箱の中、本の部屋、御神体の少女
――――目が覚めた。
変わらない部屋。家具も窓もない真っ平な薄暗がりに、無数に積み上がった本の壁、その中心で私は寝ていたようだ。
暗がりで時計は朝6時半を指している。散乱した本で柄もよく見えない絨毯の上、付きっぱなしの読書灯を眺めながら、寝ぼけた頭で考えてるとだんだん頭が冴えてきた。
今日は何曜日だったかしら。体感的には日曜か、日曜ならもうすぐ――――
コンコンコン
控えめなノックが思考を遮った。
「おはよー、神さまー。日曜ミサしますから降りてきてくださいねー。」
おおっ、だれだこれは。新入り信者かな。
「バカッ! そんな言葉遣いがあるか! ここには来ちゃだめだから、もう戻ってなさい。
――――神様、もうじき日曜日のミサが始まります。どうかいらしてください。」
これは先生かな。めんどくさい。
なんとなく黙っていると、本をズズズと押しのけながらドアが開かれた。長い長い夜を抜け、唐突な朝が私の部屋に訪れた。何日かぶりの直射日光を浴びて、思わずキャアと悲鳴を上げる。
「陽の光に弱いなんて、鬼か悪魔ですかあなたは。」
開け放たれたドアの外から悪態をついたのは、裁判官のような黒い祭服に身を包んだメガネの若い男。
「先生、極東の太陽神は岩の中に引きこもったって本で読んだよ。私はちゃんと神様やってますよ。」
「そんなマイナー神の話は知りません!早く支度してください!」
聞く耳持たず・・・。私は栞代わりの髪留めを本から引っ張り出して立ち上がる。本の上に無造作に広がっていた金色の髪を束ねて、陽光を知らない白いうなじのあたりでそれをまとめた。
「少し切った方がいいですね。床に摺れそうですよ。」
日曜の早朝から口の減らない男め。
「着替えるからもう行ってていいよ。
だいたい、今年で18歳になるレディの部屋に無理やり押し入って起こそうだなんてデリカシーに欠けると思わない?」
「さっきあなたが言ったひきこもりの神様は、他の神様に迷惑掛けて、たしか最後は男神に引きずり出されたはずですが。」
言うだけ言ってドアを閉めようとした。
・・・なんて口の減らない男だろう。ってか知ってたんじゃん。
近づいて奴が閉めかけたドアを掴む。
「先生、君は確か私の8個上だったかな?」
「そうですけど、なにか?」
私は軽く頷いて背筋を伸ばす。女の割に背が高い私は、男の割に背の低い彼を若干、本当に若干上回る。
「ちっちゃいね。」
「・・・急いでくださいね。」
バタン
心なしか乱暴にドアがしまったような気がした。
カッカッカッ、神に逆らうとこうなるのだ。
実際のところ私は神様じゃないし、自分が神様だなんて信じているわけじゃない。本当に小さい頃には周りから煽てられて「私は神です。」なんて騒いだイタイ時期もあったけど、本が読めるようになってからは、私は自分が神でないことを確信した。
先生だって心の中では信じてないだろう。でもここでは私は神様で、私と、先生と、父以外はそう信じている。ここは父が作った宗教の、父が作った教会。15年前にできたばかりの新興宗教というやつだ。某宗教をかるーくアレンジして、神様が今地上に降りてきてるっていう設定にしたらしい。
父は教祖で先生は私の付き人という名の子守役。いつからここにいるのかは知らないけど、本の読み方や、わからない単語は自分で辞書を使えるようになるまで先生に教えてもらったし、文字の書き方も習った。だから先生なのだ。
私の役割はご神体。私に神様が乗り移り、神様の言の葉を信者に伝えるそうだ。だけど私自身はあくまで預言者。私に憑依する神様役は、他にいる。
ミサ用の正装に着替えて髪を梳く。顔と、体のほとんどを隠す白い祭服。頭巾を被ると長髪も隠れた。髪を梳く意味なんてあるのかしら。
ものの10分で支度を終えて外に出る。
「思ったより早かったですね。」
部屋の前では先生が待っていた。
怒って行ったと思ったのに。小さいなんて言って悪かったかな。
「ごめんね先生、先生は心は大きいよ。」
「・・・はぁ。
精霊はもう出てきてるんですか?」
精霊は、無形の光の塊は、人の頭ほどの大きさで、私と先生の間に浮いていた。でも先生にはそれは見えないし、私以外ほかの誰にだって見えない。物心ついた時から一緒にいる私だけの「友達」。
それでも神様を信じない先生と父が、見えない彼女の存在を信じているのは、彼女の力を知っているからだ。
「精霊ではありません神様です。神様はいつも皆のしゅぐしょばに。」
「もう神体モードですか。
しゃべるの久しぶりでも本番では噛まないでくださいよ。」
この小男め。
◆ ◆ ◆
朝七時。ミサの始まる時間。適当な台本を信者の前で朗読するのが私の仕事。
「昔々、あるところのある人に、二人の息子がいました。下の息子はその人が元気なうちに財産の半分を要求して旅立ち、遠い国で散財してしまったそうです――――。」
何この台本。この話しても大丈夫なの?著作権とかじゃなくて某宗教パクリすぎなんじゃないかな?
ミサの会場は私の部屋のすぐ階下、普段は使われない主聖堂。バカに大きなこの教会の中でも、一番大きな部屋。今日はこの1000人は入るらしい主聖堂の、前方半分くらいにうちの信者みんなが敷き詰められた。
私の話の間に「友達」が私の頭上で縮んだり膨らんだりしながら強い光を撒き散らす。 彼女の力は癒すこと。心の傷も、不治の病も、彼女の光は消してしまう。ただ、一週間だけ。そのための日曜ミサが今日だ。私が壇上でなにか適当なことを言っている間に彼女が信者のみんなを光で照らす。
「 ――――つまりこの下の息子とは、私達、つまり人類全てを表しており、この例え話はその全てを迎え入れてくださる神の、山よりも高く、海よりも深い慈愛を表すものなのです。 」
拍手喝采。放蕩息子万歳。
ともかく説教は終わり。前半と後半で計3時間は話したかな。これで今週の仕事は終わりだ。
私は壇を降りて信者にさながら政治家の如く笑って手を振り、握手して、また一週間苦しみから開放された人達を顧みる。ここに来る前までは、毎日死にたがったり、消えたがったりしていた人達。それがみんな笑顔でいられるようになるのだから、私はこの一瞬はやりがいを感じる。でもあるときから、チクリとした不安が私を刺すようになった。
「本当に私のやりたいことはこれなのか。一生をこれに捧げて良いものか。」と。
そのたび自分に言い聞かせる。彼らは私の力が、私の「友達」だけが頼りなんだ。だから私はここを離れられない。私は教会の外を知らない。
べつに「私は必要とされていない、必要なのは精霊様。」とは思わない。彼女と私は一心同体、彼女が必要とされているなら、つまり私も必要とされているということだ。
だけど時々思うことは、私は彼女の使命に縛られて、外には出られず何も知らずに死んでいくのだろうかということ。幸せの天井も不幸の底も本の中でしか知らないまま死んでいくことは、さぞ不完全燃焼だろうな。
なんだか胸が重くなった私は、愛想笑いもそこそこに建物の外に出た。
「やあやあ、お疲れさん。なかなかいい演説だったよ。僕の台本だから当然だけどねえ。この人気なら次は当確だな。」
「教祖様、信者が聞いてるかもしれないんですから、そういう俗っぽい話は控えてください。」
日が上り切る前の教会前庭。
例え週一の仕事でも、終わった後には父と先生がいつもここで待ってくれている。うん、ここは私をこんなに必要としてくれる。だからここが私の居場所なんだろう。私はスイッチを切り替える。
「いいんだよ。神様がこれくらい身近で親身な方が信仰もあがるってもんだ。見られて触れる神様なんてウチだけだぞ。」
父はもういい歳のはずだが、白髪でオールバックで筋肉質で大柄で、白く短めに伸ばしたあごひげを撫でながらでかい声でガッハッハと笑っているような性格だ。真面目で小柄な先生と豪放で大柄な父の凸凹コンビはなかなか面白い。
いつもは父と先生が二人でミサの会場まで私の案内もとい先導をするのだ。そのとき父が黒い祭服を着ると熊みたいなシルエットになる。でも今日は珍しくよそ行きの服。朝もいなかったな。
「なんで今日のミサは教祖様はいなかったの?」
ミサはこの教会の要の儀式。滅多なことでは父が先生1人に任せはしない。これはきっと只事ではないに違いない。
「別に三人の時はパパって呼んでくれてもいいんだよ」
・・・平常心、平常心。久しぶりに大勢の前で話したから、やっぱり意識しないストレスが溜まってるみたいだ。イラつきを落ち着けてもう一度尋ねた。
「どうして本日のミサではパパはいらっしゃらなかったのですか?」
「敬語の方が傷つくなあ。あー、実は今日の午前中に外から人が来たんだよ。」
若干トーンダウンした父が答えた。
外から?珍しい。うちでは信者はなぜか秋に入る。それにしてもミサを外してまで父が迎えるなんて。
先生もそう思ったんだろうか。追って尋ねようとした。
「それって――――。」
「まあそれはそれとして、今日もお疲れ様でした!信者との昼食は今日は二人とも休んでいいよ、昼食は部屋に届けておくからさ。午前中休んじゃった僕に任せといて!」
父は先生の質問を遮ってガッハッハと笑いながら食堂の方に行ってしまった。
「あっ、一人でやれるわけ無いですよ、僕は手伝いますから。」
と先生もそれを追う。働き者だなー。
一人残された私は父の言に従い部屋に戻った。
朝出たまま、本の散らばる私の世界。なんだか今日は特に疲れた。
ネグリジェに着替えながら私はさっきの父の話について逡巡する。
教会の「外」から来た人か――――。
昔、私がまだ自分を神様だと思っていたくらい幼い頃、私は外への行きたがった。その度に父はダメとは言わなかったが困った顔をして、一度だけ先生がほんの数時間だけ連れ出してくれた。
でもどこへ行ったかは覚えていない。
覚えているのは外への出たいと頼んだ時の、父の困ったような顔と帰ってきてからの普段は絶対見せないくらい悲しい顔。なぜ父があんな顔をしていたのかは知らないけれど、それでだんだん外出をねだることはなくなって、「友達」の力を知ってからは外の話題も出さない。外への未練は断ち切ったはずだ。
それでもこんな昔話を思い出したのは、さっき先生の質問を遮った一瞬の父の顔は、この時と同じくらい悲しい顔だったからだろう。
やっぱり只事ではないだろうな。来週のミサでまた聞いてみよう。
結局悠長に構えた私は仕事終わりの昼寝に興じることにした。
◆ ◆ ◆
コンコンコンと控えめなノックの音がする。
おかしいな、もう日曜日かな。時計を見ると午後5時。しかも寝る前から日付が変わっていない。
ズズズとドアが空いた気配がして、寝ぼけ眼を入口に向ける。そこにいたのは祭服で黄昏の薄暗がりに立つ父だった。私より先に父が口を開く。
「付いてきなさい。会わせなければいけない人達がいるんだ。」
そういう父の声はいつもと同じくほがらかで、だけどその顔はあの日のものだった。