許されざる恋の呪詛
戦国の時代から、歴史の表舞台には決して現れないが、時の為政者に請われ、護られ、脈々と続く家があった。
その一族の姓を上満という。
時の為政者に護られてきた理由は、その一族の直系の女児だけに現れるという力にある。
それは男のどんな野心をも叶えさせるというものであった。
だが、その力を得られるのは娘の生涯でたった一度だけ。娘を大人の女へと羽化させたものに与えられる。その幸運の力量は座敷わらし10人分に匹敵した。
故に野心を燃やす男達は、時が移ろっても、こぞってこの家の娘を狙っていた。ある者は大金を当主の前に積み上げ、ある者は攫おうとした。
しかし当主も金の成る木と分かっていて「はい、そうですか」とは渡さない。力を得るにふさわしい人物か見極め、後々上満家にとって有益をもたらす相手と判断してから契約をする。その契約は輿入れをいう形の場合もあれば、妾という場合もあった。だが、そこに娘の意思はない。一族の総意で契約は履行される。
そして、上満家の娘には、契約の前に何者かに力を奪われることがないよう、幼少のころから影者がひとり付くのが定まりだった。
その影者を輩出している家もまた、上満家に寄り添いながら深い深い歴史の影に潜み、今の世まで続いてきた。だが、本家が何処にあるのか、当主は誰なのか……それは上満家の現当主しか知らない。
上満椿にとって草月は、物心ついたときから傍にいて、遊び友達のようなものだと認識していた。
同い年にも関わらず全てを完璧にこなす草月は、椿の憧れの対象であり、時に自尊心を傷付ける。
小さい頃は、かくれんぼをしている友達が見つからないとベソをかく椿の手を握りそれとなく隠れている場所を教えてくれたり、転けて膝から血を出した椿の傷を洗いおんぶして家まで連れ帰ってくれもした。
ある時、椿はいつも椿の側にいて女の子の遊びに付き合っている草月に思いきって訊ねた。
「男の子の友達と遊ばないの?」
椿は知っていた。草月がクラスの男子に椿の金魚のフンだとか、女と一緒に遊ぶオカマ野郎だとか謗られていることを。その大半は草月がクラスで一番背が高くて、かけっこが早くて、勉強ができて、女の子にモテている事が気に入らない。なによりも可憐で秘かに男子の憧れの的である椿に当然の顔で貼り付いている草月へのやっかみからだったのだが、椿は自分のせいだと思った。自分が不甲斐ないから、草月が安心して他の男の子友達と遊ばないのだと考えた。
「私、一人でも大丈夫だよ。草月がいなくてもヒトミちゃんともトモコちゃんとも仲良くできるよ」
本心は少し寂しかったのではあるが、それより草月がクラスの男子と上手くいっていないのが心配だった。だが、草月はそんな椿の天使の輪が浮かぶ黒髪をひと撫ですると安心させるようにふわりと笑みを見せた。
「そんな顔するな。俺のことは大丈夫だ」
そう言って、椿と一緒に女子と遊ぶのだった。
草月は女子の間では人気が高く、はないちもんめをしようものなら草月ばかりが取りあいになる。果ては誰と手を繋ぐかで喧嘩が始まってしまうのだった。それでも草月の左側は必ず椿。そんな状況を許してしまっている椿もまた、クラスの女子からやっかみを受けていた。いつも草月が傍にいるものだからあからさまな嫌がらせはされないものの、聞こえるか聞こえないかといった声で陰口を叩かれたこともあった。
中学、高校と進学するにつれて周りとの距離感は遠く、やっかみは陰湿なものに変わっていく。けれど、どんなに椿が拒否しても懇願しても草月は常に椿の右側にいるのだった。一度は椿と草月は付き合っているのではないかと揶揄されたこともあったが、そんな甘やかな関係でないことは、椿自身がよく分かっている。いつも誰よりも近い場所にいるのに、友達とも恋人とも違う距離感を保とうとする草月。それは椿に草月をとても遠い存在に思わせた。
草月がたくさんの女の子に告白されているのを椿は知っていた。いつかこの手を離される時が来るかもしれないと、そう思うだけで息が苦しくなる。草月との関係はただの幼馴染み、ただそれだけ。椿の救いになっているのは草月がその告白のどれもを受け入れていないらしいことだった。
2月、椿は16歳の誕生日を迎えた。
16歳、それはこの日の本で女子が結婚出来る歳でもある。
一族の親類縁者を迎えての盛大な誕生日パーティーが、上満家の大広間で催された。
椿は深紅のドレスを着て、招待客の前でお礼のスピーチをした。右隣には黒いタキシードの草月がいつものように立っている。その胸には深紅の椿の花枝が挿されていた。椿は草月の凛々しいいでたちに頬を赤らめて見惚れた。
パーティーが終わり招待客が引き取った後、椿は父親に書斎に呼ばれた。
なぜか草月の姿が見えず、ひとり父の書斎の扉の前に立つとその扉はとてつもなく大きくみえた。緊張で身を硬くしたまま、椿はそろりとドアをノックした。
「入りなさい」
「失礼します……」
実の父ではあるが、目の前の人は上満家当主の顔をしていた。椿はカラカラの喉を潤すために小さく唾を飲み込んだ。
「まずは、16歳の誕生日おめでとう」
「ありがとうございます……」
父が何を言いだそうとしているのか分からない。けれど、椿はただお祝いを言うために呼んだのではないと予感していた。お祝いの言葉なら先程のパーティーで言ってもいいはずだった。そういえば、父からはお祝いを言われていないことに椿は気付いた。
「お前が16になるのを待っていた。16歳というのがどんな歳か分かるかね」
「高校1年生という事しか……分かりません」
バイクの免許が取れる歳だっただろうか。飲酒、喫煙には興味はないけれど、それらは二十歳を過ぎてからなのは椿にでも分かる。
「16歳というのは女子が結婚できる歳だ。椿にいい話がある」
椿は耳を疑った。いくら結婚できる歳だと言ってもまだ学生である。それに許嫁がいたなんて聞いていない。
「相手は財閥の跡取りでいずれ日本を背負って立つだろう有能な男だ。金城といえば椿も分かるだろう?」
そのあまりにも有名な名前の男は、椿が知っているだけの情報でも40歳を過ぎてなかっただろうか。派手な色のネクタイ。野心家でガツガツした印象のその男は、度々ワイドショーを賑わしていた。男には確か妻がいたのではなかったか。
「否は言わせない。これは一族の総意なのだ。なあに内縁の妻という立場だが椿を不自由なく幸せにするとあちらさんは言ってくれている。安心して身を任せておけばいい」
椿は絶望的な瞳で淡々と実の娘の妾話を口にする父を見た。
耳鳴りがして途中からは父の声が遠く聞こえた。
「椿にはまだ上満家の真の生業と役割を話していなかったな。これはお前にしかできない事だ……」
想像を絶する話を父から聞かされ、椿はショックでどんな風に自室に引き取ったのかも覚えていなかった。気付けばベッドの上で両瞼が赤くなるほど泣き腫らしていた。
「そんな力の為に知らない男に抱かれなくちゃいけないなんて……」
椿はまず死のうと思った。そして、部屋の中から凶器になる物を探したが、思考回路を父に読まれていたのだろう。ハサミやカッターナイフといったものが部屋から無くなっていた。
次に家出をしようと思い立った。椿は貯金通帳といくらかの現金。そして小さな栞。これは小さい頃に草月にもらった四つ葉のクローバーが挟まれている。それだけをポシェットに入れると、二階の窓の雨戸いを伝って闇に溶ける庭へと降り立った。
「こんな時間にどこへいく」
その時、闇から不意に声を掛けられた。椿はビクリと肩をすくませたが、声の主が草月と分かってほっと安堵の息を漏らした。
「放っておいて! 私もうこの家を出るんだから」
「そうはさせない」
プイと塀の方を向いた椿の二の腕をすばやく草月は掴んだ。振り解こうと暴れる椿を草月の腕の中に囲ってしまう。甘やかな鎖に椿は、自分がこんな状況であるにも関わらず喜んでしまっているのに気付いた。耳に草月の冷たい声が囁く。
「箱入りのお前に何ができる? 椿が家を出ても俺が必ず連れ戻す」
「いやっ! ここにいたら知らない男のところへ連れて行かれて抱かれるだけだもの。草月はそれでいいの? 私は嫌! 草月と離れたくない。草月以外の男のところへなんかお嫁に行きたくない……私、草月の事が好きなの!」
ギュウっと彼の袖口を握っていた椿のこぶしに、大きな手が重なる。
草月の表情が苦しげに歪んだ。
可哀相だがこの縁談、もとい契約は椿がどんなに嫌がろうと履行される。
それがこの家に生まれた椿の役目であるからだ。
椿を連れて遁走してしまえたらどんなにいいだろう。家もお役目も何もかも捨ててしまえと悪魔が草月に囁きかける。
警護対象の上満家の令嬢に手を出せば粛清されてしまう未来が待っている。
何処に逃げようが追手がやってくる。そんな気の抜けない日々と暗い未来に、どうして椿を巻き込めようか。
初夜さえなんとか乗り切れば、望まない相手だったとしても椿には平和で安穏とした未来が約束される。他の男に椿が抱かれることを想像すると心臓が引き絞られるような苦しさが襲ってくるが、どうしようもない。
草月は椿を気絶させると、彼女の部屋まで送り届けた。
椿の家出未遂は当主の知るところとなり、椿は金城の家に行くまでの間、自宅の自分の部屋に軟禁されることになった。食事は決まった時間に運ばれるし部屋にはバスルームもあった。外では常に草月が傍にいるのだが、家の中だけは違った。実をいうと、草月の家がどこなのか椿は知らなかった。知らなくても時に困った事は無かったし、知ろうともしなかった事に愕然とする。
(草月の事、なにも知らなかったんだ)
「草月、いないの……? どうして、傍に居てくれないの……」
◇◇◇◇◇
金城の家から迎えが来た。黒塗りの乗用車の後部座席に座らせられると、両脇を屈強な男に挟まれた。
旦那様になる男はどんな人なのか、訪ねても誰も答えをくれはしなかった。
草月はどうしているだろう。
別れの時にも姿を見せてくれなかった……。椿の頬に涙が一筋線を引いた。
金城の家は大きな日本建築の屋敷だった。高い塀に囲まれ、砂利を敷き詰めた広大な敷地の中にでんと立つ瓦屋根の屋敷。
背中を押されるようにくぐった玄関には、お仕着せの着物にフリフリのエプロンを着けた女性が並ぶ。おそらくこの屋敷の使用人なのだろう。
その前に眼鏡をかけた男が立つ。今日も派手ないでたちだ。そして椿を舐めるようにその視線で犯す。椿はぞくりと背中が粟立つのを感じた。
「ようこそ、椿さん。お待ちしておりましたよ」
硬直したまま椿は、金城の腕の中に囚われた。
その晩、使用人の女性に連れていかれた浴室で身体の隅々までを擦られ洗われた。
そして白い絹で仕立てられた和服の寝間着を羽織らされる。下着は用意されていない。
「あ、の……他のパジャマは」
椿が訊ねても使用人の女性は黙ったまま、椿のウエストに腰紐を結んだ。
そして……。
案内された和室には布団が一組敷かれていた。枕はふたつ。その意味が分からないほど椿は子どもではなかった。
父は私が妾として金城家に入るのだと言っていた。
誰もいない和室の畳にペタンと座った椿は、心細げに障子にうつる紅葉の影が風に揺れるのを見ていた。
このまま逃げられるものなら逃げてしまいたい。
ゆらりと障子に人型の影が映り、椿ははっとした。その影は椿の一番会いたくて、今一番会いたくない人のものだったから。耳に自分の心臓の音が届くくらい椿はドキドキしていた。けれど、その影は濡れ縁の外に石のように佇んだまま、入ってこようとはしない。ともすれば椿が焦がれて作った幻影なのではないかと思うほどに。次第に動悸は静かに治まってきた。
「……手に入らないならいっそのこと無理に手折ってしまおうかと何度も考えた。けど俺にはお前を手にかけることは出来なかった。お前を幸せにすることが、俺にはできないから」
幽かだけれども苦渋にまみれた絞り出すような声が、サラサラと葉擦れの音とともに椿の耳に届けられる。
「幸せになんか……草月の傍にいられない私が、幸せになれると思ってるの? 私が草月を幸せにしてあげたい……」
声は彼に届いているだろうか。ジリとも動かない影に向かって呟く。
パンパンパンと一人の人間が、舞台の上の役者に賛辞を贈るような拍手が襖の裏から聞こえた。
「こりゃ結構。そうか君たちは両想いだったというわけか。だが、血の掟があっては手を出せまいね。そこで見ているといい。いくら焦がれても抱けなかった女が他の男に抱かれて乱れていく様をね」
そこにいたのは金城、その人だった。揃いの白い和服の寝間着が意味するところに思考が辿りついて椿は蒼白になった。
「そうだ。力を手に入れたら君に椿をやってもいい。力を無くしたあとはなんのうま味もないオンナだがね。今後蒼影流がうちの仕事を請け負ってくれると約束してくれるならいい取引だろう? 次期蒼影流当主の草月くん?」
くすくすと愉快そうに笑う金城は、ゆっくりと椿に覆い被さった。椿の細い手首を纏めて紅い腰紐で縛り上げる。 椿は絶望的な気持ちで、愉快そうに語る金城の言を聞いていた。
「おや、椿は知らなかったの? 直系のお姫様を護るのは、蒼影流の当主の息子だということを。蒼影流は歴史の陰で上満家の護衛、そして諜報、暗殺と大活躍の隠密の家系だよ。その力を欲するものもまた多い」
畳に倒れ込んだ椿の脚の間に身体を入れた金城は、椿の白くて滑らかな頬から首筋にかけてを執拗に舐めた。
「草月……! 助けて、お願い!」
「ふははっ、そそるね。だが、彼には君を助けられない。大人しくしていれば、優しくしてあげるからね、椿ちゃん。草月くんが要らないというなら他の男に高く売ってもいいな。処女なんてねありがたがるヤツもいるけど、俺はそうは思わない。俺はね自分の奥さんを愛しているんだ。君を抱くのは力を得るためなんだよ。キミの力と草月くんの力、どちらも手に入れられたら俺はこの国を牛耳ることができる」
好いた人の前で初花を散らされるなんて。死んでしまいたいとさえ椿は思う。
草月もまた、抗えないほどの私情が吹き荒れていた。
気付けば障子を勢いよく開け放ち、椿に覆い被さる金城の首筋に冷たく光る刃を押し当てていた。
「内縁の妻といえど大事にしていただけるというお約束のはず!」
「ふははっ。うそも方便だと言うだろう。それとも何かい? 俺を殺して椿を奪うかい?」
草月が椿の上から金城を蹴飛ばし転がす。まだ固まっている椿の腕をとると、金城の子飼いの影が動いた。
「上満家には3億を支払ったんだ!その女の力を頂くまでは逃がす訳にいかない! お前らやれ!!」
転がったまま狂った目をした男が喚く。その声を合図に屋敷の闇、庭の闇に潜んでいた影が動いた。
「目を瞑っていろ。お前には見せたくない」
椿を背に庇いながら草月は影と斬り結んだ。うめき声と金属の擦れ合う音が恐怖から目を瞑った椿の耳に届く。
「この際、力だけでも」
ぐいっと椿の腕がひかれ引きずられ、押し倒された。背中に床 の硬くて冷たい感触が寝間着を通して伝わる。裾を乱暴に割られた。 椿はこれ以上裾が乱れるのも厭わず、脚をばたつかせ抵抗する。
「いやぁ……!!」
椿の抵抗の声が上げられたのと同時に草月は金城が助けを呼ぶ声もあげるまもなく…その首を掻き斬った。
赤い飛沫が椿に降りかかる。その向こうに冷酷にも表情を変えない草月の姿があった。
引き上げられ立とうとするが、椿の脚に力が入らない。草月は椿の背中を支え、膝裏に手を差し込んで抱き上げた。
屋敷内にいた影はもうない。
「どこに向かっているの」
「上満家のお屋敷です」
椿は自分を抱き上げて走る草月に問うた。そっけない返事が返ってきて、椿は草月の胸に頭を擦りつけるように嫌々をした。
「いや…! 私を連れて、逃げて」
「それは、出来かねます。実家に…お送りいたします」
「どうして!家に戻ったら、私、また別の男のところへ嫁かされてしまうもの。草月は私のことが好きなんじゃないの? こんな力なんか要らない!!」
嗚咽と共に草月の肩口が涙に濡れる。
――好きですよ。
そう言えたらどれだけ楽だろう。 気持ちを知られた今でも、それを舌の上に乗せるのを躊躇してしまう。
それは、草月と椿の今の関係を終わりにしてしまう呪詛なのだから。