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第4階 アトリエ

「…できた」

 深夜二時。誰もいないオフィスで、絵里はパソコンの画面を見つめて小さく呟いた。

 ここ三ヶ月の間、この大規模コンペのために全てを投げうってきた。睡眠時間も、プライベートも。

 画面に映るロゴデザインは、絵里にとっては単なる仕事の成果物ではない。自分の感性、技術、そして情熱のすべてを注ぎ込んだ、子供のような存在だった。

「うん…いける。」


 翌朝。

 会議室の大型モニターに映し出されたのは、絵里が昨夜完成させたデザイン。だが、そのプレゼンテーションを行っているのは彼女ではない。

 彼女が心から信頼していた上司、高城だった。

「以上が、私が数ヶ月かけて練り上げたコンセプトになります。皆様のプロジェクトが最高のものとなりますよう、心血を注ぎこみました。」

 高城の言葉に、クライアントから惜しみない拍手が送られる。指先がガタガタと震えるのを感じる。

 視界が狭い。

 心臓の音がうるさい。

 会議が終わると、絵里は会議室を飛び出し、彼を追いかけた。

「高城さん…!あれ…あれは、私の…」

 給湯器で呼び止めたはいいものの、言葉が上手く出てこない。

「あれ、私が昨夜、あなたに送ったデータですよね?どうして、あなたの作品として……」

 高城はゆっくりと振り返った。

「勘違いするなよ、沢田。」

 冷たい声が絵里の心を射抜く。

「お前のあの稚拙なデータを、俺が作品にしてやったんだ。」

「そんな…! あれは、私の…!」

「なあ、沢田。私の、私のって、いつまで学生気分なんだ?そんな甘い考えで、この業界で生きていけると思っているのか?」

「……っ!」

 声が出ない。

「要件はそれだけか?話は終わりだ。お前の作品なんて、この世のどこにもない。わかったな。」

 背後で、高城の靴音が遠ざかっていく。

 絵里は、自分の身体の芯が、崩れ落ちていくような感覚に襲われた。

 ふらふらと給湯器を出て、廊下を歩く。

 自分が今抱いている感情が怒りなのか悲しみなのか、よくわからない。

「…私の描いたものなんて、もう、どこにもない」

 息が苦しい。

 視界が涙で歪む。

 オフィスではない、どこかに行きたい。

 乗り込んだエレベーターの、一階のボタンを押す。

「私の絵なんて、消えちゃえばいいのに。」


 ポーン


 到着を知らせるチャイムが、場違いなほど澄んだ音で響いた。

 ゆっくりと開いた扉の先。そこにあったのは、見慣れたオフィスビルのロビーではなく、床も、壁も、天井も真っ白な空間。

 壁には何枚も額縁がかけられている。中の絵は、全て何も描かれていない。

「え…あれ?会社にいたはずじゃ…」

「沢田様。ここは、Σ階です。」

 不意にかけられた声に、絵里は顔を上げる。そこには、一人の無愛想な少年と、銀髪の美青年が立っていた。

「え…誰?ていうか、ここどこ?」

 絵里はカイに詰め寄る。

「説明して、お願い。」


 ブ――――ッ!!


 その瞬間、ブザーが鳴った。

「な、何これ?」

「沢田様、これは――」

 思わずエレベーターから降りてしまったその時、後ろから足音が近づいてくるのが聞こえた。

「おぉ、絶望に…執着か。それに、憎悪も混じっている。」

 低い男性の声が聞こえて振り返ると、新郎のような真っ白のスーツを着た男性がこちらに歩いてきている。顔があるはずの部分には、大きな額縁が付いており、男性が人間ではないことを示していた。

「相変わらずいい絵具を持ってくるね、ボーイ。後でチップをあげよう。」

 笑っているような声を出しているが、表情が分からない。

「あんた…何なの?絵具…?」

 絞り出すように声を出す。

 絵里の質問に答えるように、男は外套のポケットから汚れたパレットナイフを取り出した。

「そうとも。君が今、胸の奥で煮詰めているその感情…。研鑽、努力、信頼。そして…裏切り。」

 ナイフを絵里に突きつける。

「なんて鮮やかで…深い赤。ふふふ。」

 全てが真っ白な空間で、色が付いたパレットナイフは、酷く異質なものに見えた。

「低質なものはすぐに掃除屋に引き渡すんだが…うん、問題ないね。すぐにでも作成に取り掛かろうか。」

 気が付くと、顔の額縁には白いキャンパスがかけられていた。

 パレットナイフが絵里の胸の中に入り込んでくる。なぜか痛みは感じない。

「繝エ繧j繝ウ繧サ様。沢田様はお客様ですので、丁重に扱っていただかなければ。」

 カイは無表情のまま、静かに告げる。

「おやおや、ボーイには聞こえないのかい?彼女の悲痛な叫びが。彼女はもう現世に帰りたくないと。消えてしまいたいと願っているんだよ。」

 男の言葉に、絵里の肩がびくりと跳ねる。

「私の絵は…もうどこにもない…」

 大粒の涙が絵里の目から零れる。床に落ちたその瞬間、彼女の涙は赤色に変色して床に広がった。

「あぁ、零してしまうなんてもったいない。こんなに綺麗な絵具なのに!」

 胸に差し込んだナイフを、絵里の体を抉るように滑らせる。

 ナイフの先端から真紅の液体がしたたり落ちる。

 高城に言われたことが蘇る。「お前の作品なんて、この世のどこにもない。」

「ああ、可哀想に。そんなことを言われたんだね。でも、大丈夫。君は作品そのものになるんだ。未来永劫、ね。」

 心の底を直接触られているような感覚。

「う…うぅ…」

 絵里の目から光が消えていく。

「歴史に残る作品になる…!」

 パレットナイフを引き抜こうとしたその瞬間、

「いい加減にしろよ、額縁野郎。」

 低く突き放すような声がアトリエに響いく。湊が、いつの間にか男と絵里の間に割って入っていた。

 パレットナイフを持つ手首を掴んでいる。

「少年。私の作品になりたいという願望は理解できるが、君の絵具は黒すぎる。君は私の芸術にはなれないのだよ。」

「うるせえよ。俺も、こいつも、まだあんたの絵具じゃねえ。」

 手首を握る手に力を込める。

「グ…ググ…」

 額縁から苦しそうな声が漏れ出る。

 その手からパレットナイフが離れた瞬間、湊が男を突き飛ばす。

 見ると、パレットナイフになぞられた箇所の肌は灰色に変色していた。

「あ……あの…もう、いいんです……。私が描いたものは、もう、どこにもないから……。私自身も……消えちゃえばいいんです。」

 胸にナイフを刺したまま力なくつぶやく絵里に対し、湊は冷たい視線を向けた。

「お前、あんなこと言われて、納得してんのかよ。」

「え……?」

「上司だか誰だか知らねえけどな。全否定されて、そのまま『はいそうですか、私は無価値な絵具です』って差し出すのか?笑わせんなよ。」

 湊は絵里を指さして言葉を続ける。

「お前があいつを見返したいってんなら、盗まれたデザインなんか捨てちまえ。未来まであいつにくれてやるのかよ。」

「そ、それは…」

 光を失いかけていた絵里の瞳に、迷いが生まれる。

「少年…私の芸術の邪魔をした罪は重いぞ。それは私の画材だ。盗むことは許されん!」

 突き飛ばされていた男が立ち上がりながら叫ぶ。

「おい、選べ。このまま絵具として消費されて消えるか、空っぽのままでも帰るか。」

「私は…!」

 絵里は、胸に突き刺さったパレットナイフを引き抜き、床に叩き付ける。

「こんな汚い赤、いらない!これからの私に、こんな思い出いらない!」

 アトリエに絵里の絶叫が響く。

「小娘…貴様…私の画材を…」

 男の肩が怒りで震える。

「許さん!絶対に許さん!」

 男が走り出す。

「早く乗るぞ。」

 絵里の手を引き湊も駆け出す。

「貴様、ただで死ねると思うなよ!中身を残したまま掃除屋に引き渡してくれる!」

 走り出した男が赤い絵の具を踏みつぶそうとしたその時、


 ぱちんっ


 ハサミが閉じる音がした。

「あああああああああああ!!」

 額縁の男の絶叫が響き渡る。男はなぜか転げまわっていた。

 少し離れたところに、男の足が転がっているのが見える。

 それを見下ろす、長髪、長身の男。

「ハサミ様、なにゆえこのような階層まで。」

 いつの間にかエレベーターから降りていたカイが深く頭を下げた。

「いえ、重大な契約違反を察知したものですから。」

 ハサミと呼ばれた男は、手に持った銀色のはさみを弄んでいる。

「繝エ繧j繝ウ繧サ様、沢田様はお帰りのためこちらの絵具は私共、遺失物課の管轄にございます。乱暴な取り扱いは、ご遠慮願います。」

 湊も何が何やらわからないままさらに事態をわかっていない絵里をエレベーターに乗せる。

「もう大丈夫だな。二度とここに来るなよ。トメさん、閉めてくれ。」

 ボタンを押し続ける老婆に耳打ちをし、n階の住人たちに向き直る。

「カイ君、いけませんよ、お客様の来訪理由を他のお客様に教えては。」

 男は床に落ちた赤い絵の具を指でふき取りながら話をしている。

「ハサミ様、ご忠告痛み入ります。」

「まったく…おや、お客様、まだ残っていらっしゃったんですか?」

 ハサミと呼ばれた男とカイがこちらに向き直る。

「あんた、遺失物課なんだろ?」

「えぇ。自己紹介が遅れて申し訳ございません。遺失物課課長、ハサミと申します。他の従業員からは、ハサミさんと、呼ばれております。」

「連れて行ってくれ。ハサミさん。俺を、遺失物課に。」

 湊がハサミさんに詰め寄る。

「湊様!?何を…」

「カイ、黙っていてくれ。陽菜の…妹の為なんだ。」

「ひな…?はて、その名前…どこかで…。」

 考え込むハサミさん。

「かしこまりました。では、私のオフィスへご案内いたしましょう。」

「ハサミ様!」

 ハサミさんは絵具を小瓶に詰め、ポケットにしまう。

「では、繝エ繧j繝ウ繧サ様。失礼いたします。あぁ、それと…」

 うずくまったままの額縁の男に軽く会釈をし、歩き出す。

「カイ君もついてきてくださいね?」

「そんな…」

「当然でしょう。私一人でお客様を連れまわすわけにもいかないですから。」

「おい、どこに行くんだ?エレベーターはあっちだぞ?」

 そういう湊に、カイが困ったような顔をして振り返った。

「湊様もこちらに。置いていかれては出られなくなりますよ。」

 ハサミさんはアトリエの空間に切り込みを入れる。

「非常用階段で参りましょう。今は他のお客様の送迎に使っているようですので。」

 切られた空間を布のように持ち上げると、真っ暗な空間が広がっており、その奥はアトリエの乾燥した油絵の具の匂いとは異なる、凍てつくような冷気で満ちている。

「湊様、本当に行くのですか。」

 カイの声には、いつものような無機質さがなく、どこか震えているように聞こえた。

「行くさ。証拠がそこにあるかもしれないんだろ。」

 湊は唾をごくりと飲み込み、空間に飛び込んでいった。

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