落陽の皇子
この作品は、所謂「歴史創作」です。実際の史実とは異なる、作者の「創造」が含まれることをあらかじめご了承下さい。
ちなみに、有間皇子と讃良皇女という組み合わせは『天上の虹』の影響です。
西に沈む朱を人々は何と詠むだろうか。
そこに、あたたかさを詠む者もいる。そこに、哀しさを詠む者もいる。
夕暮れの色彩に描く想いは、人それぞれ。幾つもの想いが人の数だけ紡がれる。
それならば自分はどうだろう。
沈み逝くその色彩に、一体どんな想いを紡ぐのだろうか。
***
頬を撫でる潮風が、少しだけ疎ましい。
それもそうだろう。何しろ、もう幾日も身を清めていないのだから……。
哀愁を漂わせ、ぞろぞろと人の波がゆく。
その中心で彼はぼんやりと虚空を仰いだ。風に漂う塩の香は濃く、べったりと張りつく髪が気持ち悪い。
だが、青く広がる空に、くるりくるりと弧を描く海鳥にそんな気分は束の間消える。
彼の心もまたその翼に跨り、広い広い空を旋回していた。
「……広いなぁ、ここは」
何処か上の空で呟かれた言葉に、耳を貸すものはいない。
否、聞いていたとしても誰もがすぐに目を背けた。そんな有様に、しかし青年が気を悪くすることはなかった。
むしろ、目にはっきりと分かる方が今は良い。
陰で囁かれる悪意よりも、ずっとずっと。
ピューーーィーーーー。
虚空に響く海鳥の声に、有間は何処か嬉しそうに微笑んだ。
「あぁ……本当に、何て自由な空なんだろう…………」
この自由な空を、彼女もまたあの鳥と共に飛んでいるのだろうか。
***
「有間さまって、あなた?」
自分よりもずっと低い位置から響いたのは、気位ばかり高い少女の声だった。
「……君は、誰?」
手にしていた書簡から視線をずらし、有間は首を傾げた。
少年にとって、それはごく当たり前の問いだった。だが、少女にとってはそうではないらしい。自分の問いを逆に返されて、四、五歳ほどの少女はぷくぅーっと頬を膨らませた。
「わたしがきいてるのです! はじしらず!」
繋がらない罵倒を放って、柔らかな裳が翻る。
鮮やかな紅が炎のように揺れて消えていく様を、有間はぽかんと見送った。
それが、少女――讃良との出逢いだった。
次に逢ったのも、有間が木陰に座って書を読んでいるときだった。
パタパタと軽い足音が近づく。だが、こちらへ来るかと思われたそれは途中で止まった。
「?」
不思議に思って顔を見上げると、その少女は確かにいた。
薄桃色の上衣に紅花染めの裳。艶やかな青葉色の領巾を引っ掛けた姿はやはり幼い。
まあるい輪郭に施された小さな鼻と口。
そこに浮かぶ一際まん丸な瞳が、今日は真っ赤に濡れていた。
「……どうしたの?」
あれだけの勝気な印象を受けた少女が泣いている。
そのことに驚きながら、有間は尋ねずにはいられなかった。
「……ごめ、……なさぃ…………」
振り絞られた言葉は、意外なものだった。
「このまえは、へんなこといってごめんなさい」
その『この前』が指差す事柄を思い出し、有間は再び目を丸くした。
確かに、先日の少女の態度は褒められたものではない。
だが有間にとって、それは泣きながら謝られるほどのことではなかった。
「お姉さまにおこられたの。そんなこといったら、有間さまにきらわれちゃうわよ、って」
「わたしが、君のことを?」
「ごめんなさい。おきらいに、なった?」
真摯な瞳に、戸惑いながらも有間は首を横に振った。
「そんなことはないよ」
「ほんとうに?」
「……本当だよ。だって、嫌いになろうにも、わたしは君の良いところも悪いところも知らないのだから」
正直に答えると、少女の瞳に僅かに光が灯った。
「それもそうね。わたしも、有間さまのこと、よくしらないわ」
「じゃあ、おあいこだ」
頬を緩める表情に、有間もついつられてしまう。
珍しいものでも見たかのように讃良は目を丸くして、そして笑った。
「すてきね。わたし、有間さまのわらうかお、とてもすきよ」
「……そうだね、わたしも君の笑顔は可愛いと思うよ」
「それじゃあ、わたしたち、やっぱりおあいこね」
少年と「おあいこ」を共有した少女は、ますます嬉しさに頬を染めた。
***
仲直りを成立させた少女は、その後、飽きもせずに有間の元に入り浸った。
と言っても、大抵は少年が書物を読んでる横で、讃良が一生懸命に口を動かしているだけである。綺麗な姉姫のことだったり、異母兄弟と喧嘩したことだったり、新しい髪飾りのことだったり……。
少女の口から語られる他愛もない話を、有間もまた好んで聞いた。けれど、それが許される時間はとても短かった。
「みんながね、有間さまと逢っては駄目だと言うのよ……そんなの、おかしいわ」
携えてきた木苺を口いっぱいに含んで、讃良は言った。
その様子を、部屋の片隅で書を広げたまま有間は横目で見やる。
いつもと変わらない、曖昧な距離感を置いて。
讃良と出逢ってから、もう四年が経とうとしている。
その間に有間は十四になり、少女はやっと九つになった。
大王である父を残し、皇族や臣下のほとんどが倭京へ移り住んでしまったのが去年のこと。
忘れ去られた旧都に残る有間を見舞うのは、もうこの少女ばかりである。
「君は、優しいね」
正直にそう返すことも出来ず、有間は誤魔化しの一言だけを口の端に乗せた。
「ぇ……そう、思って下さる?」
「うん、君はわたしが知ってる中で誰よりも優しい人だよ」
「……有間さまだって、わたしの中では一番に素敵な人だわ」
恥じらいに耳を赤くして、讃良は嬉しそうに微笑んだ。
四年は早い。まだ幼い少女なのに、どうして時折見せる表情はこんなにも眩しく甘いのだろう。そっと、彼女の柔らかな口の端に手が伸びた。
「……木苺が、ついてるよ」
「え、やだ。有間さま取って?」
「うん、じっとしてて」
相変わらずの少女に微苦笑しながら、青年はそっと手を伸ばした。
「あのね、有間さま。もうひとつ、みんなが言ってたの」
じっとしててと言ったのに、肝心の口を動かしながら讃良は有間を見上げた。
「もうすぐ、新しい都に行くんですって」
「……そう」
それは何処かで分かっていたことだ。
父は、もう長くない。それは誰が見ても明らかなことだった。
難波宮に残された孤独の王は、寵愛した若き皇后にさえ見捨てられてゆく。彼女に心奪われた父は、もう有間のことさえ見てはくれなかった。
誰も……この少女を失えば、本当に彼は独りぼっちになる。
「君も、行くんだね?」
確かめるその言葉に、少女はこくりと頷いた。
当たり前だ。彼女は中大兄皇子の娘であり、これから輝かしい地位を手に入れられる。
光から闇へと落ちてゆく自分とは違う、眩しく遠い場所へ。
口元を拭った指を離し、有間はそっとその赤に濡れた指先を拭った。
最後になるかもしれない、触れ合いの温度さえ……いっそ忘れてしまいたくて。
「だからね、有間さま。一緒に行きましょう?」
だが、思わぬ提案にその手は止まった。
「……一緒に? わたしが?」
「そうよ、有間さまも一緒に行きましょうよ」
当たり前のように、彼女はその言葉を繰り返した。
そんなこと、出来るはずもないのに。
密かに見守った小さな少女。今だってずっと小さい讃良。
自分が置かれている立場を、有間を取り巻く危うさを、伝えなくてはいけないのに。そう理解していながら、幼い彼女を納得させられるだけの言葉をまだ有間は持ち得ていない。いや、それさえも言い訳にすぎないと分かっていながら……
「また、たくさんお話しましょう? わたし、もっと歌も上手くなりたいし、勉強だって出来るようになりたいわ」
分かって、いるのに。
彼女の明るい声に、それを望んでしまう。
「だから……ね?」
讃良のその眼差しに、どうしても勝てない。
真っ直ぐな瞳が、この心に巣食う不安も、小さな罪の意識も、そして……
ひとりを恐れ、孤独を厭い泣いている自分を。
少女よりずっとその傍にいることを願っている、子供みたいな自分を。
知られたくない、暴かれたくないと願いながらも、自ら手を伸ばしたくなる自分がいた。
「……うん。そうだね、わたしも、もっと君と語り合ってみたい」
けれど、それは出来ない。有間から手を伸ばすことは出来なかった。
だから、甘えを欲する腕を理性で押しつけて、優しい仮面で彼は微笑んだ。
「それでは、決まりね」
頬を果実のように色づかせ、少女は真っ直ぐと有間を見つめて手を伸ばした。
「約束。新しい都に行っても、ずっと一緒よ」
「うん……凄く、楽しそうだ」
差し出された小指を絡め取る。
木苺みたいな子供の約束に、讃良は無邪気に声を弾ませた。
だが、有間は知っている。
自分がその約束を果たせないことを……何となく、感じていた。
それでも指切りを交わしたのは、有間もまたこの少女と一緒に都へ行きたいと願っていたからだった。 もっと一緒に語らいと望んでいたからだった。
それだけは、決して偽りではなかった。
***
あの年の秋、父が亡くなった。
翌年一月、皇太子であった中大兄皇子を差しおいて、その母たる宝皇女が新たなる大王として飛鳥へ都を移した。彼女と約束した、新しい都。けれど、それが果たされることはなかった。
あれから三年……有間は逃げつづけた。
狂ったふりをして、生を恋いつづけた。それが、今の結果だ。
あのときの指の感触は、今でもあたたかな幻となって感じることが出来る。
行きたかった、生きたかった。彼女と共に新しい国を見てみたかった。
叶うはずもない、甘すぎる夢だったけれど。
彼女はこれから、どんな未来を描くのだろう。
あの鳥のように華やかで愛らしい、そして真っ直ぐに先を見つめる瞳で。
けれど彼女ならきっと、どんな荒波も超えてゆける。
伸びやかな翼で何処までも……有間の見れなかった、この国の行方を。
「約束、したのになぁ……」
不甲斐ない自分を許してくれるだろうか。
何も残せずに、哀しみの傷跡しか残せぬ自分を。
たぶん怒るだろう。それも有間が臆するくらいに、激しく。
「でも、今は勘弁して欲しいな」
出来れば、ずっとずっとあとが良い。
彼女が全ての苦しみと、喜びと、哀しみを越えた後ほどに。
いつか彼女も目にするだろう現実の有様を。
「止めてくれ……」
穏やかな静止の声に、従者たちがゆっくりと速度を緩める。
様々な感情の見え隠れする瞳を抜けて、有間はその老木に歩み寄った。
海の色を望む、いつかの神話に聞いた翁のような松の木に。幾年、幾十年もの歳月を見守ってきたであろう、その枝に。
――最後の祈りを、結ぶ。
「磐代の……」
きっと、この松を再び見ることは叶わないだろう。
目に映る今日の景色は全て、最後となるだろう。
それでも少しだけ、祈ってみたくなった……彼女があまりにも喚きそうだから。
――磐代の浜松が枝を引き結び 真幸くあらばまた還り見む
(磐代の浜辺の松の枝を引き結んで無事を祈る。もし生きて帰ってこれたなら、再び立ち帰ってこれを見よう)
いつか見て欲しい、あの小さな少女に。
そして思い出して欲しい、この愚かな自分のことを。
「さようなら、小さき姫王……」
これから君は、どんな未来に羽ばたくのだろう。
もし未練があるとしたら、それはただひとつ、君の成長を見れないことだけ。
「さようなら……讃良…………」
落陽の果てに堕ちてゆく、この、わたしには。