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【後篇】

 雲ひとつない晴天の冬空に、花火の破裂音が何度も鳴り響いた。この地域に住む住民たちが、年に一度の楽しみとしている《角力祭》の開始を告げる合図だ。この花火の音をきっかけに地元住民たちや観光客たちは、ぞろぞろと開催場所の大鍬神社へと集まっていくのだ。

 祭最大の目玉である、一般参加による格闘大会《角力ノ儀(すもうのぎ)》が始まるまで、まだしばらく時間があるというのに、既に境内はごった返しており、人々は神社周辺に数多く立ち並ぶ露店へ集まり《食い歩き》を楽しんだり、また年配の方々は今年の《角力》の勝敗について、喧々諤々議論したりして各々楽しいひととき過ごしていた。だがそんな《好事家》たちをもってしても、今年の角力祭の勝敗を予想するのは難しかったようだ。

 例年であれば「何処どこの何某」と、参加者の素性がわかっているので勝敗予想も立てやすかったが、今回彼らの《知っている顔》といえば毎年参加している秋元絵茉のみで、プロレスラー時代を含めてここ十年近く、祭の舞台には上がっていなかった今井遥の現在の(・・・)実力は全くの未知数であるし、RINAや三人の外国人参加者たちについては全く《情報》など持ち合わせてはいなかった。ほぼ知らない《参加者たち》の顔ぶれ、ましてや全員が女性という異例の“初物尽くし”に、昔から祭を観続けている年配たちは戸惑いを隠せず「初居様も遂に色ボケしたのか?」など“悪口”が飛ぶ始末である。しかしそんな《堅物》の常連とは違い、若年層や“一見さん”の観光客にはおおかた興味を持ってもらえたようで、角力祭史上初となる、“おんなだらけ”の《角力ノ儀》の開始を今や遅しと待っていた。

「は~い、神事の会場はこちらになっておりまーす、くれぐれも前の方を押さないようご注意願いまぁす!」

 角力祭のスタッフの証である白い法被を着て、紅白の鉢巻きを頭に締めたケンジが、拡声器を片手に大勢の見物客の誘導を行っていた。もっともケンジ本人はこんな雑務が面白いはずもなく、祭に出られない悔しさと伯父である初居の監視下でこき使われている惨めさが、彼の《不満》となってその表情に現れていた。

「こらっ、ケンジ! もっと真面目にやらんかぁ!」

 高齢とは思えぬ大きな身体を揺らして、初居御大がケンジの元へ駆けより叱咤する。

「お、伯父貴ぃ?! やべぇ!」

「……事の流れからいえば、お前さん今頃は拘置所へ放り込まれて、もっと惨めな思いをしている身の上なんじゃぞ。もっとそれを自覚してしっかり働かんかい!」

 本来であれば《強姦未遂》とはいえ、被害者であるRINAが警察に訴えれば、ケンジは逮捕されていてもおかしくない状況であった。だが初居御大が彼を「自分の観察下に置く」という話で、この事案は《手打ち》となったのだ。もし仮にケンジが不穏な動きをみせようとも、初居の手元には絵茉が撮影した《犯行現場》の動画データはあるし、もし彼の監視下から逃げ出せたとしても、《武林》の好漢たちによる広大なネットワークを駆使して、居場所を見つけ出す事も容易である為、《武》の才能のないケンジにとっては完全に“八方塞がり”な状況であった。

「でも……自分が出られなかった(・・・・・・・)祭に何の意味があるんだよ? これだったら家でじっとしていたほうがナンボかマシじゃねぇか?!」

 ケンジの自分勝手な屁理屈に、初居は「またか」と肩を落とした。

「それだからお前は、いつまでたっても“一人前の男”として認められんのじゃ! いいか? 目先の不満ぐらいでブツブツ言うな、もっと先を見据えろ。ワシがせっかく《特等席》で奉納角力を見せてやる、と言ってるんじゃから、ケンジは彼女らの闘いをしっかり目に焼き付けて、来年の角力祭に出られるように努力せい!」 

 熱い伯父の言葉にケンジは魂を揺り動かされるが、《女性だらけの出場者》という、例年では有り得ない“奇妙な事態”が彼の脳裏に引っかかり、完全には納得しきれないでいた。そんなケンジの空気を察したのか初居は話を続ける。

「……なぁケンジ、強さ(・・)とは何も男性だけの《専売特許》ではないぞ? お前さんとは別の世界の《住人》である武林の女性たちは、数多の英雄・好漢に引けを取らぬほどの強さを持っておる。そんな彼女たちが今回この祭に期せずして一堂に会したんじゃ、彼女たちを舐めてかかると痛い目にあうぞ」

 伯父の言葉にケンジは、妻であるビアンカの顔がふっと脳裏をかすめた。

 ――あぁ、そういえば夫婦喧嘩になるとアイツには、全く歯が立たねぇもんなぁ。

 《最凶の身内》の存在を思い出し、ようやく納得したケンジであった。


「絵茉さ~ん、おまたせしました」

 闘いの舞台となる神楽殿より、少し離れた場所に設置された、角力祭出場者の控室であるビニールテントの中へ、遥に連れられてRINAが入ってきた。ロングの髪をゴムでひとつに束ね、白い上衣と濃紺の袴という古武道然とした清楚な出で立ちに着替えた絵茉が、ふたりを笑顔で出迎える。

「遅いじゃないの。さては遥姉ぇの“趣味”に付き合わされて、いろいろコスチュームを着せられてたな?」

「リナちゃんの素材自体がいいもんだから、イメージが湧いちゃっていろいろ引っ替え取っ替え着せているうちにこんな時間に……十分堪能させてもらいました、はい」

 満足げな表情をした遥をみて、RINAと絵茉は顔を見合わせて笑った。

「まったく遥姉ぇは、いつまでたっても可愛いモノに目がない《少女趣味》が抜けないんだからぁ。おかしいと思うでしょリナちゃん?」 

 少々呆れ顔の絵茉に対し、RINA自身は言葉を発せず、ただニコニコと笑うだけで否定も肯定もしない。しかし笑顔の裏側に隠された疲労の色を、絵茉は見逃さなかった。

「ふぅ……あ、そうそう。それで遥姉ぇコーディネートのコスチューム、どんな感じ?見せて見せて」

 絵茉が興味津々に、茶色のコートに身を包むRINAに目を移す。じっと彼女が自分の身体を見つめるので、《蹴撃天使》は顔を真っ赤に染めて恥ずかしがった。

「リナちゃん、見せてやりなよ。あ、何ならコートのボタン外そうか?」

「結構です!」

 遥の冗談を、真剣になって怒るRINA。年長者ふたりの意味ありげな「にやにや」が止まらない。

 視線を浴び気恥ずかしさ一杯で、思い通りに動かない手で少女は、ひとつひとつゆっくりとボタンを外し、コートの襟元を徐々に広げていく。

 おおっ!

 絵茉が感嘆の声をあげる。コートが開帳されるとその中から、《蹴撃天使》と胸の辺りに大きく刺繍された、純白の空手着の上衣とネイビーブルーのセパレートとスパッツという、極めてシンプルかつスポーティーな出で立ちが登場した。

「どう? いいでしょ。現役時代の最初の頃に使っていたコスチュームで、リナちゃんのイメージにピッタリなのが残っていたので、寸法を彼女の丈の大きさに合わせ直したんだけど」

 絵茉は黙って、ぐっと親指を立て「満足」の意思表示をした。もっともRINA本人は、コスチュームが伸縮性に富んだ素材の為、ヒップの曲線が丸わかりである事が気になって仕方がなく、なかなかコートを全部脱げずにいた。

「恥ずかしいです、遥さん。せめて空手着のズボンを穿かせて……」

「あまいっ! 何度も言うようだけどこれは《お祭》なの。目立ったモン勝ちなのよ。せっかく参加者で一番若いんだからそれらしい(・・・・・)格好をして、少しでも観客の視線を自分の方に向けないと!」

 ――それって遥姉ぇ、完全にプロレスラーの思考だよ?

 絵茉はそう思ったが敢えて口に出さなった。自分の余計なひと言が、絶対に遥の怒りに火を注ぎそうな気がしたからだ。彼女から注意を受けるRINAをみて絵茉は「悪かった」と心の中で詫びた。

「……それで、遥姉ぇの方はどうなのよ? まさかTシャツに短パンじゃないでしょうね?」

「失礼なっ! やると決めた以上、ちゃんとコスチューム着てきたわよ!……だけど見せるのは今じゃない、本番の時まで楽しみに待ってなって」

 自分ひとりだけが、上下白いラインが入った赤色のジャージ姿の遥に向かって、絵茉とひとり羞恥プレー状態のRINAは「ひどい!」とブーイングを飛ばす。そんなふたりからのブーイングにも全く意に介さず遥は、ただ黙って笑みを浮かべるだけだった。

 外では客寄せの花火の音が、未だに鳴り続いていた―― 


 時計の針が正午を回り、神楽殿では神事の時のみに着装する、特別な装束を纏った宮司が御払いの儀式を行い始めた。それまで人ごみで騒がしかった境内も、この時ばかりは水を打ったように静まり返り、バックグラウンドで流される雅楽の音色が、この場所を現実世界から神聖な空間へと変貌させていく。

 ひと通り御払いの儀式が終わると、神社職員によるアナウンスがスピーカーから聞こえてくた。

「今年の出場者の入場でございます。皆さま、どうぞ盛大な拍手でお迎えください」

 大勢の見物客からの拍手に迎えられ、角力祭に参加する六人のおんなたちが次々と神楽殿へと上ってくる。やはり参加者のなかで一番声援が多いのは、知名度が高い《地元の英雄》である遥だ。突然のレスラー引退から五年、全く表舞台に姿を現さなかった《元女子プロレスのスター》が、こんな一地方の祭に参加するなんて夢にも思わない、遠方から来た見物客にとっても、古くから彼女の事を知っている地元民にとってもこれは《ビッグ・サプライズ》であった。

「えっ、あの“悠木はるか”が? こいつはビッグマッチ並みの価値はあるぜ!」

「よくぞこの、角力祭の舞台に戻ってきた。お帰り遥ぁ!」

  久しぶりの《公の場》に少々緊張した面持ちで、声援に応え手を振る遥。一方毎年参加している絵茉にも、顔見知りの地元のひとたちから「絵茉ぁ、今年もがんばれよ!」と声援が飛ぶ。根っからの“お祭り女”であるな絵茉は、あちこちから掛かる応援の声に笑顔にVサインで返答した。

 次々と多くの人々から声を掛けられる遥たちをみて、RINAはちょっぴり羨ましいな、と思った。こんなに大勢の人たちが盛んに各参加者の名を口にする中、存在自体を知らない事もあるが、他の誰よりも年齢も体格も遥かに劣る彼女には、「こんな娘が……」という冷やかな視線はあっても、激賞や応援の声などは一度も上がらなかった――つまりRINAの存在は「人数合わせの参加者」という認識であって、誰のひとりも彼女の勝ち負けには最初から期待していない(・・・・・・・)のだ。

 誰かがRINAの肩をぽんと叩いた。遥だった。

 顔を観衆がいる正面に向けたまま、彼女はRINAに静かに語りかける。

「……気にする事ないよ。すぐにこの見物客全員が、《蹴撃天使》リナちゃんに釘付けになるから」

 大先輩からの《励まし》に、緊張と疎外感で強張っていたRINAの表情が幾分か和らいだ。


 歓声と拍手の中で行われた、《角力ノ儀》参加者たちのお披露目も無事に終わり、遥たち日本人組とビアンカをリーダーとする外国人勢とが、神社職員たちの誘導でそれぞれ神楽殿の東西へと移動し、これから取組を行う者以外は舞台の側に座り待機した。

 現在、神楽殿の舞台上にいるのは――《泰拳姑娘》秋元絵茉と《旋風夜叉》チェ・ソンヒだ。

 お互いは視線を一度も逸らす事無く、じっと睨みつけたまま行司の「開始」の合図を待つ。

 襟に黒いラインの入った、跆拳道の道着を身に着けたソンヒが、拳を握りゆっくり腰を落とす。

 絵茉も負けじと、両腕を曲げ片足を浮かせる、泰拳独特の構えを取り来たるべき戦闘に備えた。

 押し潰されそうなほどの、ふたりからの圧力に耐え切れず、行司がついに口を開く。

「――始めぃ!」

 号令と同時に、本部席の側に設置されている、朱塗りの大太鼓がどんっ!と大きく打ち鳴らされ、待ちに待った《角力ノ儀》第一試合が遂に開始された。

 それまで騒がしかった歓声のトーンが若干落ち、見物客たちは両者の出方を固唾を呑んで見守る。

「イヤァァァァァ!」

 先に動いたのはソンヒだった。

 上下に跳ねてリズムを身体に刻むと、相手を威嚇する甲高い掛け声と共に、切れの良い高速回転の後ろ回し蹴りを、絵茉の頭部に狙いを定めて放った。

 鞭のようにしなやかな蹴り足が、空気を切り裂いて迫ってくる。もし接触すればダウンは確実に免れないだろう。

 絵茉は足をすぅーっと引き、身体を後ろにのけ反らせると、僅かな距離でこれを回避した。

 おおっ! と一斉にどよめく見物客たち。

 だがソンヒの猛攻はそれだけに留まらなかった。

 目標を失った蹴り足が戻ってくると、間髪いれずに今度は脚を斜め四十五度の角度に上げ、機関銃のような連続蹴りで彼女に迫る。頭や喉元、それに胸などの部位を的確に捉え、一度も着地する事なく正確に打ち込まれる足刀。しかしそのキックの“教科書通り”な正確さ故に、百戦錬磨の絵茉にすべて腕でブロックされ、勝敗を左右するような一打を絶対に許さなかった。

 にやり

 ソンヒが不敵な笑みを見せた。

 気が付けば、嵐のような蹴打の猛攻により、絵茉の立ち位置は舞台の隅に追いやられ、踵を一歩でもずらせば約一メートル真下の、がちがちに踏み固められた土の上へ落下し、《勝負》がついてしまう状況となっていた。絵茉はちらりと後ろを見るが焦りの色は全く無く、ただ目の前の対戦相手の、次の動作に注意して微動だにしない。

 風を斬る音がした。

 最後のひと押しとばかりに、ソンヒは胸部に目掛けて横蹴りを放ったのだ。

 あまりにも「思い通りの展開」に、退屈を通り越して怒りすら覚えた絵茉は、ソンヒが放った《だめ押し》の蹴り脚をキャッチし、腋に挟んで固定すると残った手で喉をぐっと掴み、軸足を払い舞台の床板へとひっくり返した。

 びたん!と音をたて、板の上に仰向けになるソンヒ。

「あんたの《武芸》ってこの程度?」

 絵茉は冷たく、そして悲しげな眼差しを彼女へ向けた。怒りや蔑みが入り混じる、絵茉の瞳の奥に蠢く複雑な想いを読み取ったソンヒは、何故自分に対し、そのような感情を抱いているのかが理解できない。

 わたしとあいつとは勝敗を競う《敵同士》であり、どんな内容で勝ったところで問題はないはずだ――ソンヒはそう考えていた。

 だが絵茉は違っていた。互いが持つ武の技術を最大限に駆使し、ギリギリの精神状態で勝負する事を望んでいるのだった。その結果仮に自分が敗けたとしても納得がいったであろうが、《コミュニケーション》が取れないまま安易に勝敗を決められたならば、悔やんでも悔やみきれない。もっとも絵茉本人は負ける気など最初からないけれども。


「あいつ……何をこだわってるんだよ? 勝てば万々歳で、文句なんか無ぇじゃねえか」

本部席にて、初居御大の隣りに座らせられているケンジが、舞台上の絵茉を見て吐き捨てるように言った。《出来損ない》の自分からすれば、彼女が「格好つけている」様に見えたからだ。

「――そこが絵茉(あいつ)の長所であり、短所でもあるのじゃ。自分が闘いに《ロマン》を求めていても、相手が同じ考えとは決して限らんからな」

 初居がケンジの言葉に対し補足をする。彼の目も舞台上を向いており、互いが顔を合わせないまま会話が進んでいた。

「伯父貴、珍しく考えが合うじゃねぇか」

「まぁな。だが絵茉とソンヒとの格闘技術の差を考慮すれば、特にに最短で勝負を決める程ではないじゃろうて」

 伯父の言葉に驚愕するケンジ。

「えっ、あんなキレッキレのキックでか!?」

「ソンヒの放つ蹴り技の精度や速度、それに威力は確かに凄いものがある。しかし絵茉からしてみればそんなのは全て《想定内》であって、驚くべき要素ではないという事だ。だからそれ以上のもの……“技術のキャッチボール”的な、お互いの魂をぶつけ合うような攻防を望んでいるし、彼女ならそれが出来ると信じているから、あのような態度に出ているんじゃよ」

 《武芸者》らしい伯父の解説を手掛かりにケンジは、女武芸家たちの次の展開に注目すべく、じっと舞台を凝視する。


 絵茉の言葉に衝撃を受けつつも、ソンヒは平静を装いゆっくりと、床板から身を剥がし立ち上がった。

「私の《武芸》がこの程度かって……? 冗談じゃないわ」

「そうね、昨晩のあなたの闘いっぷりは尋常じゃなかったものね。じゃあ今は何? ふざけているの?」

「なっ……!」

 怒りで顔色を朱に染めたソンヒだったが、血の気は一瞬で引き、今度は逆に冴えない表情と変わっていった。見れば彼女の唇や指先が微妙に震えている。

「《ウケ狙い》の派手な蹴りは必要ないの。あなたの、普段通りの“魂の入った”蹴りをあたしに叩き込んで来なさい!」

 力強く自信に満ちた絵茉の言葉が、それまで固かったソンヒの表情を柔和にし、全身をがんじがらめに縛っていた《見えない鎖》を断ち切った。心と肉体に掛けられていた枷から、解き放たれた彼女から放たれる《闘気》にはもう迷いの色はない。

「ふん……後悔するわよ? 血に飢えた雌虎ほど、厄介なものは無いんだから――覚悟しな!」

 デモンストレーション気味に繰り出される、パンチやキックの風を斬る音が先程とは違い、程よく脱力しているのがよくわかる。それを確認した絵茉は前髪をかき上げ、口角を僅かに上げ微笑んだ。

 ――さぁ、始めよっか?

 絵茉は誰にも聴こえない様に小さな声で囁くと、《旋風夜叉》ソンヒは黙って頷いた。

 床を蹴りあげ、すばやく相手との間合いを取ると、絵茉に向かいミドルキックをジャブのように右へ左へ撃ち放ち、相手の《攻撃範囲》を徐々に狭めていく。

 肚の底から掛け声を発したかと思うと、ソンヒの身体は高速回転を始めていた。

 ――来るかッ?

 しっかりと腕を上げ、防御の体勢に入る絵茉。思わず握る拳に力が入る。

 上段から勢いよく、鉈の如く振り下ろされる右脚。だが彼女との距離が遠すぎる――フェイントだ。その辺は十分に予想していたのか、絵茉の身体は微動だにしなかった。

 が、次の瞬間、《泰拳姑娘》の顔から《余裕》の表情が消えた

 ソンヒが振り下ろした右脚で床を蹴り、天井高く舞い上がったかと思うと、今度は逆の脚による高角度の回転蹴りを、側頭部に狙いを定めて発射したのだ。回転による遠心力で更に威力が増し、仮に被弾すれば只事では済まないはずだ。

 絵茉は冷静に着弾地点を推測し、しっかり防御できるよう半歩分、身体の位置を退かせる。 

 しかし――その時、脳天を起点に痛みが全身を突き抜けた。

 次の回転蹴りもフェイントだったのだ。ソンヒはもう一度身を捻り、利き足である右脚で絵茉の脳天に踵を叩き込んだのだ。

 しまった! と思った時にはもう遅く、「どん!」という衝撃音と共に、冷たい床板へ向かって、痛みで歪んだ顔を打ち付けて倒れた。そんな彼女の醜態を睨みつけたまま、構えを崩さないソンヒ。

 ゆっくりと《旋風夜叉》の右脚が上がっていき、絵茉の頭の側まで接近すると、先程とは反対にものすごいスピードで、まるで頭蓋骨を粉砕するかのような勢いで、ソンヒは脚を降り下ろした。

 はっ?!

 殺気に似た邪悪な気配を、瞬時に感じ取った絵茉は、ダメージ回復を待つ間もなく床からばっ!と身をよじり、鉄槌のようなストンピングを間一髪で避けた。見ればソンヒの踵が当たった部分の床板には、稲妻のような亀裂が走っていた。

「……いつまでも寝たふりしてんじゃないわよ、あの程度でくたばっちまうアンタじゃないでしょ?」

 冷たく言い放つ、ソンヒの顔を見て絵茉は、上体をむくりと起こしその場で胡座をかくと、額に手を当てて何と彼女に対し、満面の笑みを見せた。

「いやぁ、ダマされた! さすが《旋風夜叉》の名は伊達じゃないわ。まさかこう来るとはねぇ、想定外よ」

 あっけらかんとした口調で喋りかける絵茉に、ソンヒは驚きつつも、努めて冷静を装い、表情を崩す事なく彼女と対峙する。

「――攻撃が効いてないのかって顔してるわね? そんな事ないって。今でも頭がズキズキ痛いし身体もちょっと痺れているわ。あなた、いい《武器》持ってるじゃない? もっと自信持っていいと思うよ」

 せっかく渾身の打撃技で一矢報いたというのに、絵茉の《上から目線》な発言にソンヒはカチン! ときて、とうとう感情的になり彼女に怒鳴った。

「……何でよ? 何で私の《精一杯》がアンタには通用しないのよ?! 何で平然としていられるのよ?!」

 絵茉はゆっくりと立ち上がり、ぱんぱんと袴に付いた埃を払うと、腕を小軌道で回しながら右腕を敵前に付き出した。

 泰拳(ムエタイ)独特の構えだ。

 そして持ち上げた左足で、大地を踏みしめるように床板に落とすと、己の視線はソンヒの黒い瞳に向いたまま動かない。

 いまや感情的になった《旋風夜叉》の繰り出す変則的な蹴りが、まるで意志を持った生物のように蠢き絵茉に襲いかかる。そのスピード、威力、正確さたるや――万が一防御に失敗すれば確実に意識は飛ばされ、寒空の下で《敗北宣言》を聞く事になりかねない。

 ソンヒの爪先が、絵茉の側頭部に狙いを定めて空気を切り裂き迫ってくる。ここが何もない野外であれば、距離を取って逃げる事も可能であるが、生憎ここは角力祭が行われている闘技場・神楽殿の舞台上。一旦闘いが始まった以上、この舞台を降りれば「負け」てしまうし、勿論ノックダウンすれば「負け」なのだ。だから ―― どうしても「勝ち」たければ、絶対に立ち向かわなければならない。

 本部席では初居御大が、じわりじわりと声援のボルテージが高まっていく観客たちを背に、腕を組み今後の成り行きに目を凝らす。

 その舞台上では息巻く女侠たちの腕と脚が交差していた。

 後ろの方にいる見物客にも、皮膚と皮膚がぶつかり合って発生した破裂音が聞こえたのだ。その音は、見ているだけの人々にも絵茉の受けたであろう衝撃を伝えるのに十分だった。

 果して《泰拳姑娘》は被弾してダウンしてしまったのだろうか?

 否!

 絵茉は己の上腕を強靭な盾と化し、頭部を一撃必殺の上段蹴りから防御すると、次に来るであろう《二の太刀》に気を配りつつ、その身体を瞬時に、開いていた相手との間合いを詰める。

 ソンヒの表情が一瞬歪んだ。

 裾の長い袴で遠目では判らないが、絵茉の棍のような鋭く重い膝蹴りが、彼女の鳩尾を的確に捕らえたのだ。

 ソンヒは更なる一打を撃ち込むべく《用意》はしていたが、自分が考えていたより遥かに速く、そして鋭い膝蹴りを被弾してしまった為、困惑と突如襲いかかった痛みとで《次の一手》が、一瞬にして吹き飛んでしまったのだった。

 この好機を逃す絵茉ではない。彼女の追撃の手は一時たりとも緩まない。白いバンデージで巻かれた左右の拳が、年令よりも幼い表情をしている《旋風夜叉》の鼻や頬骨を、そして顎に至るまで打ち砕かんとばかりに、一定のリズムで殴打し続ける。

 ビジュアルの残酷さ、妥協なき闘争の凄惨さに、それまで騒いでいた見物客も水を打ったように静まり返った。《おんな》同士の対戦故に、多少好奇の目で見ていた一部の人たちにも「これは闘いである」という《既成事実》を突き付けた格好となった。

 ――あなたとあたしとの差はね、一瞬のチャンスを見逃さず、ちゃんとモノにする所。この《武林》において潜ってきた修羅場の数の差といってもいいわ。

 固い拳の当てられた箇所が内出血を起こし、綺麗だったソンヒの顔も徐々に腫れ上がっていく。

 がしっ!

 絵茉は殴るのを止め、頭部を腕で挟み込みしっかりと固定すると、今度は膝頭を何度も何度も鼻柱へと叩き込んだ。泰拳独特の《首相撲》というやつだ。捕らえた相手を逃がさないように首を両の腕で固め、己に優位なポジションでの攻撃を可能とするこの戦法は、十分に距離を取って攻撃するスタイルが信条のソンヒには有効だった。

 数えられない程の膝頭を喰らい続け、視線が飛んで定まらなくなった韓国人女武芸者は、意識は朦朧とし頭部は力なく上下するものの、まだ反撃の意思を捨ててはいなかった。

 がつん!

 ――なっ?!

 再び《泰拳姑娘》の脳天に雷が走る。

 ソンヒは不自由な体勢をどうにか動かし、背骨をエビのように「くの字」に曲げて、踵を蠍の毒針のように相手の頭頂部へ突き刺すように蹴ったのだ。《旋風夜叉》の持つ柔らかな身体が可能とする難易度の高い技《蠍針脚(けつしんきゃく)》だ。死角からの蹴り技に、不覚にもダメージを受けた絵茉は、条件反射的に頭部をロックしていた腕を解いてしまう。

「噂には聞いていたがこれ程とは… 《蠍針脚》、見事なりッ!」

 この彼女の超人的な技に、初居御大も見物客も驚き、大いに沸き返った。

 だが、結局のところこの《蠍針脚》は「防御」の為の技であり、敵を一撃必殺で倒す事の出来る「攻撃」ではなかった。せっかく絵茉の《首相撲》地獄から脱出出来たというのに、ソンヒはがくっと片膝を付き、肩で大きく息をするのが精一杯だった。

 褐色の女武芸者は、静かに前へ足を踏み出す。

 蓄積されたダメージで身体はふらふら、視線は虚ろになっているが、それでも目の前にいるのが自分の《敵》と認識し、僅かな目力で睨み付けた。

 そんなソンヒの姿を見て、憐れみや尊敬、驚きと慈しみ……目頭は熱くなり、様々な感情が自身に降り掛かってくる。《旋風夜叉》が自分のの相手としては最高の人間だった――という事だ。だからこそ敬意をもってこの勝負を終えねばならない、絵茉はそう決めたのだ。

 一歩また一歩と、距離を狭めつつ相手の様子を伺うと、遂に意を決しソンヒ目掛けて全速力で駆け出した。

 自分を仕留めに来る事は十分に理解しているものの、もう爪先すら動かすだけの余力も残っておらず、ゆらゆらと棒立ち状態の女武芸者の姿が瞳に映る。

 濃紺の袴の裾を翻し、猛禽類の如く絵茉は跳び上がった。そして両膝を胸部に、両肘を頭部に突き刺すと、相手を突き破らんかの勢いで突入する。

 絵茉の掲げる武芸・秋元流古泰拳の秘技《神雕雙爪》だ。

 恐ろしい程勢いの付いた彼女の身体はソンヒを、固く冷たい床板へ、鈍く大きな衝撃音と共に打ち倒すと、前方へ二回転程した後やっと停止した。

 絵茉は立ち上がり、くるりと振り向くと、厳しい表情で行司の方を見た。突如彼女に睨まれた、初老の男性は一瞬、その眼光の鋭さに怯んだがすぐに言わんとする事を理解すると、手にしている瓢箪形をした黒い軍配を、さっと絵茉の方へ掲げた。

「勝者……秋元絵茉ッ!!」

 行司の勝ち名乗りを聞いた途端、神楽殿を中心とした《角力ノ儀》会場は、割れんばかりの大拍手と歓声に包まれた。絵茉は行司と四方の見物客に向かって一礼すると、舞台の下で待機している運営スタッフのひとりに、冷却剤を持ってくるように指示をする。

 程なくして用意された、ジェルの入った冷たく柔らかな冷却剤を、内出血で腫れたソンヒの顔に優しく当て、目が覚めるのをじっと待った。

 そして数分後、絵茉の膝枕の上で韓国人女武芸者が、ゆっくりと目を開ける。

 ……わたし、負けたの?

ソンヒが眼を、瞼を動かして訴えかける。絵茉は、試合中とはうって変わり穏やかな表情で、「そうよ」と言わんばかりに首を縦に振った。

 彼女のランゲージで、自身の《敗北》を悟った瞬間、少しだけ顔色を曇らせたソンヒだったが、すぐに安堵し柔和な表情となり、顔の筋肉を動かすだけでも辛いのにほんのり笑顔まで浮かべた。

 ――あなた、最高の《女侠(おんな)》ね。

 彼女だけにしか聞こえない、僅かな距離で《称賛の言葉》をかけた絵茉は、肩を貸し、ソンヒをゆっくりと立ち上がらせると、共に熱戦を繰り広げた《同志》を、再び四方の見物客たちに披露した。

 今までに経験した事のない、身内以外から受ける多くの歓声や拍手に、ソンヒはすっかり感激してしまい、とうとう絵茉の胸元に、顔を押し当て泣き出してしまった。

「……ずっと独りだと思っていた。だけど私と同じ《武芸の道》を歩んでいる女性が貴女をはじめ、この地域にこんなに居るなんて――それに勝敗はともかく実際に肌を合わせられて……もう最高よ」

 近隣に比べて、武芸が盛んだと云われているこの温泉郷であるが、その武芸人口の一割にも満たないと思われる女武芸者――いわゆる《武芸女子》の胸の内を聞いたようなソンヒの発言に、絵茉もこれまで以上に武芸の修練と、女子の武芸修行者の底辺を拡げるために努力しなければ、との思いを一層強くするのであった。

 ともかく、今年の《角力祭》のテーマである《日本対多国籍軍》の初戦は、《泰拳姑娘》秋元絵茉の勝利で幸先の良いスタートを切る事が出来たのであった。


「……気合い十分だな、ジェシカ?」

 控室代わりのテントの中では、次の取り組みに出場する黒髪白肌の《碧眼魔女》ジェシカ・ペイジが、何度も何度も白い皮製のオープンフィンガー・グローブで覆われた両手を組んでは放したりして、高ぶる闘志を落ち着かせようとしていた。だが自分にしてみれば、何故こんなに緊張しなければならないのか、不思議でしょうがなかった。

「おい、話を聞いてるのか?」

「あ、ああ悪いビアンカ。それで……何の用事だ?」

 自分の話を彼女が全く聞いていなかった事に《装甲麗女》ビアンカは、怒るどころか「やっぱりね」とばかりに、呆れてため息をついた。

「あなたの対戦相手のリナだけど、あまり舐めてかからない事ね」

「何故? 只のスクールガールじゃない。それとも彼女はモンスターなの? 自慢じゃないけど私だって、総合格闘技ではそれなりの実績を積んで、《名前》だって少なからず知られた存在。その私があんな小娘に負ける? ハッ、冗談じゃない!」

 ジェシカは苛立っていた。「負ける」などとビアンカは一言も発していないにも係わらず、ネガティブな単語にはつい、過剰に反応してしまうのだ。

「……まぁ、茶飲み話程度に聞いといてくれ。彼女……リナだけど、公式な試合の記録は高校生の参加する、全国武道大会の出場しかない 。後はみな非公式(イリーガル)なものばかり ―― 《武林》でいう「果たし合い」という奴だ。己の倫理観が唯一のルールという試合を、彼女は負けなしで生き残ってきた……と、初居センセイから昨晩伺った。どう出る、女子ライト級の世界ランカーさまよ?」

 そう言うと、ビアンカは白熊のような巨躯を揺らし笑った。人一倍プライドの高いジェシカが、自分を嘲笑するような彼女の態度に、数回自らの掌に拳を当て、胸の内に渦巻く怒りを、対戦相手を叩き潰す為の闘志へと徐々に変換していった。

「……それでも、相手がスクールガールである事に変わりはないわ。五分で勝敗(けり)を着ける ――いえ、三分ね。いい? 三分後に観客の歓声を浴びながら、絶対私はここに戻ってくる」

 ジェシカは、側に置いてあったミネラルウォーターを、ぐっと一口飲むと立ち上がり、数秒間シャドウボクシングをして、身体の隅々まで意識が行き渡るかどうか動作確認をすると、そのままテントと外とを仕切るカーテンを開け、戦場である神楽殿へと、寒空ゆえに身体から湯気をたてながら向かった。

 RINAはカーテンの隙間から、そんな気合い十分の、対戦相手であるジェシカの様子を眺めていた。 格闘技雑誌などで度々目にする《ビッグネーム》との一戦に、こちらもジェシカ同様緊張しているかと思いきや、RINAのなかではそれほどでなく、逆に普段闘う《武芸者》以外の相手とあって、展開が読めないという点でむしろ楽しみで仕方なかった。

「……あいつ、“三分で片付けてやる!" って息巻いているわ。プロのMMAファイターらしいわね、全く ―― ああやって自分の内の“弱さ” を 吐き出して、自身の気持ちを《理想の戦士像》に近付けていくの」

 来るべき取り組みに備え、準備運動をしていた遥が、神楽殿上の《碧眼魔女》をみてRINAに解説をした。

「相手、相当やる気みたいよ? リナちゃんも負けずに“三分で ―― ” ってハッタリかましちゃえばいいのよ」

 テントの中に敷かれた畳の上で、闘いでできた患部を、氷枕で冷やしていた絵茉もつい口を出す。そんな諸先輩からの「励まし」に、にこりと笑って応えるRINA。

「時間なんて分かりませんよ。可能ならば一刻でも早く勝負を決める ――これが闘いの原則ですから。もし相手にそれだけの実力が無ければ……そういう事です」

 伸縮性に富んだ、ネイビーブルーの競技服の上に、真っ白な胴着を羽織り、RINAはもう一度黒帯をぎゅっと締め直す。たったそれだけでも気持ちは戦闘モードへと切り替わる事ができる。

 これでもう、後戻りは出来ない。

 目の前には、今から自分が《倒すべき相手》しか映っていなかった。

 既にジェシカの待つ神楽殿に向かう間、小さく深呼吸をする 。祭が始まった当初は、気になっていた見物客の声援ももう気にならない。

 「Come on!」と、オーバーランゲージで挑発をする《碧眼魔女》を、下からちらりと眺めるとにやりと笑みを浮かべ、ひらりと軽く跳躍し舞台の上へと登った。

 ――さぁて、祭に《華》を添えましょうか……?

 黒いオープンフィンガー・グローブで覆われた拳を、ジェシカに向かって突き出し、闘う意思を示したRINA 。

 そんな両者の戦意を汲み取った行司は、縦に手を振って《戦闘開始》の合図を満場の見物客たちに知らせる。

 いよいよ《角力ノ儀》第二戦、ジェシカ・ペイジ対武田リナが始まった ――

 ジェシカは、軽くファイティングポーズを取ると、上体を左右に揺らしながら、RINAを自分のペースに誘わんとするが、そんな単調な惑わしに引っ掛かる程、彼女も単純ではなかった。 ジェシカのこの行動に、頬もつい自然と弛んでしまう。

 そんなRINAの表情をみて、“自分は馬鹿にされている”と受け取った北欧の女闘士は 、「掛かってこい」とぽんぽんと軽く、自分の頬にパンチを当てて挑発すると、空気を斬り裂くような素速いジャブを二~三発放った。直撃すればノックアウト間違いなしのジェシカの攻撃に、ポニーテール女子高生は少しも慌てる事もなく、拳の軌道を見極め、顔にヒットする一歩手前で回避する。

 この一連の動作をみて、ジェシカは考えを改めざる得なくなった。

 ――彼女は素人ではない!

 となると、自分自身が「怖い」という感情を抱く前に、一秒でも速く相手を床板に這いつくばらせねばならない ―― そう直感した女闘士は、今度は低い体勢で素早く《蹴撃天使》の背後を取ると、腹の辺りで腕をグリップさせ、柔軟で強い己の背筋力を用い、RINAをスープレックスで後方へと投げ、彼女の身体を硬い床板に叩き付けようとした。

 大きく弧を描く軽量なRINAの身体。だが、彼女は床に打ち付けられるどころか、激突する前に自らが後方回転して脱出し、頭部へのダメージを防ぐ事に成功した。普段リング上で行っている総合格闘技の試合からは、思いもよらないほど《自由》な発想の《蹴撃天使》のディフェンスに対し、ジェシカの焦りは増すばかりだ。

 ――どうする? 何をすればいい?

 ジェシカは自分自身に問いかける。僅かな時間ながらも対策を考慮した結果は、あまりにも単純かつ、格闘における基本的な答えにたどり着いた。

 とにかく前に出て相手を思い切りブン殴る――これしかない。

 先程とは風を斬る音が全く違う、スピードと体重が乗った剛腕を、連続で目前の女子高生に撃ち込んでいく碧い瞳の戦士。ジャブやフックなど様々な拳種を用いRINAの意識を刈ろうとするものの、こちらの意図とは関係なく全て寸前で避けられてしまい、自分の拳に何の感触もない事が腹立たしく思えてくる。

 そんな苛立ちの真っ只中にあるジェシカの目前に、黒い影が飛び込んできた――RINAのオープンフィンガー・グローブだ。

 しまった! と我に返る《碧眼魔女》。

 被弾を食い止めるため、急いで腕のガードを上げる。

 RINAのフックが予想通り頬骨へ飛んできたので、自らの上腕部分で可愛らしい彼女の、“見た目”よりも重い攻撃をブロックした。そのパンチの力強さに、ガードした腕に当たった瞬間びりびりと電留が走るかの如く痺れた。

 間髪入れずに今度は、腕の痺れも吹き飛ぶほどの痛みが、ジェシカの腹部を襲う。

 ――うっ!

 RINAの放った後ろ蹴りがヒットしたのだった。

 背を向け回転した事すら分からないほどのスピードに、目が付いていけなかった彼女は思わず、被弾した箇所を押さえ片膝をついた。最初のフックは蹴りへの「餌撒き」だったのだ。彼女は痛みと共に、相手の蹴りが見切れなかった事に戦慄し、顔をさぁっと青くする。

 おおっ!

 見物客からは、大きなどよめきが巻き起こった。

 誰ひとりも「今どきの女子高生」である彼女に対し、これっぽっちも期待をしていなかったからだ。それだけに見た目とファイトっぷりとのギャップに驚き、欧米人格闘士との体格差をものともせず押しまくる姿に声をあげた。

「いいぞ、ねェちゃんっ!」

 地元民であろう、中年男性が彼女に向かって下品な声援をおくると、それに呼応するように歓声や笑い声が会場中に飛び交う。

 見物客たちの視線は、完全にRINAが奪った格好となった。


 顔を青くしたのは対戦相手のジェシカだけでなかった。

 本部席で、伯父である初居大人の監視下の元、この《角力ノ儀》を観戦しているケンジは、卑怯な手を使ったとはいえ、弱々しく自分に怯えていた昨晩のあの女子高生が、著名な女子格闘家を相手に対等……いや、それどころか戦闘レベルの違いをみせ圧倒する姿をみて、背筋の凍る思いがした。

「何、顔を青くしておるんじゃ?」

 背後から伯父に声を掛けられ、びくっ!と身を震わせるケンジ。

「いやっ、俺全然ビビッてねーし」

 虚勢を張った態度とは対象的に、声が少し震えている。

「ははぁん。ひょっとしてお前、RINAの凄さに驚いておるんじゃろ?」

 ケンジの、分かりやすい動揺の仕方に、初居御大のニヤニヤ顔が止まらない。

「あの娘はな、あの年齢(とし)で、気性も荒く、腕に覚えのある強者どもが大勢集まる、武林の《果し合い》では未だ敗けておらん。修練もサボりがちで、悪い連中とフラフラ遊び回っていたお前さんとは、“度胸”と“覚悟”が違うわい」

 “偉大な”叔父にチクリと釘を刺され、先程の態度とは一転して小さくなるケンジ。舞台上で闘う《蹴撃天使》を目の前に、彼は自分勝手に抱いている怒りや嫉妬心、そしてあの叔父も認める《強さ》に対し、羨望の眼差しで眺めるしかなかった。

 ――ちくしょう……でも、凄ぇよなアイツ。認めたくはねぇが結局、同じ舞台(ステージ)に上がれる《器》じゃなかったって事か、俺は。

 ケンジの視線の先――神楽殿では女性格闘士ふたりによる、男性に負けないほどの、火花散る激しい闘いが続けられていた。


 拳や脚が風を斬って迫り来る。その音が耳をかすめる度に身体がびくりと反応した。眼前の美少女が放つ、動作ひとつひとつが“自信”に満ち溢れていた。

 RINAの、変幻自在な攻撃を何とかかい潜り、何度目かのトライでようやく腕を取る事のできたジェシカは、ブリッジを利かせた素早い巻き投げで、彼女を固い床板へ叩き付ける事に成功した。

 身体が綺麗に宙を舞い、背中を強く打ち付けたRINAは顔をしかめる。だが内心は悔しさだけではなく、本気の「プロ格闘家」の実力を身をもって体感でき、むしろ満足気だった。

 ジェシカはグラウンドでの打撃を狙い、RINAの身体に跨がろうとするが、それを瞬時に察した彼女は横転して回避しようとする。だが、マウントが取れないとみた《碧眼魔女》は膝をついたまま、低い体勢からのニーリフトを数発、四点ポジションの状態にあるRINAへ横っ腹めがけて撃ち込む。

 ずしっ。

 膝頭が脇腹をえぐるように突き刺さり、その鋭い痛みでRINAの呼吸が一瞬止まる。患部を押さえうずくまる事も出来ず、ぐっと奥歯を噛み締め、ジェシカの顔から決して目を離さずに、彼女の次の行動に備えた。

 勢い付いた碧眼の女闘士は、スリーパーホールドを仕掛けようとRINAの細い胴に、トレーニングによってぎりぎりまで絞り込まれた、ふたつの太腿をフックし首へ腕を回さんとした。前腕が頸動脈に入り力一杯締め上げれば、彼女はタップして「降参」の意思表示をするか、もしくは脳に酸素が行き渡らなくなり、気絶してしまい「戦闘不能」で試合終了となる――はずだ。

 だが勝ちを急いだが為に、仕掛けが少し甘かった。

 大腿による胴へのフックが不完全だった故、RINAが勢いよく腰を浮かすと、ジェシカの体勢は崩れ彼女の身体からずり落ちてしまったのだ。《勝利》に繋がる頼みの綱だった、スリーパーホールドも腕が外れてしまい、せっかく自分に勝機が廻ってきたというのに、痛恨のミスで振り出しに戻ってしまう。

 うつ伏せになって目をつむり、“ガッデム!”と何度も呟くジェシカ。試合開始時にはあれほど自信に満ち溢れていた《碧眼魔女》だったが、ことごとく勝利へのチャンスを潰されて意気消沈しかけていた。

 耳元で空気を裂く音がした。無慈悲にもRINAは、顔面へめがけて蹴りを放ったのだ。気持ち(ハート)肉体(ボディ)とが上手くリンクしていない、現在のジェシカには酷な状況である。

 ――回避しなければ!

 頭ではわかっている。だが「危険信号」を己の身体の隅々にまで伝える事ができず、「その場から逃げる」か「ディフェンスする」かで混乱してしまい、相手の攻撃を回避させる動作がワンテンポ遅れたのだった。その結果、膝をついて屈んでいた彼女の顎にRINAの蹴りがきれいにヒットしてしまい、身体は衝撃で流れて冷たい床板に自分の頭を強く打ちつけた。ジェシカの緑がかった長い黒髪が、経年により磨耗した床に、まるでスポイトで水を垂らしたように広がった。

 患部からじんじんと伝わる痛さよりも、自分が何もできない悔しさや恥ずかしさで、なかなか床から身を剥がす事が出来ずにいる彼女に対し、RINAは自分の左手首を指差して、試合前に「3分で片付ける」と吠えていたジェシカを、馬鹿にするようなゼスチャーをみせたのだ。見物客からはRINAを支持する歓声と笑い声が巻き起こった。一流とはいかないまでも、それなりに知名度のあるジェシカには、この状況はかなりショックだったに違いない。

 そのとき、消えかかっていた彼女の、闘志に再び火を着けるような出来事が起こった。

「がんばれー、ジェシカせんせい!」

 ――!?

 彼女は、可愛らしい声援が聞こえた方向を目で追う。中高齢者が多い祭の見物客のなかに、その「声の主」である、小学校就学前であろう女の子のグループを発見した。それは彼女が普段、町の英語塾で講師をしているときに、自分の事を慕ってくれている生徒たちだったのだ。寒風で頬は林檎のように紅く染め、「大好き」な先生の、初めて見るであろう闘う姿に声を枯らし、目を真っ赤にして応援する姿にジェシカは感激した。それまで彼女を形作っていた、自信満々で高圧的な《女闘士》の鎧は外れ、優しく子供好きな本来の性格が現れた瞬間であった。

 声も出さず、子供たちの方を向いたまま固まっているジェシカに、RINAが穏やかなトーンで話しかける。

「……もう準備はいいですか?」

 《蹴撃天使》の言葉に反応し、ゆっくりと顔をあげたジェシカは、先程まで全身から発していた、何者も拒絶するかのような威圧感はすっかり消え失せて、余分な力が抜けきった本来の《自分》を取り戻していた。それはRINAにも伝わったようで安堵と期待の微笑みをジェシカにみせる。

「ええ。あの子たちの一生懸命応援する姿を見てるとね――“何気取っていたんだろう、わたし”って思えちゃって。どんな攻撃を繰り出しても余裕でかわす貴女に対し、どんどんムキになってしまい自分を見失いかけた時、あの子たちの精一杯の声援を聞いて素直になれたの。だから――もう絶対迷わないわ」

 そう言うと穏和な笑顔をみせるジェシカ。初めて見た“嘲笑”ではない自然な笑みにRINAは、何だか訳もなく嬉しくなった。

「約束の“三分”はとうに過ぎたけど、ここからが本当の――わたしとジェシカさんとの闘いです。OK?」

 RINAが拳をぐっと突き出した。彼女の“戦闘再開”の合図にジェシカも同じ動作で応える。

「ええ、ワクワクするわね。闘う事が“楽しい”と感じるなんていつ以来かしら」

 ふたりの拳がこつりと重ね合った瞬間、互いは素早く別離しファイティングポーズを構えた。

 彼女たちがするのは奉納角力の続き。しかし小休止の後――特にジェシカの場合――では気持ちの入り具合も違っていた。ギスギスとした殺気に近いものではなく、緊張感を保ちつつもっと、“闘い”をエンジョイしようと気分一新したのだった。

 内腿に狙いを定めてローキックを放つ《碧眼魔女》。

 彼女の呼吸に合わせ防御の体勢を取るRINA。

 攻撃するジェシカの脛と、ガードで出されたRINAの脛とが激しくぶつかり合った。

 再度チャレンジすべく続けて蹴りを放つジェシカ。彼女の重い蹴りが、最強女子高生の脛へ幾度と打ち込まれた。防御で何度も脛にキックを受け続け、次第にRINAの足の感覚が鈍くなっていく。

 休む暇もなく、唸りをあげてジェシカの蹴撃が迫ってきた。

 反射的に足を上げたRINAだったが、何故か脛に衝撃は走らなかった――その意味を理解するのに時間はかからなかった。

 先ほどのローキックは実はフェイントで、ジェシカは素早く彼女の背後(バック)を取ると、間髪入れずにスープレックスを敢行した。一度はRINAの、超人的な反射神経により阻止されたが今度は注意深く、投げるスピードやタイミング、落とす角度等を変化させてRINAへ再び仕掛けたのだった。

 胴へのグリップから投げるまでの間があまりにも速く、投げ技への対応が遅れてしまい結果、彼女は鈍い衝撃音を廻りに響かせて硬い床板へと落下した。

 幸いぎりぎりで受身を取り、大事には至ってないものの頭部への衝撃は避けられず、頭を押さえて転げまわるRINA。

 どん――

《蹴撃天使》は胸部への圧迫感を感じた――ジェシカがマウントポジションを取ったのだ。頭痛に顔をしかめて見る彼女の姿は、自信に満ち“強者”の威厳を感じさせた。

 殴る、殴る、殴る!

 《碧眼魔女》はひたすらRINAの顔面へパンチを入れ続ける。綺麗だった顔が切り傷と腫れで変色していく。

 この凄惨な状況を前に、舞台上唯一の“男性”である行司は「試合続行か否か」の判断を迫られていた。年端も行かぬ女の子が危機的状況にさらされているのを目の当たりにし、取組を止めようとするのは《男》として当然の心理ではあるし、かといって未だ闘志に燃えるRINAの(まなこ)を見ると、一刻の情にほだされ中断させてしまうのは《行司》として正しいのか悩んでしまう。だが唯一判っているのはこのままでは彼女が危険だ、という事だけだ。

「どうしたのよ? 早くストップさせなさい!」

 ジェシカが、躊躇する行司に怒鳴る。

 その戸惑いは攻撃している側である彼女も同じだった。《勝利》に最も近い状況にある“優越感”からかくる想いなのか、早急に試合を止めてくれないと「いくところまで行っ」てしまうので、第三者判断で《レフェリーストップ》という采配を期待しているのだ。事実、日頃のトレーニングで培われた筋肉量から生まれる、彼女のパワー溢れるパンチは説得力十分である。

 だがそんな憂慮も一瞬にして吹き飛んだ。

 上から降ってくる拳の嵐を受けながらも、RINAは太腿でがっちり固定されている上半身を、左右によじったり反らせたりせながら、この不利な体勢から逃れるべく“抵抗”を試みているのだ。

 呼吸すらままならないシチュエーションの中で、大きく深呼吸して肚に力を溜めこむRINA。只でさえ赤い顔色を更に真っ赤に染め、全ての力をを腹筋と背筋に割り振り一気に爆発させた。

「~~~~~!!」 

 下から湧き上がる、尋常でない力の波に圧倒されたジェシカの体勢はぐらり崩れ、彼女とRINAとの間に隙間が生じた。まるで針の孔のような、このミニマムすぎる機会(チャンス)を逃してはならないと《蹴撃天使》は必死で身をよじり、とうとう危機的状況下から脱出する事に成功する。

 まさか――! と目の前で起こった“現実”に、意識が追い付かず放心状態のジェシカ。が、徐々に事実を脳が受け入れていくにつれ自然と笑みがこぼれた。それは自分を蔑ますような卑下した笑いではなく、相手の凄さに対し“リスペクト”の意味を持つ笑いだった。

 はぁ……はぁはぁ……

 リズムの狂った呼吸をし、こびりついた血と殴打されて出来た腫れで、ぐちゃぐちゃな顔をしたRINAが立ち上がる。彼女も同様で笑顔でこれに応える。

 ジェシカが拳を固め渾身の一撃を放つ。被弾すれば即KO間違いなし!の勢いで打ち込んだ彼女のストレートだったが、思惑とは裏腹に拳はRINAの顔面には到達しなかった。

 碧眼の女闘士の攻撃よりも更に速く、(はらわた)をえぐるような重いボディブローを一発叩き込んだのだ。耐え難い痛みで、意思とは裏腹に後退りをしてしまうジェシカ。

 一発、更に一発とRINAの攻撃の数が増えていくと同時に、次第に彼女の圧力に押され、ジェシカの手数が少なくなっていく。

 一進一退の攻防に、見物客の声援はますます熱を帯びていく。性別や年齢層を問わず皆、神楽殿で激しく打ち合うふたりに釘付けになっているのだ。

 ジェシカがニーリフトを狙いRINAの首に手をかけた。自分の元へ彼女の身体を手繰り寄せ、膝頭を下顎へ打ち込めばこの状況を打破できる――そう思っていた。しかし現実は非情だった。RINAは落ち着いて両手でブロックすると、反対にジェシカの顎へアッパーカットを叩き込んだのだ。衝撃で脳が揺れ視界が乱れる。“生命線”であった首のグリップも外れ、スローモーションのように彼女の身体は床板へと膝から崩れ落ちていった。

 それと同時にはらりと、RINA自慢のポニーテールがほどけた。ジェシカが倒れる際、無意識に彼女の髪を掴んでしまい、ポニーテールを纏めていたヘアゴムが切れてしまったのだ。肩まで掛かる長髪姿となったRINAはそれまでの「少女」のイメージとは違い、何処か艶めかしく少し大人びた印象を与える。

 上下に大きく肩で息をするRINAは、中腰で待機し事の成り行きをじっと見守った。騒がしい筈の声援も気にならず、耳にはダウン状態の、ジェシカの荒い息遣いだけが聞こえていた。

「……まだ続けますか? 正直ご遠慮したいんですけど」

「全くだわ。この試合……貴女の勝ちよ」

 ジェシカ自らが遂に“敗北宣言”を口にした。

 どどんっ!

 和太鼓の皮が破れんばかりに強く打ち鳴らされた――広く周りの見物客たちに、《蹴撃天使》RINAの勝利が知らされたのだ。激しい闘いの末“勝者”となった、女子校生ファイター・武田リナを祝福せんと、多くの人々から拍手と声援が贈られた。

 RINAが倒れているジェシカに手を差し出す。

「立てますか……?」

 彼女の言葉にこくりと頷くと《碧眼魔女》は彼女の手を借りて立ち上がった。自ら“敗北”を選択し、この死闘の幕を引いた彼女の顔は晴れ晴れとしている。

「悔しくない――と言えば嘘になるけど、これ以上闘い続けるのは私の実力では無理だった。リナ、あなたという素晴らしいファイターと闘えた事を誇りに思うわ」

 そう言うとジェシカはRINAにぎゅっと強く、労いと尊敬の意味合いを持つ熱いハグをした。彼女から伝わる体温や匂いを感じながら、RINAはこれで全て終わったのだ、と実感するのであった。

 ジェシカの可愛い生徒たちが神楽殿の縁に押しかけてきた。大好きな「先生」が敗けてしまったのでどの子の顔も涙で濡れている。

「ありがとう……もう、みんな泣かないの。最高の笑顔をね、先生に見せてちょうだい!」

 舞台上から、ひとりひとりの目元に浮かぶ涙を拭き取り、優しく抱きしめている心温まる光景を、傍でしばらく見ていたRINAだったが、邪魔をしてはいけないと思い彼女の後姿に向かい一礼し、早々と舞台を降りて選手控室のテントへ向かった。

 その途中で、腕を組みじっと自分の出番を待つ遥と目が合う。

「遥さん……」

 彼女は何も言わなかったが、笑顔でRINAの健闘を祝い労ってくれた――RINAにはそれで十分だった。

 遠くで祭囃子が聞こえてくる中、刻々と《角力ノ儀》最後の取組である今井遥対ビアンカ・レヴィンの開始が迫っていた。


 続けてふたつも、“女性の範疇”を超える激しい《奉納角力》を見せられた、見物客たちの興奮度は最大限に達していた。例年行われている男衆による、“喧嘩”に近い原始的(プリミティブ)な角力を楽しみにしていた地元の“常連さん”たちも、個々の思想・理念や培った格闘技術をぶつけ合う、武芸高手たちによるクオリティの高い闘いに満足し《奉納角力》も新たな時代が到来した事を実感する。

 同時にこの《イベント》の勧進元(プロデューサー)・マッチメーカーである初居御大も、地元民や遠方からの見物客たちの、熱戦に次ぐ熱戦で興奮し紅潮した顔をみて、今大会の成功を確信していた。

 ――あとは(あいつ)が、上手い事締めてくれればいいんだがなぁ

 初居は白くなった短髪を撫でつけながら“大トリ”の事を考えていた。もちろん今井遥との“付き合い”は長く、彼女がどんなファイターなのかも熟知しているが、なに分“勝負”というものは水物で気候に体調、そして精神状態(メンタリテイー)の好不調で勝敗が左右されるし、十年間の空白期間(ブランク)が格闘能力にどう影響しているのか全くわからない。まぁ絶頂期の半分でも動ければ御の字だろう――と彼は思った。

 遥自身も、日々の喫茶店経営の合間を縫って、《武芸者》としての基礎トレーニングは欠かさず継続していたものの、実戦経験は十年前の――あの忌まわしき最後の試合(・・・・・)以来行っておらず、その点を問題視していた。妹分の絵茉や“二代目”を継承するRINAが見せた、レベルの高い試合をテントの中から観戦し往年のファイティングスピリットは戻りつつあるが、その精神に見合うだけの動きが実際に出来るのか?何度も自信と不安が交錯する。

 ――情けないなぁ。こんなくだらない事を、いつまでも考えているなんてわたしらしくもない。勝ち負けなんて二の次じゃない? 当たって砕けろ(ゴー・フォー・ブロック)、よ!

 ぴしゃりと自分の頬を打ち気合を注入する遥に、普段着へ着替え終えた絵茉が近付いた。

「次の遥姉ぇの試合……セコンドに付かせてもらうわ」

「どうぞご勝手に。でも、客席から見た方が気軽に観戦できると思うけどなぁ……本当にいいの?」

 姉貴分からの問いに、絵茉は黙って縦に首を振った。

「あたしはね、ずーっと遥姉ぇの近くにいたいの。それで遥姉ぇと一緒にドキドキしたいの!……ダメかな?」

 自分と同じ視線の高さに彼女がいる筈なのに、遥の目には最初に出逢った頃――まだ小学生だった頃の絵茉の姿が映っていた。ひとりぼっちで泣き虫で……そしていつも遥の後ろにくっ付いて行動していた彼女が鮮明に脳裏に蘇る。

 ――変わらないね。大きくなったのは背丈と態度だけ、ってか

 遥は両手で絵茉の手を握りしめた、何処にも行かないようにしっかりと強く。

「セコンドは任せたわ。一緒に……一緒に闘おうね、絵茉」

「うん、おねえちゃん(・・・・・・)!」

 “最高の相棒”と手を繋ぎ、並んで決戦の場へと向かう遥と絵茉。彼女の心にはもう一片の迷いも無かった。そして神楽殿の舞台上では《装鋼麗女》が腰に手を当て、対戦相手が上ってくるのをじっと待っていた。

「ふん。逃げずによく此処まで来たな、ハルカ!」

「当然でしょ? とにかくあんたを一発ぶん殴らないと気が治まらないのよ」

 お互いが、先制攻撃である“憎まれ口”を叩く。ほんの挨拶程度ではあるが会場は大いに盛り上がった。しかし遥は彼女の言葉のトーンに違和感を覚えた。昨夜のビアンカの激昂ぶりとは全く違っていたからだ。あの時の“憎しみ”が継続していれば、もっと“憎まれ口”にパワーがあり心に突き刺さっている筈なのに、今のビアンカの言葉はプロレスの“マイクパフォーマンス”以外の何物でもなかった。

 どこか居心地の悪さを感じたままの遥に、欧州最強の女が無言で接近する。気が付けば胸と胸を突き合わせ、これ以上ない程至近距離で睨み合っていた。

 顔の彫りが深い彼女の、暗闇から覗くような鋭い眼光で見つめられると、普通なら恐怖で身がすくんでしまいそうだがそこは“ファイター”である遥の事、しっかりと「メンチを切」って応戦する。

「……昨夜はすまない。私の勘違いだったようだ」

 突然ビアンカが他の誰にも聞こえないよう、小さな声で謝罪をした。

 ――えっ?

 一瞬耳を疑う遥。あまりにも唐突過ぎて現実味がなく、素直にこれを“謝罪”と受け取ってよいものか彼女は戸惑った。

「全て初居センセイから話を聞いた。うちのダーリンがトラブルの原因だという事を」

 なんだ、ちゃんと全部判ってるじゃん――遥は今日のビアンカから、“怒り”が感じられなかった理由をやっと理解した。

「あはは、まんまとあんたの組んだ“アングル”に乗せられた、というわけね」

「こうでもしなきゃハルカと闘えないと思ったから。こんな私を軽蔑するか?」

 彼女の言葉に、やはりビアンカ・レヴィンは闘うに値する女だと、元・人気女子プロレスラーの胸は騒いだ。

「いや、逆に感謝しているわ。正直ね――退屈してたのよ、今の生活に」

 自分だけに打ち明けてくれた、遥の“偽らざる本心”にビアンカは「やっぱりね」とニヤリと笑った。個人差はあれど一度でも“闘いの世界”に身を投じると、アドレナリンが大放出されて生まれる独特の高揚感は、なかなか忘れられないらしい。

 《装鋼麗女》は健闘を誓い合うべく、すっと短く拳を前に突き出した。客の前でおおっぴらにやると悪玉(ヒール)VS善玉(ベビーフェイス)の対立構造が崩れてしまうので、人目に触れずこっそりと行う――遥より幾分若いのに“昔気質(オールドファッション)”な考え方のビアンカであった。そんな彼女の意を汲んで遥も、自分より大きな身体のバッドガールを睨みつけたまま、拳をこつんと小さく当てて“挨拶”をした。

 行司から「離れるように」と注意され、ふたりはそれぞれ対角線の先へと一旦分かれる。

「――遥姉ぇ、あいつと何話してたのよ?」

 絵茉が、自分が待機している舞台の(コーナー)に戻ってきた遥へ、不安げな表情で訊ねる。

 姉貴分は、そんな彼女に向かって「心配ない」とばかりに、優しい笑顔を見せた。

「あいつは“策士”だね。すっかり彼女の描いたストーリーラインに乗せられちまった」

「え?」

 話がさっぱり分からない、絵茉の頭の上に「?」マークが点灯する。

「“心配するな”って事よ――もしもの事があったら頼むわね?絵茉。わたしに不測の事態が起こった時も、逆に起こしそうになった(・・・・・・・・・)時も」

 随分ヒドイ事言ってるなぁ――最後のひとことが気になったが「遥姉ぇらしいなぁ」と、彼女の発言をいつも通り、あたり前のように受け入れてしまう絵茉であった。

 遥が、赤いジャージ上のファスナーに手を掛け、ゆっくりと下に降ろす。中から現れたのは桜の柄がプリントされた、ワンピースタイプのリングコスチューム……絵茉は見覚えのあるこのコスチュームを見てはっと息を飲んだ。それは十年前に彼女が、あの「最後の」試合の時に着用していたものだったからだ。遥は沈黙を守った十年の時を経て、再び「あの時の」続きをやろうという覚悟の表れだ――敗北も屈辱も全て自分の中で消化して。

 金色と黒で配色された、ダークなイメージのリングコスチューム姿のビアンカが、一足先に舞台中央へ戻って“強敵”今井遥を待ち構えている。

「――始めぃ!」

 縦に手刀を切り“戦闘開始”を知らせる行司。その瞬間、一気に身体から開放された野獣の如き闘気に慄いて、慌てて彼女たちの側から離れた。

 うぉぉぉぉぉ!!

 「結びの一番」の開始に、会場の至る場所から声援が飛び交った。見物客をはじめ、対戦相手であるビアンカに至るまで誰もが《悲劇の女子プロレスラー》今井遥の“復活劇”に期待していたのだ。

 両者は円を描くようにゆっくりと舞台上を周回し、徐々に距離を詰め自分の“攻撃範囲”へ誘い込もうとする。近付いたと思えば一旦離れ、また離れたと思えば接触可能な距離まで近付き、相手の見えない保護壁(バリアー)を少しづつ削っていく。

 差し出した腕と腕が蛇のように絡み合い、それぞれの首筋や肘(カラー・アンド・エルボー)へ纏わりつき、相手を自分の有利なポジションへ手繰り寄せようと、ロックアップの攻防が始まった。両足をしっかりと床に付けて腰を落とし踏ん張ると、今持っている全ての筋力をこの“力比べ”に集中させる。

 腕や首など、全身にビアンカの体重がずっしり重くのし掛かり、遥は身体の自由を奪われて、前へ押す事も後ろに引く事も出来ない。みるみるうちに彼女の身体は、《装鋼麗女》の攻撃範囲内へと引き摺り込まれていった。

 大木のような太い腕が遥の頭に巻き付いた――ヘッドロックを取られてしまった!

 常人を超えたパワーでビアンカは、顎下から頬骨の辺りをぐいぐいと締めあげる。前腕部の硬い部分が顔の骨と密着して発生する、激しい痛みが遥の頭部を襲う。日常茶飯事にこの技を喰らう“現職”ならば、痛みに耐えつつ次の“展開”を考える事が出来るが、十年の間“一般人”をしていた彼女には酷な状況だ。《装鋼麗女》の腕と脇との間に、頭部を挟まれている遥の顔が既に真っ赤になっている。

 どかっ!どかっ!!

 ビアンカの鳩尾へ肘を叩き入れた。

 身体の奥に眠っていた、プロレスラー時代の記憶が遥を動かしたのだ。驚いて咄嗟に離してしまった相手の腕を掴み、背負い投げで床へ投げ飛ばすと今度は反対に、突き立てた膝を支点にし腕を力一杯引っ張った。ロックアップからのヘッドロック、そして切り替えしてのアームロックというプロレスリングの基本ムーブに、見物客たちからは大きな歓声が一斉にあがり、これからの試合展開を更に期待する。

 ビアンカは身をよじって、逆方向に曲げられていた自分の腕を取り立ち上がると、掴んだまま離さない遥の腹部へ二度三度とトーキックをぶち込んだ。凄まじい威力に彼女の身体は浮き上がり、衝撃に耐えきれず遂には手を離してしまう。

 両者の身体は一度離れ、それぞれが次の攻撃への機会(チャンス)を窺った。

 遥を捕らえようとビアンカが再び手を伸ばした。しかし足で蹴っ飛ばしてこれを防御する。ぴりっと走る痛みに顔を歪める《装鋼麗女》。

 今井遥の猛攻が開始された。

 急接近して蹴りを、腿や膝の裏へ入れれば一旦距離を取り、また近付いては蹴るといった「ヒットアンドアウェイ」戦法で、相手の体力・集中力を徐々に削ぎ落としていく。

 キックが決まるや、ぱちんと乾いた炸裂音がビアンカの脚から発生し、その都度彼女の顔が苦痛に歪む。遥の蹴り自体も、攻撃が成功する度にスピードや切れがアップしていくのが、傍目でも分かったし自身も足応えを感じていた。

 ――いける、いけるわ! 身体が自分の意思通りに動いてるっ!

 右や左に、ローからミドルへと蹴りを打ち分けて《装鋼麗女》の体力を奪う遥。往年の《蹴撃天使》ぶりを思い出させる攻撃に、「彼女の“完全復活”だ!」と会場から大きな歓声が湧きあがる。

「いけっ、遥姉ぇ!」

 この蹴撃ラッシュに絵茉も、縁から身を乗り出して声援を送る。このまま好調をキープできれば“欧州最強の女”から勝ちを奪えるかもしれない、いや絶対勝てる!――そう思った。

 しかし、ダウンを奪うべく渾身の蹴りを放った途端、軌道をしっかり読んでいた《装鋼麗女》にキャッチされてしまう。蹴り足を脇に挟まれ、不安定な状態の遥へビアンカがにやりと笑ってみせると、自慢の剛腕で短距離からのクローズラインを、殴りつけるように彼女の首筋に叩き入れた。喰らった瞬間、ぐらっと意識が一瞬遠退き、遥は無防備の状態で頭から硬い床板へと激突した。

 ビアンカは頭を抱えうずくまる遥を見下ろすや、顔色ひとつ変えず彼女の胸や腹へ、重いストンピングを連続で叩き込む。無抵抗の遥は蹴られる度に、陸に打ち上げられた魚のように大きく身が跳ねた。

 陽から陰へ。見物客の歓声が、一気に悲鳴へと変わる――「相手が強過ぎる」と誰もがそう思った。やはり十年のブランクからの“復帰戦”の相手が、リングに上がる回数が全盛期に比べ減ったとはいえ、未だ現役女子プロレスラーのビアンカ・レヴィンである事が、遥に対して勝手に抱いていた「勝利という幻想」を打ち砕くのに十分すぎたのだ。

 目の前の惨劇に、思考が停止し呆然としていた絵茉だったが、状況を把握するや大声で遥の名を絶叫した。

「遥姉ぇ……おねえちゃんっ!!」

 自分の拳を、荒ぶる感情のまま床をどんどんと強く叩く。周りは何も見えない、彼女の網膜にはダウンする遥の姿しか映っていなかった。

 ビアンカが醜く口を歪め、首をかっ切るポーズをみせた。早くも試合終了(フィニッシュ)を周囲の観衆にアピールすると、グロッキー状態の遥の身体を引っこ抜くように、自分の頭の高さまで軽々と持ち上げる。この場にいた熱心な女子プロレスファンには、《装鋼麗女》が必殺技(フィニッシュホールド)のラストライド(高角度パワーボム)を敢行する事は十も承知だった。もしこの荒業を喰らえば、今度こそ遥は一溜りもないだろう、とも。

 自分が舞台の上へ飛び出して、彼女を助け出してあげたいという感情をぐっと我慢して、尊敬する最愛の“姉”の姿を見つめる絵茉。

 あああああああああっ!

 見物客たちが悲鳴をあげた。

 遥の身体をグリップした腕が、勢いよく振り下ろされいよいよ“死への滑降”が始まった。絵茉は“最悪の結末”が目に浮かび思わず目を閉じてしまう。

「……させるかよっ!」

 誰もが“負け”を覚悟していたその時、遥が肚の底から叫んだ。そして脚をビアンカの首に引っ掛けると、落下する力を利用して股下へ向かって反り返る。惰性のついた《装鋼麗女》の身体は大きく、前方へ回転した。逆転技のウラカン・ホイップだ。驚きの喜びの入り混じった大きな歓声が、“諦めムード”で冷え切っていた会場に再び沸き起こる。

 ふらふらと立ち上がるビアンカに遥は、胸にパンチの連打を叩き入れ、上下へ鋭く重い蹴りを撃ち込んでいく。打撃の猛ラッシュでビアンカの身体は少しづつ後ろへ退いていった。突如遥が跳ね、全身をぐるりと傾けた瞬間、大きく勢いのついた脚が鉈で刈るように《装鋼麗女》の肩口へ突き刺さった。必殺の胴回し蹴りが決まり、彼女の巨躯はもんどり打って倒れる。

 打撃がヒットした箇所に力が入らず、苦悶の表情を浮かべるビアンカ。

 これが最後のチャンスかもしれない――そう直感した遥は目の下にいる“雌熊”の頭部を狙って蹴りを放った。が、同じく勝利への執着心の強いビアンカは蹴り足をキャッチし、非可動域に捻じ曲げながら持ち上げた。パワー系降参技(サブミッション)であるアンクルホールド(足首固め)が極まった。

 こいつを忘れていたなんて――遥は自分の爪の甘さを、足首の痛みと共に実感したが、悔やんでいる場合ではない。ここまで来たら“勝利”へ向かって前へ突き進むしかないのだ。

 片足を掴まれている不安定な状態で、バランスを取りながら立ち上がると飛び上がり、空いている片方の脚でビアンカの頭部を蹴った。彼女の踵がこめかみにヒットし、その瞬間視界がぐらりと揺れ、足首を掴んでいた手を離してしまう。

 ダメージが重く、よろよろと左右に傾く《装鋼麗女》。

 遥は気合一閃飛び上がり回転すると、大きく脚を開き、己のふくらはぎを相手の喉元へ、巻き付けるように打ち込んだ。現役時代には毎試合のように使用し、ニックネームであった《蹴撃天使》のイメージを、ファンに決定付けた彼女の“代名詞”的な技、フライング・ニールキックがずばりと決まった!

 ビアンカの巨躯は大きく後方へ飛ばされ、大音量の衝撃音を響かせて床板へと仰向けに倒れる。

 寝転がる《装鋼麗女》に追い打ちを掛けるべく、遥は彼女の上に跨ると顔に肘打ちを連続で叩き入れる。打撃によってビアンカの額が切れ出血すると、見物客のボルテージは更に上がり、(やしろ)の外まで聞こえんばかりのボリュームで騒ぎ叫んだ。

「いけぇ遥っ!」

「どんどん攻めろ!!」

 だがビアンカも押されっぱなしで終わらせる気はない。攻撃する相手の腕をキャッチし、勢いに任せて身体を反転させると今度は彼女が逆襲に転じた。固めた拳を鉄槌のように振り下ろし、遥の顔をめちゃめちゃに殴る。優勢と劣勢が交互に入れ替わるスリリングな攻防に、見物客たちも勝敗の行方を気にする事を忘れ、ただリズミカルに相手を殴打する様に酔いしれた。

 息をするのも惜しい程に、ふたりの打撃戦をじっと見守る絵茉。

 グラウンドでの攻防でも決着が付かず、痺れを切らした両者は立ち上がりスタンドでの勝負へ切り替え再び打ち合いを開始する。

 遥の肘や足が、ビアンカに突き刺さる度に被弾部分へ痛みが走る。

 《装鋼麗女》の重量感のある拳撃が、遥の身体にダメージを堆積していく――攻撃と受難を交互に繰り返し、お互いの体力は残り少なくなっていた。

 膝に手を置き、はぁはぁと肩で息をする両者。

 先に動いたのは遥だった。

 “勝利”への執念を込めた肘打ち(エルボーバット)を全力で放つ元祖《蹴撃天使》。己の最高速度(マックススピード)ではないものの、ヒットすれば確実に仕留められる自信はある――しかし渾身の一撃は、彼女の想いとは裏腹に空を切ってしまった。

 身体に堆積された疲労が、前へ一歩踏み出した膝を折り遥のバランスを崩してしまったのだ。

 ああ、やっぱ駄目だったか――ゆっくりと下りていく視線は、歯を食いしばり自分へ向かっていく好敵手(ライバル)の姿を捉えていた。

 黒い影が唸りをあげて接近する。それはビアンカの腕に巻かれているサポーターの色だった。額から鮮血をたれ流し凄い形相で駆けてくる《装鋼麗女》最後の武器である、クローズライン系の打撃技《ヴァルキリー・ハンマー》を、下からすくい上げるように遥の顎の下に叩き付けた。

 顎から脳天へ衝撃が突き抜け、四股から力が失われた遥は勢いに流されて後方へ回転する。一旦惰性の付いた彼女の身体は、最早自分の意思で止める事もできず、みるみるうちに神楽殿の縁へと転がっていった。

 絵茉が口を押さえ絶句する。

 騒がしかった見物客たちの声援はフェードアウトし、この場所だけが時が止まったかのような錯覚を覚えた。

 どすっ

 物体が地面に落下した音がした――それは遥の身体だった。この瞬間、《装鋼麗女》ビアンカ・レヴィンの勝利が決まった。

 落胆の溜息が、大勢の観衆の口から一斉に吐き出される。が、瞬時に暗いムードを一掃するように、勝者ビアンカを讃える拍手が自然発生的に、ずっとふたりの“死闘”を目の当たりにしていた人々から沸き上がった。

 ゆっくりと地面から身を起こして、顎を手で押さえ無事を確認する遥へ、舞台の上からビアンカが手を差し出した。

「――やっぱりあなたは“最強の女闘士”だったよ、ハルカ」

 彼女が差し出した手を遥は、躊躇なく握り舞台の上へと引き上げてもらう。

「いや最強はビアンカ、あんただよ。結果はあんな負け方だったけど、どうあがいても「勝てる」見込みはなかったわ。今日の所(・・・・)はわたしの完敗ね」

「今日の所は……? まだわたしに勝つ気でいるつもりなの?」

「あれっ、そう言わなかったっけ?」

 取組中の険しい表情とは違い、ようやく“戦闘モード”から解放され笑顔になったふたりは、どちらからともなく抱き合い互いの健闘を讃えあった。

 遥は、舞台の下で目を潤ませて拍手をしている絵茉に、「上がってこい」と目で合図すると嬉しそうな顔で靴を放り脱ぎ、ふたりのいる場所へ駆けあがる。間近で無事に闘い終えた遥の姿をみて安心したのか、それまで必死で堪えていた涙が彼女の目から溢れ出た。

「泣くんじゃないわよ、絵茉。本当に小さい頃から変わんないんだから……」

 指で涙を拭ってあげる遥。彼女も強がってはいるものの、擦れ気味な涙声だけは隠せない。

「いいもん。今までも――ずっとこれからも遥姉ぇの“妹”でいるんだからっ」

 遥は「馬鹿っ」と軽く絵茉の肩を拳で小突くと、彼女の身体を掴み自分の胸元へ寄せて抱きしめた。

 この感動的なふたりの抱擁が引き金となり、試合を終えテント内で休憩していた、RINAをはじめとする《角力ノ儀》の参加者たちがぞろぞろと現れ舞台へと上がり、全員が対戦相手ならびに他の選手の健闘を讃えあい労う。

 RINAが参加者たちと、にこやかに握手や抱擁を交わしている最中、焼けるような熱い視線を感じて急に振り返る。

 視線を向けていたのは遥だった。

 しかし、今まで接してきた彼女とは明らかに違う、まるで鋭利な刃物のような気配を強く感じる。遥の意図はわからないが――只事ではない事だけは“格闘女子校生”も察していた。

 胸の中では早まる鼓動と共に、“危険”を知らせるサイレンがけたましく鳴り響く。


「明日、とうとう帰っちゃうんだね。ちょっと寂しいなぁ」

 手に持ったグラスの中の僅かに残ったビールを、ぐるぐると揺らしながら目の前のRINAに呟く、ちょっぴり感傷的(センチメンタル)な気分の絵茉。

 《角力祭》が終了したその夜、初居大人をはじめこの祭に参加した選手やスタッフなどが集まり、祭の成功と参加者たちの労をねぎらう《打ち上げ会》が繁華街にある居酒屋にて開催された。初居による挨拶と乾杯の音頭の後、闘いの重圧から解放された女武芸者の面々は思いのまま飲み、テーブルに並べられた美味しい料理を食したりして、この楽しい“束の間の休息”を十二分に味わっていた。グラスを片手に彼女たちは武芸やプライベートなどを話題に、熱の入ったガールズトークを繰り広げ、話す側も聞く側も皆笑顔になって心地の良い時間を過ごしている。

「はい。そろそろ冬休みも終わっちゃいますし……」

 絵茉の言葉に、控えめに笑うRINAだったが、本当の所はまだ絵茉や遥たちと一緒にいたいと思っていた。だけど自分は此処の住人ではなく余所から来た只の旅行者に過ぎないし、地元へ帰れば高校生活や大好きな“彼氏”との日常が待っている――彼女たちとの別れを“大人”であるふたりよりも、恐れ寂しがっているのが実は彼女であった。

「でもまぁ、学生だから仕方ないよね。もし機会があったら――そうだ、春休みにでもまたおいでよ!今度はあたしん家に泊めてあげるからさ」

 絵茉はRINAの方へ、ぐいっと身体を密着させ自分の妙案をまくし立てた。しこたま飲んでいるのか、彼女の息がちょっと酒臭い。

 RINAが苦笑いを浮かべ返事に窮していると、横から絵茉の視界を遮断するようにビアンカが現れた。絵茉はつまらなそうな顔をしてRINAの側から一時退却する。

「よぉ、スクールガール! 目一杯飲んでるかい?……ってソフトドリンクをだけどね」

「あ、はいビアンカさん。十分に楽しんでいます」

 ふたりは互いに手にしているグラスを重ね合わせる。ビアンカはレモン割りの焼酎、RINAはコーラだ。

「――それで大丈夫なんですか、旦那さん?」

「ああ、リナが心配する事じゃないって。みんなダーリンが悪いんだ――女の恨みは鬼より怖いのよん」

 満面の笑顔のビアンカを、あの時の光景がフラッシュバックし複雑な想いのRINAは、只々彼女に“同意”するしかなかった。

 祭が終わりすぐの事――ビアンカは傷の手当てもそこそこに、参加したRINAをはじめとする女性集団の前に、既にボロボロとなっているケンジを引き摺って連れてきた。顔は青痣だらけ、目は死んだ魚のように虚ろな彼は恐怖に顔を引きつらせ“最強の嫁”の側で小さくなって、女武芸者たちの蔑んだ視線に晒されていた。

「や、やめろよビアンカ。昨夜だって散々伯父貴に搾られたんだ、もう……勘弁してくれよぉ」

 情けない声で懇願する旦那にビンタを食らわす《装鋼麗女》。試合でも十分決定打となりうる彼女の平手打ちをもろに受け、意識を“此処ではない何処かの世界”へ飛ばすケンジ。

「ダメよ! リナに全身全霊をもって死ぬ気で謝罪しなさいっ!! ひとりの少女の人生を狂わせかけた(・・・・・・)って自覚、ちゃんとあるの?!」

 そういうとビアンカは、ケンジを強引に跪かせると足で頭を押さえつけ、額をぐりぐりと地面に擦り付けた。擦れる痛さと彼女の重さに耐え切れない彼は、目の前のRINAに泣き叫ぶように許しを乞うた。

「うぅっ、ごめんなさい……ゴメンナサイ……ごめんなさいぃぃぃっ! 」

 これが自分の“貞操”を奪わんとした男の末路なのか――殺しても殺し足りない程憎い相手のはずなのに、この醜態ぶりを見せつけられると馬鹿負けするというか、何だかこんな輩を相手にする事自体無駄なような気がしてきたのだった。だからRINAはすうっとケンジの視線まで下りていき

「……わかりました、あなたの謝罪を受け入れます。だから――二度と私の前に姿を現さないでください」

と冷たく言い放ち、くるりと背を向けてその場を離れた。

 許された――と安堵するケンジだったが、意外な所から“第二波”が襲ってこようとは夢にも思わなかった。

「わたし、この人にエッチな事されそうになったよ」

 《旋風夜叉》ソンヒだった。話を聞けば数年前に町で声を掛けられ、強引にラブホテルに連れ込まれかけたとの事で、もちろんビアンカとは結婚済みの時期である。わなわなと口を震わせているケンジに更なる余波が直撃する。

「それだったら私もよ。ジムでトレーニングしてる時に彼が寄ってきて、“練習見てやるよ、こう見えても俺格闘技やってんだぜ”なんて言って、ひとの身体をべたべたと触ってさ。あまりにもしつこいんでチョークスリーパーで締め落として逃げてきたけどね」 

 今度はジェシカの“爆弾発言”だ。たて続けに露にされるケンジの“悪事”に、奥方であるビアンカの顔色が徐々に変わっていった。

「それじゃあ“犯罪者予備軍”じゃなくて、正真正銘の“犯罪者”じゃない。ダメじゃん!」

 絵茉が叫んだ。怒りと蔑みの視線がおんなたち全員から、一斉に向けられるケンジ。我慢ならなくなったビアンカは軽々と彼の身体を、頭の上までリフトアップすると力一杯地面に叩き落とした。身体を強く打ち付け苦悶の表情を浮かべるケンジに、休む間もなくRINA以外の女武芸者たちからは蹴りが降り注がれる。痛みと恐怖で動く事の出来ない彼は悲鳴を上げ、ただ蹴りの雨嵐を受け続けるしかなかった。

「女の敵!」

「この変態っ!」

 家にはこの鬼より怖い《装鋼麗女》が、そして地元の名士である最強の伯父貴が常に自分を監視しており、仮にこの土地を逃げおおせても伯父貴の一声で、武林の好漢たちとその弟子たちが草の根を分けて追ってくるという絶望的な状態にケンジは、自分の軽率な行動を悔やみ涙と鼻水で顔を濡らし泣いた――

「それでビアンカさん、これからどうするんですか?」

 RINAが尋ねる。《装鋼麗女》はグラスの中身を一気に飲み干すと淡々と語り始めた。

「ん? 離婚は――しないよ。これまでも、そしてこれからもダーリンと一緒に生きていく。確かにダメな旦那だけどいい所だってちゃんとあるし、そこに私は惹かれたの。だからちゃんとダーリンを叱り、時々なだめて“真人間”にみえるよう上手くコントロールし、彼の妻(・・・)として生きていくのよ」

 恥ずかしさか飲み過ぎか、原因は分からないけど頬を赤らめて嬉しそうに語るビアンカに、彼への愛情を十分に感じ取ったRINAは、地元にいる“彼氏”の事をふと思い出してちょっぴり妬けた。

「リナぁ、もう帰っちゃうの~? センセイは寂しいぞぉ」

 ビアンカがこの場を離れると、入れ替わるように今度はジェシカとソンヒが現れた。すっかり出来上がっている(・・・・・・・・)彼女たちはお互い肩を組んでけらけらと笑っている。誰から見ても“別嬪さん”なこのふたりだが、武林では《旋風夜叉》《碧眼魔女》という恐ろしい通り名で知れ渡る、女武芸者である事が俄かには信じ難い。

「はい。名残惜しいですけれど……」

「うん。あなたとの試合はとってもエキサイティングだった。この先の格闘人生に於いても二度と経験できないようなね。これからは今日の試合で味わった、スリルや興奮を求めて闘っていくんでしょうね、きっと私は」

 RINAの手を両手で包むように握り、興奮ぎみに語るジェシカ。試合時に施していた、ゴスロリ風の隈のようなアイメークを落とした彼女は、“善人丸出し”なとても穏やかな顔をしていた。

「リナ、今回貴女とは闘う機会がなかったけど、来年こそは対戦出来るよう初居センセイにお願いしておくからね!」

 いや、来年の事はわからないんですけど――そう言おうとしたRINAだったが、ヤル気満々のソンヒに何言っても聞かないだろうなぁ、と思って口に出すのを止めた。

「それでね、今日絵茉と闘って決めたんだ。私――もっと外に敵を求めようと思うのよ。だから、ジェシカが所属するチームに入って総合格闘技に挑戦するんだ。今の私よりもっと強くなるために!」

 《目標》を定めたソンヒの目は輝いていた。誰が何処で自分と同じく、女性で武芸を修練している人物がいるのか分からず、孤独感を感じていた彼女が同じ地域に、しかも複数人存在している事を知り、実際に拳を交し合った今、目先が内から外へと向くようになり、もっといろんな武芸者たちとボディ・コミュニケーションを取ってみたくなったのだという。

「そうですか! 頑張ってください、ソンヒさん。私も陰ながら応援しますね」

 RINAはソンヒの手を取り、笑顔で握手を交わす。《旋風夜叉》はそんな彼女の優しさがたまらなく嬉しくてつい、ほろりと一粒涙をこぼした。

「――お疲れ様、リナちゃん」

 ソンヒを強引に引き連れ、何だかよく分からない奇声を発して“次の標的”に向かうジェシカの後、RINAの“本命”であった遥が側にやってきた。彼女はあの全員が集まった舞台上を最後に、一度も会話をしていない。だからあの時、何故自分に対し“敵意”のような熱視線を向けたのか? その真相を聞きたかったのだ。だが遥は、無言でビールを飲み、皆が楽しく騒いでいる様子を眺めているだけで何も言わない。自分で見えない“壁”を作ってしまい、誰からの干渉も寄せ付けないようなムードを漂わせている彼女に、RINAはなかなか話しかける事が出来ないでいた。

 ふたりの間にだけ、重く気まずい時間が流れていく。

 この硬直状態を打開すべくRINAが口火を切った。

「なんで……ですか? 私、遥さんの気に障るような事しましたか? 至らない所があれば――」

「全然そんな事ない。むしろリナちゃんは十分すぎる程出来た子よ」

 彼女が話を終える前に、割り込むように遥がこれに応える。だがRINAは彼女の言葉をそのまま受け取ってよいのか、と考える――“答え”はまだまだ見つからない。

「でも若いのに大したものだわ、こっちが発信した“ラブコール”にちゃんと気付いているもの。武林の評判は伊達じゃないって事ね」

 やっぱり彼女は私に闘いを挑んでいる!――ようやくRINAの頭の中で、全ての情報の欠片(ピース)が繋ぎ合わさった。

 遥がすっと《蹴撃天使》の耳元へ口を近付ける。

 …………っ

 誰にも聞こえないような小さな声で語りかけた。

 RINAはこくりと首を縦に振り、「了解」の意思表示をするともう一度だけ遥と睨み合った。何が彼女を突き動かしているか知る由もないが、この闘いだけは避けるわけにはいかなかった。特に尊敬する“先輩”からの申し出であれば尚の事、だ。

 離れた場所にいる妹分の絵茉から声が掛かると、遥は何事も無かったかのように周りに笑顔を振りまき、普段通りの様子で彼女の方へ向かった。一方、重く圧し掛かるプレッシャーから解放されたRINAは、大きく安堵のため息をつき、グラスに残ったコーラを乾いた喉へ一気に流し入れる。手の中で温められ、すっかり炭酸が抜けたグラスの中のコーラは、只の砂糖水へと成り果てていた。


 早朝九時――

 温泉旅館『白鶴館』の駐車場に、一台の軽トラックが止まった――絵茉だ。彼女は、温泉街の中心部にある、高速バスが発車する大型バスターミナルまでRINAを送っていく為、投宿先であるこの旅館へとやってきたのだ。

 外気に触れ冷たくなった手を擦りながら、旅館の待合室(ラウンジ)に入るとさっそく彼女の姿を捜した。しかしそこには他の客もおろか、部屋の掃除をしている数名の仲居さんしかいなかった。

 絵茉の姿に気付き、旅館の女将が小走りで近付いてきた。

「あら絵茉さん、おはようございます。どうなさったんですか? こんな朝早くに」

「ええ、リナちゃんを町のバスターミナルまで送っていこうかと――彼女、まだ部屋ですか?」

 女将は、彼女の言葉に不思議そうな顔をする。

「リナちゃん……? 今朝早々――三十分ほど前ですかね、チェックアウトされて既に出て行かれましたけど。てっきり彼女、絵茉さんと何処かで落ち合うとばかり」

 絵茉の顔が蒼白となる――もしやあの娘、また“トラブル”に巻き込まれたのかも? 不安が胸の中で大きくなり抑えきれなくなった彼女は、居ても立ってもいられなくなり、慌てて旅館を飛び出していった。

 ――リナちゃん、一体何処へ行ったのよ?!

 山と木々に囲まれた辺りの景色を、慌ただしく目で追いRINAの姿を捜すが、既にこの場所にはいないと感じた絵茉は、アテはないがとにかく広範囲を捜索してみようと、逸る気持ちで軽トラックを疾走させた。


 冷たい雪がちらつく中、山間にある野原へ黒い軽自動車が進入してきた。こんな早朝に、しかも観光地でもないこの場所に人がやって来る事自体異状であった。降り積もる粉雪で白く染まった枯れ草の上に、轍を描いて車が停まると中から女性がふたり降りてきた。

 遥とRINAだ。

 彼女たちは横並びになり、白い息を口から吐き出しながら野原の中央付近へ向かい歩いていく。その間一切無言で視線も合わさない。鉛色の寒空の下、ふたりしかいない山間の景色は何処か“異世界”を感じさせずにはいられなかった。

 遥がぴたりと歩みを止めた。

 RINAは側を離れると、2m程の距離を取った後彼女と向かい合う。

 互いの、鋭い眼光がばちばちっと交錯する。

「――リナちゃん、覚悟はいい?」

 遥の問いに、目の動きだけで返答するRINA。

 着用していた上着を脱ぎ、地面へと放り投げ戦闘に備える両者。地面に積もった雪を踏み固めながら、じりじりと間合いを詰めていく。

 彼女たちの頭の中で、“試合開始”の号令が聞こえた瞬間、ふたり同時に胸部へ向けて前蹴りを繰り出す。防御など一切考えていなかった彼女たちは、相手の蹴りをもろに喰らい、大きく後ろへと転倒した。

 患部を押さえ苦々しい表情の両者。

 相手より、一歩でも優位に立ちたい彼女らは表情を元に戻し、背筋力を使って跳ね起きると今度は、顔を狙っての回し蹴りだ。これも高く上がった脚同士が交差しダメージを与える事が出来なかった。

 一度ならず二度までも、攻撃に失敗し苛立つ女武芸者ふたり。《蹴撃天使》の通り名を頂く彼女たちらしく、蹴りを中心とした攻撃のロジックが似通っているので、“合せ鏡”のような展開となっていた。

 遥は停滞する闘いの流れを変えるべく、相手にない技術――レスリングで勝負を決めようと、地面を蹴ってダッシュするとRINAに、矢のような胴タックルを敢行した。スピードと体重差による衝撃の強さで、人形のように宙に浮いたRINAは、そのまま落下し雪原へ身体を激突させる。

 背中を押さえ悶絶する《蹴撃天使》。突破口を開いた遥は間髪入れず、彼女の腕を取ると腕ひしぎ十字固めの体勢に入る。しかし極められまいと上体を起こして、必死で腕を掴みこれを防御する。だが遥の「引く力」は異常に強く、最強女子高生といえども、命綱ともいえる腕のグリップも保つ事も厳しくなってきた。このままだと確実に、肘の靭帯が伸ばされ自ら「敗北」を口にしなければならない――想像しただけでも我慢ならないRINAは、技が掛かっている状態ながら無理矢理立ち上がると、真下となった遥の顔を力一杯踏みつけ“関節地獄”から脱出した。

 技からは逃れられたものの、極められていた方の腕に力が入らず苦悶の表情のRINAに、遥は追い討ちを掛けるべく患部を容赦なく蹴り続け“潰し”にかかった。片腕が利かないとなると拳打による攻撃はおろか、防御にも支障をきたしてしまう為彼女にとっては死活問題だ。遥の蹴りが腕を直撃する度に骨まで響くような痛みに襲われ、無事な方の腕のみで必死で防御するもののどこか心許ない。相手の猛攻にRINAは次第に追い詰められていく。

 がつっ!

 ガードを固めていた腕を、力で押し切って遥の蹴りが側頭部へヒットする。とうとう腕一本での防御にも限界が来た。 RINAはダメージを受けよろよろと身体を揺らすが、意地と気合で何とか踏み止まり地面へ倒れる事を拒否する。遥はもう一度――今度は確実にダウンを奪うべく渾身の一撃を放った。

 RINAのポニーテールが宙を舞ったと同時に、遥の腹部に激痛が走る。彼女の目にも止まらぬ速さ後ろ蹴りが、ずばりと肚に突き刺さったのだ。蹴り脚を廻り切る途中でストップさせられ、耐え難い痛みで身体をくの字に曲げる遥に、休む暇なくRINAの黒いタイツで覆われた膝頭が襲い掛かる。突き上げるような飛び膝蹴りは無防備の顎へヒットし、推進するRINAの身体と一緒に遥は、雪に覆われた大地へと転倒した

 身体を重ね合い、胸を上下に動かし苦しそうに呼吸するふたり。

 止む事なく降り続く雪が、彼女たちの身体を白く染めていく。RINAは痛む身体を起し、遥の身体から身を剥がすと横並びになって大の字に寝転がり、天から舞い落ちる粉雪を仰ぎ見た。

 ――何やってるんだろ? わたしたち

 興奮で熱くなっていた頭の中が、雪の冷たさと外気の寒さでクールダウンされて、次第に冷静さを取り戻していくと、RINAは闘っている事が馬鹿馬鹿しくなってきた――何もかも無意味なのだと、そう思えたのだ。遥との闘いには何の“テーマ”があるのか? この闘いの果てに達成感なんてあるはずがない、あるのは相手に対する失望と後悔だけだ。どちらが勝っても負けても!

「もう……やめません? こんな事」

 《闘い》は一方が闘争心を失った時点でそれは《暴力》となり、「対戦相手」から「加害者と被害者」という関係へと移り変わる。だからRINAは闘いの中止を求めた――遥とはいつまでも好敵手(ライバル)でいたいから。

 黙ったままの遥。はぁはぁとリズミカルに発せられる呼吸音だけが、この《ふたりの世界》で唯一聞こえる音だった。

 そして――ようやく口を開いた。

「――どうやらここが“武芸者”と“獣”との境目のようね。わかったわ、この勝負“無し”にしましょう」

 彼女もこの重圧から解放され安堵したのか、上体を起こし胡坐をかいてリラックスした体勢を取る。厳しかった表情から一転、いつもの温和な遥の顔に戻り、それを見てRINAは安心する。

 再び沈黙が続く――だが居心地はそんなに悪くない。遥が次に口を開くまで少女はじっと待つ事にした。

「上手く説明はできないけど感覚的に“何かが足りない”って気がしたのよ」

 天を仰ぎ見ながら、ぽつりぽつりと語りだす遥。

「《角力祭》でビアンカと闘った事で、ある程度の手応えは掴めたと思う。だけど――再び闘いの世界へ身を投じるには“もうひと押し”が必要だった。ぽんと私の背中を押してくれる人が」

 彼女の言葉に、黙ってこくりと頷くRINA。

「それがわたし――だと。それで遥さんの期待に応えられたのでしょうか?」

 RINAに問われると、遥はいろいろな感情が入り混じる微妙な笑顔を見せた。

「まぁね。こちらの一方的な“ラブコール”を受けてくれた事は本当、感謝している。実際にリナちゃんとの闘いは、十分すぎる程私にいろんな事を思い出させてくれたわ。闘う歓びもダメージを受けた時の痛みも――相手への嫉妬心(・・・)もね」

「…………」

「闘っていてね、気付いたの。あの時私をトップの座から蹴落とそうとした、同期の子と自分はいま同じなんだ(・・・・・)、って。自分を超える“才能”を持つ、一番近くにいる人物に嫉妬し憎み、己の能力の限界を認めず自分の前へ歩んでいく事を良しとしない――自分が一番嫌っていた、なりたくないと思っていた人間に成り果てようとしていた――ありがとう、リナちゃん。大事な事を思い出させてくれて」

 遥の瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。

 格闘家として純粋に闘える歓びとは逆に、相手への憎しみや嫉妬という相反する感情がせめぎ合い、暴走する一歩手前で自ら退いてくれたRINAには感謝してもしきれない。

「遥さん……あなたと闘えた事は正直嬉しかったし、同時に怖かったです。途中で致命傷を負い、“一生闘えなくなるんじゃないか?”と思うぐらい厳しい攻めでした。わたしから闘いから降りたのは、そうする事が後輩としての役目だと思ったから――間違っていましたか?」

 遂に感極まった遥は、RINAを力一杯抱きしめた。

 ごめんね、ごめんね、ごめんね―― 

 感謝、謝罪、後悔、慙愧――あらゆる感情が涙の粒となって頬を伝い流れる。彼女の腕の中に包まれながらRINAは「これでよかったんだ」と安堵の表情をみせた、目には薄らと涙を溜めて。

 土手の上を白い軽トラックが、軽快なエンジン音を響かせて走ってきた。――絵茉の車だ。彼女は慌てて停車させるとドアを開け、雪原にいるふたりに大声で叫んだ。

「遥姉ぇ! リナちゃんっ!」

 一刻でも早く彼女たちに接近したい。絵茉は逸る気持ちで土手を下っていくが、途中で雪に足を取られ転倒。そのまま真下まで雪煙をあげて転がり落ちていった。

 あまりにも突然の事で、抱き合ったままぽかんと口を開け唖然とする遥とRINA。

 しばらくして身体の回転は止まり、ベージュ色のロングコートに貼り付いた雪を払い落すと、絵茉は立ち上がり雪原のふたりに腕を広げて飛びついた。

 彼女の勢いに押されて、一緒に雪の上へ大の字に倒れる遥とRINA。自分たちの、あまりにも滑稽な姿についおかしくなって、RINAが声をあげて笑い出した。見栄や虚勢も張っていない、あまりにも自然で

年相応な女の子らしいRINAの姿に、“姉”ふたりもつい釣られて笑ってしまった。痺れるような寒さの中、雪原の上は暖かい笑い声で溢れ返った。

「あー可笑しい……でも絵茉、よくここが判ったわね?」

 遥は不思議そうな顔で絵茉に尋ねた。彼女に言わせれば別に難しい事ではなく、幼い頃から自分たちはこの野原を遊び場や練習場としていたし、遥が多感な時期には、何か(・・)心配や不安等があるといつもひとりでここに来て、何時間も考え事をしているのを見ていたので今回ももしかして――と思い、自然とここへ車を走らせたというわけだ。

「まったく――行動パターンが昔っから変わんないね、遥姉ぇは。それで結論は出たの?」

「うん……もう一度プロレスラーに戻ろうかな、って。無理を言ってリナちゃんと闘ってみて、やっぱり私は“闘う側の人間”なんだって気付いたの」

 再び“修羅の道”へ歩み出す事を決意した、遥の表情は心底明るかった。絵茉がこんな吹っ切れた遥の顔を見たのは、プロレスラーを目指して上京する前にふたりで会った時以来だった。

「頑張ってください遥さん!わたし、応援しますから――」

 RINAが言いかけた途中、悪寒と共に鼻の奥から、むずむずと耐え難い生理現象が湧き上がってきた。こうなると出来る事といえば、口に手を当て身体を縮ませるしかない。

 はくしょんっ!

 小さな身体からは想像できないくらい、大きなくしゃみが勢いよく飛び出した。驚いた“姉ふたり”の視線を一手に浴びて、RINAは顔を真っ赤にして恥ずかしそうに下を向いた。

「あはははは! それじゃあ私ん家に戻ろっか?このままだと皆風邪引いちゃいそうだしね。リナちゃん、高速バスの時間までまだ大丈夫だよね?」

 遥の問いに、RINAはこくりと首を振って返事をする。

「遥姉ぇ、あたしカフェラテ飲みた~い」

「はいはい。リナちゃんは?」

「わたしは……ミルクティーをお願いします」

 絵茉とRINAは遥を挟むように寄り添うと、彼女は大きく両手を広げ嬉しそうな顔で、ふたりの肩を抱き自分の方へ引き寄せる。遥や絵茉、そしてRINAもこの幸福な時間がいつまでも続けばいいな、と蕩けんばかりの空気の中で願った。しかしもうしばらくすれば彼女たちも――そして自分も、忙しい“現実”の世界へ戻っていかなければならない。ならば一瞬だけでも、目一杯この素敵な時間を楽しもうじゃないか。RINAは自分の頬に、遥の体温を感じながらそう考えていた。


                                              終

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