第5階 遺失物課
湊はハサミさんが切り開いた壁の裂け目。その暗闇へ飛び込んだ。
その先はエレベーターの中とは違う、粘っこいような冷気で満ちている。
耳を澄ますと、どこかから、叫び声やうめき声が途切れ途切れに聞こえてきた。
「なんだ、ここ…」
周りはコンクリートと鉄筋がむき出しになった、無機質な壁が広がっている。非常階段は、上下に果てしなく続いているように見えた。
「それでは参りましょう。私のオフィスへは、少し歩きますよ。」
パチン、パチンとハサミを鳴らしながらハサミさんが歩き出した。
三人は階段を進んでいく。しばらく下り続け、今度は少し上る。
方向感覚が分からなくなってきたころ、ふいに緑色の鈍い光が見えた。非常口のマークがついた、古い扉がある。
「お疲れさまでした。ここが、階層void。遺失物課のオフィスになります。」
ハサミさんが扉を開けると、棚が立ち並ぶ、巨大な図書館のような施設が広がっていた。が、よく見ると棚に並んでいるのは本ではない。無数の小瓶が並んでいる。
「沢田絵里。Fの134の棚に。」
そう言って小瓶を指先ではじく。瓶は意志を持ったかのように宙に浮き、棚の奥へと吸い込まれていく。
「なあ、ハサミさん。このビンは何なんだ?あの額縁みたいに、ただのコレクションってわけじゃないんだろ?」
棚の間を歩き出したハサミさんに質問を投げかける。
湊の問いに、ハサミさんは足を止めると、手近にあった小瓶を一つ手に取る。
ふたを開けると、淡い光が瓶から漏れ出した。
「この瓶に入っているインクは、お客様の感情です。」
「感情?」
「この巨大なビルは、現世の電気やガスで動いているわけではございません。掃除屋たちが回収したお客様の肉体で稼働しています。しかし…」
瓶のふたを閉め、再び歩き出す。
「置いていかれたお客様の感情もまた、重要なエネルギー源なのです。」
「エネルギー源…」
「ええ。アトリエや…日本庭園の彼らは、ただの住人。各々の美学と…厳正なるシステムの管理のもと、お客様から感情を採取しています。彼らが搾り取ったインクは、こうして回収、保管ののち、ビルの維持に消費されるのです。湊様がお探しの方の感情もまた…」
「本当か!?陽菜の感情もここにあるのか!?」
湊は声を荒げてハサミさんに突っかかる。
ハサミさんは突然立ち止まると、棚の一点をじっと見つめだした。理路整然と小瓶が並べられた棚の中で、一か所だけ、何もない。
「確かに、湊陽菜様のインクはここにありました。対価を払い、お帰りになったと。他のエレベーターボーイからはそのように聞いています。」
ハサミさんは何も置いていない棚を愛おしそうに撫でる。
「ですが、とある方が痛く気に入りまして。私物として持ち去ってしまったのです。」
「誰が!」
「このビルの、オーナーです。」
その名前が出た瞬間、カイの顔から血の気が引く。
オーナー。その名の通り、この異常な空間の頂点に立つ存在。
「まったく、オーナーには困ったものです。あのお方の我儘には際限がない。このような規律違反を、見過ごすしかないほどに。」
その声には、明確な嫌悪が感じられる。
「これはドアマンの知人に聞いたのですが、同時期にオーナーから直々に招待された人間がいたとか。」
「まさか…」
「ええ。十中八九、湊陽菜様でしょう。お帰りになった後、もう一度呼ばれたのでしょうね。」
「じゃあ、オーナーとやらのもとに行けば会えるんだな?カイ!エレベーターを出してくれ!陽菜がいるかもしれない!」
今まで黙ってついてきていたカイを振り返る。
「あ…いや、それは出来かねます。湊様。」
呆然としていたカイは、我に返る。うつむいたまま申し訳なさそうに告げる。
「どうして!」
「湊様。カイは一介のエレベーターボーイですので。そのような権限は持ち合わせていないのです。」
優しい声で湊を制止するハサミさん。
「そんな…じゃ、じゃあ、ハサミさん!あんたならオーナーのもとへ行けないか?頼むよ。」
それを聞いたハサミさんは無言で首を左右に振る。
「私程度では、どうにも。我々はあくまでも一介の従業員ですから。」
「じゃあ、どうすれば…」
「ただ、あのお方ならあるいは…」
「ほんとか!誰なんだ?」
食らいつく湊に対し、何以下察した様子のカイ。
「ハサミ様、まさかとは思いますが…」
ばつが悪そうなカイを横目に、湊はハサミさんに詰め寄る。
「教えてくれ、頼む!」
「オーナーに会うためには、幹部の権限が必要になります。」
「幹部…」
「ええ。我々従業員とも一線を画す、このビルのシステムの根幹を管理し、オーナーに絶対の服従を誓っている存在です。ですから、本来はオーナーに相まみえることなど不可能。」
長髪の奥から真っ直ぐな瞳がのぞいてくる。
「ただ、一人を除いて。…いるんですよ、全ての権力を毛嫌いする、異端が。」
エレベーターの到着音がどこかから聞こえる。
「そのお方の名前はマダム・シロ。このビルで最も自由なお方です。」




