38話 止まらぬ運動と、振動する世界
落とし穴の手前で、俺はようやく完全に静止することができた。相反する運動を加えて慣性を相殺する――その原理を理解してからは、動きの制御が少しずつできるようになってきた。だが、それでも油断はできない。この空間では、ほんの少しの動きでも永遠に続いてしまう。呼吸をするだけで体が揺れ、その揺れが増幅されていく。まるで、氷の上に立っているのではなく、氷そのものになったかのような感覚だった。
目の前の落とし穴は、幅が五メートルほどある。その向こうに、次のエリアへと続く扉が見える。金属製の、重厚な扉だ。だが、この慣性が固定化された状態で、どうやってあの穴を越えればいいのか。
普通にジャンプすれば、前方への慣性が固定化されて、放物線を描いて穴に落ちるだけだ。かといって、相殺するために後ろ向きにジャンプすれば、前に進めない。
「……組み合わせるしかない」
俺は考える。前方への運動と、上方への運動。そして、それらを制御するための相殺運動。複数の動きを、同時に管理する必要がある。
まず、俺は助走をつける。いや、この空間で「助走」という概念は意味をなさない。一歩踏み出せば、その速度が永遠に保存される。だから――最初の一歩が全てだ。
俺は、慎重に前方へと一歩踏み出す。体が前に滑り始める。速度を計算する。この速度なら、穴を飛び越えられるか。いや、少し足りない。
「《慣性操作》……前方への速度、微増」
俺は自分のスキルを使い、前方への運動を僅かに加速させる。体が、少し速くなる。これで、穴を越えられるだけの速度が得られた。
次に――ジャンプだ。
穴の手前で、俺は強く床を蹴る。上方向への力を加える。体が浮く。だが、上方向への慣性も固定化される。つまり、上昇し続けてしまう。
「相殺!」
俺は空中で体を捻り、下方向への力を加える。腕を振り下ろし、足を蹴り下げる。上方向の慣性が、下方向の運動によって相殺される。
俺の体が、ちょうど良い高度で水平に近い軌道を描く。
そして――穴を越える。
向こう側の床に、着地する。だが、前方への慣性は残っている。俺の体は、そのまま扉に向かって滑っていく。
「止まれ……!」
俺は後ろ向きに床を蹴る。前方への慣性を相殺する。体が、ゆっくりと減速していく。
そして――扉の直前で、完全に停止する。
「……はあ、はあ……」
荒い息をつく。額には汗が滲んでいて、それが目に入って痛い。だが、やった。落とし穴を越えた。
俺は扉に手を伸ばす。冷たい金属の感触。そして――扉を押す。
重い。だが、ゆっくりと開いていく。
扉の向こうは――また広い部屋だった。そして、その光景を見た瞬間、俺は息を呑んだ。
部屋全体が、まるで巨大な機械仕掛けの罠のようになっていた。天井からは無数の鎖が垂れ下がり、それぞれの先端には鉄球がついている。その鉄球が、ゆっくりと、だが確実に振り子運動を続けている。床には、定期的に噴き出す蒸気の噴出口が無数にあり、白い蒸気が間欠泉のように吹き上がっている。壁からは、規則的に槍が飛び出してきては引っ込む。そして部屋の中央には、回転する円盤状の床が何層にも重なっていて、それぞれが異なる速度で回転している。
「これを……全部抜けろと……」
俺は呆然とする。しかも、この空間では慣性が固定化されている。一度動き出したら止まれない。つまり、全ての障害物のタイミングを完璧に把握し、一度のミスもなく通り抜けなければならない。
「……やるしかない」
俺は、最初の鉄球の振り子に近づく。その振り子は、左右に大きく揺れている。周期は約五秒。俺は、振り子が右端に達した瞬間を待つ。
今だ。
俺は一歩踏み出し、振り子の下を滑り抜ける。だが、前方への慣性が固定化される。俺の体は、そのまま前に進み続ける。
次の障害は――蒸気だ。
床の噴出口から、白い蒸気が定期的に噴き出している。その蒸気に触れれば、火傷は免れない。俺は、蒸気が引いた瞬間を狙って通過する。
だが、蒸気を避けた瞬間、横から槍が飛び出してくる。
「くっ!」
俺は《慣性操作》で体を僅かに減速させる。槍が、俺の鼻先を掠める。
だが、減速したことで、次の障害までの距離感が狂う。
回転する円盤だ。
その円盤は、時計回りに回転している。俺は、円盤の端に飛び乗る。すると――円盤の回転運動が、俺に伝わる。
俺の体が、円盤と一緒に回転し始める。遠心力が働き、体が外側に飛ばされそうになる。
「《慣性操作》……回転速度、減少!」
俺は自分の回転速度を調整し、円盤の中心に向かって移動する。そして、中心から次の層の円盤へと飛び移る。
次の円盤は、反時計回りに回転している。逆方向の回転が加わり、俺の体が激しく揺さぶられる。吐き気がする。だが、耐える。
さらに次の円盤。今度は、上下に揺れている。俺の体が浮き、着地する。その度に、新しい運動が加わる。
「複雑すぎる……!」
だが、止まるわけにはいかない。一つ一つの運動を、《慣性操作》で微調整しながら制御する。まるで、空中でジャグリングをしているかのような、高度な集中力が必要だ。
そして――最後の円盤を抜ける。
前方に、また振り子がある。だが、今度は複数だ。三つの振り子が、異なるタイミングで揺れている。
俺は、その全てのタイミングを計算する。一つ目の振り子が左に、二つ目が右に、三つ目が左に。その隙間を、一瞬で通り抜けなければならない。
「……今だ!」
俺は、前方への速度を《慣性操作》で加速させる。体が、振り子の間を疾走する。
一つ目、クリア。
二つ目、クリア。
三つ目――。
振り子の鉄球が、俺の肩をかすめる。
「ぐっ!」
痛みが走る。だが、致命傷ではない。
そして――部屋の終わりに到達する。
そこには、次の穴がある。
俺は、全身の痛みを堪えながら、穴に飛び込む。
◆◆◆
【第二層、クリア】
文字が、視界に浮かぶ。
【第三層:振動破壊領域】
【物理法則:高周波振動常時発生】
【警告:全ての物質は、振動により崩壊する】
次の部屋に着地した瞬間、俺の耳を劈くような音が響き渡った。
いや、「音」という表現は正確ではない。それは音というより――空気そのものが震えているような感覚だった。耳鳴りのような高音が頭蓋骨の中で反響し、視界が僅かに揺れる。体の芯まで振動が伝わってきて、骨が共鳴するような、吐き気を催すほどの不快感がある。歯が噛み合わず、カチカチと音を立てる。胃の中身が揺さぶられて、喉の奥に酸っぱいものが込み上げてくる。
周囲を見渡すと、床も壁も天井も――全てが微細に震えているのが見える。その振動は人間の目では捉えきれないほど高速で、表面がぼやけて見える。まるで、陽炎のように。いや、それ以上に激しく、執拗に、全てが震え続けている。
「これが……振動破壊領域……」
俺が一歩踏み出すと――。
バリバリ、と音がした。
「何だ……?」
俺は足元を見る。靴底が、崩れていた。
まるで、古い紙が風化するように、靴の底が砂のようにボロボロと崩壊していく。高周波振動が、物質の分子結合を破壊しているのだ。接着剤が剥がれ、ゴムが粉末になり、僅か数秒で靴底に穴が開く。
「このままでは……全身が崩壊する……!」
俺の服も、少しずつほつれ始めている。布の繊維が振動で切断され、糸が解けていく。このままでは、服が全て崩壊し、その次は――皮膚が、筋肉が、骨が。
「《物理補助》……!」
俺は咄嗟にスキルを発動させる。だが、何に対して? この空間全体の振動を止めることはできない。ならば――。
「自分の体の振動数……増加!」
俺は自分の体を、この空間と同じ周波数で振動させる。すると――。
不思議なことに、外部からの振動が相殺され始める。体の不快感が、わずかに軽減される。
「……干渉か」
二つの波が重なり合った時、位相が逆ならば打ち消し合う。ノイズキャンセリングヘッドホンと同じ原理だ。俺は自分の体を、この空間の振動と逆位相で振動させることで、破壊的な振動を相殺している。
だが、完全ではない。俺の制御は完璧ではなく、わずかな振動が漏れている。それでも、何もしないよりは遥かにマシだ。
俺は、慎重に部屋を進む。床は、一見すると普通の石造りだ。だが、その表面は激しく振動していて、素手で触れれば皮膚が削れるだろう。
部屋の中央に――巨大な柱が立っている。その柱も振動していて、表面から細かい石の粉が絶え間なく舞い落ちている。まるで、柱自身が自分を削りながら存在しているかのように。
そして、柱の向こう側に――次のエリアへの穴が見える。
だが、柱と穴の間には、障害がある。
振動する刃だ。
壁から無数の刃が飛び出していて、それらが全て高周波で振動している。その刃は、まるで電動ノコギリのように、触れたものを全て切り刻むだろう。刃と刃の間隔は狭く、人一人がようやく通れるかどうかというほどだ。
「……あれを、抜けるのか」
俺は、刃の動きを観察する。刃は固定されていて、動かない。ただ、その場で振動しているだけだ。つまり、タイミングを計る必要はない。問題は――どうやって刃に触れずに通り抜けるか、だ。
俺は《物理補助》を使い、刃の振動数を感知しようとする。それぞれの刃は、微妙に異なる周波数で振動している。その周波数を把握し、自分の体の振動と合わせることができれば――。
「いや、待て。合わせるんじゃない」
俺は考えを改める。刃と同じ周波数で振動すれば、共振が起きる。共振すれば、振動が増幅され、逆に破壊力が増してしまう。
ならば――。
「刃の振動を、打ち消す」
俺は《物理補助》で、刃の一つに干渉する。その刃の振動数を測定し、逆位相の振動を発生させる。
すると――刃の振動が、わずかに弱まる。
完全には止まらない。だが、破壊力は確実に減少する。
「一つ一つ、やっていくしかない……」
俺は、最初の刃に近づく。そして、その刃の振動を弱めながら、慎重に体を滑り込ませる。
刃が、俺の服をかすめる。布が裂ける音がする。だが、皮膚には届かない。
次の刃。
また振動を弱める。体を捻り、隙間を通り抜ける。
三つ目、四つ目、五つ目。
一つ一つ、丁寧に、慎重に。
俺の集中力は極限まで研ぎ澄まされ、周囲の音が遠のいていく。聞こえるのは、自分の心臓の鼓動と、刃の振動音だけ。
そして――最後の刃を抜ける。
「……やった」
俺は、次の穴の前に立つ。
体中、服がボロボロになっている。靴は半分崩壊し、シャツには無数の裂け目がある。だが、命に別状はない。
【第三層、クリア】
文字が浮かぶ。
【第四層:反発異常空間】
【物理法則:反発係数無限大】
【警告:全ての接触が、無限の反発を生む】
「……次だ」
俺は、深呼吸をする。
まだ、半分も来ていない。
だが――確実に、前に進んでいる。
この試練を越えれば、新しい力が手に入る。
《力学支配者》。
その力が、何なのか。
まだ、分からない。
だが――きっと、俺に必要な力だ。
俺は、穴に飛び込む。
次の試練へ。
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