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第1階 オフィス

「ねえ、知ってる?n階のウワサ!」

「知ってる知ってる、エレベーターに乗ると、たまにn階のボタンが出てくるんでしょ!」

「そうそう、それで、異世界に連れて行かれちゃうんだって!」

「戻ってくるには、―――を捨てないといけないんだって!」

 オフィスのドアが開き、警備員が顔をのぞかせる。

「おや、まだ残ってましたか。遅くまでご苦労様です。」

「いえいえ、お互い様ですよ。いま、帰ろうと思っていたところです。」

 そうはいっても愛想笑いする体力も残っていない。

「なあ、佐藤。今日の分の進捗報告貰ったから、こっち手伝ってもらっていい?」

 仕事からオフィスに意識が戻ってきた途端に課長の声がフラッシュバックする。

 定時で帰った課長に体よく押し付けられた仕事が、やっと終わりかけた頃だった。

 荷物をまとめながら時計を見ると、そろそろ日を跨ごうとしている。

 真っ暗な廊下、冷え切った空気、山積みの仕事。オフィスと自宅の往復。これの繰り返し。何のために生きているのか、たまにふと思うことがある。

 誰もいないエレベーターに乗り込み、ふと正面の鏡を見る。入社した時より、ずいぶん痩せたな。

 1階のボタンを押す。浮遊感。景色は変わらないのに、どこかに動いている感覚。子供のころからずっと苦手な感覚だ。

「はぁ…どっかに行っちまいてぇな…」

 ため息交じりにそんなことを言ったとき、背中に妙な悪寒が走った。振り返り、悲鳴を上げる。

 エレベーター内に、乗り込んだときは確実にいなかった青年が二人いる。

 一人は紺色の制服を着た、少年。まっすぐ前を向いて微動だにしない。

 もう一人は、ボロボロのカバンを背負っている。手帳になにか書き込んでいるようだ。

 なんなんだと思って振り返って、もう一度悲鳴を上げた。

 ボタンの真下に、老婆が座り込んでいる。何かはわからないが、ぶつぶつと何か言い続けているようだ。

「次は、n階です。」

 制服の少年が突然声を上げる。

 なんなんだ、こいつらは。


 ポーン


 ドアが開き、逃げるようにエレベータを後にする。

 しかし、眼前に広がる景色がロビーではないことに気が付いた。

 薄暗いオフィス。しかも、地平線まで無限に広がっているような。機械のファンの音が静かに鳴り響いている。

 全ての机には、座って作業をしている黒スーツを着た何かが一心不乱に何かをしている。何かと言ったのは、彼らの顔の穴からは黒い液体が溢れ出していたからだ。

「なんだこれ…」

 趣味の悪い夢だ。疲れすぎている。

 気味が悪いと思いながらエレベータに踵を返し、乗り込もうとすると


 ブ――――ッ!!


 ブザーが突然鳴り響いた。

「うわっ、なんだこれ」

「重量オーバーです、佐藤様。手荷物をお捨てになってからご乗車ください。」

 制服を着たほうの少年に話しかけられる。

「手荷物?このバッグ以外は何も…」

 その時、後ろの気配の変化に気づく。振り返ると、先ほど作業をしていた黒スーツたちが立ち上がっていた。

 しかも、こちらに歩いてくる。

「テツダエ…」

「オマエモ…」

 そんなことを口々に言いながらエレベータへゆっくり歩いてくる。奴らが通った場所には黒いシミが点々とついていた。

 まずい。

 捕まったらどうなるのかはわからないが、なにかまずい予感がする。

「いいから早く載せてくれ!手荷物なんて何も持ってない!」

 制服の少年に向かって叫ぶ。

「違うぜ、オッサン。」

 誰かと声を上げると、カバンを背負った青年が手帳から顔を上げていた。真っ直ぐこちらを見つめてくる。

「お前のカバンの中に辞表が入ってんだろ。そいつがお前の重荷なんだよ。」

 ハッとした表情で青年を見つめる。

「君…なぜそれを?」

 カバンの中からくしゃくしゃの辞表を取り出す。

「これ…これは結局出せなかったんだ。」

 辞表を握りしめて、声を絞り出した。

 後ろから怪物たちが迫ってくるのを感じる。

「佐藤様の手荷物は、その辞表への執着かと。」

「そ…そうだよな。働いていない私なんて、何の価値もない…こんな、出せもしない物、書くだけ無駄だったんだ。」

「お捨てになれば、ご乗車いただけますよ。」

 破り捨ててしまおう。それで、またいつも通りの日常が戻ってくる。

「オマエモ」

 真っ暗な廊下、冷え切った空気、山積みの仕事。

「ハタラケ」

 真っ暗な廊下、冷え切った空気、山積みの仕事。

「ノルママデ」

 真っ暗な廊下、冷え切った空気、山積みの仕事。

「もう…このまま…」

「だめだ、捨てんな。」

 突然、手首を掴まれる。我に返って顔を上げると、青年と目が合った。

「それがお前の本音だろ。カバンの中に隠すから重いんだ。自分の手で持ってろ。」

 辞表に涙が落ちる。

 自分の心根は、ずっとわかっていたはずなのに。

「わ、私はっ!」

「今は逃げるのが先!」

 青年に言われるがまま、辞表を胸に抱え、エレベータに乗り込む。

 もうブザーは鳴らない。


 ポーン


 1階でドアが開き、逃げるように帰路についた彼を見て、少年がため息をつく。

「湊様は、救ったつもりですか?彼は明日、職を失うのですよ?」

 湊と呼ばれた青年は、『n階…オフィス』と手帳に書き、顔を上げる。

「うるせえな、カイ。あいつが自分で選んだんだ。一生n階の景色よりマシだろ。そんなことより、次の階だ。任せたぞ、カイ。」

 そんな二人をのせて、エレベーターはどこかに上っていった。

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