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第3階 日本庭園

 父の書斎。父が私に大事な話をするときに使う部屋。インクと木の匂いに加え、父が嗜む煙草の匂いで満ちていて、いつも薄暗い。

「静。吉祥家との縁談は、明日だ。粗相のないようにするのだぞ。」

 またこの話だ。

「お父様!何度もおっしゃりましたが、わたくしには恋い慕っている方が…」

「そうか…正三君、と言ったかな。」

 父の乾いた笑いが響く。

「なぜ…彼のお名前を?」

「『なぜ』?静、お前は私に隠し事が出来ると思っているのか?」

 背中を嫌な汗が伝う。

 無表情のまま、父が続ける。

「彼のことだが…聞いたよ。先日、窃盗犯として逮捕されたそうじゃないか。実に気の毒なことだ。」

「しかし、わたくしは正三さんがそんなことをするお方ではないと信じております!」

 そうだ。正三さんはそんなことしない。博識で、優しくて、とても真面目で。

 こんなわたくしを好きだと言ってくれた。

 そんな正三さんが盗みだなんて、そんなこと。

「彼のことなんだがね、静。明日の縁談次第では、彼のことを助けてもいいと思っている。」

「え…」

「しかし、もし静が協力的でないというのであれば、彼は、拘置所にて不審死を遂げることになるだろうな。」

 その瞬間、目の前が真っ黒になった。

 目は開いているはずなのに何も見えない。

「静、お前には常々言っていただろう?一時の感情に流され、我が家を汚すことなど許さん。」

 父の言葉だけが、頭をこだまする。

「お前の飯も、服も、『御前橋家の娘』という役目への賃金だ。」

 その言葉を聞いた瞬間、自分の中で何かが切れた。

 気が付けば、書斎を飛び出していた。わたくしを止める声は、聞こえなかった。

 自分の部屋に行き、引き出しを開ける。

 そこにあったのは、万年筆だった。彼がわたくしにくれた、唯一の物。

 これを見るたびに思い出す。記者をしていた正三さんの、インクで少し汚れた指先。

「文字は、心を世界に解き放ってくれるんだよ。」

 そう言って、読み書きをわたくしに教えてくれた。

 それを掴んで、走り出す。履物も履かずに家を飛び出した。

 行く当てもない。家から出ればあまりにも無力な自分に、涙が出る。

 はたと顔を上げると、百貨店まで来ていた。

 いつか、正三さんが万年筆を買ってくれた、あの場所。ふらふらと吸い込まれるように入っていく。白足袋のまま歩くわたくしを見る他の人たちの視線も、気にならなかった。

 もう一度あの売り場へ行きたくて、蛇腹扉を開く。

 エレベーターに乗り込むと、エレベーターガールが面食らった表情をした。

 それはそうだろう。着物だけ上等なのに、こんなに汗だくなのだから。

「お…お客様、何階にございますか?」

 エレベーターガールに聞かれる。彼女はいいな。きっと、自由なのだろう。

「誰も…わたくしのことを知らない場所へ。」

 思わず口をついた時、エレベーター内の照明がフッと消える。

「かしこまりました。」

 聞こえたのは、若い殿方のお声。何事かと顔を上げると、紺色の制服を着た子供?が立っていた。

 その横には、古ぼけたカバンを背負った殿方。こちらは何かを手帳に書き込んでいるご様子。エレベーターガールがいた場所には、お婆様が座り込んでいて、何やらボタンを押し続けていた。

「御前橋様、次は、拾肆階です。」

 エレベーターが止まった。


 ポーン


 気付くと、扉は蛇腹扉ではなくなっていた。鉄製の引分け戸になっている。

 扉の先は、閑静な庭園だった。

 生い茂った緑に、見事な池と橋。澄み渡った空気に、鹿威しの音だけが響くような。

「ここは…」

 呆然と立ち尽くす。

 もしかして、わたくしの願いが叶ってしまったのかしら。

 ここは、誰もわたくしを知らない。ここには、わたくし以外誰もいない。

 ここなら、きっと自由に生きて…

 でも…

「わたくし、帰るわ。」

「ご乗車なさいますか?御前橋様。」

「ええ。貴方様がきっと、神様なのでしょう?」

 子供と目が合う。

「こんな素敵な場所を用意していただいて、なんとお礼を申したらいいか。」

 深く頭を下げる。

「でも…わたくし、恋い慕っている殿方がいるの。その人もいない世界だなんて、意味がないもの。だから…」

 帰ろう。帰って、縁談を受けてしまおう。そうすれば、正三さんも助か


 ブ――――ッ!!


 乗ろうとした時、大きな警笛の音が響く。

「重量超過です。手荷物をお捨てになってからご乗車ください。」

 神様の子供の無機質なその表情。鳥肌が全身を駆け巡る。

「手荷物なんて……この万年筆以外、何もないわ。これだけは…捨てられません!」

 そう言ったとき、もう一人の殿方が手帳から顔を上げた。

「なんか来たな。」


 ちりぃん。


 鈴の音。音の主は、池に架かった真っ赤な橋の向こう側にいた。


 ちりぃんちりぃん。


 能面を顔に付けたそのお方は、煌びやかな着物の袖を振り、こちらに近付いてくる。


 ちりぃんちりぃんちりぃん。


 鈴の音が大きくなってくる。

 気が付いてしまった。近づいてくるお方は、首が異様に長い。それによく見ると、手には筆を持っている。

 それは筆を振るいながら歩いてくる。

 気が付くとわたくしは大きな和紙の上に居た。

「御前橋。御前橋。」

 突然、それから声が聞こえる。

 その声は、幾度も聞いた殿方の声だった。

「正三さん?」

「ちがうっ!」

 あの殿方が何か叫んでいたが、もうどうでもよかった。

「静。」

 身体から力が抜けるような感覚がして、立っていられない。

「静。僕はずっと君を待っていたよ。」

 気が付けば、それは正三さんの顔をしていた。

 目からは大粒の涙が零れる。

「静、迎えに来てくれてありがとう。心配をかけて、すまなかったね。見ての通り、もう大丈夫だ。」

 思ってもみなかった。もう一度彼が私に笑いかけてくれるだなんて。

「でも…」

 彼が足元に目を落とす。釣られて足元を見ると、和紙には御前橋家の家系図が描かれていた。

「君のお父上は、僕に濡れ衣を着せたね。」

「…え?」

「君が御前橋家の人間だから。お前があの男の娘でさえなければ僕は泥棒になどされなかった。それなのに…」

 彼が顔を上げる。

 その眼は、憎悪に満ちていた。

「お前は勝手に諦めて、全てを捨てようとしたんだ。お前が何を捨てても、僕は救われないのに。やはり女ってのは勝手な生き物だな。」

「あ……」

 声を出すことも出来ない。黒い、黒い罪悪感で胸がいっぱいになる。

「わ……わたくし…」

「お前を恨んでいるよ。お前は、僕がこうなっても家を捨てられないんだね。御前橋家の娘を辞め、貴様はどうして生きていられるのだ。正三も、お前の婚儀が終わり次第殺してしまえばいい。」

 父の声も聞こえる。

「お前は一生私の娘だ。逃げられないぞ。だからだよ、静。だから僕はお前が憎いんだ。そうだ、お前の価値は、次期当主を腹に宿すその一点なのだからな。」

 ごめんなさい。

 ……ごめんなさい。

 床が沈む。

 暗い、墨の沼へ体が沈む。沈んでいく。


 ばちんっ!!!


 その時、左頬に火花が走った。

 転げた体勢のまま、振り返ると、右手を振り上げた殿方が立って見下ろしていた。

 左頬がジンジンと痛む。

「なぁ、飲まれる前に聞きてえんだけどさ。」

 突き放すような、でもどこか温かい。そんな声。

「お前の好きな奴は、お前にそんなこと言うのかよ。」

「え…」

 苦虫を嚙み潰したような表情で、続ける。

「そいつは、自分が好きになった女にあんな酷いこと言うのかって聞いてんだよ!」

「そんなことないっ!!」

 立ち上がる。足の震えは止まらなくても、不思議と立っていられた。

「いいか、確かにお前はもうそいつの隣にはいられない。でもな、家に縛られたままでいるか、全てを捨てて自分になるかは選べんだろ。」

 ハッとした。手の中の万年筆をじっと見る。

「なあ、静。僕の話を聞いておくれ。」

 それが話しかけてくる。

「正三さん、その前に、私の話を聞いてほしいの。」

 大きく息を吸い込む。足の震えは、不思議と止まっていた。

 もう、そこは和紙の上ではなかった。

「わたくし、生きるわ。」

 それをじっと見つめる。

 万年筆を握り込む。その感触を、忘れないように。

「それじゃあ…僕を捨てていくのかい?」

「いいえ、拾うのです。わたくしを。」

 正三さんは、悲しそうな目をしてから、フッと笑った。

「そっか、それはよかった。」

「だから、正三さんは極楽浄土で待っていて。わたくし、地獄で罪を償ってから向かうから。そうしたら、二人で過ごしましょう。」

 万年筆を足元に置く。

「じゃあ、またいつか。」

 そういって、エレベーターに乗り込む。

 あの警笛は、鳴らなかった。

「どちらの階まで?」

「誰も、わたくしの事を知らない場所まで。」

「かしこまりました。」

 そういった途端、照明が消える。

 再び明かりがついた時、エレベーターには一人だった。


「なあ、カイ。あいつ、どこに送られたんだ?」

 どこかに向かうエレベーターの中で、湊は手帳に書き込みながら質問をする。

「湊様、それは個人情報ですので、お教えできません。」

「ふーん。ちなみに、あの万年筆はどうなるんだ?」

「あぁ、それでしたら、遺失物課のほうに回されるかと。」

「遺失物課か…」

 湊が手帳に目を落とす。

「陽菜の手掛かりがあるかもしれないな…」

 手帳には、n階の構造のメモがびっしりと書き連ねられていた。


 日本庭園には場違いなスーツ姿が歩を進める。

「もったいない…綺麗なインクが詰まっているのに。」

 長髪の男性が万年筆を拾い上げる。

 それを察知し、能面が怒ったような声を上げた。

「あぁ、これは□□□□様。失礼いたしました。私、遺失物課の者でございます。この度はこちらの御前橋静様の万年筆、回収に上がりました。」

 男性が丁寧なお辞儀をすると、長髪の隙間で何かが煌めいた。

「それでは、これにて失礼いたします。」

 ぱちんっと音がして、そこには初めから何もなかったような。

 鹿威しの音が響いた。

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