。その棒をそっと触る。その瞬間、激しい痛みが体中の神経を支配し、目の前が真っ白になる。体中の力が抜け、その場に倒れこむ。

 床にじわじわと広がっていく赤い液体を見て、ようやく自分が刺された事に気づく。痛みが全身を駆け巡った後、体が焼けるように熱くなり、気が遠のく、もはや体を動かす力も出すことができず、可能な限り動かした眼球の端には由美と男の足が見える。

 沙紀は焼けるような熱の後に来た、猛烈な脱力感と眠気に耐える。一度瞳を閉じるともう二度と起きることができないことが本能的に理解できた。

「お前が悪いんだ……」

 男がそう言ったのを聞いて、私が何をした、そう叫ぼうとしたが、もはや口が少し動くだけで声はでない。

 私がなにをした。一体なぜこんな目に。なぜ死ななければいけない。死ぬ? 私が死ぬ? 嫌だ。そんなの絶対嫌だ。私の人生はこんな風に終わるはずがない。私は幸せになるんだ。こんな理不尽な事が許されるはずがない。誰か助けて。誰でもいいから助けてよ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にた……

 激しく渦巻く怒気と混乱の中で石垣沙紀は絶命した。



 一年後


 加古川由美は石垣沙紀の墓標に花を添える。丘の上に位置するこの霊園からは綺麗な海が見える。

 石垣沙紀は、友人の加古川由美の自宅で、留守と思い忍び込んだ空き巣に腹部を刺され、大量出血により死亡した。加古川由美の恋人、高石祐樹は犯人が去った後、わずか十分後に彼女の家を訪れ、死亡している石垣沙紀と気絶している加古川由美を発見。その後犯人は加古川由美宅近辺で乗ったタクシーの運転手に通報され逮捕された。タクシー運転手の話によると、犯人は挙動不審で行き先もはっきりと述べず、シャツの裾には血の様なものが付着していたとの事であった。犯人は二十八歳住所不定の無職で空き巣の常習犯であった。

「沙紀、今日は海が綺麗に見えるね」

 そう言って、線香を立てる。

「私ね、彼と別れたよ。やっぱり彼は私ほど愛してくれてはいなかったみたい」

 まるで、沙紀がその話に返事をするかのように、風で木の葉がざわざわと音を立てる。溢れてくる涙を拭いながら、話し続ける。

「沙紀は分かっていたんでしょ、私と彼は付き合うべきでないことを、だから悪戯をしようとか言い出したのよね」

「あったりまえよー」

 沙紀の声が聞こえたような気がして、周りを見回す。しかし、当然ながら誰もいない。

「ごめんね」

 その声は、木々のざわめきによってかき消され、風に乗って海まで飛ばされていく。眼前に広がる大海を目にして安らぎと不安、温かさと悲しみが波打つような気持に、由美は身を任せ、再び涙した。

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